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管理者室より 2016年度

No.136  外科医冥利

2017年3月15日

 最近ある雑誌で、腕が良いと評価されている外科医3人(いずれも大学の教授)に対するインタビュー形式の記事が出ていました。3人のうちの1人は知っている方でしたが、他の2人は専門分野も違い、また仕事をしている地域も違うので知らない方々でした。
 インタビューアーは3人にいろいろと尋ねていましたが、その中の一つに「外科医冥利とは」という問いがありました。1人は「イノベーションを活かし、人や技術を見抜いて強いチームを作り機能させていくこと」、1人は「努力し続けて恩を忘れず、みんなに感謝する、そして患者さんや先輩後輩から慕われること」、1人は「外科医は患者さんを直接救える。そこに努力の甲斐がある。それが外科医冥利だ」と答えておられます。最後の方の答えは理解できますが、最初のお二人の答えは何となくわかるような気もしますが、彼らのメスの裁きほど単純明快ではない気がします。
 私も外科医なので私ならどう答えるだろうか、を考えてみましたが、その前に、そもそも「外科医冥利」や「外科冥利」という言葉は聞いたことがあっても「内科医冥利」という言葉を聞いたことがありません。内科の先生たちに「冥利」はないのでしょうか?私は決してそんなことはないと思っています。内科の先生たちも「冥利」は感じているはずです。満足感や達成感がなければ仕事を続けていくのは難しいことで、この満足感や達成感を感じる時が簡単に言えば「冥利」だと思っています。で、私の「外科医冥利」ですが、私は「外科手術で救命したときの喜び」だと思っています。例えば、10数時間を超えるような難しい手術をやり終えたときや、周りの外科医が簡単には手を出せないような手術を行ったときなどに「外科医冥利」を感じるかと問われたら、答えは「No」です。自分より手術の上手い人はいくらでもいます。たぶん、自分が一番手術が上手いなどと思っている外科医はいないと思いますし、私は特定の人しかできない手術などないと思っています。外科医であれ内科医であれ、医師である以上、病気を治して初めて満足をするのではないでしょうか。いくら難しい手術を行っても、合併症を起こしたり、半年もたたないうちに再発してしまってはどこが「冥利」かと思います。したがって、悪性疾患ではなかなか「冥利」を感じることはなく、たとえば消化管の穿孔や腸の壊死など、今すぐ手術をしないと患者さんが死んでしまう救急の手術が最も「外科医冥利」につきる手術で、患者さんが退院されるときに「お世話になりました」と言ってくださるとき、このときにいつも「外科医になってよかった」と思っていました。
 現在、病院で手術は全くせず、患者さんに直接関わる機会もないので、「外科医冥利」を感じることは無くなりました。若干寂しい気持ちは正直なところありますが、今の私の「冥利」はこの病院が患者さんに満足していただける医療を提供している、職員が満足して仕事をしてくれている、患者さんや職員の笑顔があふれている院内の光景、これらを実感できたり、そんな話を耳にしたりすること、これが「冥利」だと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.135  トリとコンニャクと麩

2017年3月1日

 トリとコンニャクと麩、私と長く付き合っている人はこれが「何なのか」は知っています。もちろん、私の家族は誰もが知っています。
 外科の仲間などが集まって宴会をするときは少なくとも「焼き鳥」の店に行くことはあり得ません。そうです、これらは私の嫌いな、というか食べない物です。しかし、根性がないせいか、コンニャクの中には食べられるコンニャクもありますし、麩の中にも食べられる麩があります。首尾一貫しているのはトリだけです。
 昨年12月のある日、病院のある部署の忘年会で、トリ料理が出ました。それを口にしなかったところ、隣にいた女性の職員から「何故食べられないのですか?」と聞かれました。彼女はこの「管理者室より」をいつも読んでいますと言ってくれていたので、つい、「書くので読んで」と答えてしまいました。申し訳ありませんが少し付き合ってください。
 物心のついた頃からトリと板状のコンニャクとみそ汁やすましに入る麩は口にしませんでした。まずコンニャクですが、これは味がなく食感も嫌いで、後でコンニャクのことをdevil’s tongueとも言うことを知って、そうだろう、そうだろうと1人で思っていました。いくら腎臓に良い、石が出る、などと言われてもおいそれと口にすることはありませんでした。しかし、コンニャクの中でも、すき焼きに入った糸ゴンニャクは別で、この糸コンニャクは味もよく食感も嫌いではありませんでした。麩も味を主張せず、何よりもあのドロッとしたものが喉をこす感覚は最悪で、もう60年以上食べていません。だいたい麩なぞ鯉のえさと思っていました。ところが麩の中でも生麩は食べられるのです。生麩はドロッとした感触がないからではないかと勝手に思っています。
 そしていよいよ大トリのトリです。私の父は大正10年(1921年)生まれで、この年が酉年なのですが、実は高倉家には古くから「長男は父親の干支(えと)の動物を食べてはいけない」という家訓があって、私は長男なのでトリが食べられないのです。したがって私の長男は私の干支であるイノシシは食べられません。このようにトリを食べない理由を説明すると、みんな決まって、「良かったですね、お父さんがウシでなくて」と言われます。そこですかさず私は「実は次男がウシなので、次男の子どもはかわいそうですよ」と言うことにしていました。この家訓の話をする前には、「出身は京都府北部の丹後ですが、私の先祖は以前は京(ミヤコ)に住んでいて、平家を追って丹後に行き、そこで土地の娘を見染めて住みついたらしい」などと話しておきます。こんな感じで十分プレメディ(基礎麻酔)が効いていると、多くの人がいったんは私がトリを食べない理由を少しは信じてくれます。もちろん最後は種明かしをしますが、私がトリを食べられない理由は、トリが祖母に頸をはねられ毛をむしられていた残酷な有様を覚えているというありがちな理由です。あの可愛そうな目にあったトリを食べることはできません。あのブツブツした皮が嫌いだとかは後でとってつけた理由です。余談ですが、この私のトリ肉嫌いを何とかしてやろうと思った方がおられます。私が医師になって初めて勤務した倉敷市の病院の副院長の奥さまですが、私は4年間毎日、副院長宅で朝ごはんと晩ごはんをいただいていました。それどころか、お風呂にも入れさせてもらって洗濯もしていただいていました。そんなある日の夕食に焼き飯が出ました。もうビールも少し入って気持ちもよくなりかけていましたが、焼き飯を口に入れた瞬間、トリ肉の風味を感じてしまい、盛り皿の中を入念にスプーンを使いつつ観察したところ、2~3mm角程度の塊を見つけてしまいました。これがトリ肉だったのです。副院長夫人はなんとかトリ肉を食べさそうと細かく切って料理されていましたが私の味覚が勝ちました。これを境に私が倉敷にいる間は副院長宅でトリ肉が料理されたことはありませんでした。
 トリ肉を食べないことで少々尿酸値が上がったことは事実かもしれませんが、嫌いなものを食べることはない、と今でも思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.134  春夏秋冬 

2017年02月15日

 季節はいつがスタートなのか?この表題の並びなら春ということになるし、この国の事業年度の始まりも4月なのでそれでいいかと思います。しかし、一方では1年の計は元旦にありと言いますし、気持ちをリセットするのは進級という仕組みのある生徒~学生の頃を除いてはやはり1月、という気もしています。
 清少納言の枕草子は多くの人が一度は学んだことがあると思います。特に「春はあけぼの」は、その先に続く言葉は忘れていても耳に馴染んだフレーズではないでしょうか。清少納言は「春はあけぼの」に続いて、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」と書いています。まさに今の季節(立春は過ぎていますが)である冬は早朝です。果たして、平安時代の早朝は何時頃だったのでしょうか?今の時間だと明るくなる7時頃でしょうか。また、雪が降っていると最高と言っています。雪が降る地域で育った私には清少納言の感覚がよく分かります。大人になると雪が積もると何かにつけて大変だということが分かってきますが、子どもの頃は楽しいだけで、朝早起きして道の雪かきをすることも、人が通っていない雪道を低学年の子どもたちの先頭に立って切り拓いていく苦労も苦労だなんて思いません。それにしても京都で春夏秋冬を楽しむのも悪くはないと思いますが、かの地は盆地ですので、夏は暑く冬は寒いのは今と同じでしょうから、さぞ大変だったのではないかと想像しています。
 人の成長に大きな影響を与えるものとして家庭環境や友人、恩師などがあると思いますが、育った地域の春夏秋冬(自然環境)も随分大きな原因だと思っています。私の田舎には、京都以上に素晴らしい自然やその営み、春夏秋冬があり、たぶん誰もが故郷をそう思っているように、私も自分の故郷が最高の場所であると思っています。私の田舎にはこの国の春夏秋冬がしっかりと凝縮されています。春は雪解けの水の冷たさとそのせせらぎの音や雲雀のさえずり、初夏には田植えがあります。そして海水浴、家族総出のお墓参り。9月になれば台風を気にしつつ早稲の稲刈りが始まり、稲木に懸けた稲穂が光ります。10月には鎮守のお祭りで神様に感謝。山々が紅く染まるころには冬を越すための薪などの準備。この頃になると朝夕の冷え込みが少しずつ厳しくなり、12月には初雪が降ります。冬になれば鉛色の空の日が多くなりますが、炬燵(こたつ)を囲んでの団欒(だんらん)の時間も増え、家族の温もりを一番感じる季節です。
 私の田舎の自然環境はそれなりに厳しい地域でしたが、それゆえに隣近所の助け合いの風習は強く残っていましたし、地域で子どもを育てることは当たり前のようにできていて、通りを歩いていれば誰かれとなく声をかけてくれました。私は相当グータラな人間であると思っていますが、自然は素晴らしい、自然は敬わなければならない、人は助け合わなければならない、人には声をかけなければいけない、こんなことが普通に思えるのは私が丹後という地域で育ち、この地の春夏秋冬を経験したからだと思っています。
 今の時代は間違いなく季節感を体感することが少なくなっています。都会には小川もなくなり、せせらぎは山の中に入らないと聴けなくなっています。海も汚れて近場での海水浴の機会が減ってきているのではないでしょうか。温暖化の影響からか秋がやたら短くなったようにも思います。隣の人たちとの付き合いも希薄になってはいないでしょうか。子どもたちへの声かけはどうでしょうか。
 私自身、今は子どもたちと触れ合う機会が少ないのですが、昨年暮れに福山市内の児童守る施設で数時間、子どもたちと触れ合う機会がありました。この守る施設は街中から少し離れたところにありますが、そこには先生たちの優しい声かけとまなざしがありました。どの子どもたちの顔も笑顔で、眼も澄んでいました。そんな子どもたちを見ていると、私自身、ふっと子どもの頃にタイムスリップした気持ちにもなり心が洗われ、子どもたち以上にありがたい時間が過ごせました。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.133  雪の話

2017年02月01日

 私の田舎は京都府の北部で、冬は必ず雪が降ります。積もる量は年によって違いますが50cmほどは積もったように記憶しています。初雪はたいてい12月の中頃だったでしょうか、2学期の終わりの頃が多かったと覚えています。小学校では不思議なことに初雪を見ると、たとえ授業中であっても誰かが「雪だ!」と叫びます。これは毎年繰り返されます。しかし、「雪だ!」の叫びは初雪の時だけでその後はどんなに雪が降ろうと子どもたちはだれも叫ぶことはありません。初雪が降った日はみんなの顔が何となくニコニコしていました。あれはいったいどうしてだったのでしょうか。
 実は私も雪が降るのをわくわくしながら待っていた方でした。冬になると、早く「雪おこし」が鳴らないかと思っていました。「雪おこし」とは雪を降らせる冬の雷のことです。ただ、今にして思えば、雪が降ると寒くはなるし、どちらかと言えば屋内で遊ぶことが多くなるし、私はスキーはあまり得意でもなかったし、雪が降るのをそれほど待ち望まなくても良かった子どもだったように思います。雪が降りだせばもうすぐ2学期が終わる、そして正月がやってくる、お年玉がもらえる、そんな考えだったのでしょうか?しかし、今の歳になっても雪を見ると心が少し躍るのは何故でしょうか、刷り込まれた本能なのでしょうか。
 今年の1月15日、全国都道府県対抗女子駅伝が京都で開催されました。TV中継を見ていましたが、激しい雪の中での大会でした。選手は大変だったと思います。この雪は岡山市内でも舞いました。月曜の朝(16日)は雪が積もっていたら通勤が大変だなと思いつつ目を覚ましましたが雪はなく、山陽道も福山東インターまでは冬用タイヤ規制もなく走行することができました。昨年も1月下旬の日曜日に雪が降り、このときは山陽道が冬用タイヤ規制で走れず、新幹線で福山に行きましたが、福山市内も雪が積もっており、駅にはタクシーが一台もなく、40分ほど寒い中でタクシーを待ちました。雪が降るとこんなに大変なことがあるのに、今でも少しは降ってほしいと思っているのはおかしいでしょうか。
 新雪はまず見た目が美しいです。白がいいです。そしてまた雪降りは静かです。特に夜中の雪は「しんしん」という言葉がまさにぴったりだと思っています。ひたすら静かに降るさまに心を惹かれます。吹雪では風情がありません。こんなのもいいです。「時は夕暮れ、多少暗く、街灯がともり、その薄いオレンジの光が120度くらいの角度で雪道を照らしている、そしてその中に人影がある、私と誰かかもしれない」、そんな情景です。しかし、こんなことは期待をしていてもあろうはずがありません。雪は見るだけにしてもいつ降るか分からないので、冬の間は雪国で生活をしないといけません。今は難しいですが、仕事を辞めたら冬の間は田舎にこもり、しんしんと降る雪や夕暮れ時の街灯に映りながら舞う雪をもう一度見たいものです。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.132 渡辺和子さん

2017年01月16日

 2016年12月30日、ノートルダム清心学園の理事長である渡辺和子さんが89歳で亡くなられました。
 中学生の頃か高校生の頃か確かなことは忘れましたが、1936年(昭和11年)2月26日に発生したいわゆる二・二六事件で教育総監だった渡辺錠太郎陸軍大将が暗殺された際、その有様を目撃した渡辺教育総監の娘さんがいた、そしてその娘さんは生き延びたということを知りました。時が経って1967年(昭和42年)、岡山大学に入学した後、新聞かテレビニュースかで岡山にあるノートルダム清心女子大学の学長の渡辺和子さんがその時の娘さんであるということを知りました。歴史の中で学んだ人が近くにおられるということにまずびっくりしました。同時に渡辺和子さんがまだ若いということにも驚きました。渡辺さんはなんと1963年(昭和38年)に36歳の若さで清心女子大学の学長になられていたのです。
 そして4~5年前だったと思います、新聞で渡辺さんの書かれた文章を読む機会がありましたが、その中にハッとする言葉がありました。「この世の中に、雑用という用はございません。私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれますと。確かに雑用と言う言葉を私たちは何気なく使っていますが、考えてみれば意味のない用はないわけであって、どんなに小さな用であっても大きな用であっても用に変わりはありません。その他にも、「時間の使い方はそのまま命の使い方になります。丁寧に時間を使いますと丁寧な人生が残ります。ぞんざいに時間を使いますと、私の一生の中でぞんざいな時間として残ります。自分の人生をどう生きるか、それは平凡な日々の時間をどれほどの愛をこめて自分らしい時間にするか、ということにかかっているのですと書かれた文章がありました。
 渡辺さんは学長でありながら清心女子大学の学生たちに教鞭をとり、それ以外にも折に触れて話をされていたそうです。驚くことに80歳を超えてもなお教壇に立たれていたそうです。私の知人に清心女子大学を卒業された人がおられ、以前その人と話をした際、渡辺学長のことを人生の師であると言っておられましたが、渡辺さんの数々の言葉を読んでみるとそんな思いになるのもうなずけます。私は6年間大学生活を送りましたが、時の学長と話をしたことは一度もありません。渡辺学長の専門などは知りませんが、自らが語りかけ、道を照らすことが学生の悩みや迷いを解決する手助けになれば、という想いで長く教壇に立たれたのではないでしょうか。
 渡辺和子さんの書かれた「置かれた場所で咲きなさい」という書物があります。私も何年か前に買って何度か読みました。読むたびに心が洗われます。当院には初期研修を修了した研修医に彼らが望む医学書を贈る習わしがあります。私は2年前からこの「置かれた場所で咲きなさい」を購入して彼らに医学書と共に渡すことを始めました。果たして彼らが読んでくれているのかどうかは知りませんが、少しでも読んでくれたら、きっと優しく医療ができる医師になってくれるだろうと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.131 新しい年を迎えて

2017年01月04日

 皆さま明けましておめでとうございます。  
 平成29年(2017年)が始まりました。一年の計は元旦にあり、という言葉がありますが、皆さま方は今年の計画を立てられたでしょうか?私も小・中学生の頃は年の初めにその年の計画や目標を立てていたこともありましたが、たいてい春までもたずに挫折していました。大学生の頃になると目標を見失い、落第せずに卒業すること、そんな当たり前のことを思ったりしていた記憶があります。社会に出ると、目の前の克服すべき課題(ほとんどが臨床)が尽きることなく出てきて、それに対応することで精一杯でした。現在は少し余裕が出てきて、いろいろ考えることもできるようになりましたが、先行きが不透明な時代にもなり、自分自身の寿命さえもが明日はどうなるのか分からない歳になってくると、まずは自分や家族の健康、そして勤務している当院で安全な医療が行われること、市民に満足して頂ける医療サービスを提供すること、こんなことが毎年の目標になっています。もちろん、各論的にはもう少し具体的な目標もあるのですが、その目標を達成するためには病院職員の意識改革も必要で、今年も一年、声を出したりモノに書いたりして想いを伝えていきたいと考えています。  
 さて、2017年の医療ですが、各地域の地域医療構想もまとまり、地域ごとに医療機関・病床の機能分化も少しは進み、地域包括ケアの効果的なシステム作りも始まって行くのではないでしょうか。またいろいろな機能を持つ病院や介護施設などが統一されたガバナンスのもとで連携をする、いわゆる地域医療連携推進法人が出てくるでしょうが、経営母体の異なる急性期病院同士の連携はなかなかスムースには進んでいかないのではないかと思っています。この春には岡山市でOumc(岡山大学メディカルセンター:岡山大学病院、岡山医療センター、岡山市民病院、岡山労災病院、岡山赤十字病院、岡山済生会病院の連携法人)がスタートしますが果たしてどうなっていくのでしょうか、注目しています。
 私は、同じような機能を持つ医療機関同士、もう少しの間は「競争」が続き、人口が減少し「パイ」が少なくなれば自然に「共存・連携」の形になっていくのではないかと思っています。「パイ」が多ければ多少シェア率が低くても利益は上がるでしょうが、「パイ」が減ってくればシェア率が低いと投資に見合う利益は当然上げられなくなります。ここまでくれば、医療機関の色合いがはっきりして来て、真の連携が成り立つと思いますが、同じような機能を持つ医療機関同士の連携を意図的に進めるのであれば、行政と大学が一体となって、荒療治をしないと出来ないと思っています。しかし、人間は欲が深いです。私もまだ仙人には到底遠く、「福山市民病院より他の病院」、という心境にはなっていません。なんでもかんでも一番でなければ、などとは無論思っていませんし、そんなことはどだい無理なことですが、出来れば地域で最も選ばれる病院にはなりたいと思っています。
 さて、もう少しすると米国ではあの方が大統領に就任されます。大統領になったらメキシコの国境に壁を造ると言われていましたがどうでしょうか。Tppから撤退されるのはどうやら確実なようです。このことが日本にとって良いことなのかそうでないのか、どちらでしょうか。少なくとも世界は「グローバル」という流れからは後退しそうです。基本的にはそれぞれの国がこれまで以上に「国益」を考えて政治を行うのは間違いないでしょうが、あまりにそれが過ぎると変な「ナショナリズム」が頭をもたげてくるのではないでしょうか。少なくともこれまでは米国はこの国を背中から撃ったり、昇っている梯子を外したりすることはないと思えましたが、これからは分かりません。秩序のない世界に入って行くかもしれないと思っています。そしてまた、医療の世界は「連携」がKey Wordですが、政治の世界は「脱連携」に進みそうです。
 今年はこの病院が開設されて40年を迎えます。これまでの病院職員、支えていただいた地域の皆さま、医療機関の皆さまなど、多くの方の応援のたまものであると感謝しています。今年も一年、地域にとって大切な医療資源を守り、さらに発展させていきたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.130 年の終わりに-2016-

2016年12月15日

 2016年が暮れようとしています。今年もいろいろなことがありましたが、少なくとも元気で年を送れることにまず感謝です。  
 さて、この国の今年はどうだったでしょうか?私は何となく過ぎていった一年であったように感じています。安倍さんの一人勝ち状態で政治に緊迫感がなく空気が多少よどんでいるように思えます。経済の面でもアベノミクスの目指す好循環が生まれているとは思えず、市民の暮らしも決して上向いていないと思います。つい最近も、後期高齢者の保険料の特別軽減を廃止したり、高額療養費制度の70歳以上の優遇措置を縮小したり、人々が財布のひもを固くする話ばかりで、結局、先行きの不安から国民はお金を使わず、日銀の目標とする物価上昇も達成されそうにありません。米国の大統領選挙も低調で、私が見ても相当問題のある人が大統領に当選しました、英国のEuからの離脱(正しい表現かどうか分かりませんが、要は自分勝手)、テロも頻発したりで世界はどこへ向かおうとしているのでしょうか。この国の周りもいろいろ起きています。韓国はどうなるのでしょうか。反日のリーダーが生まれるかもしれません。決着した慰安婦問題がまた最初からということになるのでしょうか。中国ともお互い本音が言えないような関係が続いています。米国の大統領が変わっても中国と尖閣を巡って決定的な状況になるとは流石に思えませんが、すっきりしない関係はこの後も長く続いていくのは間違いないでしょう。  
 医療の世界ですが、今年は2年に一度の診療報酬の改定がありました。本体部分は0.49%のプラス改定ですが、薬価や材料がマイナス改定で、全体では1月03日%引き下げられました。当院はDpc2群病院にはなりましたが、言ってみれば県庁所在地ではない地方都市にある自治体病院と言うことで、同じ立地の多くの病院がそうであるようにヒトの確保に苦労をしており、このたび加算対象となった多くの要件がクリアできず厳しい状況にあります。改める点ももちろんありますが、まじめに医療を行っている病院の運営が厳しいようではこの国の医療は持たなくなるのではないかと考えています。当院は来年40周年を迎えます。創立間もないころ、身売り話が紙面を賑わしたことがありましたが、職員の努力で危機を乗り越えました。そして今、この病院は大学医学部のないこの地域において大学病院の役割も果たしています。「和は力なり」の院是のもと、着実にここまで成長してきましたが、医療は絶えず進歩あるいは変化しており、病院や医療にゴールはありません。われわれは患者さんに安全な医療を提供すること、誰からも肯定的に評価される医療を行うこと、地域に暮らす人々に安心を提供すること、これらのことを実行していくだけだと思っています。  
 個人的には春に初めてカテーテル検査を受けました。そんなこともあって、2月頃から4月までの間、これまでの自分自身を振り返る機会が多くありました。多少大袈裟ですが自分の死にざまも考えてみました。少し忘れていた亡くなった両親との仮想会話も再開しました。ウォーキングも始めたので、少しは考える時間が出来たのかもしれません。体力がかなり低下しているのは間違いありません。ゴルフの飛距離も随分落ちました。しかし、気力は変わらないと思っています。手術も上手くなっていると思っています。たぶん私はもうむけるほどの皮は持っていないと思いますが、この一年でちょっぴり成長したかもしれないと思っています。

 いつもの通りですが、大みそかには岡山藩池田家の菩提寺である曹源寺の梵鐘で2016年を送り、2017年を新たな気持ちで迎えたいと考えています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.129 聞こえなくなった音

2016年12月01日

 少し前ウォーキングについて書きましたがまだ続けています。体重も多少減ってきておなか周りも幾分スリムになってきたように思います。もちろん、食べ物にもそれなりに気は使っています。甘いものが食べたくても我慢していて、もし甘いものを少しでも食べたら他の物を食べることを控えたり、歩く時間をいつもより少し長くしたりしています。歩いている最中ですが、近いうちに何かイベントがあって挨拶をしないといけないときとか、書き物を抱えているときは頭の中であれこれ構成などを考えていますが、そんな予定のないときにはどうやら歩きながら耳を利かせているみたいです。  
 昔は冷房機などはなかったので、田舎の家では冬でもない限り窓を閉めることもせず、生活のさまが近所の人に見られていることなど全くお構いなしに風を存分に通していました。子供も多い時代であったので、どこの家からも、どこの路地からも子供の声が聞こえていました。とにかく音の絶対量が少ない時代であったので、包丁がまな板にぶつかる音もよく聞こえていました。野菜の千切りでしょうか、お母さんの名人芸を気持ち良く想像できていました。私の田舎は丹後ちりめんの産地だったので、機織り(はたおり)の音は止むこともなく聞こえていましたが、そんないつもは聞こえる機の音が聞こえないと、「どうしたんだろうか、機織りを辞めたんだろうか」などと勝手な想像をしていました。  
 こんなセピア色のような音が今は聞こえなくなったように思います。利かせている耳に入ってくる音は車の音が一番多いですが、時に川沿いを歩いていると聞こえる魚の跳ねる音にはホッとしています。蝉の声は昔と変わりありませんが、子供の声や料理の音などの日常の生活の音が圧倒的に聞こえてきません。一軒家であればまだ優しい光がカーテンを通して見えて、中での団欒の温もりを感じることができますが、マンションのコンクリートの間から見える明りは無機質で温かみを感じることができません。生活の音が聞こえてくればまた違うのかなと思いますが、最近の家は気密性もよくマンションにしても一軒家にしても生活の音はほとんど聞こえません。これではよほど社交性のある人でなければ、ますます人との触れ合い、人とのつながりが希薄になるのではないかと思えます。そういえばウォーキングをしていてこちらが「おはようございます」と声をかけても誰もが返事を返すわけではないことが分かりました。ひょっとしたら耳が悪いのではないかなと思ってもいますが、構われることを嫌がる人が増えているのかもしれません。
 これからさらに高齢社会を迎えるにあたって、元気な老人を作ること、分をわきまえた医療(適正な医療)を行うこと、不必要な入院は止めて病院から施設や自宅へ帰ること、住み慣れた場所で最期を迎えること、などを目指している今の時代、もっとお互いの顔や生活が見えてこないと、地域でお互いがお互いを支えることができなくなるのではないでしょうか。
 耳を澄まして音を聞く。特に日常の生活から生まれる音は結構心地よいと思っています。多少音痴であっても音は自分で感じとればいいのであって、耳が遠くなるまでにはまだまだそんな音を楽しみたいし、探してみたいと思っています。 

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.128 伏魔殿

2016年11月15日

 東京都庁が伏魔殿だと、少し前までその主であった石原慎太郎氏が言っています。伏魔殿の意味を辞書で調べてみると(1)魔物が隠れている殿堂、(2)陰謀や悪事が常に行われている所、と出ています。本当のところはどうでしょうか?
 築地から豊洲への移転問題、豊洲の新市場の地下空間、そして都立広尾病院の移転にからむ話(病院長は移転を望んでいないのに)、東京オリンピックの費用の件など、なにやら次から次へと出てきそうです。そもそも豊洲の地下の盛り土の話にしても、専門家の委員会では盛り土をすることが決まっていながらどこかでその決定事項が覆ったのは間違いないのであって、その委員会の決定事項を覆すのはそれなりのポジションの人でなければありえない話だと思うのですがどうでしょうか。市場長クラスの話ではないでしょう。やっぱり都庁は伏魔殿かもしれません。  
 10月の初め、以前の職場の同窓の人たちと会って話す機会がありました。私の所属する岡山大学第一外科の同門会の前日に毎年行っている会ですが、そこで「先生は今、なにをされているのですか?」と聞かれたので、「朝は6時半には病院に行ってmailのチェックとヒヤリハットの報告を読んで、カンファレンスに出て、、、、」、「外来は週に一回しているけど診ている患者さんは数人で、、、」、「会議がそこそこあって、、、」などと話すと、「えっ、ヒヤリハットにまで目を通しているんですか?」、「カンファレンスもまだ出ているんですか?」などと驚かれました。「管理者はそこまでしなくてもいいんじゃないですか」とも言われました。私の仕事は福山市民病院という組織体に属するヒトやモノなど、多くの医療資源を効果的に使って市民に高度な医療を安全に提供し、地域の医療機関とも効果的な連携を行って、この地域全体に安心と安全を確保する一翼を担うことであり、たとえば「ヒヤリハット」に目を通し、安全な医療を推進するためにいろいろと意見を言うことはそれに役立てることだと信じています。だいたい組織のトップにいる人が「それは知りませんでした」ということはあってはならないことで、私の目と耳、頭の中を通らずに物事が進んでいっては、この病院が伏魔殿になってしまうと思っています。  
 王道という言葉があります。正義の道です。覇道という言葉もあります。覇道は恣意的な道で、為にする道だと思っています。覇道には邪心が見えますが、王道は澄んでいます。王道は大義ですが覇道は私心です。私は常々外科の仲間や病院の人たちには「王道を行こう」と言っています。王道とは市民のためにあるものでわたくしのものではありません。このコラムのNo95に書きましたが、京セラの稲盛さんはなにか事を始める際には「動機善なりや私心なかりしか」と自問し、私心のないことを確認して事を始められたそうです。  
 伏魔殿などには「王道」はかけらも存在していないでしょう。東京都に暮らす人、市場を仕事場にしている人、会議に加わった専門家の人たち、彼らが哀れです。この福山市民病院にはどこを探しても伏魔殿などありません。これからも職員一同、地域のために尽くしていきたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.127 越中富山

2016年11月01日

  子どもの頃の記憶では越中富山と言えば、まずは「薬」であったように覚えています。もちろん、当時も立山はずっと美しい姿を見せていたでしょうし、五箇山の合掌作りの家屋も同じようにあったと思いますが、今と違って昔は映像のあふれた時代ではなく、私の家には立山の写真はありませんでした。そしてまた、かつては五箇山風の家屋はこの国には結構あちこちで見られたのではないかと思っています(間違っていたらすみません)。しかし「薬」は違います。富山からおじさんが薬の入った荷物を担いで家々を回っていたのです。いつごろまでこの薬の行商が行われていたのか全く覚えていませんが、一年に2回ほど、薬のおじさんが家に来ると、母が薬箱を押し入れから出してきておじさんに渡し、おじさんは母とあれこれ世間話をしながら、少なくなっている薬の補充をしていました。保育園の頃は何をしているのかわかりませんでしたが、小学生くらいになると、この薬箱にはいろいろな薬が入っていて、薬の定数が決まっていて、それを補充に来るのだということがわかりました。使った分だけ薬代を払うのです。こんな商売が成り立つのは素晴らしいことだと思います。  
 黒部ダムが完成したのは私が高校生の頃でよく覚えていますが、行ってみたいという気にはなりませんでした。富山は少し交通の便が悪いことも原因だったのかもしれません。そして月日が流れ、大学を卒業し何年も経ったころ富山で消化器外科学会が開催され、その時初めて富山に行きました。富山の駅周りには高いビルはなく、学会規模のわりに宿泊施設が当時はなかったのかホテルが取れず、駅前近くの登山に来た人が泊まるような素泊まり旅館に泊まりました。ただ、立山は立派でした。  
 そしてまた十数年月日が流れ、何年か前にNHKの番組で「越中おわら風の盆」を知りました。まず、胡弓の哀調のある音に胸が熱くなり、独特のテンポの三味線の響き、そして編み笠を被った踊り手の「さま」に心が奪われてしまいました。阿波踊りや今風の「よさこい」などの激しい踊りではなく、むしろスローテンポの踊りですが指の先まで美しく、これが淡い光の中で繰り広げられるのです。テレビの画面でしか見たことはありませんが、「幽玄の情景」とはまさにこれかと思いました。この、おわらが富山県なのです。  
 そしてこのたび、自治体病院の学会があり、2回目の富山に行ってきました。風の盆は9月の初めなので見ることはできませんでしたが(といっても、9月の初めに来たからと言って簡単には見られないと思います)、富山の街をゆっくり見ることができました。富山は公共交通を整備しコンパクトな街づくりに取り組んでいて、街中をこじゃれた電車が走っていました。また、富山駅の北側には運河も整備され、街の雰囲気が何となく北欧風でした。いずれにしても20年ほど前に来た時に比べ随分垢ぬけた街になっていてびっくりしました。  
 このたびの自治体病院学会では当院からの演題も6題あり、みんな立派な発表をしてくれました。また個人的には、昔からの知人(富山市民病院勤務)と酒を酌み交わすこともでき、さらに市立砺波総合病院のI院長先生とお話をする機会があり楽しい時間を過ごすことができました。I院長先生はこの「管理者室より」を「毎回読んでいます」と言ってくださり、スマートフォンにショートカットまで作っておられました。下手なことは書けないなと思うと同時に人のつながりに限りはないことを感じました。  
 NHKの「越中おわら風の盆」はビデオに残しています。果たして生きている間に実際の「風の盆」を観ることができるかどうか分かりませんが、富山の知人には酒の肴にさりげなく、「風の盆」への私の想いだけは伝えておきました。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.126 第一外科と第二外科

2016年10月14日

 さて、この第一外科、第二外科とはなんでしょうか?医療関係の方ならもちろん分かると思いますが、医療とは関係のない一般の人には分からないかも知れません。消化器外科、心臓血管外科、呼吸器外科など、扱う臓器が冠についていると分かりやすいと思いますが、確かにこの第一、第二というナンバーは何だろうと思われるのが当たり前だと思います。  私が外科医になった頃は岡山大学の外科には第一外科と第二外科がありました。私は第一外科に入った(入局と言います)わけですが、第一、第二の違い、成り立ちなどは知りませんでした。何となく第一外科は消化器をメインで行い、第二外科は心臓血管や胸部をメインにしているのだとは思っていましたが、第一外科でも胸部を、第二外科でも消化器の手術をされていて、学生の頃には直腸がんの講義はなんと第二外科の先生から受けました。また、心臓血管外科ですら、大学では第一外科ではやっていませんでしたが、榊原病院、広島市民病院などの第一外科の関連病院では第一外科出身の先生たちが心臓血管の手術をされておられました。たとえばある患者さんが「胃がん」と診断されて大学病院を紹介される場合、果たしてどちらの外科に紹介されるのでしょうか?いろいろなケースがあるのでしょうが、おそらく紹介される先生と「関わりの深い方の外科」、あるいは「知人のいる方の外科」などに紹介されていたのだと思います。  
 このような第一外科、第二外科などという外科のことをナンバー外科と言うのですが、概ね同じような外科をやっているのでライバル心が強く、お互いが切磋琢磨して業績が上がることもあるとは思いますが、相手が何をやっているのか分からないまま、悪口を言い合っていたこともあるかもしれません。また、関東のG大学のように、医療事故が一方の外科で起きていてもよくわからないという状況も確かにあるのかも、と思ったりしています。そしてまた、このナンバー外科制度はなによりも患者さんに分かりにくいし、二つの外科で同じようなことをやっていたのでは資源の分散にもなります。このようなことから各大学で臓器別の診療体制や研究体制の再編が進んでいて、岡山大学でも診療の方は、消化管外科、肝胆膵外科、呼吸器外科、乳腺内分泌外科、心臓血管外科、小児外科などとなり、例えば旧第一外科出身の医師と旧第二外科出身の医師が消化管の診療を一緒にしていて随分分かりやすくなったと思います。関連病院もこれまでは第一外科の関連病院、第二外科の関連病院などがあり、例えば私の勤務しているこの当院は第一外科の関連病院であったので、これまでは呼吸器外科の医師が辞めれば第一外科の教授に面会して代わりの医師の派遣を依頼したのですが、今は呼吸器外科(旧第二外科)の教授にお願いするという具合になりました。  
 そして、もうひとつ。従来はそれぞれの外科に入局した場合、同門会という組織に所属していたのですが、これを止めようということになり、平成22年以降に大学を卒業し、大学や大学の関連病院で研修をした人は岡山大学外科同窓会という組織に所属することになりました。これは画期的なことで、平成21年までは第一外科あるいは第二外科に入局した人がいるわけですが、何十年か経過し、この人たちがいなくなれば同門会という組織は歴史の上では存在しても実際には消滅することになります。これまで、これらのナンバー外科は100年近い伝統があり、地域の外科医療や外科学の発展に大きな貢献をしてきたと思いますが、ニーズに応じて変わっていくことも必要であり、先輩達も分かってくださるのではないかと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.125 ある研修会

2016年09月30日

 先日、緩和ケアの研修会に出席しました。土曜日の10時から18時45分まで、そして日曜は8時半から16時までの研修で、昼食の50分間ほどを除いてびっしりの研修でした。「緩和の研修はびっしりだ ということは知っていましたが、やっぱりその通りでした。  
 がんはこの国の死因の第一位であることから、国はがん対策基本法を定め、がん治療の均てん化、どこに住んでいても安心ながん医療をうたい、検診受診率の改善、がん治療成績の改善、喫煙対策などを進めていますが、その一環として、がん治療に関わる医師は「緩和ケア研修を受講すること」を義務付けています。私はもうがん医療からは身を引いていると言ってもいいのですが、わずかに見ている外来患者さんの中にはがんで手術をした人も含まれていることもあって、今回受講することを決めました。  
 緩和ケアという概念は米国や英国で1950年代頃に始まったようで、当時は「ターミナルケア と言われていて、人が死に向かっていく過程を理解して、医療のみではなく人間的な対応をすることを目指したようです。その後、「ホスピスケア というような言い方(今もあるとは思いますが)をしたこともありましたが、今はほぼ緩和ケアという言い方になり、WHOでは「緩和ケアとは、生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処(治療・処置)を行うことによって、苦しみを予防し、和らげることでクオリティ・オブ・ライフを改善するアプローチである」と定義されています。今から10年ほど前にはがんの患者さんにはまずは手術や抗がん剤などの抗がん、あるいは制がんのアプローチを行い、再発や増悪などが出てきて手が尽くせなくなったら緩和ケアを、という考えだったのですが、再発がある、ないなどにはかかわらず、がんの症状緩和、心理的援助など、あらゆるアプローチを診断時点から開始するようになってきています。  
 今回の研修会には心臓血管外科の先生や神経内科の先生など、あまりがんとは縁のなさそうな先生方も参加されておられましたが、緩和ケアとは決してがん患者さんのみならず心不全患者さんなどにもその適応範囲が拡がってきているようです。
 この研修会は座学もあることはありますが、多くの時間がロールプレイに充てられています。例えば今回は、「肺転移や肝転移がありそうな50歳代の胃がん患者さんが外来に紹介されてきた。この患者さんに対して精密検査を行ったが確かに遠隔転移があって根治不能である。この患者さんには奥さんと、高校生、中学生の子どもがいて、家のローンも残っている。田舎には年老いた両親がいる」、こんな「悪いニュースを伝える」設定で3人一組になって、患者役(本気になってなりきってくださいと言われました)、医師役、観察役(講評をしないといけません)を務めなければなりません。また、「がん末期の患者さんの希望で自宅に帰したいのだが、どのような社会資源を使ってケアをするのがいいのか、自宅でと言っても奥さんは数年前に亡くなっているし、長男さん夫婦は共働きだし、同じ市内に住む娘さんは長男さんの家には行きづらいと言っているし」、などという設定です。本当にありがちな設定ですが、ここでは7人程度の小グループに分かれて議論し、最後にグループの意見をまとめて参加者の前で発表します。学会だとうつらうつらすることもしばしばありますが、流石に眠るわけにもいかず休憩のたびに濃い目のコーヒーを口に入れ乗り切りました。今回の研修会は院長や副院長を対象にした研修会で、比較的高齢の人が多かったのですが、皆さん最後まで頑張っておられました。
 たった二日間ですが隣の席に座った方、同じグループになった人などと話す機会がありましたが、私の故郷近くの病院から来られている先生がおられて、その先生が私の高校時代の親友をよく知っていたとか、「福山から来ました」と挨拶をしたら「福山なら○○病院の○○先生を御存じですか」と切り返され、その○○先生には私が大変お世話になっているとか、当院に研修に来ている医師の派遣元の東海地方の病院の院長先生に出会うとか、奇遇がありました。
 最後にひとつ。参加された多くの先生たちが東京で離れて暮らす息子さんや娘さん、あるいは友達との会食の予定を土曜日に入れておられて、土曜日の研修が終わった後、急いで帰っていかれ、みんな一緒だなと感じた次第です。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.124 孫の話

2016年09月14日

 普通、一人の人間には父方、母方それぞれに祖父母がいるので、記憶できるころまでに亡くなったりしていなければ、4人の祖父母と顔を合わせることになりますが、実は私は父方の祖母しか知りません。
 父方の祖父は私が生まれる少し前に亡くなりました。手術不能の直腸がんだったそうですから、肝臓へ転移があった、おなかの中にがんが散っていた(腹膜播種)、遠隔臓器に転移はなかったが、局所が進みすぎていてとても取れるようなものではなかった、のどれかだったのでしょう。京都府立医大で人工肛門だけ造ってもらったそうですが、亡くなったのは50歳になる前だったと聞きました。今のような人工肛門の装具もなく毎日の管理も大変だったと思いますし、腫瘍は取れずに残っているので痛みも強く、また、出血などもあって随分苦しんだのではないかと想像しています。母方の祖母も私が生まれる前に亡くなっているのですがこちらについては詳細を聞いていません。母方の祖父は、私の両親の結婚式の前日に、近隣の人たちが祝ってくれたお祝いの品などを帳簿につけている最中に意識がなくなり亡くなったようで、脳卒中か心筋梗塞かのどちらかだったのではないかと思いますが、母にしてみれば結婚式は悲しいだけの式だったのではないかと思います。私の4人の祖父母のうち、私が知っている父の母は家業である農業に従事していましたが、とにかくよく働く人でした。朝暗いうちから夜も暗くなるまで、いよいよ腰が曲がってしまって田畑に出ていけなくなるまで、たぶん70年以上頑張っていたのだと思います。普通、「おばあさん」であれば、可愛がられた記憶があってもいいのですが、私には「おばあさん」に褒められたり、何かをもらったり、やさしい言葉をかけてもらった記憶がありません。この祖母は他家から嫁に来た人ではなく、家付きの女性で婿取りだったこと、自分の亭主が早くに亡くなったこと、息子である私の父は農業を継がずに教師になったこと、などもあり、「自分が家業である農業を守らなければ」という思いが強く、仕事のこと以外は頭になかったのではないかと思っています。  
 そういう私にも、昨年の12月に3人目の孫ができました。一番大きな孫は小学生なので、私がいつ倒れても覚えていてくれると思います。もう一人は4歳ですが、これはどうでしょうか?日ごろ一緒に住んではいませんが、もう覚えてくれているかもしれません。それにしても確かに孫は可愛いです。自分の子どもたちへの対応と今の孫たちに対する態度は明らかに違います。子どもは目に入れたら痛いと思いますが、孫は確かに痛くないのです。何故でしょうか?責任をそれほど感じなくていいので気が楽だから、とか、若い時は忙しくて子どもに構っていられないから、とかいろいろ言われていますし、私の場合は世間に対する照れがあって、子どもにあまりにベトベトするのは男らしくない、などと思っていたような記憶があります。  
 別に孫たちに祖父である私のことを覚えておいてほしいとは思っていませんが、この子たちがどんな風に成長していくのか、どんな大人になっていくのか見てみたいとは思っています。しかし、今の私の年齢を考えると大人になるまで生きていられるとは思えないので、せいぜい、どんな中学生、小学生になるのかくらいを楽しみにして、彼らを見守りたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.123 オリンピックの感動-2-

 No22にオリンピックの感動という文章を載せています。4年前のロンドン・オリンピックが終わって間もなく書いた文章ですが、早いものでもうあれから4年が過ぎました。今回のリオ・オリンピックでもたくさんの競技で多くの感動を覚えました。ブラジルはちょうど日本の真裏にある国で時差が12時間あります。日本がこの時間だからブラジルでは何時だ、と計算は確かにしやすかったのですが、普通はいつも夜の9時から10時の間に寝ている私にとっては、そんな時間に寝るわけにもいかず、結構寝不足の日が続きました。  
 個人的には競技の後半のハイライトは何と言ってもテニスの錦織選手の活躍で、96年ぶりのメダル獲得には大きな感動を覚えました。メダルの色は銅メダルであっても大きな価値があると思いました。それほど大きくない体格でありながら世界のトッププロとして活躍しているのに感嘆しますし、何といっても島根県という本当に日本のローカルな地に生まれた錦織少年が志を立て、親元を離れ米国に渡り、おそらく想像もできないような苦労や挫折もあった中で、プレーヤーとして今の地位を獲得しているその「さま」を、私は「日本人の誇り」と思っています。それはあたかも、自信を失った日本人に対して「やればできるという確信」、「復興への希望」などを与えてくれた「フジヤマのとびうお」の古橋廣之進さんにだぶって見えてしまいます。今回の錦織選手の準々決勝はフランスのモンフィスに3度のマッチポイントを握られながらの大逆転劇でしたが、その映像をリアルタイムで見られ、フィクションでは味わえない醍醐味を存分に感じることができました。  
 リオ・オリンピックでは日本勢の金メダル獲得数は12個であり前回のロンドンの7個と比べ大幅に増えました。メダルの総数は41個で過去最多のようです。金メダルを獲った選手たちはもちろん素晴らしいと思いますし、金メダルに届かなかった選手たち、またメダルを獲れなかった選手たちの姿にも感動を覚えました。高橋・松友ペアや女子バトミントンの大逆転メダル、100m×4リレーの「和」と「適材適所」で勝ち取った素晴らしいメダル、その他、競泳、体操、卓球、ラグビー、シンクロ、重量挙げなどなど、選手たちの多くは子どもの頃から自分の才能を練磨することに専念し、楽な道より辛い道を選択し、ひたすらストイックに競技を続けてきたわけです。メダルを獲った、逃したはあくまで結果であって、私はそれほど大きいことだとは思っていません。むろん、結果は大切だとは思いますが、そこに至る過程、そしてオリンピックという大きな舞台で持てる力を発揮すれば、たとえ予選で敗れたとしても美しく見えるのではないかと思っています。そしてまた、参加した選手の数だけ、あるいは関わった人の数だけ、甲乙などつけられない感動の物語がきっとあるに違いないと思っています。  
 いよいよ4年後には東京にオリンピックがやってきます。この前、この国でオリンピックが開かれたのは、私が高校2年生の秋でした。東洋の魔女がソ連を破った試合を修学旅行先の九州の旅館で友人達と見て随分興奮したのを覚えています。もちろん、私には2020年の次の日本でのオリンピックはありませんので、元気であれば、この眼で美しく戦う選手の生の姿を見てみたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.122 2025年と診療報酬

2016年08月17日

 この国の医療は保険診療が基本で、国民皆保険と言われている優れた制度のもとで成り立っています。一般的には病院で診療してもらった場合は多くの人がかかった医療費の1~3割を自己負担しますが、残りは国民の税金や保険料で支払われることになっています。医療費が高額になった場合は、所得などに応じて支払額の上限が決められていて、いったん医療費を支払っても返金される「高額療養費制度」という制度があります。この制度を利用すればいくら高額になっても、誰でも月に3 5000円~25万円くらい支払えば保険適応範囲の治療を受けられるということです。  
 国民皆保険制度はたしかに優れた制度であることは間違いないのですが、いろいろな課題もあります。国民医療費は40兆円を超え、国の借金はついに1000兆円を超えました。これから団塊の世代が後期高齢者となり、多死・多病社会を迎えます。これまでの高齢者は病院に何度も入ることなく亡くなっていたのに、今の、あるいはこれからの高齢者は病気をしても治療をするといったんは元気になり、またしばらくして病気になるという、病院と自宅、あるいは病院と施設を循環するような時代になると思います。となると、当然医療費はさらに増え続け、最終的には国の財政が破綻してしまいます。そうなってはいけないので、国は団塊の世代が後期高齢者となる2025年(平成37年)を見据えて、医療改革を行おうとしています。その一つが医療機関の機能分化です。つまり、同じ地域の病院が同じような医療を行うのではなく、症状が出るとまずかかる「かかりつけ」の医療、そこから紹介を受けて手術などを行う急性期の医療、そしてリハビリなどの回復期の医療、医療は必要ないが介護が必要なら在宅か介護施設など、病気の「ある時期 を一つの病院が担当して、その時期をクリアしたら次の時期の病院、あるいは施設へお願いするという「地域完結型医療」を確立させようとしています。実は患者さんのサイドから見ればこれは実に不親切なシステムだとも思えます。福山から目的地の東京に行くのに直通の「のぞみ」に乗らずに、新大阪まで「さくら」で行って、新大阪でわざわざ乗り換えをするようなものです。なぜ、最初から最後まで診てくれないのだ、という気持ちになるのがたぶん普通だと思います。ただ、たとえば急性期の医療を行おうとするとどうしても人やモノを投資しないといけなくなり、資源の集中をしたほうが効率的であるのは事実だと思います。さらに2025年を見据えての医療改革の二つ目は地域包括ケアですが、これも無駄な(と思える)医療費を抑えるためには必要だと思います。これからの診療報酬改定で国はこの二つの流れを確実にするためのさまざまな手を打ってくるのは間違いありません。  
 余談ですが、今年の診療報酬改定で500床以上の地域医療支援病院を受診する際、紹介状を持ってくるされない場合には初診料を一律5,000円、余分に取られるようになりました。紹介状を持って来られた初診の人は2,820円で、初診料も含めて最終的にはかかった医療費には保険が効きますが、紹介状を持たない人はこの保険の効く2,820円に加えて余分に5,000円以上(当院は5,000円)がかかるということです。ただし当院の場合は例外規程があって、入院が必要な場合や病院の他の診療科を受診している場合、また、公費負担医療を受給されている人などからは聴き取るしません。しかし、この制度も患者さん目線からすると少し疑問で、どこの病院に行っても初診料は同じであるのが普通ではないかと思っておられるのではないでしょうか。  
 私は医療費については少し急進的な考えを持っています。まだ大きな声では言えませんが、結論から言えば「ピンピン、コロリ」が一番安上がりだと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.121 ウォーキング

2016年08月01日

 私の個人的なウォーキングブームはたいてい寒い時期に始まり暑くなると終わっていて1年にわたって続くということがありませんでした。実は私は20年以上前から同級生が胃がんの手術を受けたことがきっかけで正月休みの前後に検診をしています。内容は腫瘍マーカーや一般の採血検査、胸部CT、胃内視鏡検査を毎年、大腸内視鏡検査を2年に1回です。この採血検査の項目にヘモグロビンA1cという糖尿病の検査もあって、これが以前から境界域で、そのほかメタボ的体型ということもあり、この検診の結果を見て「生活習慣を改善しなきゃ!」と話が進んでいくわけです。カロリー(熱)などの「出」ばかり考えて「入り」をコントロールしようとしないところが私のダメなところですが、なんとか「おいしいものは食べる」という楽しみは残し、これで上手くいかないかと考えているわけです。そんなわけでだいたい正月明けの寒い時期に「プチ一念発起」してウォーキングを始めるのですが、暑くなってくると「熱中症も怖いし」などと考えてしまい、知らない間に歩くのを止めることを繰り返していました。私は実績がないので言えたものではないのですが、私の弟は晩ごはんを食べた後、1時間ほど経ってから約1時間歩くことをはじめ、80kgほどあった体重を70kgまで落としました。たいしたものだと感心して話を何度か聞きました。兄弟だから弟にできることは兄貴にも出来るはずだと何度も思いましたが、どうも弟の方が人間が上等に出来ているようです。  
 万歩計もこれまで何個か買いました。「家の中を探せば出てくるんじゃないの」と家内からは呆れられましたが、今年も買ってしまいました。ヘモグロビンA1cはまあまあだったのですが、あまり変化のなかった体重が増えてきて、おなかが満月のように飛び出てきたのでさすがに危機感を覚え、今年の初めから歩くことにしました。毎日歩きたいのですが、雨の日は歩けませんし、あまりに夜遅くも危ないので歩けませんが、歩く人が身につけるような点滅グッズや蛍光たすき、運動靴なども購入しました。
 さて、いつ歩くかです。寒い間は日中の昼休み、昼間歩けないときは夜、借家の近辺、目標は一万歩です。5月までは山の上に住んでいたので交通量が少なく夜も安全に歩けていましたが、5月からは平地の、割に住宅の多い地域に引っ越してきたので車も多く、夜の歩きが危なくなりました。昼の間の休憩時間に歩くということも暑くなってくると難しくなってきます。ということで、6月からは朝早い時間に歩くことにしました。4時半ごろから1時間ほど歩くのですが、ちょうどいいところにウォーキングコースとしてはうってつけの池があってこの周りを歩いています。大体私と同じ程度の年齢の人たちが何人も歩いていますが、「おはようございます」と声を掛け合うのも気持ちがいいものです。まだこの人たちと世間話するほどの馴染みではないのですが、そのうち池のほとりのベンチに腰をかけて話をしだすのではないかなと思ったりもしています。
 ちなみに私の次男も1年ほど前は肥満気味でしたが、彼はスポーツジムに通って10数キロ体重を落としました。それを見て娘が同じジムに通い出しましたが、こちらのほうはまだ効果が出ていません。上手く減量出来ていない私と娘の共通点を探ってみると、やっぱり食べることが好きで、「入れる方」が節制できていません。運動の後のビールも美味しいし食事も美味しいのでつい食べ過ぎてしまって、「明日は気をつけよう」と毎日思っています。これではいつまでたっても目標の70kgは難しいかもしれません。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.120 再び福山―市制施行100周年―

2016年07月15日

 昨年6月、No93に「福山というまち」と題してこのまちのことを書きました。福山は備後のまちであり、備前、備中などもひっくるめると吉備の国ということになるので、この地に暮らす人たちは実は岡山県にシンパシーを感じているのではないか?江戸期以来、福山には親藩の有力大名が配置され西国の外様大名を監視していた?こともあり、明治政府からは冷たい仕打ちを浴びて、明治9年に小田県(県庁は現岡山県笠岡市)から広島県に編入されたことなどを書きました。実は、そんな福山市は今年が市制施行100年の節目の年で、つい先日(7月1日)その記念式典が行われましたので、もう少し福山について書きたいと思います。  
 福山市は大正5年(1916年)7月1日に広島県内では広島市、尾道市、呉市に次いで4番目の市として誕生しました。当時の人口は32,356人だったそうです。もちろんその後、周辺の市町と合併も行いながらですが、日本鋼管福山製鉄所などの進出もあり、現在の人口は約47万人で中国地方では4番目に人口の多いまちになりました。人口の多さがまちの豊かさを表すものではないと思いますが、財政も健全で社会福祉・医療など、このまちに暮らす人たちの安心と安全も比較的確保されていると思います。そのこともあってか福山市の合計特殊出生率は1月7日を超え中核市の中では最も高い値であるようです。  
 福山市では昨年から今年にかけて100周年記念事業が数多く行われ、まちは盛り上がっています。福山は周辺の倉敷市や尾道市にくらべ知名度が低く、なんとか福山ブランドを確立しなければと多くの市民が思っているようですが、私は福山市は認知もされているし、活力のある住みやすいまちだと思っています。そしてまた、これからの社会はこれまでのように人口がどんどん増え、それに合わせていろいろな施設が整備され、まちが賑わうのではなく、地域の中での拠点化、コンパクト化が進み、ものの豊かさを求めるのではなく、時の刻みを実感できる心の豊かさを楽しむ時代になるのではないかと思っています。残念ながら過疎のまちでは穏やかな生活は送れるとしても社会的な共通基盤の整備が十分でなく、多くの不便を感じることもあるかと思いますが、現在の福山市であれば、さらに住みやすいまちにこれから変わっていくことができると思っています。  
 このたびの100周年のさまざまな事業を見たり、新聞に書かれているこのまちの歩みを読んだりすると、私自身の福山市との関わりは16年間ほどで決して長くはないですが、郷土愛に似たような感覚も湧いてきました。外科医としてあるいは臨床医として私を育ててくれたまち、結婚して最初に家内と暮らしたまち、長男が生まれたまち、多くの出会いを今も作ってくれているまち、感謝しかない思いでいます。羽田福山市長は100周年の式典で、「地球の誕生から今に至る、後年福山という地名になったこの地の歴史に感動をしよう、このまちを築いてきた多くの先人に感謝しよう、そしてその感動や感謝を次の世代に正しく伝えて、夢と希望のあふれるまちを創っていこう」と挨拶をされました。このあとの100年、このまちはどんなまちになっているのでしょうか。見ることは叶いませんが、このまちで暮らす人たちが、平和で、豊かに、楽しく、笑顔で暮らしていることを心から念願しています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.119 米国大統領の広島訪問

2016年06月30日

 オバマ米国大統領が5月27日、広島を訪問しました。現職の米国大統領が被爆地を訪問するのはもちろん初めてのことで私も大きな感慨を覚えました。平和公園は広島に少しでも関わりのある人にとっては特別の場所で、私も広島に住んでいたころは何回か平和式典にも参加し、8月6日は必ず意識をしなければならない日でした。今回オバマさんはサミットで日本に来られたわけですが、本筋である伊勢・志摩サミットの中身よりもオバマさんの「広島訪問あれこれ」の方が報道されることが多く、日頃は報道番組などを見ることがない私の娘や息子までが大きな関心を持っていたようで、二人とも本当なのかどうか「感動した!」、「涙が出そうになった!」などと言っていました。  
 オバマ大統領は17分間のスピーチを原爆慰霊碑の前で行いました。当然謝罪をするわけはないのであって、私自身「戦争は何でもアリ」だと思っていますし、やむを得ない戦争であったのだと言っても、あるいは逃げ道を塞がれたので戦争するしかなかったのだと言っても、戦争を仕掛けたのは紛れもなくこの国であり、ハル国務長官の通告を受け入れて、1941年の12月8日に真珠湾を奇襲していなければ、広島や長崎に原爆は落ちてはいないのです。
 戦争は人を狂気にさせ、正常な判断力を奪ってしまうのでしょう。やられたらやり返す、当たり前の理屈だと思えます。米国では、原爆を落とさなければまだまだ多くの米国兵が本土決戦で亡くなっていたという考えが根強く、これも考え方とすれば私は理解できます。もちろん、だからと言って市民に対して大量殺戮兵器を使っていいとは思いません。ただ、原爆ほど多くの人が一瞬で亡くなるということはないにしても、一般市民への武力行使は原爆投下が初めてではなく、それまでに米軍の日本各地への無差別爆撃もありますし、日本も重慶を爆撃しています。また、欧州でも同じことが行われています。やっぱり戦争は何でもアリなのです。それくらいの覚悟がなければどだい戦争なんて始められないでしょう。
 オバマ大統領は謝罪はしませんでしたが、「道義的な責任」は十二分に感じているので「広島や長崎が、核戦争の夜明けではなく、道義的な目覚めの始まりであるべきだ」とスピーチの中で述べたのだと思います。歴史の判断は後世の歴史家がするもので、当時のトルーマンの決断の適否を現職のオバマさんが論じることはできません。レベルは違いますが、医療事故でも同じようなことがあります。ある事故が起こった時にわれわれは関係者から入念な聞き取りをし、関係者の診断・処置などが正しかったかどうかを判断しますが、われわれの判断は「結果が分かっているうえでの判断」であるところが、事故発生に至る過程(つまり、まだ結果は分かっていない)での判断と大きな違いがあるということです。今考えると日本にはもう大きな戦闘を行う余力はほとんどなく、米軍への打撃などそれほどなかったと言えるかもしれませんが、米国に正しい判断をさせるだけの正確な情報もなく、1945年の時点では、原爆投下の命令を出した当時の米国の最高機関の考えが「それがベスト」、あるいは「それがベター」という結論だったのではないでしょうか。
 いずれにしても、今のわれわれは多くの人の犠牲の上に生きているのであって、そのことを決して忘れず、平和を希求しなければならないと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚 

No.118 梅雨

2016年06月15日

 5月中頃に沖縄が梅雨入りをしたと報道されました。そして6月に入り九州、四国、中国など、そしてつい先日東北地方が梅雨入りし、これで北海道を除き各地域が梅雨に入りました。梅雨が来ないという北海道に居住していれば別ですが、毎年やってくるこの梅雨、皆さんはどう思っておられるでしょうか?できれば梅雨などない方がいい、そう思っておられる人が多いのではないかと思います。確かに梅雨のない地域はカラッとしていて住むには快適な感じもします。  
 私も梅雨は好きではありませんが、季節は巡らなければいけないものなので、この国に住んでいる以上は仕方がないと思っています。特に子供の頃は一番の楽しみであった夏休みを迎えるためにはこの梅雨の時期は我慢をして、少々外では遊べなくてもやり過ごさなくてはいけないものだと思っていました。7月に入れば暑さも増して蒸し暑くなってきます。今のように冷房などはない時代だったので授業中にも汗がだらだら出てきました。中学生の頃は部活でバスケをやっていましたが、「練習中に水は飲んではならない」が当たり前の時代であったので結構きつかった記憶があります。私のクレアチニンが少し高めなのはこの中学時代が原因かもしれません。それはさておき、要は梅雨の雨はだらだら続くというイメージがあって、何回か楽しみの行事を流された記憶や「室外では遊べない季節」ということがあって好きになれないのではないかと思っています。  
 しかし、以前にもこのコーナーに書いたことがありますが、雨音を聞くのは好きです。たとえば寝床の中とか湯船に浸かりながら静かに聞く雨音は心が落ち着きます。たぶん私にとって雨音はhealing soundsになっているのだと思います。この雨音の音はするかしない程度がよく、ザーザーという音ではちょっと情緒不足です。梅雨の雨は西日本と東日本とでは少し違うと聞いたことがあります。西日本の雨はそれこそザーザーで東日本の梅雨時の雨はしとしと、だそうです。東日本には住んだことがないのでわかりませんが私の好みでいえば断然東日本ということになります。  
 梅雨は長雨、と連想するのが普通だと思いますが、空梅雨ということもあります。要は雨が降らないのです。特に東北地方で空梅雨になる確率が高いそうですが、そうなると梅雨だというのに雨乞いをしないといけなくなります。私は生まれてこの方、「雪よ降れ」と念じたことはありますが「雨よ降れ」と念じたことはありません。遠足や運動会の前にはテルテル坊主を作り軒下にぶら下げたこともあります。願いが通じたかどうかは忘れましたが、いまなら気象衛星からのデータで天気予報はほぼ外れることはありません。今頃の子供はNet検索をして情報を仕入れているのでしょうか。昔の子供たちがテルテル坊主の威力をまともに信じていたかどうかは別にして、私たちが子供の頃は、空を見上げて、夕焼けかどうか、お月さまが傘を被っているかどうかを見て、明日の天気を想像するのが関の山でした。今の子供たちに笑われるかもしれませんが、それはそれでいい時代だったと思っています。何もかも分かってしまっては面白くはありません。明日が分からないから生きていくのが楽しみだし夢も持てると思っています。  
 最近のこの時期には温暖化の影響からか毎年豪雨による災害が起こっています。自分が被災しなければ真剣になって考えられない、たぶん人の習性だと思いますが、緑の環境を守ることや二酸化炭素などの温室効果ガスの抑制などに一人ひとりが真剣に取り組まなければいけないでしょう。出来ることからというのであれば、私はさしあたり徒歩での通勤を考えたいですが、この梅雨の時期は???実に意志が弱い私であります。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.117 引っ越し

2016年05月31日

 5月の中頃、引っ越しをしました。これまでは先輩の両親が住んでおられた大きな一軒家を借りていましたが、いろいろな事情で1Ldkのコーポに引っ越しました。住むというのは生活をするということと同義であると思うので、食事も作らず、ただ寝るだけのところというのは「住んでいる」とはやや言い難く気が引ける感じもしていますが、ちょうどコーポあたりが私が寝泊りをするにはいいのではないかと思い、そんなところを探しました。  
 世の中に全く引っ越しの経験などない人もいるかもしれませんが、そんな人はきっと稀で、多くの人は人生に何回かの引っ越しを経験していると思います。私も京都、岡山、倉敷、福山、庄原、広島などへ都合13回も引っ越しをしています。多くは単身赴任での引っ越しですが、果たしてこの回数が多いのか少ないのかは分かりません。このコーナーでも書いた記憶がありますが、引っ越しは楽しみなことも数多くあります。今回の引っ越しは同じ地域の中での引っ越しですので、これまでと違って「歩いて食事に行ける」とか、「歩いて食事に行けるところに代わったので呑める」とかの楽しみしかありませんが、知らない土地への引っ越しは行く前からわくわくしてずいぶん楽しみでした。その土地の風情、人の情を知ることができる、要は全く知らない自然や人と触れ合えるわけです。少し大袈裟ですが、これほど楽しいことがあろうかとさえ思います。当然ながら、引っ越す前には別れがあります。この別れはやはり寂しさがありますが、別れがあってもその土地で知り合った人たちとの縁が切れるわけではないので、新しい土地での多くの出会いの方が断然勝っていると私は思っています。同じ場所にいて未知の人たちと知り合うのと、転勤などをして人と知り合うのではどちらのほうが知り合える人の数が多いでしょうか。おそらく後者でしょう。人は素晴らしいと思います。
 「人は財産」とも言います。組織にとっても人は財産です。病院にとっては「若手を育てることのできる医師」、「技量の優れた医師」、「誰もが知っている有名な医師」、「患者さんを集めることのできる医師」、「病院の方針を理解し協力を惜しまない医師」などは本当に貴重な財産です。そして組織に限らず人にとっても、「自分にないものを持っている人」、「話していて楽しい人」、「この人のために何かをしたいと思わせる人」、「温かい気持ちや穏やかな気持ちにさせてくれる人」などなど、そんな人は自分自身にとっての大きな財産で、私もこれまでそんな人たちに転勤した土地、土地で巡り合うことができました。なかにはその時に付き合っただけで、その後は顔も見ていないという人がいるのも事実ですが、そんな人からの年に一度の年賀状での便りでも懐かしい気持ちになりますし、たとえ音信不通であっても自分を高めてくれた人たちであるのは間違いなく感謝しています。  
 私の引っ越しはたぶんこれが最後になるだろうと思います。いやいや、よく考えるともう一度ありました。冥界への引っ越しですが、出来ればこれはなるべく遅くにしたいと思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.116 連休

2016年05月14日

 「ゴールデンウィーク」が過ぎていきました。この5月の連休を「ゴールデンウィーク」といつ頃から言い始めたのでしょうか?ちょっと調べてみると昭和26年(1951年)頃からで、私より少ししか年下ではありませんでした。以前、大映という映画会社がありましたが、昭和26年の5月の連休の間に盆や正月よりも興行成績をあげた映画があったことから、この連休を「ゴールデンウィーク」と呼ぶようになったそうです。
 小学生や中学生の頃は、まず4月を乗り切ること、そうすると5月には連休があるから、と思って学校に通っていました。今のように、この大型連休にどこかに旅行に行くなどと言うことは私の家では一切ありませんでした。私の周りの家の子供たちも連休に家族で遊びに行くということはなく、おそらく私達はソフトボールに明け暮れていたのだと思います。5月の連休が過ぎると夏休みまでは祭日がなかったので、梅雨空ともあわせ、ややブルーな日が続いていたように記憶しています。  
 大学生の頃は自分の思うままにいつでも大型連休を作ることができたのでこの時代のことはさておき、仕事をするようになってから大型連休は一切なくなってしまいました。勤めていた病院によってその長さは違いましたが、休みは「盆と正月に少しだけ」というのが当たり前でした。特に若い間は毎日仕事です。私はどちらかと言えば仕事に飢えていて、休日には朝から晩まで病院にいて、たまたまでも手術に関わることができたら嬉しくて、「得した、得した」と思っていました。特に外科医は経験が大切です。若い間は手術につくこと、執刀することで力量が上がると思っていました。私は大学を卒業して6年ほど経って、これからは必ず車を運転しなければいけないという状況になってから初めて運転免許を取りました。それまでは、毎日、住まいと病院の短い距離を往復するだけだったので車など全く必要ありませんでした。まあ、「病院の子」といってもいいような生活をしていたと思います。
 私がゴールデンウィーク中に病院へ行かなくて済むようになったのは2000年を過ぎて何年か経ってからです。ちょうどそのころから手術を執刀する機会が減りました。もちろん、病院で何かあれば連絡が入り、出ていかなければならないわけですが、幸いそのようなことは一度あったきりで、そのころから両親も年をとってきていましたし、ゴールデンウィークには田舎に帰り親の顔を見ることが私の年中行事になりました。両親の顔を見ることは私にとって大切なことではありましたが、それよりも子供の頃からあまり変わっていない田舎の風景を見ることが、なによりも仕事を頑張ろうという活力になっていました。しかしそんなゴールデンウィークの過ごし方も両親が2011年に亡くなってからは変わってきました。田舎に帰らず、仕事に行かず、果たして私は何をしてゴールデンウィークを過ごしているのでしょうか?私は父が亡くなってから、父が書くつもりで買っていた三年日記を実家で見つけ、それ以来日記をつけるようになりました。そして最初の3年が過ぎ、昨年から2冊目に入り、今、その2年目です。それらの4年間のゴールデンウィーク中の部分を読み返してみると、家でゴロゴロというわけではないですが、あまり生産的なことをしておらず、どちらかと言えばもったいない時間を過ごしていました。ゴルフの練習、ラウンド、孫の相手、時に読書など、当たり前のことしかしておらず、とても「ゴールデン」とは言えない日々を送っているだけでした。残念ながら、2016年もそうでした。来年こそ本当のゴールデンウィークにしてみたい!と思っていますが、果たしてどうなることでしょうか。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.115 熊本地震

 この国に住んでいる以上、地震や火山の噴火はいつどこで起きても不思議ではないと思っている人が多いとは思います。しかし、それが明日、明後日で、しかも自分の住んでいる地域で起きるとは、みんなあまり思ってはいないのではないでしょうか。「嫌なことは思いたくない」、「起こったら起こった時」と考えている人の方が多いのではないかと思っています。 熊本の地震にはびっくりしました。震度7の激震が前震で、そんな大きな地震の後に本震が来るのだということも初めて知りました。ただ、子供のころから、大きな揺れが起こった後にはもうそれより大きな揺れは来ない、という大人の話には疑問を持っていましたが、実際の経験では大人の人の話の方がこれまでは正しかったのは事実でした。
 熊本には30年以上前に一度だけ行ったことがあります。熊本城が実に立派なお城で、街には緑が多く、岡山に似た街だなと思いました。熊本には旧制の高等学校があったのも岡山と同じで親近感を覚え、熊本の第五高等学校の寮歌、「武夫原頭に草萌えて」なども何かで覚えて歌っていました。熊本の県民性は「肥後もっこす」と言われる「頑固」で表現されることが多いと思いますが、私は独特の朴訥とした熊本弁、ゆっくりとした話し方、語尾を上げて相手の共感を得るような話し方に何とも言えない「ほっこり感」を覚えていました。小学生の頃、まずファンになったプロ野球選手は「打撃の神様」と言われた熊本出身の川上哲治選手で、後年川上さんの話をテレビなどでよく聞くことがありましたが、晩年まで「噛んで聞かせる」熊本訛りがあったように思います。 そんな熊本、そして大分までもが大きな被害に遭っています。特に益城町、南阿蘇など多くの犠牲者が出て痛ましい限りです。2回の大きな地震は夜、暗い間に起っていて、一瞬のうちに停電となり、人々の恐怖は大変なものだったと思います。夜が白んできてから周りの景色を見られた時の驚きも大変大きかっただろうと思います。たとえ避難所であっても揺れの恐怖から屋内に入らず、駐車場の車の中で避難生活をしている人が多いと聞きましたが、そんな人の中に「エコノミークラス症候群」を発症した人も何人かいらっしゃるようです。いつもながら、自然の力の大きさと、われわれ人間の力のなさ、そしてあってはほしくない神の理不尽さを感じてしまいます。しかしわれわれには感情、想う心があります。この地震でもこの国の人ばかりでなく、世界中から多くの想いが九州に届いていると思います。大きな悲しみのある中でも、きっと被災された多くの方々が世界からの想いで、勇気を取り戻されていると信じています。
 私は4月16日の朝早く、病院のほうから「Dmatの派遣要請が入ったので、準備でき次第、熊本赤十字病院に向けて出発します」と報告を受けました。その日のテレビでも「国は自衛隊、警察、消防、医療などで増援体制をとる」と報道されていたので、この4月16日未明の本震の後は派遣要請が来るだろうと思っていました。その後私は、16日の朝の7時くらいだったでしょうか、福山東インターから、九州方面とは違って山陽道を東に向けて岡山方面に走りましたが、その間、赤色灯を点けて西に向かって走る何十台もの警察車両、消防車両、自衛隊の大型の車、そしてDmatの車を目撃しました。そして思わず胸が熱くなり涙がこみ上げてきました。西に向かう車に乗っている人たちは「一刻も早く救助に当たりたい」、「一人でも多くの人を助けたい」、「知人の無事を確認したい」と誰もが思っているはずです。自分のことなど考えている人は一人もいないはずです。私は西には向かいませんでしたが、涙を流しながら、彼らの想いが通じてほしいと心から念じました。そして、おのれより他者を生かす心が当たり前にあるこの国に生まれた幸せも感じました。 被災された人々が一日でも早く元の生活を取り戻されることを祈念してこの短文を閉じさせていただきます。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.114 春の想い

2016年04月15日

 今年も桜の季節がやってきました。このシリーズのNo14に「桜」と題して短文を書いていますが、私は桜の散るさまに何とも言えない「潔さ」を感じていて大好きです。桜は実に美しいです。1年をかけてあの美しさをわれわれに見せてくれるのに、満開から数日もすれば風に吹かれて散っていきます。見る人に別れを言っているのかどうか、散る桜に悔いがあるのかどうか、どうなのでしょうか。桜は美しいがゆえに散り際の潔さが人の感性に響くのだろうと思っています。私も桜のような潔い人生を送りたいと切に思っているのですが。
 ところで今、私の後輩が桜前線と共に桜を巡る旅をしていて、美しい桜花とそれを見て想う気持ちをface bookで届けてくれています。その一節ですが、以前JRバスの運転手をされていた佐藤さんと言われる方が退職後に名古屋から金沢に至る街道に桜を一本ずつ植えられたそうで、その街道を「桜道」というのだそうです。もちろん私は初耳でした。おそらく佐藤さんは私財を使って桜を植えられたのでしょうが、とても真似ができるものではないと感心しました。  
 それはさておき、この春も福山市民病院には100名を超える人たちが仲間に加わってくれました。特に大学の医局人事や役所の人事ではなく、自らの意思で当院を働く場として、あるいはキャリアをスタートさせる場として選んでくれた人たちには感謝するばかりです。私は今年も辞令交付式の際、新しく来られた人たちの前で少し挨拶をさせていただきました。今年は「責任」について話をしました。病院で働く人の多くは医療専門職の人たちですので、その知識や技能を通じて患者さんに貢献するのがまず一番の責任であると思います。ただ、これだけでは福山市民病院で働く者としての責任は果たせていないと日ごろから思っていて、当院で働く者はさらに大きな責任があると考えています。当院は地域の基幹病院であり、保有する医療資源などから、その医療力は地域で最高でなければならないと考えています。医療レベルとその実績、患者さんへの対応(接遇)、心のアメニティ、治療する側、受ける側の満足度、学術活動、研修など、いろいろな指標があると思いますが、当院で働く人たちは、これらの点で圏域をリードしくつもりで働き、結果を出していかなければならないと考えています。それが責任です。私は以前から自分の所属する外科の若い医師に対してこんなことを言っていました。「診療科を選ぶ時、外科を選択するのは手術がしたいからだ。しかし、卒業して10年、20年、30年と手術が出来る医師は限られている。手術がしたくて外科医になったのに、膝が痛い患者さん、腰が痛い患者さんばかり見ている優秀な外科医が世の中にはいっぱいいる。望むとおり手術ができる外科医になれているのなら、手術が出来ずに泣いている外科医のためにも頑張らなければいけない。学術活動もしなければいけない。その想いがなければ即刻辞めるべきだ」と。この想いは今も同じです。  
 私はなんであれ、まず「想う」ことから物事が始まると思っています。想わなければ出来ず、想いは叶わないと思っています。出来るか、出来ないかを悩むのではなく、まず想い、そして行動することが大切だと考えています。
 新しく当院の職員となった皆さんに、「自分を少しでも高めよう」、「人の役に立とう」、「他者に優しくあろう」と想い続けてもらって、そんな新しいパワーで一層素晴らしい病院へとこの病院が進化していければと、窓外の散る桜を眺めながら思っています。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚

No.113 国のかたち、病院のかたち

2016年04月01日

 3月から4月は別れと出会いの季節です。桜が見られるのは嬉しいですが、特に別れは自分自身が当事者であろうとなかろうと、いつも複雑な気持ちになります。
 2月頃だったでしょうか、NHKで「この国のかたち」という番組を放送していました。この番組は司馬遼太郎さんの「この国のかたち」という書物を通して、司馬さん流に「日本人とは?」、「この国とは?」を考えさせる番組でしたが、その中で、現代日本の原型を創ったのは鎌倉武士ではないかと言っていました。武士とは平安末期に地方で田畑を開墾し自作農となり、その土地を「一所懸命」に守るために武装をした農民であり、彼らが「名こそ惜しけれ」の精神で、命をかけて名誉を重んじたのではないか、ということでした。そしてその名誉とは「私のため」にではなく「公のため」にこそあり、日本人は「どう行動すれば公益のためになるか」を第一に考えて生きてきたのでは、と解説していました。東日本大震災の時の整然とした日本人の姿・作法やブラジルのワールドカップの試合後のスタジアムを掃除するさまが海外で称賛されましたが、これこそ「恥ずかしいことはできない」という「名こそ惜しい」の精神であるということでした。
 私の父はその視点から見れば、間違いなく典型的な日本人だと思います。父は「公に尽くせ」とはあえて言わなかったように記憶していますが、私は「恥を知る」ことをかなり徹底的に教え込まれました。この「恥を知る」と「名こそ惜しけれ」は全く同意語であると思っていますが、私は最近、その日本人のこころ根があやしくなってきているように感じています。司馬さんは「無感動体質が怖い」と言っていましたが、まさに全く同感で、心が動かない人が増えてくれば、恐ろしい世の中になるのではないでしょうか。
  病院のかたちはどうでしょうか?もともと医療は尽くすことから始まっています。今でも基本はそうであると思っていますが、医療や看護をする者もそれを受ける人たちも変わってきていると考えています。病院職員でも「名こそ惜しけれ」と思わない人がいるのではないかと残念ながら思う時もあります。患者さんのほうも大きな声でどなり散らし、感謝の「か」の字もおそらく感じていない人もいます。そんな人はきっと、名は惜しくはなく、ご先祖に対して申し訳ないという気持ちもないのでしょう。
 私は、後輩たちによく「感性を磨け」と言います。職業人としての成長を規定するものは感性だと思っています。感性は感動することで磨くことができます。そしてその感動は決して名所旧跡を回ったり、美術館に行ったりして得るものだけではなく、そのあたりにいつもあると思っています。日常生活の中にも感動はあります。自分が気付かなかったことに気づく人、自分に出来ないことができる人、そんな人を見ると私は感動します。初めてみる色合いの花、雲のかたち、赤ちゃんの何気ない表情、なんでもいいのです。その積み重ねが感性を磨くことになり、人は成長していくのではないでしょうか。
 病院は特殊な職場です。しかし、長く病院で仕事をしていると、日常では当たり前ではないこと(たとえば人が病気になり、手術をしたり、時には命がなくなるということ)が、だんだんと当たり前になっていくのです。おなかが痛くなったり、気分が悪くなれば「診てもらいたい」と思うのは当たり前だと思いますが、医師によっては「それくらいでは救急で診る必要はないよ」と思う人もいます。でもそんな医師も医師になりたての頃は「何かあるかも?」、「見落としたら大変だ」とそれこそ「一所懸命」に診ていたと思います。そんな医師になったころの「恐れの気持ち」、「謙虚な気持ち」が私は大切だと医師になって40年以上たった今でも思っています。患者さんも、「救急だから夜中だろうが朝方だろうが診てくれるのが当たり前」と思っている人がいるのではないかと思いますが、それも問題で、そんな考えが多くの病院の「救急医療」をぶち壊した原因になっています。「思いやり」と「感謝」、そして「名こそ惜しけれ」、こんなアナログ的な考えが国にも病院にも必要ではないでしょうか。

福山市 病院事業管理者 高倉範尚


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