島田荘司選 第4回 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞 選評

 物語の展開は、細部にいたるまでよく作られていたと思う。DID、解離性同一性障害とか、女性の性格の内部に隠れ、時に応じて顔を出す男性人格とか、ストーカー被害の深刻さなど、現代をにぎわす様々なキーワードも巧みに咀嚼され、使用されて興味を引く。 
 込み入った展開が細部までよく練られていて、長い作中時間も、必然性を持たされていて、時間経過がドラマに深みを与えていた。

 犯罪という悪意に発展する手前の、揺れる思惑を描くことに軸足を置く小説で、こうした異常事と、周辺のさまざまな事象とのバランスもよい。大きな物理トリックが中心に据えられ、しかもそれは物語の早い段階に現れて、読み手を退屈させない計算もされている。四候補作中、最も正統に「本格ミステリー」の系譜を継ごうとする作と感じて、大きな期待を抱いた。
 しかし、にもかかわらず、何故かいつまで読み進んでも、強力な吸引力を得るきっかけが現れず、作に没入ができなかった。全体の印象がどうにも散漫で、事件の展開や、登場する各人格の思惑が明瞭に立ちあがらない。だから連なっていく各事件の輪郭が際立たず、各事件がしっかりと像を結ばない。描写に決然とした自信の筆運びが感じられず、本格のミステリーとしては、これはいささかの弱さと写った。
 理由をよく考えてみるに、二つばかりの要素が挙げられそうに思う。まず最も大きな理由は、早い段階にたち現れる、メインの物理トリックにある。人形芸術家、永井紀生が作った「見宝塔之地」という私設の公園に、一夜にして石積みの塔が出現し、その頂上に避雷針のような鉄製のポールがついているのだが、これに永井自身が、背から胸にかけて体を貫かれて発見された。
 魅力的なマジックであることは間違いなく、支える仕掛けは粗いが、このくらいの粗さは、本格黎明期において、先達の諸作に割合見られた。しかし今日的な視線から、このイヴェントは多くの首をかしげる要素の集合体に感じられた。まずは基本的な問題として、この段取りではこういうふうに見えないのでは、と思えることがひとつ。つまり見る側が、作者が期待するようなかたちでショウに驚き、信じてくれそうに思えないこと。
 また地震という自然現象ひとつで、泥酔しているわけでも、特に身体が不自由でもない元気な人物が、作者が期待するような迂闊な動きを為してくれそうに思えないこと。
  何故このように大がかりなイヴェントを芸術家が行ったかの理由が、説明を聞いても納得しきれず、控えめな気分でいても反論が湧いてしまう。客観的に見て、この工作は為した者の保身とか、事態の隠蔽につながらないように見えるし、それどころか、逆に身を危うくするように感じられてしまうこと。
 すなわち、作中の人物にとっての益があまりなく、作外に立つ筆者にとってのみ益があり、すなわち賞コンペティションのための仕掛けであって、トリックのためのトリックに陥ってしまっているように感じられたことがある。
 

 作者はこの地の聖地化について、以下のように説明する。「信じなくてもいいんだよ。イリュージョンでいいんだ。次第に、何か解らないけどご利益のありそうな、ありがたい場所だという認識が広まればそれでよかったんじゃないだろうか」。
 言いくるめきれていないと感じる。一夜にしての石塔の出現を信じない者に、はたしてご利益がありそうなありがたい場所だ、という認識が生じるであろうか。ましてこういう理解が定着し、世に広まるであろうか。聖地化をもくろんで失敗した詐欺師の造った公園と主張する向きも、2チャンネル中心に相当量出そうである。よってこの主張にも、少々うなずききれない。
  『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』などの例に見るように、トリックに必ずしもリアリティは必要ではないが、「嗅ぎ煙草入れ」の場合は、言いくるめようとする現象が小さかった。当作に現れる現象は、非常に規模が大きい。あまりにも無理が大きければ、こちらに歩み寄りの気分があっても、それを行使しきれない。
 リアリティという発想は、この作の場合なら、こんなことをする犯罪者が世の中のどこにいる、の類で、これは格別相手にしなくてもよいが、イヴェントを決行するならビリーヴァブルさ、すなわちこちらを信じさせてくれる最低限の手当と段取りは不可欠である。作者の初期的妄想が、手当のないまま引きずられすぎていれば、同情の気分にも限界がある。
 小説に夢中にさせられなかったもうひとつの理由は、やはり文章に思われる。この作品の文章は、決して下手ではない。むしろ上手な表現個所がいくつもある。解釈学を文系の学問として、「真実の探求よりも、説明のエレガントさの探求に重きが置かれる」といった把握には納得させられる。

 しかし定型的な名探偵、林崎登場の前振りなどは、「どうもあいつは苦手なんだ、なんかこう、何もかも見透かされている気がして……」などという説明はあまりというもので、読者にこう思って欲しいという作者の期待が先に語られてしまっており、まことにありがちの不手際である。書き手によるこのような素朴な持ち上げが許されたのは、名探偵の先行例がまだ少なかった、清張以前の探偵小説までであろう。
 そもそもこの種の迂闊な無意識が、先述した石塔出現のトリックの脆弱さにもどこかでつながっていて、柔らかさが微塵もない人形と、人間である沙織殺しとの関連描写なども、およそこのたぐいに読めた。気持ちは解るが、はて、そのようなかたちになるものであろうか、といったたぐいの懐疑である。
 初期的妄想を引きずったままの突き詰めの甘い思惑は、文体のそこここを無気力にして、作の全体を覆っていた印象。恐らくは無意識のうちの自信の欠如が、表現を淡々とさせすぎ、ミステリー語りに必要な熱を不足させた。
 物語はかなり上手にできているのに、各パーツ接着不良のプラモデルのようで、なんとなく行われ続ける事態説明が、最後まで熱いたたみ込みを作らず、事件全体を、力強いひとつの塊とすることに失敗していた。
 劇的な諸事件を扱いながら、全体がメリハリを欠いて、こちらをぐいと引き込んでくる、一種の取っ手めいた個所が、最後まで現れずにしまった。唯一の正統本格筋であったただけに、大変残念な感想を持った。

  現役医師が、その専門知識を駆使して描いた、日本型ハードボイルド小説、という位置づけでよいであろう。これは冒険小説の新人賞に投じられるべきではと考えたが、読み終えた現在は、福ミスに入れてもらったことを喜んでいる。  未解決に終わった英国の「切り裂きジャック事件」には、本職の外科医が犯人とする説がささやかれた時期がある。この作にも「Jack the Ripper」を名乗る怪人物が登場し、法の目を巧みに逃れ、のうのうと社会に生息する悪人を、超法規的独断で裁きの血祭りにあげていくのだが、あるいはこの有名事件が、作者にインスピレーションを与えたものかもしれない。  
 この場合の「ハードボイルド」は、アメリカ西海岸の私立探偵小説といった意味ではなく、近年、いくぶんか誤解気味に高級語として使用される、日本式の「ハードボイルド」で、男の美学をうたう、ヤクザ志向の暴力小説、といったあたりの意味になる。
  最近では、小説においてはやや流行が去った感があり、青年コミック誌の劇画に、この種の超絶格闘技礼賛思想がもっぱら見られるようになっている。したがって、小説賞の選考委員としてしばらく率直な論評を許してもらえるならば、医学者として高度に専門的な学問知識、あるいは高度な倫理観を有する成熟的知識人が、劇画由来のストレートな暴力描写の格好よさに、ここまで手放しで同調できるものなのかという驚きと意外感が、読書中、終始ついて廻った。  
 おそらく欧米の同種の作家なら、この物語も、もっと枯れた、あるいは洒脱なユーモアを操りながら、小粋なおとなの筆致を見せて展開させたに相違ない。これはアジアにおいても、そう違わないように推察する。そうなら、ごつごつした文体を書き連ね、泥くさいまでに本気で没入したふうのこのストレートな暴力礼賛は、日本人に特有のものであり、またしても興味深い、漫画重視日本人論の一環でもあるように感じる。  
 実際のところこの物語は、男性なら誰にも経験があるだろう、少年の日の格好いいヒーロー化身妄想の産物であるように感じられる。そこには少年が関心を持ち、また目にするあらゆる劇的な要素が、手当たり次第に投入される。その意味ではまことに共感が及び、背後事情の洞察がしやすい。
  自身の命が残り少ないことを知り、訪れる自暴自棄にやがて打ち勝ち、滅びを前にした自らの肉体を鍛えあげ、独善的正義を颯爽と行使して悪を葬り去る日々。その過程で、使用した下着売りなどに身を落としたうえ、悪人に追われるいたいけな美少女を救出し、懇願されてともに暮らし、彼女の作る手料理を口にしながら、命の炎を、壮絶に燃やし尽くす──。  
 誰もが一度は夢想する、臆面がないまでの定型的行動妄想であるが、文学者三島由紀夫もまた、こうした日本型美学を、自らの肉体を使って体現しながら去った。男ならば誰にも覚えがあるこれを、われわれは、世知辛い浮世を、生活費のために漂流することで忘れてしまっている。
  戻れないほどに灰汁が身に染みれば、このような経緯の物語を、青いものとして否定したくもなる。文芸志向の成熟型の読み手には、この劇画調の筋肉志向、格闘強者への手放し憧憬の文体は、当初は恐らく違和感となって感じられるであろう。かの三島も、『ゴルゴ13』を読みはしても、自身の創作においては、こうした趣向は慎重に避けた。  
 しかしそれゆえに、うとまれた孤児のようなこの青い妄想が、非常な突進感覚と、ページターナーとしての吸引力を作に与えたことはあきらかである。構成のシンプルさ、執筆動機のストレートさを、作者はそのまま、強い突進のエネルギーに変えた。そして作者が、勉学努力によって身に付けた高度な医療知識が、この妄想を骨太にし、リアリティを加えた、そうした経緯が、この創作にはありそうである。  
 もう少し言うと、勤勉な勉学努力も、医師となって得た自覚や、日常的な被尊敬の体験も、こうした少年の日の妄想を忘れさせなかったということであろうか。それとも日本社会に特有の、医学書とともに読む青年劇画が、こうした記憶を作者に呼び覚まし続けたのであろうか。
 いずれにしても作者には、この妄想を一度吐き出してしまわなくてはならなかった事情がありそうである。吐き出し終わった今、医師としての意識が太くなり、そののちに来る物語は何なのか、大変興味がある。
  出会った少女へのおずおずとした、不器用なまでの愛情表現、英語世界の視線からするなら、泥臭く、格好悪いほどのこの態度は、日本型の視線からすれば圧倒的な好ましさとして了解がとれ、美しいまでの男性的態度であると、作者はほとんど主張する。  
 先年の冒険小説ブームや、東映産のやくざ映画を持ち出すまでもなく、こうした世界に熱狂的な賛同者、崇拝者がいるのも日本であるから、うまくすればこの作は、熱狂をもって迎えられるかもしれない。
  作中に横溢する暴力礼賛の右翼的な気配、そして行動言語だと言わんばかりの言いきり型短文体にさえなじめば、猛烈に痛快であり、面白い。PCゲーム型暴力描写に没入し、硬質のヤクザふう言辞に身をゆだねられるようになれば、おおいに肉体鍛錬の耽美に共感し、悪を消すその躍動に快感共鳴し、末期癌を押しての命がけの闘いに、感涙を得ることもできるに相違ない。  
 日本型の価値観からすれば、女性に不慣れなおずおずとした純情と一見齟齬して見える結末に、美学の見地から異論も出るかもしれない。絶後劇を飾るレトリックは、各人に各様の思い入れがあろうし、成熟した洒脱さを振りまく欧米型のヒーローにしても、多く別の去り方をしそうではある。そしてそれこそは、彼の甘美な残り香ともなろう。
  しかしこの物語の主人公は、すなわち作者は、母性発揮にこそ女性の至上の美、あるいは価値を見るのかもしれない。これも日本人型のありようであるし、また暴力男子に特有の母系家庭のぬくもり憧憬が、ここには潜むのかもしれない。いずれにしても、こうした趣味のあれこれを選評に持ち込むのは誤りである。  
 私自身は、こうした単純な勧善懲悪、懲罰殺人の礼賛には慎重になるところがあり、このようなサムライ型の短絡的な腕力正義が、死刑存置の理由であり、その背後の補強的思想であり、旧軍の暴力容認を呼び、日本社会から、日本型威張りや道徳粉飾の暴力の排除をむずかしくし、冤罪を生み、2チャンネルを生み、といった特有の日本型厄介を見るからであるが、人工的エンターテインメント・ストーリーの設計ならば、現実の生々しさは切り離して評価すべきであろう。  
 主要な登場女性たちには愛憎の交換はなく、美しく出会い、また別れていく。こうした場面に異存が出る向きもあるかもしれないが、この種の物語にはこうした趣向は必然で、母性とは達観であり、自身の勝ち負け損得で争うことはしない。これらは作を動かしていくエネルギーの質の問題で、この物語においては、傷としては作用しない。  
 この作に問題があるとすれば、福ミスは、ジャンル刺激のために「本格」、もしくは「本格」寄りのミステリーを求めると公言していることで、この作の基盤の配線が、「本格」ものらしい知的な込み入り方をしているか否か、という問題になろう。  
 この点は今回、素晴らしく達成的であるとは感じなかったものの、治療上のある纏綿(てんめん)した事情が、事件の理由として背後にしっかりと用意されてあり、この部分のリアリティと完成度に、「本格」志向者の知性を感じた。何よりもこの作者が、高度に知的な医学の蘊蓄を見せるたび、背後に存在する深い医学的知見に都度圧倒される思いで、単純と見える物語進行に、要所要所で知的な厚みを加える印象を持った。
  さらに一言すれば、怪人物「R」に覆面を脱がさせる場面を、現状よりできる限り後方にずらす意図での加筆修正も、当作をより「本格」に近づけると思われる。この人は、必ず「本格」に愛情を抱く人である。次回作にはさらに期待が持てる。 いずれにしてもこの突進する痛快な小説が、福ミスのアンテナを増やし、幅を広げてくれたことを感じて、感謝をした。受賞作は、この作以外にはないであろう。

 女性らしい繊細な筆遣いや、キャバクラなどの現代風俗、そこで働く娘たちのしたたかな思いや恋愛の思惑を、彼女らの会話体に特有のリズム感覚で、時にユーモラスに描く筆は達者である。
 文章はよく流れもし、読みやすいから、上手と言ってよく、また男への思い、彼らを自身の生活領域に受け入れる際の期待と不安、性へのおののき、しかしこれの持つ吸引力、それらを描く際には、ツボに填まるふうの適性感覚を見せて貴重である。  
 こうした特徴は、この作者の天賦の才と見えて、今後この方向の習作を重ねていけば、傑作も現れそうな予感を抱かせる。惜しむらくは、男女の情にあまりにも思い入れが強いため、それ以外の世界にほとんど関心がなさそうに見えることで、世界、特に「本格ミステリー」の視界は、世界が恋愛感情だけで満たされているわけではない。
  恋愛に強い関心を持ち、その描写に自負を持つこと自体はかまわないが、それだけでもって他者よりも世界がよく見えている、と自信を持ちすぎることは、いささか危険であり、傲慢さやうかつさにもつながる。当作『特別な人』の示す達者さ、すなわち美点と、不足する部分との関係は、まさしくそのようである。
 また『特別な人』のタイトルから予想される、「特別な男」を見つけた際の女性らしい自慢の言辞はやはり現れて、この部分を長く感じる読者も出るであろう。  
 非常に複雑な構造を持った作品で、大勢の登場人物が入り乱れて絡み合い、殺人と恋愛の物語を進行させるのだが、これらの登場人物たちを結びつけるいわば接着剤が、ほぼ恋愛の思惑のみであり、これに加えて男女の外貌、性質の書き分けが、こちらは非常に上手な筆、というほどの手際は見せないので、いささか区別がつきにくい。よほどの強い興味と相性を持って作中に入らないと、ドラマを楽しみにくい。  
 つまりこの物語も、死体が登場し、刑事たちによって推理の論理が現れもするのだが、それら推理小説的要素はせいぜい作の調味料といった位置にあり、骨組みから細部まで、この小説は徹頭徹尾恋愛小説である、という理解でよさそうだ。書き手の興味も、そこから一歩も離れることがなく、事態や世界掘り下げのエネルギーも、潔いほどにひたすら、恋愛のやり取りに向いたままである。  
 さらには洋介という名の刑事と、虚言として「よーすけ」を名乗るらしい登場人物まで加われば、人間関係はますます判然としなくなり、これは実は作者の意図の範疇なのだが、これはそのまま、この騙しの構造があかされた際、驚きが得にくいという結果にもつながって、あまりうまく行っているとは言いがたく感じた。確かに迷わされはするが、全体のモーションをくっきりと感じて迷っているのではなく、ただ全体がぼんやりしているだけの、いわば失見当識である。  
 殺人の遺棄死体が登場し、追って刑事も登場するのだが、こうした道具立てが、証拠類の分析検討や、聞き込みというような発展には向かわない。鑑識班的な推理の材料には作者の目は向かず、死体となった女性に、刑事が恋愛感情をもってつき合っていたらしい、といった事情の方が、作者には関心事となる。  
 このおのおのの出会いと波乱のドラマは、時間軸をずらし、それを隠して、読み手を騙す叙述の構造を持つ。死体が埋められていた公園に、人形も埋められていて、両者の描写のズレが、幻想小説的な不思議を生じるはず、と企図した作者の発想は、充分筋のよいものであったのに、意図看破を怖れてか、安全を模索しすぎる筆者の筆運びが、物語世界の全体を霞がかかったようなぼんやりさ加減に沈めてしまった。
 結果、現れたはずのミステリーさえも、悪い意味でぼんやりしてしまい、何が起こっているのか判然とせず、まことにおしい気がした。こうした意図は、年月日さえ隠しておけばそれでよく、明瞭すぎるほどに細部を正確に描く方がむしろ意図に沿う。たとえそのゆえに看破されても、その時点で読書が中断されるわけではないし、それによって作品の価値が半減するわけでもない。
 この相関図は、展開につれて意表を衝いた群舞を踊り、結末で輪舞構造をあかす。作者の自信の達成は、どうやらこのあたりにありそうなのだが、これもまた、内部が判然としないために、中途での視界不良が心地よいとは感じきれず、輪舞構造を明かされた際にも驚きが得にくい結果になった。
 しかしこうした隠されたメカニズムが、本格としての構造体に作を近づけたことはあるし、うまく書けてさえいたら、この趣向はなかなかに目新しく、上手なものになったろう。しかし右に述べたような事情から、このトリックがうまく完成し、機能したとは言いがたく感じた。  
 もっともこれは、こちらがこうした趣向の作に対し、よい読者ではなかったからもありそうで、他人の恋愛や、その挫折に強い関心を抱く読者たちなら作に深く踏み入ってくれ、この作はよく成功したかもしれない。
 登場人物たちが出会い、純粋な思いや、いささかの打算から、心や体の関係を結んでいく異性間相関図に、強い興味と、いうなれば詮索の心を持った読者でないと、この物語の中で複雑に絡む構造を、作者の意図どおりに楽しむことができないのでは、という感想を持った。

 最も成熟した世界観を示し、文章も落ち着いていて、描写が達意と感じられたものが、この作であった。文章もよく流れ、読みやすいがおとなのものらしい高級感もあり、表現の発散する気配が、最も文学的のものに感じられた。  
 作中で示される芸術論や真贋論争、登場人物が語る、たとえば表現行為上のパフォーマンスに関して、「アートを通して環境保護や世界平和を訴えるといった、レヴェルの低い社会性しか持たない」と言った把握とか、「マルセル・デュシャンのように既成の秩序を破壊する芸術行為以前に、現在は秩序の側が勝手に内部崩壊している」といった俯瞰的な言い切りも、ストーリーの要請から芸術ジャンルに無縁であった小説家が、無理に脳裏にひねり出した付け焼刃的論評でなく、こなれた適切な言葉の繰り出しで、充分な説得力があった。  
 とは言ってもこの作も、作者の創作の意識としては、客観から「本格のミステリー」としての構造体設計を為そうとするものではなく、自己を色濃く投影した主人公を、気に入った美意識で動かし、紡ごうとする、ヒーロー妄想的な恋愛小説の範疇にしっかりとあって、これにスパイもの、国際謀略ものの方法論とか、冒険小説風味の男性美学で味付けをなしたエンターテインメント、と受け取るのが適当に感じた。  
 その証拠には、主人公柏樹が、物語進行の細部にほぼすべてからみ、彼なしで進行する事件局面というものが、極めて少ない。物語を構築していく各要所のすべてに、自身を投影した存在を特権的に置いてしまう無意識は、この小説が客観的な俯瞰から作られる意識にはなく、私小説のエンターテインメント化、とも言うべき背景を持つことを示しそうである。  
 物語に吸引力を出さんとして背後に隠された事情も、込み入っていてなかなかの達成ではあるものの、解きほぐしていく過程を見ていれば、いたってストレートなもので、読み手の意表を突いてくる驚きには、そう大きなものは用意されない。すなわちこの作に関する限りは、この作者の「本格ミステリー」としての設計力は、標準的と言うべきであろう。  
 この小説の美点は、したがって登場人物の人間描写の技量、文章力、描かれた絵画芸術を含む世界の、ビリーヴァブルな展開と構築力、ということになるであろう。この点ではこの作者の筆力は、充分な達成を見せたと評価できる。 柏樹を作者は、自身の美学から理想的な男性に近づけようとしてはいるものの、一流大学を卒業し、英語も堪能で、容姿にも腕力にも恵まれた鹿つめらしいスーパーヒーローながら、社会的常識に合致した成功からはドロップアウトさせ、政治家の父親の挫折に巻き込まれて悩みを抱えていく姿は、安定常識的な格好よさからはズラされていて、信じられる体裁になっていた。  
 柏樹の学友であったエリート警察官僚の入江奈津子は、控えめな内にもよく容姿、風貌が浮かぶ感じがして、上手な描写に感じた。相棒の田野倉は、いかにもありがちな行儀の悪い刑事で、ステレオタイプであるものの、信じられるふうではある。
  エミリ・トルハーストは、日本人が描くこの種の小説中によく現れる理想の女性で、言葉少なく、つつましやかで母性的な、英国籍でありながら、これは生粋の日本人である。日本の冒険小説に繰り返し現れるこの手の国籍不明、外人風味の日本女性をどう評価するかについては、いつも悩まされる。しかしこれに点を辛くすることは、必ずしも適切ではない。何故なら、読者もまたこの意識で待っているからだ。
 現実の白人女性の多くは、優しさや友情を壊さない範囲内でもっとアウト・ゴーイングな人物が多い。エミリの場合はたまたまこういう白人だったのだ、という説明をたとえ聞かされても、日本人作家の描く白人にはこの手が非常に多いので、これもまたありがちの言い訳に聞こえてしまう。したがって、彼女に関しては、それほど上手な筆とは感じなかった。


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