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入封400年記念シリーズ(9)明治期の福山城―福山公園の誕生

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年12月1日更新
No.316

 江戸から明治へ世は移り、大きな変革期を迎え、1871(明治4)年に廃藩置県が行われます。福山藩は福山県、深津県、翌年には小田県と改称されます。
 1874(明治7)年、各町村の戸長は小田県令を通して政府に福山城の建物などの無償払い下げ誓願し、内務卿伊藤博文から「人民偕楽の地となすべし」とされます。翌年には内務卿大久保利通から「指令どおり公園となし、建築は永久保存すべし」との回答が得られます。その名を水戸と同じ「偕楽園」と名付けました。福山公園(現福山城公園)の誕生です。
 ところが天守閣は荒廃がはなはだしく、公園の還納を広島県に請願して県の直営となります。1888(明治21)年には月見櫓跡地に貸席「葦陽館」を建てて繁栄策を進めますが思うようにはいきませんでした。
 1895(明治28)年には福山町会が県に公園の移管を願い、福山公園保存会が管理することになります。翌年に天守閣をはじめ、伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門の大修理がなされ、見事な姿がよみがえりました。
 1915(大正4)年には二之丸東側に桜が植えられ福山公園は桜の名所となります。こうして天守閣は福山のランドマークとしての役割を担うことになったのです。

福山公園絵図 福山公園絵図

福山公園 福山公園

文化振興課
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