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| 菅茶山について |
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菅茶山(1748〜1827)
Kan Chazan
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名は晋帥(ときのり)、字は礼卿(れいけい)、通称は太中・太仲(たちゅう)、幼名を喜太郎(きたろう)、元服後百助(ももすけ)と改め、茶山(ちゃざん)と号した。酒造業で神辺東本陣主人も勤めた菅波樗平(すがなみ・ちょへい)と半(はん)の長男として、1748(延享5)年2月2日、備後の国安那(やすな)郡川北村(現在の福山市神辺町川北)に生まれた。
19歳のとき京都に遊学し、初め古文辞学(こぶんじがく)を市川某に、古医法を和田泰純(わだ・やすずみ)に学んだ。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂(なわ・ろどう)に入門。那波門下の兄弟子には備中鴨方の西山拙斎(にしやま・せっさい)がいる。遊学は6回に及び1773(安永2)年・1780(安永9)年には大坂で頼春水(らい・しゅんすい)や『混沌社(こんとんしゃ)』社友と交わっている。
1781(天明元)年頃、神辺に私塾『黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)』を開いた。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅からなる。1796(寛政8)年に福山藩の郷校となり、以後『神辺学問所』『廉塾(れんじゅく)』と呼ばれる。塾では、菅茶山とともに藤井暮庵(ふじい・ぼあん)・頼山陽(らい・さんよう)・北條霞亭(ほうじょう・かてい)など都講(塾頭)による四書五経を中心とした講釈がなされ、寺子屋などの初等教育を修了した10〜20歳代の多くの階層にわたる塾生が2〜3年にわたって学んでいる。
1801(享和元)年、福山藩の儒官となり、藩校弘道館で講釈を始めた茶山は、1804(文化元)年と1814(文化11)年の2回江戸詰を命ぜられ、藩主阿部正精(あべ・まさきよ)直属の教授となり、1809(文化6)年に『福山志料(ふくやましりょう)』を、1819(文政2)年には『福山藩風俗問状答書(ふくやまはんふうぞくといじょうこたえがき)』をまとめている。
「宋詩に学べ」という文芸運動を西日本で大成した茶山は「当世随一の詩人」と評され、詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』の発行は、多くの文人墨客の来訪を促した。
1827(文政10)年8月13日、80歳で病歿し川北村の網付谷(あみつけたに)に葬られた。その墓碑は頼杏坪(らい・きょうへい)の撰文である。
『廉塾ならびに菅茶山旧宅』は1953(昭和28)年に国の特別史跡に、『菅茶山の墓』は1940(昭和15)年に広島県史跡に指定されている。 |
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