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管理者室より 2014年度以前

No.88 友を送る

2015年03月13日

 早いものでもう3月も半ばとなりました。確かに日差しも真冬に比べれば暖かさを感じますが、先日も雪が舞い散っていました。もう少しの我慢でしょうか。

 本来は「外科医」シリーズを完結まで続けるつもりだったのですが、どうしても書かなければいけないことがあり、この一文をシリーズの間に入れさせて頂くことにしました。
 私は小学生の頃から3月という月には寂しさを感じていました。友との別れがあるからです。  
 この3月も多くの送別会、退官記念会などに出席をしましたが、今年は特に30数年来の友を送ることになり、私にとっては特別な3月となりました。その友とは私が勤務する福山市民病院のK副院長です。先生とは大学の研究室時代からの付き合いで多くの思い出があります。先生は研修医時代は決して症例に恵まれた病院を回ったとは言えないと私は思っていますが、その病院で当時は特殊であった膵臓の内視鏡検査のこの国の第一人者に出会ったことでがん研病院へ国内留学し、視野が世界へと拡がったのではないかと想像しています。研究室時代、ヨーロッパで開催された学会に一緒に行きましたが、先生はホテルに着くなり赤いリュックを背負って市内の病院へと飛び出て行きました。そして、アポなしで病院を見て回り、「変なアッぺのオペをしていましたよ」と目を細めて教えてくれました。オペ室にまで侵入したのです。言葉が通じようが通じまいが多分お構いなしだったと思いますが、そんな積極的な「見聞」がいつの間にか私など及びもしない「見識」に変わっていったのだと思っています。スウェーデンのルンドであった学会では発表前の時間、二人でルンド大学の構内の芝生に寝転んで「想定問答」をしましたが、実際には全く役に立たず、恩師のM助教授に会場からの質問者とのしどろもどろのやりとりを二人とも録音されました。帰国してからそのテープをM助教授からありがたくも渡され、私は一度だけ聴きましたが、先生は余程悔しかったのか一度も聴いていないと言っていました。でも棄ててはいないでしょうから、いつか遺品整理の時にきっと出てくるのだろうと思っています。  
 K先生はこだわりの男です。多分、頑固度も相当だと思います。納得するまでには時間がかかりますが、納得してからは一気に物事を成し遂げるというタイプです。先生は、モノを書くのが苦手だと言っています。確かに、何日も「ウーン」と言ってはいますが、書き上がった文章は実に秀逸で深く、いつも感心させられました。  
 K先生はこの病院に26年間在籍されました。先生が赴任した当時の外科医は5人でしたが、今は乳腺外科、呼吸器外科を含めると19名います。赴任された当時の外科の全身麻酔手術件数は年間400件少しでしたが今は1,300件を超えています。外科の発展はまさにK先生の賜物と言っていいと思います。また、先生は外科のみならず病院の発展にも本当に大きく貢献されました。
 先生は 2002年に副院長に就任されましたが、恐らくこの頃から外科医としての仕事は最小限に抑え、地域における福山市民病院の役割を考えて、国の医療政策を先取りしつつ、当時のU院長、同僚のY副院長とともに病院のインフラを整備し、「救命救急センター」、「地域がん診療拠点病院」、「地域医療支援病院」などの認定を受ける原動力となられました。病院の北側、南側のそれぞれ入り口近くに尾道市御調町出身の円鍔勝三氏の彫刻が展示されていますが、先日K先生に「先生の彫刻も飾ろうか?」と言ったところあっさり断られてしまいました。  
 K先生は福山生まれの福山育ちで、1968年に大学に入学し、1988年に福山市民病院に赴任されて来られるまでの20年間はこの街から離れていましたが、地域での医師会活動も長く、わたしは誰よりもこの地域の医療について詳しいのではないかと思っています。彼は「しばらくは何もしない」と言っていますが、「仕事の虫」がいつまでも空腹でいるわけはありませんし、何よりも地域にとって「もったいない」と思っています。この病院に関わってもらえれば嬉しいのですが、わたしはそんな狭い料簡ではなく、この地域に暮らす人たちの目線から地域の医療をどう構築するのが最も良いのか、医療という共通資本の効果的な活用を考えてもらえないかと期待しています。  
 最後に、7年少し前、私に電話で「一緒に頑張りませんか」と声をかけてくれ、仕事場を与えてくれたK先生に心からの感謝を申し上げ、送り出したいと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.87 外科医39年(9)

 2015年03月02日

 1997年(平成9年)夏、9年ぶりに大学に帰ってきました。大学では研究の指導をすることはなく、専ら肝胆膵外科の臨床を行っていました。
 岡山大学の肝移植は私が大学に帰る前年から始まりましたが、スタッフはまだ若く、移植手術の際には京都大学からT教授が来られて指導をされていました。私も同僚と京都までドナー手術の見学に行き、岡山での移植の際はT先生のドナー肝切除に手洗いをして、この眼でノウハウを学びました。そもそも、がんの場合の肝切除と移植の場合の肝切除は全く違います。がんの場合であれば、摘出する側の血流は遮断させて肝切除をしたり、時間を決めて全肝の血流を遮断して肝切除を行います。また、肝臓と他の臓器(横隔膜や、大腸など)が癒着しているような場合、取る側の肝臓は傷がついても問題になりませんが、移植の場合は違います。取る肝臓(これを移植が必要な人のおなかに移植するわけです)を痛めるわけにはいきません。また、当時は取る肝臓を保護する意味で肝臓の血流を止めるということは行っていませんでした。つまり、出血しやすい状況の下で切除を行うわけですが、ドナーは病気の人ではありません。合併症は絶対に起こしてはならないので、がんの手術とは違った緊張感がありました。私はそれまでにも多くの肝胆膵外科の手術を経験していましたが、この大学での2年少しの臨床経験から、丁寧な手術、出血をさせない手術を少しばかり身につけたように思っています。
 以前にも記しましたが(No13)、私は1988年(昭和63年)から単身赴任をしていました。単身赴任を始めた時にはまだ満3歳にもなっていなかった次男も大学に帰ってきた時には小学6年生になっていました。月に何回か週末に帰るくらいでは父親と子供の接点はあまりなかったので、さあこれから「男」についていろいろと教えなくてはと思っていたところ、中学受験をしたいと言いだしました。しかもあろうことか地元ではなく遠くの中学を、です。これには参りました。私自身も中学生の頃、京都市内の高校を受験したいと親に言い、反対されて断念した経緯があり、できるなら自分と同じ気持ちにはさせたくないと、最後はこちらが折れました。今、この次男は社会人となりましたが、自宅に同居しています。今でも週末に帰れば少し顔を合わせますが、何を考えているのかさっぱり分かりません。おそらく一緒にいた時間が少なかったことが親子の「あうん」を分かりづらくしたに違いないと思っています。
 私が大学に帰った頃の教授はT教授で、以前、大学で一緒に仕事をしたこともありました。熱血漢、ピュア、正義、いろいろ形容する言葉はありますが、私にとっては大変ありがたい教授で今でも尊敬しています。人は自分に無いものを持った人に惹かれると言います。これまで私の周囲には教授のような人はなく、短い間でしたが折に触れいろいろと教えて頂いたことは大きな財産になっています。
 1999年(平成11年)夏、社会保険広島市民病院への転勤を命ぜられました。2度目の大学勤務は2年少しの期間でしたが、長くはいないということは十分分かっていたので、いつものように「分かりました」の一言で受けました。ただ、これまでとは違って、広島市民病院は何といっても中四国では有数の規模の病院ですし、広島大学との接点の病院でもあり、多少は緊張していたのを覚えています。
 この広島への転勤の際は既に50歳を超えていました。この時、先輩や同僚などに挨拶状を送りましたが、50歳を超えた外科医が「外科を頑張ります」もおかしいし、外科のトップで赴任して外科をマネージするという立場でもなかったので、引っ込み思案風に「もはや外科臨床に打ち込むという齢でもなく、、、」という文を書いたところ、O医大の教授であった同門のO先生から「その程度の齢で何を言っているのか!外科医は生涯現役のつもりでその道を極めるべきである」と叱られました。外科医になって39年間、このように何かにつけて意見を頂けたり叱って頂ける先輩に恵まれたことは本当に幸運だったと思い起こしています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.86 外科医39年(8)

2015年02月16日

 庄原赤十字病院から国立福山病院に赴任してきたのは1991年(平成3年)で、外科医になって18年経った頃でした。当時の外科スタッフは副院長のK先生を含めて7人くらいで、その他に岡山大学と高知医大から研修医が2~3名来ていました。私の上には3人の先輩がおられたので、私に病院全体の仕事や外科をマネージする仕事は回ってくることもなく、ひたすら消化器外科の臨床に打ち込んでいました。福山という街は研修医の頃住んでいた街でなじみもあり、何といっても庄原とは違い、少々遅い時間でも食べることに困ることはなく、カップめんや缶詰を買い込まないといけないということはありませんでした。
 国立福山病院には6年間在籍しましたが、その間、私の下に研修医がついていました。庄原でも1年目の研修医がいましたが、患者さんの数が多くなかったので主治医制ではなく外科チームで診ていました。従って1年目の研修医の指導はもっぱら私の下のS医師が指導していましたが、福山に代わってきてからは研修医がついたので、彼らの指導にも結構熱が入りました。そんな研修医もいろいろです。ある朝、カンファランスの最中、「熱が出たので休みます」と連絡を入れてきた研修医がいましたが、その研修医と内科の外来で会った時には少々びっくりしました。誰かに言って処方してもらえば済むことですし、私自身少々熱があっても仕事を休んだことはなかったので、時代は変わってきたなとも思いました。もちろん、昔ながらの研修医もいます。相変わらず単身赴任だったこともあって、彼らとはよく食事に行きました。だいたい水曜日に肝胆膵の手術をしていたこともあって、水曜日は術後が落ち着いていれば彼らを相手に食事をしつつ「外科医の心得」の講義です。とにかく研修医に対しては同じことを何度も言って聞かせることが一番だと思っています。5年も6年も経ってしまった人に同じことを言っても記憶に残ることはないかも知れませんが、研修医は覚えています。この時の研修医の一人に高知医大から来ていたO君がいます。運動神経は抜群でしたが、学問が好きというタイプではなかったと思います。にもかかわらず彼は2編でしたか論文を書いてくれました。卒業試験の胃癌の手術では見事な手術をしてくれました。私はその術中、何の指導もする必要がありませんでした。彼は今、高知市内の私立病院に勤務していますが、多くの症例がないにも拘らず、決まった学会に演題を出し続け、ついに先年、シンポジウムの演者になりました。I君は岡山大学からの研修医で私の最後のウンテンと言っていいかも知れません。彼はバスケの後輩でした。飲み会の翌日の早朝カンファランスに遅れてきたことがあり、こっぴどく叱ったこともありましたが、多くのことを教えた気がしています。後年、彼の結婚式の仲人を頼まれ生涯で初めてその役を経験させてもらいました。彼は今、当院乳腺・甲状腺外科のトップとして大活躍をしていて、乳癌診療ガイドラインの規約委員にもなっています。医師としてのキャリア形成にわずかな間でも関わった人たちが自分を追い越し立派になっている姿を見るのは嬉しい限りです。  
 私はこの病院で現役を終えるだろうと思っていましたが、1996年(平成8年)頃、教授から「肝移植も始まるし大学へ帰って肝胆膵外科を手伝ってくれないか」と打診がありました。一度大学を離れた医師が再び帰るということは極めて珍しいことで私自身も随分迷いましたが、恩師の「人は落ち着くところに落ち着く」という言葉を思い起こし1997年(平成9年)に大学に帰りました。
 国立福山病院には6年間勤務しました。当時一緒に在籍していた診療科を超えた仲間8人の親睦会が年に2回、その頃から今に至るまで続いています。たいしたハンサムもいないのに「ハンサム会」と勝手に称していますが、名前の由来などは別の機会に譲りたいと思います。また、私が今の職場に帰って来てからは、当時の手術室のナースや外科、泌尿器科の医師が集まる会が1年に一度開かれるようになりました。広島から高知からと人が集まります。持つべきは友、持つべきは可愛いウンテンです。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.85 外科医39年(7)

2015年02月02日

 このコーナーのNo29~31、No51~53の6回にわたって、医学部を卒業し外科医となってから15年間の歩みを書きました。大学での研究を終え、その臨床を経験し、いよいよ関連病院に一外科医として赴任することになったところまでを書いたわけです。本当はもう「外科医42年」なのですが、同じ標題でこの続編を何回か書きたいと思います。  
 教授から「昭和63年4月から庄原赤十字病院に行って下さい」と言われたのはその前年の秋頃だったでしょうか。ちょうど自宅を新築している最中でした。以前にも書きましたが、家を建てたりすると転勤の話があるというのは一般のサラリーマンの人たちにもよくある話のようです。私はずっと大学にいるつもりもありませんでしたし、同じ釜の飯を食べた同期の連中や肝胆膵グループの仲間ももう大学を出ていたので、「分かりました」と即断して教授に返答しました。もっともその頃は、教授の話に「NO」と言える時代ではありませんでしたが。
 庄原という町は広島県北にあるということは勿論知っていましたが、町の規模や病院について詳しいことは知りませんでした。当時の庄原赤十字病院は外科(岡山大学)と産婦人科(鳥取大学)以外は広島大学から医師が派遣されていて、いわば混成組織でしたが、大学の垣根など一切なく、みんな若いこともあって仲良く仕事をしていました。  
 私が赴任した当時の外科は外科医が3人、トップが私で、7年目のM医師、3年目のI医師という布陣でしたが、この二人はとても優秀で助かりました。この時期は私自身の消化器外科医として経験が浅く、初めて執刀する手術もあり、手術書を手術室に持ち込んで手術を行っていたこともあります。当時から、たとえ田舎の病院であってもちゃんとした手術ができなければならない、全国のトップレベルの病院と同等の手術をしなければならないと考えていました。従って消化器外科の領域でも自分には荷が重いと感じる手術や、呼吸器疾患の手術は外部から医師を招聘して行うようにしていました。  
 赴任当時の短い期間、一緒に仕事をしたM医師、I医師は夏ごろ大学に帰り、その後任として11年目のS医師、1年目のN医師がやってきました。S医師は研究室の後輩ですが仕事熱心で向学心に燃えていました。いろいろと手術のアイデアを考え(勿論論文を読んで考えてくるのですが)、「先生!この症例はこれをやったらどうでしょうか」と言ってきます。おかげで庄原では「短腸症候群に対する逆蠕動小腸間置」、「膵管非癒合に対する副乳頭形成術」、「十二指腸乳頭全切除」など、見たこともない手術を経験することが出来ました。1年目のN医師はみかけは怖いおっさんでしたが、気は優しくいい青年で、庄原日赤に在籍中、たまたま東京からおじいさんの看病に来ていた孫娘さんを見染めて結婚しました。今は私と同じ福山市内の病院の副院長をしています。
 今もそうかもしれませんが、当時の庄原赤十字病院にはおもしろい連中が多くいました。田んぼを借りて米を作っていた整形外科のDr、雉がさばけるこれも整形外科のDr、笑い方が可愛く本当に人のよい産婦人科のDr(副院長でした)、口から泡を出してまくしたてる若い内科のDrなどなど、これらの一緒に仕事をした仲間は多くが地域の基幹病院の無くてはならない人材として今も頑張っています。米を作っていた整形外科のF医師とは外科の連中と一緒に広島市内からアメリカ人の講師を呼んできて定期的に英会話の勉強会をしていました。F医師は米作り以外にも才能があふれている人でしたが、広島大学に帰った後は助教授を務め、現在は広島県内の大きな総合病院の院長を務められています。
 確かに庄原は辺鄙なところですが、住んでしまえばそこが生活の中心になるわけで、単身赴任ではありましたがそれほどの不自由は感じませんでした。住む人の優しさだけではなく、冬はスキー、春は上野公園の桜、夏は見事なホタルの群れ、秋は紅葉、どの季節にも魅力がありました。私自身は庄原で仕事を続けていて、田舎の両親が何か言ってきたり、両親のどちらかが体調を崩すようなことがあれば、その時が田舎に帰る時だと思っていました。ところが赴任して3年ほど経つ頃、国立福山病院のK先生から「福山へ来てくれないか」と突然電話がありました。当時の福山のスタッフがどうなっているのか?自分が仕事をする場はあるのか?給料はどれほど下がるのか(国立は安いというのが定説でしたから)?いろいろ考えましたが、大学時代の上司であるM助教授からの「庄原よりもスタッフの多い、舞台の大きなところで自分の外科を造ってみたらどうか」という説得の言葉に「そうしよう」と決断しました。
 庄原は離れてからも時々手術に行く機会もあり、当時の古い病院から現在の新病院の完成までを見ることが出来ました。一緒に仕事をした看護師さんやパラメディカル部門、事務の人たちもまだ頑張っています。私にとって、在籍期間は短くとも忘れられない病院です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.84 星の話ーその2ー

2015年01月15日

 No39に「星の記憶」と題して星の話を書きましたが、今回はそれに続いて星の話を書いてみます。
 星はもちろん雲さえ出ていなければ一年を通じて見ることが出来ます。しかしどういうわけか私のやや衰えた視力でも秋の終わりから冬場の星が一年で最もきれいに見えるのです。冬は風も吹きますし、正月の頃は工場も休みで大気がきれいなせいなのでしょうか、とにかく夜空を見上げるのは少し寒いですが冬場に限ると思っています。
 私の働いている福山市の隣に井原市がありますが、そこに美星町という町があります。私が学生の頃は確か小田郡美星町と言っていましたが、平成の合併で井原市に編入されたようです。この町はその名前の通り、星がきれいに見えることで近隣では有名で、「星の郷・美星町」と謳われています。私は近所に住んでいながら一度も行っていませんが、HPを見てみると、誰でも簡単に観ることのできる口径101cmの望遠鏡があって月や星に関連したいろいろな催し物もあるようです。星好きな私としては是非行かなくてはと思っています。
 昨年10月の終わり頃、NHK-BSでアイルランドのある地方(アイベラ半島)の星空を紹介していました。私は知りませんでしたが、「国際ダークスカイ協会」という組織があって、その組織が2014年「世界で最も美しい星空」金賞にその地域の夜空を選んだそうです。放送でその夜空を見ましたが、確かに無数と言っていいほどの星で夜空が埋め尽くされているようでした。人が肉眼で確認できる星の明るさは6.8等星までということですが、この地域ではだいたい4,300個の星が見えると言っていました。ちなみに日本の都市郊外では400個くらいらしいので、本当に多くの星が見えるということだと思います。この福山では工場も多くありますし、とても400個すらも見えていないのではないでしょうか?もともと、このアイベラ地域に住む人は「これが当たり前の夜空」であって「世界一の星空」とは思っていなかったようですが、アイルランドの都会から移り住んだ人がその夜空にびっくりして、「ケリー ダークスカイグループ」を立ち上げて、地域に住む人々の家を一軒一軒まわり、照明の明るさを低くするとか、下向きにするとかのお願いをしてまわって、今の星空を獲得したということでした。ちなみに電灯を一つ消せば星が10個多く見えるようになるそうです。  
 私はやはり星が好きです。星には郷愁やロマンを今でも感じています。特に寒い中、美しく輝いている冬の星を見た後は心が洗われる感じさえします。  
 ちなみに、「国際ダークスカイ協会」の金賞を獲得した夜空はアイベラ半島の他に、ニュージーランドとナミビアのある地方の夜空があるそうです。美星町の夜空をまず眺めて、時間とお金があればこれらの金賞の夜空か司馬遼太郎氏が絶賛しているモンゴルの夜空を是非見てみたいものです。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.83 平成27年年初めの想い

2015年01月05日

 早いもので「院長室より」を書き始めて4回目の新年を迎えました。この間に私の回りでもいろいろなことが起こり、善きにつけ悪しきにつけ密度の濃い時間が流れて行ったような気がしています。年の初めには皆様も何かを念じられると思いますが、今年はぜひ災害も起こらず穏やかで、われわれが念じたことが成就する1年であって欲しいと思っています。
 先日、衆議院の総選挙が行われました。残念ながら投票率は戦後最低ということでしたが、選挙結果は自公の与党圧勝で終わりました。投票率の低さについては様々な分析が行われていましたが、意思を持っての棄権と全く政治に関心がないための棄権と両者が混在していると思われるので正解を導くのはなかなか難しいと思います。私も学生の頃は住民票を実家から岡山に移していなかったので選挙だけに帰るということはなかったのですが、社会に出てからはちゃんと選挙権は行使しています。何であろうと国民の大切な権利ですから投票もせずに政治を批判することは出来ないと考えているからです。
 今回の選挙は今の自公政権を国民が信任したという結果になりました。「アベノミクス」なる経済政策が続き、2年少し先には軽減税率はおそらく導入されるでしょうが消費税は10%になります。医療費は40兆円に達しこれはこれからも年々増加していきます。われわれが患者さんに医療を行えばその対価は診療報酬という形で患者さんや保険者などから支払われますが、患者さんの負担をこれ以上増やすわけにはいかず、かといって保険者のほうも大変ですので、診療報酬が上がることはなく医療機関はしばらく冬の時代が続くのではないでしょうか。この国の医療は「国民皆保険」制度のもとで、どこでも誰でも均質な医療が受けられるという建前ですが、「どこでも」というのが実は問題だと思っています。「どこでも」の結果がどの医療機関にもCTやMRIがあることになり、年に1例か2例しか行わない高難度手術をどこでもするようになっているのでしょう。要はこの国では「どこでも」が人やモノなどの資源の分散につながり医療機器にしても過剰投資になっているのです。心筋梗塞や脳血管障害なような救急治療が必要な患者さんの場合、周辺に対応可能な病院がない、本当に医療過疎の地域にいる人は命に関わることだと思いますが、だからといってその地域に新たに資源を投入するのかどうかについてはかなり難しい問題だと思います。ましてやがんの様な「まだ待てる」疾患であれば計画性を持った資源配置も可能で、同じ疾患を多くの病院で扱わなくてもいいと多少ラジカルに考えています。この病院のある福山・府中地域では整形外科領域が病院によって得意分野が異なり多少の競合はあるのかもしれませんがうまく機能分担されています。これはいずれの病院の整形外科も岡山大学整形外科の関連施設なので、大学の考えが反映された結果なのでしょう。
 以前、藤原正彦さんが「国家の品格」という書を上梓されました。なるほどと思うことがいろいろと書かれていたので、数学者がモノを書くということにも興味があり文庫本等などを何冊か読みました。間違いなく藤原さんの考えのバックボーンは「武士道」です。私もこの国にはいつの頃からか「目先」を追う風潮がこびりついてきたと感じています。あまりに「自分」を前に出したがる人が増えてきたようにも感じています。「権利」は声高に主張するものの「義務」を忘れている人も多いと感じています。藤原さんのいう武士道精神の根幹である正義や誠実、礼節や惻隠、恥を知る心、卑怯を憎む心などが豊かになれば、きっと医療の世界もいろいろな対立が少なくなるでしょう。
 年末、ある方に依頼して書いてもらった「以春風接人 以秋霜粛自」の書を掛け軸にしてもらうよう業者さんに頼みました。もうじき届くと思います。この言葉は父が好んだ佐藤一斎の言葉ですが、この中にも武士道の魂は感じられます。今年もこんな気持ちで1年を送りたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.82 この1年

2014年12月15日

 2014年も余すところ2週間ほどになりました。感覚としての時の速さは年齢に反比例すると言います。確かに齢を重ねるごとに時間軸が短くなっていると感じています。  
 2009年1月にこの病院に赴任してほぼ丸6年が経ちました。赴任当時は医師数は87人でしたが、現在は136人の医師が在籍していて、病床数も400床から506床の大きな病院になりました。私が赴任した当時から「地域において基幹的な急性期病院の役割を担う」というこの病院の目指すべき方向は決まっていました。もう少し分かりやすく言えば、「がん」と「救急」、それに加え、がんや救急に関わらない科は福山市民病院でなければ出来ない専門医療を目指すということです。院長になってからはことあるごとにこのことを声に出したり活字にしてきました。果たして市民の皆さんや地域の医療機関の人たちはどのように評価しておられるのでしょうか、少し気になります。  
 今年新しく生まれた診療科はありませんでしたが、総合診療を担当してくれる医師が赴任して、専門分化してきた内科診療の要の診療をしてくれています。病院にとっては大きな財産で、これから若い医師を惹きつける力になってくれると確信しています。また、放射線科や病理、麻酔科の医師が増えました。このことも病院にとっては大きなインパクトがありました。放射線画像の専門医による診断、増えていく手術症例への対応、そして迅速で正確な病理診断を行うことは急性期病院の機能をさらに高めると思っています。また、若い内科系医師達が自らの意思で当院に来てくれました。私が赴任してきた頃は3名だった消化器内視鏡を担当する内科医師が今年の春から7人になりました。画期的なことだと思っています。多くの診療科にその道の「エクスパート」と言われるような名前の通った医師もいます。確かにこの病院は成長してきたと感じています。  
 しかし、全てにおいて順風満帆かといえばそうではなく、まだまだ課題も多くあります。院内ではさまざまなレベルのヒヤリとすることやハッとすること(ヒヤリハット)が起こっています。防ぎようのない事故もあれば注意をすれば防ぐことが出来たであろう事故、患者さんからの苦情、チームとしての機能がまだ十分に発揮できていないチーム医療、意思疎通の不確かさ、などなど、[違うんじゃない!]と言いたいこともあります。
 組織は人で変わります。大学からの医師の供給がままならない今、今いる人を他の人に代えることは困難なので、今の人が変わらなければいけないと思っています。そのためにはどうしたらいいのか、教育・研修も一法だと思いますし、変わってくれない人と直接話をすることも効果があるのではないかと思っています。  
 今年は診療報酬の改定がありましたが、実質はマイナス改定であり病院の経営は厳しくなってきています。当院はこれまでは比較的堅調な経営を行ってきましたが、新病棟を建設したことなどもあってしばらくは我慢の時期が続きます。国はますます2025年に向けて病院機能の峻別をしてきます。そんな中でこの病院が漂流することなく、地域の基幹病院として立ち続けていることが出来るよう舵取りをしなければいけない、そんな想いを持ちながら新しい年を迎えることになりそうです。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.81 困った報道

2014年12月01日

 朝日新聞の慰安婦報道、福島原発の「吉田調書」報道は記憶に新しいところだと思います。一般に事実を捻じ曲げたセンセーショナルな報道は「売らんかな」の姿勢、特ダネに執着する姿勢が背景にあるように感じます。特に慰安婦に関する誤った報道はこの国の誇りや価値をズタズタにしたのは事実なので、「朝日」はしっかりと謝罪し、これから世界に向けてその信用失墜からの回復を訴えていく義務があると思っています。このまま放置していたのではそのうち日本人は恥ずかしくて世界のどこへも行けなくなってしまうのではないかと恐れています。皆さんはどうでしょうか?
 この夏、私の病院の看護師募集のことが地方紙の地方版に取り上げられました。見出しは「15人予定 応募わずか4人」と書かれており、結構センセーショナルです。記事の内容は「看護師を50名募集したが合格者が32名であったため、二次募集を行った。しかし採用予定者数は15名であるのに対して応募者は4名である」とありました。この記事には事実が書かれているだけで論評は一切ありませんでしたが、私はこの記事を書いた記者はどういう意図でこれを書いたのか興味があります。家庭に入っている潜在看護師を掘り起こすために彼女や彼たちに看護職に戻って地域の医療に貢献しませんか、とか、あるいは病院にもっと頑張らなくては!とエールをおくったのか、おそらくそんなことはないと思っていますが、当院にとってネガティブな記事を書き、病院にダメージを与えようという意図があったのかどうか、どうなんでしょうか。
 この地域には看護師養成機関が少なく、人口10万人当たりの看護師養成機関への入学者数は、広島県西部に比べ東部地域は30人程度少ないようです。私はこれらのことも看護師募集に苦戦している背景にあると考えていますが、当然記者もこのことは知っていると思います。出来ればこのような背景も記事にして看護専門学校、看護系大学の定員数の増加や学校運営への行政の一層の支援を促すような記事を書いてくれたら良かったのにと思っています。
 しかし、この地域にあってもちゃんと採用予定者数以上の応募者を集めている病院もあります。どこが福山市民病院と違うのでしょうか。当院に関してはいろいろな話を聞いています。「忙しい」、「勤めている人が怖い」などなど、当院が選ばれない理由なので「いい話」があるわけはないのですが、最近の学生さんの気質が現れているのかなとも思えます。恐らく一昔前にはこんなことが理由で就職先を選択することはなかったと思います。自分が一人前の看護師になるにはどの病院に行けばいいのか?自分はどんな機能を持った病院で働きたいのか?自分の看護師としてのキャリアを積んでいくにはどの病院がいいのかなどを考えて選択していたのではないでしょうか。もっとも、看護学生に限らず医学生の進路の選択も「きたない、きつい、危険」な診療科は避ける傾向にあるようです。私の専門科である外科などはその3Kの最たる診療科ですが、私は生まれ変わっても外科医を選びます。「外科のやりがい」は外科医でないと分からないかもしれません。
 いずれにしても若い人の教育研修体制を確立していくことはこの病院の次へのステップの大きな課題です。近い将来には、「医学生、看護学生の人気No1病院」になることを目標にみんなで頑張っていきたいと考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.80 涙の話

2014年11月14日

 今年は号泣県議も話題になりました。あのような人が議員ではこの国の将来は本当に危ぶまれます。
 さて、涙は一生のうちにどれくらい出るのでしょうか?インターネットは便利です。フッとそう思ったので調べてみると出ていました。なんと65リットルだそうです。恐らく平均寿命程度での計算だと思いますが、涙もろい人もいればそうでない人もいるはずで一様でないことは確かです。  
 涙にはいろいろあります。「悔し涙」、「嬉し涙」、「悲しい涙」、「郷愁の涙」、そう言えば私も随分いろいろな涙を流した記憶があります。  
 小学校の低学年の頃、父が最も厳しかった頃だと思いますが、父から与えられた試験問題が解答できず怒られて涙を流したことがあります。この時、父は「人の前で涙を流すな」とまた私を叱りました。涙は人前では流してはいけないということを覚え、その後は勉強の出来が悪くてこっぴどく叱られても父の前では涙は見せず、自分の部屋に帰って布団をかぶって涙を流していました。これは悔し涙であったと思います。  
 私はわりに胸キュン派で、お涙頂戴の映画にはからっきし弱い方です。齢をとればとるほど涙もろくなるのも間違いないようです。もう20年以上前、福井駅の近くで学会の合間に映画を観たことがあります。映画館が確か二軒並んでいて、片方は「ダイ・ハード」、片方は「ゴースト・ニューヨークの幻」を上映していました。私は当時ブルース・ウィルスや「ダイ・ハード」がどんな映画かも知らず、もう一方の「ニューヨークの幻想」の看板に「全米No1の話題作」と書いてあり、また上映もつい先ほど始まったばかりなので、こちらを観ることにしました。ところがご存知の方もおられると思いますがこの映画は泣ける映画で、最後までキュンキュン・ジーンとしっぱなしでちょっと困りました。そして上映が終わり明りがついてから周りを見渡してみると、殆どが若いカップルで、いい年の男性が一人でというのは私だけでした。そう言えばソフィア・ローレンの「ひまわり」でも同じようなことがありました。人はやはり同じことをしでかしてしまうのだと思いました。この涙は「何涙」なんでしょうか。  
 涙道をフラッシュして通しをよくすることも大事かもしれません。昭和の終わりに初めて単身赴任を経験した時、自宅から勤務先まで250Kmを車で移動していました。基本的に「土帰月来」生活でしたが、この中国縦貫道沿線の山々を見ると田舎の景色を思いだして涙腺が緩み、この状況で「故郷」や「里の秋」を歌おうものなら、もうぼろぼろです。そしてなぜだか涙を流して病院に着いた時には「さあ、一週間頑張ろう」という気持ちになっていました。  
 おそらく涙は人を成長させてくれると思います。たぶん涙は枯渇することはないので私はこれからもきっと何度か涙を流すと思いますが、確かに成長させてくれる涙なら、「悲しい涙」はまっぴらですが、「悔し涙」くらいならまだ受け入れともいいかなと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.79 誕生日に思う幸せ

2014年11月01日

 先日、何回目かの誕生日が過ぎました。以前書いたこともありますが、誕生日は正月や年度始めと同じように意識する日であることは確かです。皆さんはいかがでしょうか?今年もう誕生日を迎えられた方、何かを決意されましたか?
 私はこれまで何十回と何かを決意しましたが、殆ど成功したことはありません。本当に意思が弱いと我ながらあきれています。こういう思いは決意とは言ってはいけないでしょうね。結果が伴っていないのに決意と言っていては「言葉の神様」に怒られてしまいます。というわけで今年の誕生日は何も思うことなく過ごそうと思い、実際そうしました。基本的に誕生日に思うことは自分自身のことなので、もうあまり自分のことでは何かを思うことが無くなってきているのかもしれません。ただ、感謝はしました。今まで大病もせず、周りの人にも恵まれ、自分のやりたい仕事が出来たこと、これで十分で、あとは何もいらないように思っています。昔、このようなことを友人に話したらその友人は「ご先祖がよかったんだよ」と言っていました。確かにそれはあるのかもしれません。裕福ではなく贅沢には程遠い家ではありましたが、食べることには困ることはなく、仕事を通じて世の役に立つことが当たり前だと背中で教えてくれるような両親を持って生まれてきて、こんな大人になっていけばいいのだと子供のころから思っていました。おそらく両親も親の姿からそう感じていたと思うので、これがずっと続いてきた私の家のあり方かもしれません。確かにご先祖にも感謝です。
 今年の夏、NHKのBSで脚本家「木皿 泉」さんのドラマ作りのありさまやそのドラマを放送しているのを観ました。ご主人も奥さんももともと脚本家で、「木皿 泉」は二人併せてのペンネームのようでした。ご主人は何年か前、脳出血で倒れ下半身不随の状態ですが、夫婦で協力し合いながら脚本作りに取り組まれています。この放送の中で奥さんが「三つの幸せ」ということを言っておられました。一つが明日の食べることに困っていない、二つ目が今日なすべき仕事がある、そして最後が大切な人が元気である、ということです。この三つが満たされていれば幸せということなら多くの人は幸せだと思います。これなら私は生まれてこの方、ずっと幸せで、今ももちろん幸せです。
 人は多くを望むと不幸にもなるのでしょう。だからと言って何も望まないのもどうかと思います。何を望み、何を望まないのか、その選択も大切だと思っています。ただ、どうでしょうか、今できることをいつも一生懸命やり抜くこと、やり続けること、そうしていれば必ず新しいステージに立つことが出来るのではないでしょうか。職業人は業績で評価されます。造ろうと思い業績を重ねていく人、自分の仕事を全うしていく中で自然に業績を重ねていく人、いろいろなパターンがあるのでしょうが、確かな足跡を積み重ねていけば、今の自分の立ち位置とは少し違った位置に立てるのではないでしょうか。なんだか脱線してしまいましたが、三つの幸せにもう一つ、「自分を信じてくれる(評価してくれる)人がいる」ことが加われば、最高のような気がしています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.78 終末期医療

2014年10月15日

 人は誰でもいつかは死を迎えます。老衰となり眠るがごとくこの世を去るのか、病に倒れ苦しみながら死を迎えるのか、病に倒れたとしても苦しむことなく一瞬のうちに亡くなるのか誰も知ることは出来ません。自分はこうでありたいと思っていてもなかなか思う通りにはいかないことのほうがきっと多いのではないかと思っています。  
 ただ、最後の時が近くなるとその時期は自分で意思表示が出来ないことが多いので、その時に備えて、「こうしてほしい」とあらかじめ自らの意思を書き記しておくことは出来ます。いわゆる「Living Will」です。以前、ある大学の「安楽死」事件が話題になった事がありますが、安楽死が許されるには厳しい条件があり、医師も簡単に安楽死はさせてくれません。つまり、安楽死は一つ間違えば殺人になるからです。「Living Will」に基づいた死は「安楽死」と違って「尊厳死」と言われています。尊厳死とは病などによって不治あるいは末期となった場合、死に至る過程をただ引き延ばすに過ぎない延命措置を中止して、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えることをいいますが、これもまだ法制化はされておらず、なかなか実際に行うことが難しいと感じています。
 この国の国民医療費は年々増加し今や40兆円に達しています。私は終末期医療の濃厚さもこの一因になっているのではないかと感じています。最近、食べられない高齢者へのむやみな胃瘻造設などが問題になっていますが、全く同感です。もう何をやっても生きながらえるのが難しい重症肺炎の高齢患者さんに人工呼吸器を装着したり、高額の抗生剤を投与する必要があるのでしょうか?がんの末期の患者さんにタンパク製剤(高価です)を投与する必要があるのでしょうか?
 私の母は亡くなる前の数年間は認知症が進行し、家族の誰をも識別できず、言葉も発せず、勿論歩くことも出来ませんでした。食事も摂れなくなり、医師から経腸栄養を勧められました。母には食道裂孔ヘルニアという病気があり胃の一部が胸腔に入り込んでいたので胃瘻を造ることは難しく、そのために手術をして小腸に細いチューブを入れることになりました。私は母がまだ元気な頃、「私は自分が誰だかわからないような状態で長生きはしたくない」と言っていたこともあって、腸瘻造設には反対でしたが、父の強い希望もあり結局腸瘻を造ることになりました。母はその後2年ほどだったでしょうか、確かに命をつなぐことは出来ましたが、自分が誰かも分からない状態であったことは同じでした。私は今でもこんなことは母の本意ではなかったと思っています。
 人それぞれに想いがあり、家族それぞれに想いはあると思います。実際に終末期を迎えて人はどうあるべきかに正解はないかも知れませんが、一人ひとりがその時のことを考えて、考えられる間に自分の意思を明確にしておくことは大切なことだと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.77 読書の秋

2014年10月02日

 毎年のことですが、秋は静かにやってきます。朝夕涼しくなってきたなと思うようになれば、いくら日中は暑くてもそれほど日を置かず本当の秋がやってきます。日の暮れが早くなるのも秋を感じさせてくれます。
 秋は「食欲の秋」とか「スポーツの秋」とか言われていますが、「読書の秋」とも言われています。因みに「読書の日」を調べてみると「子ども読書の日」というのがあって4月23日だそうで、由来についても解説してありました。 ん?読書と言えば秋ではないかと思いもう少し見てみると、「読書週間」というのが10月27日から11月9日までの2週間と定められていたので、納得しました。
 私の父が仕事の休みの時に読書をしている姿は記憶していませんが、私や弟への出張帰りや修学旅行帰りのお土産はいつも書物でした。いよいよ小さい時は童話集、小学校の高学年の頃は偉人伝、それに私には理解しづらかった「物事の理屈を教える本」などが多かったように覚えています。以前にも書きましたが、父が帰ってくる日は少々遅くなっても眠ることはなく、布団の中で玄関の戸が開く音を今か今かと楽しみにしていました。いつもは雷を恐れて顔をなるべく合わさないようにしていましたが、この時ばかりは違いました。そしてたいてい、買って来てくれた本は一晩の間に完読していました。父が出張から帰ってきた翌日は眠かったはずですが、授業中に居眠りをしていたかどうかはよく覚えていません。
 父の書斎の本も小学生のころから面白そうなものは読んでいました。なかでも衝撃だったのは五味川純平さんの「人間の条件」で、戦争が終わり妻の待つ地へ帰ろうとしている主人公が自宅の手前で息を絶え、その上に雪が積もって彼の身体が消えていく最後の描写は何回読んでも涙が滲んできました。読む書物のジャンルはたぶんその時々で変わっていくのだろうと思います。皆さんもそうだろうと思いますが、私はある人の書物を読み出すとしばらくはその人の書いた書物を続けて読むようです。というわけで、これまで標的になった作家は数多くいますが、いわゆる文豪と言われている人の本は殆ど読んだことがありません。これは宿題として、いつか時間が出来れば「名作集」も読んでみたいと思っています。ただ、このところ読書の時間はめっきり減ってきました。持続力が落ちてきたこともありますが、頸の痛みと老眼のため、かっての基本的な読書の姿勢である「寝そべり読み」が出来なくなったことが大きな原因だと思っています。座って読めばいいじゃないかと思われるかも知れませんが、布団の中で寝そべって読む、そして知らない間に眠ってしまう、これが眠りに就くには最もいい方法だと思っているからです。
 さて、「この一冊」です。著名人などの「最も感銘を受けた本」が紹介されている記事をときに目にすることがあります。私には「この一冊」はありません。どの本もいい本だったと思いますが、しいて挙げれば、医師はこうあるべきだと教えてくれたクローニンの「城砦」でしょうか。この本は、私が大学に入学した時、従姉が入学のお祝いとしてくれた本ですが、それまでは医療のことなど考えてもいなかった私に、「医療の苦労と素晴らしさ」、「病む人への思いやり」、「学問の大切さ」などを教えてくれました。多分それらは実践できていませんが、大きなインパクトを与えたことは事実です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.76 異常気象

2014年09月16日

 去る8月20日、広島で大きな土砂災害が起こり70人を超す人たちが亡くなられました。あまりに痛ましく、なぜ神はこうまでむごいのでしょうか。3年前の大震災もそうですが、何ひとつ悪いこともせず、平穏に過ごしていた人たちを一瞬のうちに奈落の底へ突き落すこの不条理に心底から怒りを覚えます。亡くなられた方の御冥福をお祈りすると共に、被害にあわれた多くの皆さんが1日も早く心身ともに元気になられることを祈念しないではいられません。
 それにしても近年の地球の気象はどこか異常です。皆さんも同じように感じておられることでしょう。今年も、やってくる季節がちょっとおかしい台風、高知、福知山、高山、広島、もっとあると思いますが、予測することが難しい局所的な集中豪雨など、この国でも異常気象がみられました。かっての夏の風物詩、夕立はどこにいったのでしょうか?以前は昼の間は熱くても夕方のさっと降る雨で涼しさを感じることが出来ていましたが、最近は夕立らしい夕立を経験しなくなりました。今年の夏もそうでした。
 異常気象の大きな原因は地球の温暖化にあると言われています。そしてそれをもたらしたのはわれわれ人間に他なりません。徒歩や駕籠、牛馬に乗っての移動であれば問題はなかったのでしょうが、燃料として石炭や石油を使うようになり、またこのように車が街にも田舎にもあふれて、二酸化炭素をまき散らす時代になりました。山や森を切り拓き、人や人が創ったものがそれらを侵食していきました。土の上にはセメントやアスファルトが敷かれ、建物もコンクリートの塊になっていきました。
 地球の平均気温はこの10年で1度ほど上がったそうです。たった1度ですが、実はこれは東京の平均気温が宮崎県の平均気温並みになったということらしいです。そして何と、2100年には平均気温は最大6度以上上がると予測されています。恐ろしいと思いませんか。果物の産地は間違いなく変わっていくでしょう。北海道は亜熱帯となり、バナナやマンゴーが栽培されているかも知れません。リンゴはもう青森では作られなくなっているでしょう。今のままではその頃も相変わらず自然は猛威を奮っているでしょう。ただ、その頃はそれが当たり前になって、もう異常気象とは言っていないかもしれません。
 人はもう少し賢くならなければいけないと思います。もう少し自然を敬わなければいけないと思います。「便利」や「快適」、「スピード」はいいことばかりではないと思っています。江戸時代の人が今の世にタイムスリップして出てきたらどうでしょう。今の世に住みたいと思うでしょうか、それとも江戸の時代に帰りたいと思うでしょうか。おそらく今の世には残らないと思います。
 私は、現代はあまりに物質文明に偏りすぎたと感じています。そのせいか、「人」自体も変わってきているように思えます。情緒を醸成することは次第になくなり、大人になるにつれ「物欲」が強まり、人への配慮をすることが出来ないようになっていると思っています。人に対して配慮が出来ない人が環境に配慮するなんてことが出来るはずがありません。人へ関わることが面倒になり、関わることで迷惑を被ると考えている人が多いのでしょうか。昔はどこにでもおせっかいのおばさんがいたものですが、そんな人はめっきり見かけなくなりました。
 長居は無用の惑星にこの星もなっていっているのでしょうか。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.75 帰省―昔と今―

2014年09月01日

 今年のお盆も休暇をとって墓参りに帰りました。私の故郷では8月13日の夕方が墓参りのピークで、この時間に墓参りをするとたいてい何人かの知人に会いますが、今年も懐かしい先輩に会うことが出来ました。学会と一緒で1年に1回顔を合わすだけでも嬉しい気持ちになれるものです。
 学生の頃から今まで何回帰省をしたでしょうか?数えようと思っても数えられませんが、時代時代で帰省の交通手段やルート、一緒に帰る人の数も変わってきました。学生の頃から運転免許を取るまでは列車での帰省でしたが、免許をとってからは車になり、当初は岡山から丹後まで自動車道と一般道を7~8時間かけて帰っていたように記憶しています。今は自動車道が実家の近くまで整備され3時間半もあれば帰れるようになりました。距離にすると250Kmくらいですが、途中の町々の暮らしぶりをあれこれ想像するには一般道を走るほうがいいと感じています。
 車での往復ではたいていいつも決まったドライブインで休憩していました。今でも場所こそ違っても同じように決まった場所で休憩をすることが多いのですが、一般道沿いにあって、かって賑わっていたドライブイン、今はどうなっているのでしょうか。よく立ち寄っていた名物の煎餅屋さんはどうなっているのでしょうか。通る車も地元の人だけになり、随分閑散としているのではないかと想像しています。
 子供が小さい頃は家族全員で帰省をしていました。車の中ではしりとりをしたり歌を歌ったり、わいわいしながらの帰省でしたが、子供たちもそれなりの年齢になりおのおのの行事や仕事もあり、とくに両親が亡くなってからは家内と二人で帰省をしています。もちろん歌を歌うわけでもなくしりとりをするでもなく、静かな帰省になりました。
 帰省の楽しみも次第に無くなってきているのは事実です。以前は母の手料理を食べられること、友人に会うことが大きな楽しみでしたが、母が認知症を患ってからは母の手料理の楽しみは無くなり、仲の良い友人が若くして亡くなったのでこれも無くなりました。父に子供を見せることは義務だと思っていましたが、父が亡くなりこれも無くなりました。私が育った家も取り壊してその場所に今、甥が家を新築しています。しかし、楽しみがないのかと言えばそうではなく、故郷の景色はいつも心を和ませてくれてリフレッシュには最高の特効薬であるのは間違いありません。そしてまた、なによりも弟がいます。多くを語ることはありませんが、同じ家で育った者がわかる「暖かい温もり」を感じることができます。
 また来年も盆が来ます。きっと帰省するだろうと思っていますが、身体が動かなくなるまでは故郷までの景色も楽しみながら両親や先祖の墓参りを続けたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.74 ドクター体験セミナー

2014年08月14日

 今年もつい先日、ドクター体験セミナーを開催しました。このセミナーは地域の高校生たちにダミーを使って内視鏡検査をしてもらったり、超音波検査や消化管縫合を体験してもらうという企画で、2008年から始めたものです。このような企画は当院に限らず多くの病院で行われていて、当院のように高校生を対象にせず、もう少し若い中学生、小学生を対象にしている施設もあります。
 当院の今年のセミナーには台風のため来られなかった2人を除く26人の高校生が参加してくれました。午前中は内科系プログラムとして超音波と内視鏡の体験です。午前中は内科の先生たちが講師役となり、超音波検査のデモの対象にフルーツの入った市販のゼリー食品を実費で購入し、中に何が入っているか当てさせたり、大腸内視鏡検査では到達目標である盲腸にルパン3世のフィギュアを入れたり、なかなか楽しい企画もあります。その後、参加者全員で昼食(以前は糖尿病食を食べていましたが一昨年から私の好物と言うことでカレーライスにしてもらいました)を食べ、その後は、院内探検ということで、手術室、放射線科(MRIやCT機器での画像合成など)、集中治療室を見学して廻り、その後外科研修です。外科研修では、実際の手術機器を使って鶏肉切開や腸管モデルを使っての消化管縫合、腹腔鏡下手術のシュミレーターを使っての胆嚢摘出術を体験してもらいます。そして最後にAED(自動体外式除細動器)の講習を行います。これは麻酔科の先生が担当していますが、内科、外科、麻酔科以外にも当院の初期研修医、看護師、医療技術部の技師さんや栄養士、看護師さん達が多数協力してくれています。勿論、いろいろな機器を使用するので、機器メーカーなどの業者さんも協力してくれています。
 参加してくれている高校生はおそらく将来は医療系の大学や専門学校に進学する人が多いのだろうと思っていますが、いつも「この子たちが将来この地域に帰ってきてくれたら」、「この企画が彼らのモチベーションを高めるのに役立ってくれたら」という想いを持って私もセミナーに参加しています。
 セミナーの最後に、参加してくれた高校生一人ひとりに修了証書を手渡しますが、その証書には参加したその高校生の名前の後にM.Dと書かれています。これはMedical DoctorのM.Dではなく、「未来のドクター」のM.Dなのですが、この体験セミナーの2週間ほど前に実施した来年度の当院の初期臨床研修医の試験に、第1回目の体験セミナーに参加した医学生が2名受験してくれました。未来のドクターがもうじき本物のドクターになるようになりました。この受験してくれたドクター体験セミナーのOBが当院を研修先として選ぶかどうかは分かりませんが、そんなことはちっぽけなことで、この国の医療の将来に少しは役に立っていると実感しましたし、これからもこの企画は続けていかなければいけないと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.73 連携のつどい

2014年08月01日

 先日、当院の「地域医療連携のつどい」が開かれました。この会は5年前から毎年この時期に開いていて、今年も院外から200名を超える地域の医療機関の先生方や連携業務に関わっておられる方々に出席して頂きました。この「つどい」の趣旨は当院へ患者さんを紹介して頂いたり、当院からの紹介を受けて頂く医療機関の皆様と顔の見える付き合いがしたいということと、当院の医療の一端を知って頂きたいという想いから行うようになったものです。このような「連携のつどい」は多くの病院が開催していて、私も他の病院の「つどい」に何回か出席していますが、主催病院の雰囲気、まとまりや得意分野がよく分かります。当院の「つどい」は他の医療機関の「つどい」と違って来て頂く方々から会費を徴収させて頂いています。どちらかと言えば「来て頂く」、「来て欲しい」のですから会費を頂くのは大変気が引けるのですが、自治体病院という性格上、飲食を伴う会の費用を病院が負担することが出来ないのです。そんな中でこの会に来て頂く皆さんには本当に心から感謝していますし、「来てよかった」と思ってもらえるような内容にしないといけないといつも思っています。
 今年の会の挨拶で私は5月に報道された当院の医療事故についてお詫びを申し上げました。医療を行うことによって予期せぬ合併症が起こり不幸な結果となることは医療の世界では起こりえます。しかし、このたびの医療事故はそうではなく、患者さんの容態の変化を知らせる警報音に関心が向かなかったことが原因(おそらく)で重大な合併症を起こしたという事例でした。この病院には多くの医療機関から患者さんが紹介されてきます。患者さんの紹介を受けた以上、ベストを尽くして治療に当たるのは当然であり、職務怠慢のためそれが出来なかったというのであれば紹介を受ける資格など無いと思っています。にもかかわらず、報道の後も「先生、頑張れよ」、「市民病院、頑張れよ」と患者さんを紹介して頂く医療機関の皆様には感謝の気持ちしかありません。患者さんとの契約、連携医療機関との契約をしっかりと果たすことが職種はなんであれ、病院で働く者の使命であると思っています。
 私はこれまで人を疑ったことがありません。従って簡単にだまされてしまうタイプなのだと思いますが、だますよりだまされる方がいいです。まず自分が他者を信じることで他者から自分が信頼されると思っています。ずっとそう思いこれまで多くの人と付き合ってきました。
 「連携のつどい」に出席された皆様に対してもオープンマインド、私なりの「信」と「誠」で接することができました。お詫びを申し上げ、胸のつかえも少しは軽くなりました。来年もこの会は開かれるでしょうが、今年よりももっと多くの方々に参加して頂けるよう、職員すべてが地域の医療機関、介護・福祉施設との「気心の知れた質の高い連携」を強めて欲しいと念願しています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.72 学会

2014年07月15日

 先日、和歌山で開かれた私の専門領域の学会の学術集会に行ってきました。一般に専門家集団が集まる組織を学会と称していますが、医学界以外にも多くの学会があります。医学の世界でもさまざまな学会があり、私も多い時は20近い学会に所属していました。学会に属するには会費が毎年必要ですし、学術集会にも出席しなければなりませんので出張費もかさみます。年に2、3回の学会出張については公費で補助をしてもらっていましたが、全てというわけにはいきません。「学会貧乏」という言葉も確かにうなずけます。
 学会には演題というものを持っていくことが殆どです。若い頃、恩師から「発表がなければ学会には行ってはダメ」と言われていたこともあって、演題を持って学会に行くことは当たり前だと考えていました。パソコンを使うようになってスライド作成は随分楽になりましたが、昔は大変で、スライド原稿は発表の何日も前に仕上げないと間に合わない状況でした。今は学会場のその場で変更することもできます。便利になったものです。
 この学会という場は自分や組織をアピールする場です。ライバルの施設の発表には一緒に行った仲間ともども質問を浴びせ、少しでも立ち往生させたものなら大いに満足していたものです。もちろん、こちらの発表の時には大逆襲にあい撃沈したこともあります。また、学会は新しい知見を得る場所でもあり、若い頃の眼はきっと爛々としていたに違いないと思います。
 学会はある意味、戦場のような感覚でしたが、楽しみもありました。学会はいろいろな土地で開かれますが、初めて行ったところでは合間を縫って近くの名所を訪ねたりしていました。今回はどこにも行きませんでしたが、大学の後輩たちと一緒に食べたり飲んだり楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 私の最近の学会ですが、若い頃のように多くは所属していませんし、学術集会にも出かけることが少なくなりました。演題を持って行くということもいつの頃からかなくなりました。緊張感も薄れてきて戦場の雰囲気を感じることもなくなりました。若いころに比べ、間違いなく学会場での顔つきは変わってきていると思います。しかし、学会はいいものです。昔から知っている多くの人と会うことが出来ます。1年に一回だけ、学会場で会う知人もいます。いつも「先生、元気でいようね」と声をかけあう九州の医師に今年も会いました。また、撃沈したりされたりした他大学で頑張っていた医師にも会いました。今は中部地方の病院の幹部です。「自分たちも岡山を意識していたんだ」と後年聞きましたが、今は「これからの医療はどうなっていくんだろうね」と話し合う間柄になりました。もちろんお互い撃沈させるような討論はなく、厳しい医療情勢にどちらも撃沈されないように情報交換をしました。
 果たしていつまで学会に行けるのかは分かりませんが、足腰のしっかりしている間は出かけようと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.71 FIFAワールドカップ-その2-

2014年07月01日

 前回のこのコーナーで日本代表にエールを送りましたが、残念ながら日本は1分け2敗、グループ最下位に終わり、決勝トーナメントに進むことが出来ませんでした。初戦の視聴率が50%を超えたと報道されていましたが、多くの皆さんが寝不足を覚悟で応援されたことだと思います。
 なぜこのような結果になったのか、いろいろな専門家が意見を言っているようですが、みなさんはどう思われたでしょうか?私はサッカーは詳しくありませんが、体力面も技術面も、またこの国の持ち味と言われていた組織力も全く足りていなかったのではないかと感じました。確かに多くの選手が海外でプレーをしていますが、Big Clubと言われているチームに所属している選手はそのチームでは控えに回ることが多く、少なくともヤンキースの田中将大選手ではありません。テストマッチでそれなりの結果を残していても所詮テストマッチでしかなかったのだと思いました。
 選手の多くが自信を口にしていました。本気で思っていた人もいたでしょうし、自分自身を鼓舞するために口にしていた人もきっといたでしょう。彼らを責めるつもりは毛頭ありませんし、これをバネにして成長していってもらいたいと思っています。まだまだこの国のサッカーは後進国と言っていいかも知れません。FIFAのランキングは当たっています。たまたま勝つことがあっても、それは5回のうちの1回や10回のうちの1回に過ぎないのでしょう。やはり国全体が地鳴りがするほどサッカーに震えてこなければ次のステージに進むことは難しい気もしています。外科の世界でも5、6年経つと自信が出てきて何でも出来そうに思う時期があります。しかし、それは幻想で奥は限りなく深く、やがて自分の実力を思い知るようになります。前回大会のベスト16でこの国はそんな状態になっていたのかもしれません。
 私はこの国が他の国と勝負が出来るところがあるとすれば、選手一人ひとりの覚悟だと思っていました。しかし、この点でも負けていたように感じています。開幕試合でブラジルの主将はピッチへの入場前に涙を流していました。ネイマールは国歌を歌っている間、目を赤くしていました。多くの国の選手は確かに国歌を歌っていました。残念ながら日本代表の中で試合の前に涙を流している選手はいなかったように思いますし、国歌を歌っていない選手も見られました。私は、サッカーがメジャーの国で、その国の代表としてワールドカップの舞台に立つ覚悟はどれほどのものかをブラジルの主将やネイマールの涙に見ることが出来ました。われわれの国の選手にその姿を見ることが出来るようになれば、もう少し違った代表の闘いが見られるようになるかもしれないと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.70 FIFAワールドカップ

2014年06月13日

いよいよ6月12日からサッカーのワールドカップが始まりました。日本の初戦は6月15日、相手はコートジボアールです。この便りが出る頃には初戦の結果は分かっていると思います。どんなスポーツにせよ、純粋に競技に打ち込む姿は見る者の心を熱くします。日本代表には結果はともかく精一杯の悔いの残らないプレーを期待しています。

 私が子供の頃はスポーツと言えば野球か大相撲、小学生の低学年の頃は保育園の砂場で土俵を作り近所の同年代の子供たちとよく相撲を取っていました。栃錦や初代若乃花の時代です。高学年になると野球は危ないということでソフトボールをしていました。雨の日以外は殆ど毎日ソフトボールです。ちょうど長嶋さんがジャイアンツに入団した頃で、だれもがサードを守りたがり、3番を打ちたがっていました。

 私が入った中学にはサッカー部もなく、サッカーには全く関心がありませんでした。体育の授業で一度だけサッカーをしたことがありましたが、先生の指導も殆どなくとにかくボールを相手の陣地に向けて蹴るばかりだったように記憶しています。ただ、多分この頃、山城高校にすごいサッカー選手がいるという話を聞いたことがあります。釜本選手です。私よりは少し先輩に当たりますが、同じ京都府ということで釜本選手のニュースには関心を持つようになりました。

そして、1968年のメキシコオリンピックです。なんと、その釜本選手は得点王になり、日本は銅メダルを獲得しました。この頃私は大学生になっていましたが、まだワールドカップのことを知らなかったと思います。いや、関心がなく知っていても日本には関係ないと思っていたのかもしれません。少なくとも私の周りに「サッカー命」のような友人はなく、今のように代表の試合がテレビ中継されるようなこともなかったのではないでしょうか。

 私はワールドカップの熱狂を実は他国で知りました。1986年、学会でヨーロッパに行った際、ある国の大衆食堂に入りましたが、そこのテレビでワールドカップの実況をやっていました。店の客たちが絶叫しながらテレビを視ていました。サッカーも熱くなるんだとその時初めて思ったのを覚えています。「サッカーは戦争だ」と言われていることを知ったのも、「オウンゴールしたコロンビアの選手の不幸な事件」はその後のことでした。

日本のワールドカップへの道はその頃はまだまだ厳しかったようですが、やがてJリーグが発足し、三浦選手のようなスターが誕生し、ドーハを経て1998年のフランス大会に出場した頃には、私も結構熱いサッカーファンになっていました。そして、無いものねだりのように幾度となく、釜本さんが今の時代にいてくれたらひょっとしてなどと思ったりもしました。「なでしこ」はワールドカップやオリンピックで大活躍をしていて、先日のアジアカップでも優勝しました。男子も負けてはおられません。「結果はともかく」と言いましたが、訂正します。やはり結果もしっかり出して欲しいと思います。そして、今回はだめでも目の黒いうちにワールドカップの決勝戦で日本代表が闘っているのを見たいと心の底から思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.69 ありの法則

2014年06月02日

 みなさんもこの「アリの法則」はご存知かもしれません。私は何年も前に朝日新聞の「天声人語」で初めてこれを知りました。別名「パレードの法則」とか「2:6:2の法則」とか言われているそうです。
 確かにアリに限らず人間社会でも、リーダーシップを発揮して頑張る人(2割)、そういったリーダーに引っ張られる人(6割)、引っ張っても引っ張ってもこっちを向かず無関心な人や組織の方向とは逆に行こうとする人(2割)がいるのは事実です。例えば組織が小さくなりリーダーがいなくなった時にこれまで引っ張られてきた6割の人たちが、自分が頑張らねばと、思わぬリーダーシップを発揮して引っ張る方に回るというのは分かりますが、言ってみればどうにもならない2割の集団に属していた人たちだけの集団にした時に、その中の2割の人たちがリーダーシップを発揮する側に変身することって本当にあるのでしょうか?私は極めてまれなケースを除いてはないのではないかと思います。上司と折り合いが悪く、頑張っていても評価されなければ次第にやる気も失せ、仕事をしなくなるケースはあると思います。そんな人が、上司が代わったり、違う部署に配属されたのを機に再び猛烈に働き出すことはあるでしょう。このような人はいいのですが、組織の言うことを聞かず逆の方向に歩いて行くような人はどこに行っても自分が起業しない限り、組織の中ではいつまでたってもリーダーシップを発揮する側にはなれないのではないかと思っています。  
 私の勤務している福山市民病院には約1,000人の職員がいます。となると「ありの法則」に則れば200人くらいのどうにもならない人がいるということになります。もちろんそんなことはありません。多くの人は「患者さんのために」、「病院のために」、そして「自分のために」働いていると信じています。ただ、なかには、病院の目指している方向が十分理解できていない人もいるかもしれません。しかし、これは意思疎通が十分ではなかったり、働きやすい環境整備が出来ていなかったりすることが原因で、結局は院長である私の責任ではないかと思っています。
 私は福山市民病院はこの「ありの法則」が当てはまない組織にしたいと思っています。これからの福山市民病院は医療だけにとどまらず「全ての質」を徹底的に追及していかなければなりません。それには質の高い仲間が必要です。福山市民病院には「2:6:2」の最後の2は不要です。常に向上心を持ち、患者さんや仲間を想い、そして組織を想う人ばかりになれば、必ずやこの病院は「新しいStage」に昇れると確信しています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.68 医療安全

2014年05月15日

 先日、当院の医療事故がテレビや新聞で報道されました。この事故はちょうど2年前に起こった事故で、心電図モニターのアラーム音に注意が及ばず患者さんに重度の低酸素脳症が発生したというものです。アラーム音の設定音量が小さかったこと、他にもモニターを装着していた患者さんがいて、その患者さんのアラームが再三鳴りそれには対応していましたが、「またその患者さん」と思いこんでいたことなどが、聴き逃しの原因でした。いずれにしても「医療安全」の意識が低く、患者さんに重大な結果を引き起こしたことには間違いなく、私は患者さんのご家族に謝罪をし、その後も誠意を持って対応させていただきました。
 医療は不確実なものであるとよく言われていますが、そう言い切るには胸を張って「われわれの行っている医療には何一つ間違いがない」と言える時だけだと思っています。外科の世界の縫合不全(胃と腸などをつないだところが漏れること)はその不確実性の代名詞のように言われていますが、そう簡単に言えるものではないと私は思っています。手術適応に問題はなかったのかどうか、患者さんの栄養状態に改善の余地はなかったのかどうか、手術方法の選択に問題はなかったのかどうか、そして何より吻合操作に技術的な問題はなかったのかどうかをしっかりと検証して、はじめて「誰がやっても同じ結果である」と言えるのだと考えています。この度の事故は不確実性で起こった事故ではなく、他の病院であれば恐らく起こっていなかったことで、本当に患者さんやご家族には申し訳なく思っています。
 福山市民病院は年間6,000件を超える手術を行っています。5,999人の患者さんは元気に回復されても一人の患者さんに医療事故が起これば病院の信頼は大きく損なわれます。「安全な医療」は医療の第一の基本です。私は華麗なテクニックや他の誰もが出来ない技術などは求めていません。病院に来られた患者さんに優しく接し、その心情を知り、病気を正しく診断し、暖かい心で治療をして元気になって帰って頂くことが本願です。アクシデントやインシデントとは無縁の病院、目指す理想は高くとも、全ての職員が、患者さんの大切な命やそのご家族の平穏を預かっているという責任の重さを十分自覚すれば可能であると信じています。
 この度の事故の後、病院では「アラーム音」の設定を最大音量にしました。「アラーム」には誤報も多く、入院患者さんからは「うるさい」という苦情もあり、申し訳なく思っています。本来はアラーム音を最大音量にするなどということをしなくても、職員の意識が「アラーム」にあればすむことかもしれませんが、二度とこのような事故を起こさないためにも続けなければいけないと今は考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.67 懐かしい友

2014年05月01日

 先日、浪人時代の懐かしい友から電話がかかってきました。たまたま見ていた「情熱大陸」というTV番組に私の母校の医師が出ていたのを見て私を思い出し、ネットで検索して勤務先にたどり着いたそうです。HPのこのコーナーも何篇か読んでみたと言い、あの頃と変わっていないと感じたそうです。あれからもう50年近く経っていますが、私は成長していないのかも知れません。
 1966年3月、中部地方のN大学を受験しましたが失敗し、その年京都のK予備校に行くことになりました。「勉強してなかったから落ちて当然」と受験の失敗のショックは殆どなく、むしろ始めて家を出ることにワクワクしていたことを覚えています。宿舎はその予備校が借り上げていた太秦の寮にしました。そこに10数人の浪人生が入って共同生活を送ったわけですが、その中に電話の友がいました。殆どが親元を初めて離れて暮らす者ばかりで、そのうち気の合った者同士が狭い部屋に集まり、夜遅くまで予備校の教師の論評をしたり、勉強の進み具合を話したり、時には自分の故郷の話などをしていました。真面目に勉強をしたのは最初の2ヵ月くらいだったでしょうか、それよりも同世代の人たちと語り、遊んだことの方が記憶に残っています。
 私はこの時代に「はじめて」ということをいろいろ経験しました。
 まず、銭湯。それまで銭湯に行ったことはありませんでしたが、何回か通ううち、銭湯の醍醐味は何と言っても大きな浴槽の独り占めだと思い、しばしば一番風呂を目指していました。その銭湯には東映の撮影所の脇道を通り、さらに広隆寺の境内を通りぬけて通っていましたが、後年、「銭湯に通う途中撮影所で、男性化粧品のモデルにならないかとスカウトされたことがある」という話をしたことがありますが、たいていの人が信じてくれました。
 そして、夜行のドンコウに乗っての友人との東京行き。中学校の修学旅行以来の東京でした。友人とは「何月何日の何時にここで会おう」と約束して東京駅で別れ、それからは一人で日吉まで高校時代の友を訪ね、何日か泊めてもらい東京案内をしてもらいましたが、一番驚いたのは「ミニスカート」でした。東京の女性のスカートの膝上度は京都のそれとは圧倒的に違い、衝撃でした。帰りは無事に東京駅で友人とおち合うことが出来、今度は急行で帰りました。
 極め付きは初めて酒を呑んで吐いたこと。寮で仲間と酒を呑み(多分ウイスキーだったと思います)、ぶっ倒れてしまいました。父は全く酒が飲めない人で、私もそれまでは殆ど酒など呑んだことはありませんでしたが、仲間におだてられたのでしょう。いい気分から一転まっさかさまに気分不良になり、もどしはじめました。寮母さんが呼ばれて、その後近くの医師が往診にきてくれました。急性アルコール中毒だったのだと思います。仲の良かった友達と寮母さんが朝まで看病してくれました。電話の友もこの時はずいぶん心配をしてくれたことと思います。
 電話の友は大阪近郊に住んでいるとのことでした。そのうち会おうと約束し電話を切りましたが、そのうちではいつになるか分からないので、近いうちに会いに行きたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.66 医局巡り

2014年04月16日

 例年4月になると病院に医師を派遣して頂いている大学の医局回りをします。この医局回りはたいていの病院の院長は行っていると思いますし、私はこれが病院長の大きな仕事だと考えています。
 この国の一般病院で医師の数が十分間に合っているというような病院は殆どないと言っていいでしょう。以前と比べると医師の派遣能力は弱まっているとはいえ、それでもこの国で一番多くの医師を抱えているのは大学医局であることは間違いなく、大学病院以外に自らの病院ブランドで医師を呼び寄せることのできる病院はそれほど多くはありません。福山市民病院も医師を呼び寄せるマグネット病院ではなく、医師の派遣は大学に頼らなければいけない病院なのです。
 私は他の大学の医師派遣がどのように行われているのかよく知りませんが、以前聞いた話によれば、大学全体で医師派遣を決めているというところもあるようです。しかし、福山市民病院に多くの医師を派遣して頂いているO大学では、大学全体の意志というより、「病院と大学医局」という古くからのつながりで医師を派遣しているように感じていますが、大学に挨拶に行くたびに、このしきたりの壁を痛感させられています。派遣するだけの人がいないというのが一番の理由だとは思いますが、なかなか新たな派遣や増員は難しいのが現実です。
 国は今、病院の機能分化を進めています。そのことは必ず人を含む医療資源の再配分にもつながっていくと考えています。今後、各都道府県が「地域医療ビジョン」を策定していくことも決められています。おそらく、行政、医師会、地域の医療機関、介護施設など地域の医療・福祉・介護に関わる多くの関係者が集まり協議が開始されると思っていますが、己の事だけを考えて意見を言うことは許されないだろうと考えています。当然ながら、地域に多くの医師を派遣している大学も、これまでの病院とのつながりの有る無しに関わらず、地域全体を俯瞰した医師の派遣を行わざるを得なくなるのではないでしょうか。
 医局回りは2、3週間に及びます。医師の増員をお願いしてもなかなかいい返事はして頂けません。しかし、たとえ今は派遣がなくても、病院の診療情報を提示しながら派遣の必要性を聴いて頂くなど、何回か話をするうち個人的な信頼関係が出来て、人さえいれば「分かりました。先生のところに出しましょう」と言って頂ける日がきっと来ると信じて回っています。
 「人は分かる」、これも私の信念です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.65 年度のはじめ

2014年04月01日

 この国では年の始まりは1月1日で、年度の始まりは4月1日ということになっています。明治のころからそうなったそうで、国によっては年の始まりと年度の始まりが同じ1月1日のところもあれば、年度の始まりが10月のところもあるようです。さすがに、年の始まりはどこも1月1日であることに変わりはないようですが。
 年の始まりと年度の始まりが違うということは、さまざまな統計データにも微妙な差を生むことになりますし、1年の間に2回も「年のまとめ」を仕上げないといけなくなり効率的ではないと思っています。しかし、個人的には良いこともあります。1月1日に決意したことを修正できるのが4月1日ということになります。
 多くの人はたいてい1月1日に「この年は」と何かを決意すると思います。しかし、こたつに入って温もっている間にその決意が薄れ遠のいていくのが常ではないでしょうか。だいたい寒い間は頭は回っても体がついてこないものです。ダイエットを決意しても体を動かさず、食べてばかりでは成し遂げられるものではありません。2月はなお寒く、あっという間に過ぎてしまいます。そして3月になり、自分の周囲の環境が変わってきます。転勤もあるでしょう。気になっていた人がいなくなることもあるでしょう。目標にしていた先輩が職場を変わることもあります。そこで人はこの3ヵ月の怠惰を反省し、「何してたんだ、変わらなくては」と再び決意をします。考えてみれば年の始まりと年度の始まりがわりに近いところにあるというのはいいかもしれません。1月の決意を4月に修正できなければ、多くの人が反省ばかりの繰り返しになってしまうのではないかと思えます。もう一つ、個人的な決意をする日といえば誕生日があります。これは一人ひとりにとって新年以上に特別な日であるはずです。私は誕生日を起点に「何かを思う」ようにしていますが、最近の決意は挫折が続いています。
 病院も1月や4月にはその年の方針を掲げると思います。福山市民病院は1月に院長の「今年の想い」ということで、仕事始めの式で話をし、広報誌の1月号の巻頭に文章を載せるようにしていますが、今年は「誇りある医療」を掲げました。これには職員に対してプロフェッショナルとして誇りを持ち仕事をしてほしいということ、地域の人たちから私の街には福山市民病院があると誇ってもらえる医療を行おう、そんな病院を目指そうという意味を込めています。この、病院の決意は4月にも修正しませんし、私の個人的な決意のように挫折してはならない決意です。
 この春、この病院には100人を超える人たちが新しく我々の仲間に加わってくれました。医療資源を確保することが難しくなっている今、本当にありがたいことだと感謝しています。まだまだ課題の多い病院ですが、お互い助け合い、足らざるところを補い合い、部分最適ではなく全体最適をKey Wordに地域から信頼され誇ってもらえる病院を目指して一歩一歩前進していきたいと考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.64 メスの置きどき

2014年03月14日

 昨シーズンを最後にヤクルトの宮本選手やカープの前田選手などが引退をしました。彼らのように成績を残した選手ばかりではなく、若くても結果の出なかった選手たちも含まれているはずです。職業人であれば誰でも第一線を退く時が必ずいつかは訪れるのですが、どれだけの人が達成感に満ち足りた気持ちで辞めていっているのでしょうか?
 私のような外科医であればメスを置く時がまず最初の「引退」であろうと思います。このメスの置きどきは外科医ならば必ず考えていると思いますが、私ももう20年ほど前から考えていました。人によってその時はいろいろあると思いますが、私の外科の同期の中でもさまざまで、とっくの昔に外科を辞めている者もいれば今なお手術を行っている者もいます。
 当然ながら目が見えにくくなったり手が震えたりして、自分が手術をすることが患者さんの不利益になるかもしれない状況になれば否が応でもメスは置かなければなりません。しかし最近は良い拡大鏡もあり目のほうは殆ど問題なくなってきています。私の場合は以前から、これと思う後進が現れれば(具体的には、標準手術がしっかりできること、手術中のとっさの出来事にちゃんと状況判断が出来て対応できること、人の話に耳を傾けることが出来ることなど)すっとfade outしようと思っていました。一昨年、この病院には私の専門領域の高度技能専門医を取得した医師が誕生し、どうやら安心して任せられそうで本当に良かったと感じています。しかし、外科医にとって手術から離れるということは、陸に上がったカッパ状態であるに等しく、また私は常々「外科医にとって手術室こそ最大のパフォーマンスを発揮できる場」と言ってきたので、時間さえ都合がつけば、手術に入って若い人たちと一緒に仕事をしたいと思っています。とにかく手術という医療行為の責任は極めて重大ですが、何といっても手術室にいる時間こそ外科医にとってはこの上ない至福の時間なのです。
 しかし、忘れてはならないこともあります。外科医になりながら医局人事の都合などで手術を経験することも少なく、自らの意思からではなくメスを置かざるを得ない先輩、同僚が多くいることを恵まれた環境にいる外科医は肝に銘じなければいけません。手術を行う際にはそんな仲間を思い、美しい手術を心がけなければならないと思っています。
 私の外科医としての「引退」はもうすぐそこへ来ているように思います。また、医師としての人生もそれほど遠くはないかも知れません。今までのところは、いつ辞めてもかなり満ち足りた気分で辞められそうです。改めて、これまで関わった多くの仲間と患者さんに心から感謝をしたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.63 ソチの冬

2014年03月03日

 No22にロンドンオリンピックのことを書きましたが、またオリンピックの話を書いてみます。
 ソチの冬季五輪は「プーチンのオリンピック」と言われていたそうですが、心配されていたテロも起こることなく終わり良かったと思っています。この五輪でもさまざまなドラマがありました。皆さんはそのドラマにどのような想いを巡らされたでしょうか?  
 今回のジャンプ男子団体は見事に銅メダルを獲得しましたが、4人の選手一人ひとりにその場に至る物語がありました。難病を患っている選手がいて死の恐怖と向き合っていた話や、倒れてしまったら起き上がれないほどの膝の痛みと闘っていた選手など、こんな話はきっと私たちが知らないだけで他にも多くの選手が同じような苦難と闘ってきたのだと思います。競技を観戦する私たちは、特に日本選手については前回大会での涙やその後の苦闘を知っているからこそ、彼や彼女たちの競技する姿やその後の話に魂を揺さぶられるのだと思います。
 ソチ五輪の話題のひとつに女子フィギュアの浅田真央選手とキムヨナ選手の対決がありました。バンクーバーが終わってから浅田選手はジャンプの悪い癖を直すべく基礎から練習に取り組み、一時は大スランプに陥っていました。一方のキムヨナ選手も国際大会の舞台からは遠ざかり、競技を続けるモチベーションも低い時期が長くあったのではないかと想像しています。メディアはジュニアの時代からのライバル物語を取り上げ、今の日韓関係のようにお互いが敵同士かのような書き方もしていました。
 私が浅田選手を知ったのはトリノ五輪の前年のグランプリファイナルに彼女が15歳で優勝した時からで、その時に初めてフィギュアスケートに年齢制限があって、トリノには彼女は出られないということを知りました。それでもその時は、多くの人が浅田選手は必ず次のバンクーバーで金メダルを取ると思っていたに違いありません。私はそう思っていました。彼女はすべての日本人にとってのアイドルになり、あの愛らしい笑顔をきっとバンクーバーで見せてくれるとみんな思っていたところが、結果は涙の顔を見ることになってしまいました。あれから4年、ソチ。皆さん、Liveで演技をご覧になりましたか?私は怖くてショートプログラムを生で見ることができませんでした。結果はご存知の通りです。しかし、フリーでは見事に立て直しました。私はソチでの浅田選手には、メダルを取ろうが取るまいが、彼女自身が納得できる演技をしてもらいたいとだけ思っていました。演技が終わり彼女は上を見上げ、湧き出る涙をこらえているように見えましたが、しばらくして顔を前に向け、涙を流しながら笑顔を見せてくれました。たった数秒の間に、この映像を見ていた人の多くは、彼女に救われたのではないでしょうか?私たちの「業」や「呪縛」を解き放してくれたように感じました。バンクーバーでは悔しいだけの涙であったものが、悔しさに加え、満足と感謝の入り混じった涙になったのだと思いました。キムヨナ選手も浅田選手の涙を見てこみあげるものがあったと報道されていましたが、きっと彼女もその時、長かった浅田選手との多くの闘いに芯から解放されたのではないかと感じました。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.62 2月8日の雪

2014年02月14日

 2月7日夜半から8日は山陽南部の平地でも雪が積もるという予報だったので覚悟はしていましたが、その通り20年ぶりという大雪になりました。
  2月7日(金曜)の夜中は子供のころのように雪が気になり、深夜には何回か目が覚め、その都度窓の外を見ると、確かに雪が降り続き、街灯に照らされた景色が白く光って見えました。私の経験した雪の降る夜はたいてい静かでしたが、こちらでもそうでした。
  私の故郷は冬になれば必ず雪が降るところでした。その頃は夜間の車の往来などないようなところでしたが、それでも雪の降る夜はいつもに比べて間違いなく静かで、雪の降るさまを「しんしんと」と表現するのもよく分かりました。
  朝になり外を見ると銀世界です。TVをつけてみると近隣の道路情報やJRの情報がながれていました。高速道路は通行止め、新幹線も60分以上の遅れのようです。車で自宅まで帰ることは困難だとわかり、JRで帰ろうと思いましたが、駅までの交通手段であるタクシー会社にまったく電話が通じません。じたばたしても仕方がないので家の外に出て雪景色を見て回りました。子供たちが雪遊びをしています。坂道を小さな車が止まりそうなスピードで下っていきます。冬用タイヤを装着しているのかどうかは分かりませんでしたが、なんだか怪しそうでした。雪道を歩きながら、滅多に雪を経験することがないこの地域の人たちは、大人も子供もこの雪に何を思っているのだろう、などと考えていました。
 どんなに雪に囲まれた世界であっても、そこには子供の遊びも生活も家族の団欒もあります。私の故郷もそうでした。子供たちは竹でスキーを作り、近くの河原や山の斜面で滑っていました。スキーの底にはロウを塗りスピードを上げる知識も先輩からの言い伝えで持っていました。小さな硬い雪の球を作り(これをキンカンと呼んでいました)、友達のキンカンとぶつけあい、どちらが割れないかを競い合ったり、私は捕ったことがありませんでしたが、ヒヨドリを捕るしかけを作り山にそれを仕掛けに行ったりしていました。夜は家族で堀ごたつに入って食事をし、そのあとはその日あったことを話し合ったりラジオを聞いたりしていました。今思えば、こんなにして顔を突き合わせていることがきっと家族の絆を深めていったのだろうと思っています。
  私のタクシーは14時を過ぎてやってきました。タクシー会社への電話がお昼を過ぎてやっと通じたのです。なんとか暗くなる前に自宅に帰ることができました。
 2月9日朝、TVはソチの話題と首都圏の雪の話題ばかりです。山陽地方の雪は前日の昼に降りやみました。息子や娘から孫が雪遊びをしている様子がメールやフェイスブックで送られてきました。お昼前、暖かくなってきたので庭に出てみましたが、雪の中に地面が顔を出しているところがありました。私はそれを見てなんだか嬉しくなりました。たった1日、2日のことですが、庭の土をみて嬉しくなったのです。比べものにはなりませんが、雪国の人が春を待つ気持ちがちょっぴりわかったような気がしたのです。子供の頃、何度もこんな景色は見てきましたが、雪の中に地面をみても嬉しくなったことはなく、むしろ冬の季節との別れの方がさびしかったように記憶しています。少しは私も成長していたようです。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.61 日本一短い「母」への手紙

2014年02月03日

 ご存知の方も多いかも知れませんが、福井県に丸岡町という町があります。この町が平成の初めごろ日本一短い手紙の公募コンクールをしました。これは現在も続いているようですが、第一回のテーマが「母」への手紙で、そして応募された3万通あまりの手紙の中から200通あまりをまとめて本にしたものが出版されました。この短い手紙の優秀賞は「一筆啓上賞」と名付けられていますが、その謂われは丸岡城の城主であった本多重次(徳川家康の家臣)が「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と短い手紙を家人に宛てたことからついたもので、「日本一短い手紙」のネーミングもこの故事から始まったもののようです。
 私はたまたま書店でこの本を目にしました。どれもが30字くらいの字数ですが、ぱらぱら目を通したどのページに書かれている文章もそのひとつひとつが心に響き、誰もが母との物語を持っているんだと感じ、そして田舎の母を思い起こしました。
 「お母さん、雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。もうすぐ雪ですね。」 51歳の男性の手紙です。
 「桔梗が、ポンと音をたてて咲きました。日傘をさした母さんを、思い出しました。」 65歳の男性の手紙です。
 「お母さん、八十二歳になりました。よい爺さんで、世に尽くしております。」
 「若い日あなたに死ねと言った、あの日のわたしを殺したい。」 32歳の男性です。
 「あの人と幸せでしょうか、お母さん。父さんは、無口を通し逝きました。」45歳の女性の手紙です。
 「(2)ばかりの通知表。「アヒルが並んで可愛いよ」 母よ、あなたの心を忘れない。」58歳男性です。
 ※「日本一短い「母」への手紙」編集 公益財団法人丸岡文化財団様より書籍からの引用許諾を頂いたうえで掲載をしております。
 みなさんはどんな手紙を「お母さん」に書きますか?私は今なら「優秀賞」が狙える手紙が書けるような気もしますが、どの手紙もきっと素晴らしい手紙でしょうから実際は無理でしょう。ちなみに昨年のテーマは「わすれない」で、10月に応募が締め切られていました。
 最後に。ちょうどこの本を買った頃、娘が反抗期になっていたのでいい機会だと思って読ませました。読むには読んだようですが、どれだけ心に響いたのかは確認していないので分かりませんが、今でも家内とよくケンカをしているようなのであまり効果はなかったのかもしれません。それでも何年か後に同じお題で公募があれば、私を泣かせる手紙を書いてくれるのではないかとほんの少し期待をしています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.60 伝統

2014年01月15日

 昨年の12月、福山市民病院の竣工式が行われました。当院は2011年7月から106床の増床を伴う増築と既存棟の改築工事を行っていましたが、2013年11月末で完了しました。とはいえ、現在も病院の東側で立体駐車場の増築が行われていますので、周辺設備も含めた施設整備の完了はこの3月になります。
 竣工式の間、私はこの病院の開設当時(1977年)のことを思っていました。当時の職員は医師も看護師も若い人が多く、私の所属する外科のトップのN先生も卒後16年目に過ぎず、随分若かったのだなと思います。当時は病院に伝統などあるはずもなく、下っ端だったので知らなかっただけかもしれませんが、「こんな病院を創ろう」という明確なスローガンは聞かなかったように記憶しています。おそらくどの診療科も眼の前の患者さんを診療することで手一杯だったのではないでしょうか。
 しかし、5年前にこの病院に帰ってきたときには病院の息遣いが聞こえているように思いました。この病院は開設して間もない時期に経営危機に陥り、身売りの話が出たことがあります。おそらくその時期を境にして職員の意識が統一され、病院が一つの組織体としてまとまり、経営危機から立ち直ったのだと思います。リーダーが向かうべき方向を示し、職員は自分がやるべきことを一人ひとりが自覚し、次第にこの病院の骨格が形成され肉がついていったのではないかと考えています。病院にはたぶん進取の精神がみなぎり、医師は最先端の高度で良質な医療を行おうと努力し、パラメディカルの人たちもそれぞれの専門領域で自分のスキルを磨き、事務職員もそれを後押しするように先端の医療機器の導入に力を尽くしてきたのだろうと思います。
 伝統は一朝一夕に創られるものではなく、日々の想いの積み重ねで出来ていくものなのでしょう。しかし、伝統の検証も必要だと思います。時代遅れの伝統もあるかもしれませんし、新たな伝統も創られていかなければ組織としての息遣いも次第に聞こえなくなってしまう気もします。
 福山市民病院は昨年5月から506床の病院として再スタートをきりました。新しい伝統の始まりだと考えています。病院のなかでの様々な組織、そのリーダーたちが新たな伝統を創ってくれると確信しています。
 ちなみに私の所属する外科ではずっと続いている週1回の抄読会(簡単に言えば医学論文を読む会)があります。順番に当番になるのですが、この当番に当たった人は欧文誌の中から10本の論文を選んで、その内容について抄読しなければなりません。私と副院長は老体で小さな活字が読めないだろうということで免除してもらっていますが、この抄読会も小さな伝統と言えるかと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.59 新年の想い

2014年01月06日

 明けましておめでとうございます。
 新しい年を迎えるということは幾つになっても身が引き締まる思いがします。あとどれくらいの間、健康な状態で新年を迎えることが出来るのか分かりませんが、今年も元気で新年を迎えられたことを心から感謝しています。
 2010年に病院長になって以来、年頭には職員に向かって呼びかけてきました。「品格のある医療」を行おう、「責任ある医療」を行おう、「優しい医療、安全な医療」を心がけようなどと。ちょうど病院が増築を行う時でもあったので、この増築を機会にもう一段上の病院となろう、「新しいStage」に昇ろうとも言ってきました。果たして「新しいStage」に昇れたのかどうかは皆様方の評価にお任せするとしても、いくら病院長が言葉を作ってみても組織は劇的に変われるものではありません。職員の一人ひとりが「患者さんのために何が出来るのか」を考え、そして「それを実行」すること、たえずこのサイクルを回していれば組織は変わると信じています。
 医療はヒポクラテスの時代から大変な様変わりをしてきたのは事実で、近年では移植医療も安全に行われ、外科の領域ではロボット手術も行われています。iPS細胞を使った再生医療もこれからさかんに行われる時代がやってくるのも間違いないと思っています。しかし全く変わっていないこともあります。それは医療にたずさわる者の想いです。私は医療人であればこの想いは誰もが持っていると思っています。私自身、医師を選んだきっかけは「病気の人の力になりたい」というような使命感に燃えたものではありませんでした。しかし、学生時代に医学を学び、解剖実習や臨床実習で献体や生身の患者さんたちと接し、そして実際に医師になってからさらに多くの患者さんに接していく中で、自然に「患者さんのために頑張らなければならない」という想いが芽生えてきました。過去はどうでもいいのだとは言いませんが、大切なことは今であり、これからだと思っています。私に限らず、福山市民病院で働く職員はすべて「患者さんのために」という想いを持っていると確信しています。
  さて、今年の言葉です。分かっているからもういいやではやはりよくないと思います。今年はある講演を聴いて地域の人たちの目線に立とうと思いました。医療は地域に無くてはならないものですが、果たして地域の人たちはどんな病院を望んでいるのでしょうか。多くの人が「どこにも負けない質の高い医療を行う病院」、「安全な医療を行う病院」、「いつでも診てくれる病院」、「気持ちのいい病院」、「笑顔のあふれる病院」、おそらくこのような病院ではないでしょうか。そんな想いをすべてまとめて「私の街にはこんな病院がある」と地域の人たちが「誇れる病院」、こんな病院を目指していこうと今年は職員の皆さんに呼びかけたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.58 クリスマス

2013年12月16日

 12月に入ればX’mas気分を盛り上げようと商店街や通りにはクリスマスツリーが出現し、また街路樹や建物に色鮮やかなイルミネーションも飾り付けられます。そして確かに12月のイルミネーションは寒さのせいかなんだか鋭く光って見えます。最近は普通の家の庭や玄関周りにもイルミネーションが飾られているのを見ますが、個人的には玄関周りはどうかな?と思っています。
 私は今で言う中山間の過疎地の出身ですが、それでもX’masはありました。子供の頃には母親たちも参加する近所の同年代の子供たちの親睦会のような会(子供会と呼んでいました)があってクリスマス会をしていました。この会は今にして思えば子供ばかりではなく、母親たちもそれぞれの姑(舅)たちの眼から離れて楽しむための会であったような気もしていますが、この会でクリスマスツリーを作ったりしていました。このツリーは本当のモミの木で、これを山までとりに行きそれに飾り付けをしていました。クリスマス会にケーキがあったかどうかは別にして、巻きずしなどのご馳走もあったように記憶しています。
 Eveの夜は楽しみでした。戦争も経験していた厳格な父からではなく、おそらく母が考えたのだろうと思いますが、私の家にもサンタが来ていました。12月25日の朝、目覚めると枕元には本物の靴下の中に入ったお菓子と本が置いてありました。当時の私の家には土間があり、そこにくど(かまど)があって確かに煙突はありましたが、人が通れるほどの太さはなく、いったいサンタはどこから入ってくるのだろうと一生懸命考えていました。「サンタなんていないよ」と誰から聞いたのか忘れましたが、じゃあ誰がプレゼントをしてくれているのだろうと、今年こそ真相を知ろうと眠ったふりをしてみたりもしていましたが、結局分からずじまいで、いつの頃からか枕元にお菓子と本は置かれなくなりました。皆さんもそれぞれにX’masの思い出はあると思います。子供にとっては誕生日やX’masは大きなイベントですが、大人になるにつれてもっと現実的なイベントが多くなり、いつの間にか小さい頃の感動を忘れてしまいます。私自身、両親からもらっていたX’masや誕生日のわくわくした感動を自分の子供たちには与えることが出来ていなかったと随分反省しています。
 私は人が成長していくために必要なものは感性だと思っています。そして若い頃は、その感性は生まれつきのもので、何かから与えられるものではないと思っていました。しかし、今は違います。感性はまずは両親から、そして周りの人たちから、そして育った風土から与えられるものだと思うようになりました。もう遅きに失していますが、今なら自分の子供たちをもう少し上手に育てられるのではないかと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.57 Italy会

2013年12月02日

 私にはItaly会と勝手に名前をつけている年に一度の楽しみがあります。神戸、大阪から妙齢の魅力的な女性が4人、私の家に集まってくれてワインを飲みつつおしゃべりをする会です。今年も先日行いました。基本的にはBBQなので肉が主ですが、この肉ももう何十年も行きつけの岡山市の岡南地域にある肉屋の肉で、結構いける肉です。その他、岡山県吉備中央町の吉田牧場のチーズ各種、オニオンスライスにサーモン添え、バーニャカウダ、ポテトサラダなどをつまみにネットで取り寄せた普通のワインを飲みます。この会は2007年からひょんなことをきっかけにして始まりました。
 2007年の9月、家内と北イタリアの旅行をしました。子供たちが小さい頃は家族で旅行もしましたが、家内との旅行は新婚旅行以来で、二人で旅行しても退屈で楽しくもないし、どうなることかと思い、旅行に出かけること自体が億劫でした。しかし、意を決して実際に行ってみると、やはりイタリアはイタリアでした。当時、塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいて多少イタリアへの思い入れもあったのだろうと思いますが、西欧の歴史の中に自分がタイムスリップした感じがして、旅行前に思っていた心配は一切ありませんでした。この旅行は旅行会社のプランにのった旅行で、一緒に旅行をした人たちは若いカップルが多く、カップルの中ではダントツに私たちが年長でした。その他、私より高齢の男性が一人で参加しておられましたが、訳を訪ねるとこれまでは奥さんと一緒に旅行をしていたが最近亡くなられたとのこと、それでも毎年の旅行を楽しみたいと思い参加したと言っておられました。その他に友達同士に見える4人の女性たちが参加していました。総計20名足らずであったように記憶しています。
 私たち夫婦は旅行の開放感もあって昼からワインやビールを飲んでいましたが、私たち以外にアルコールを飲んでいたのが実は彼女たち4人組だったのです。おしゃべりは関西弁、実に楽しそうな雰囲気で仲が良く、よくよく会話に傍耳を立ててみると、医療用語が出てきていました。そんなことで、家内の公認のもとでワインを片手に話しかけてみるとやはり医療機関に勤務しているとのこと、その後は旅行中いろいろ話をしました。彼女たちは旅行が趣味の一つで、4人であるいは2人でちょくちょく一緒に旅行をしているとのことでした。
 この彼女たちと年に一度、秋の季節にBBQをして楽しんでいますが、意外なところでつながりがあるもので、私の病院の看護師さんが感染看護の認定看護師を取得する際には、彼女たちの一人が講師で指導したそうです。やはり世の中は狭いですし、袖振りあうのは縁ですから、これからも出会いを大切にして生きていきたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.56 ガツンときた言葉

2013年11月15日

 私は子供の頃から「もの覚え」はいい方でしたが、いつの頃からか次第に覚えることが難しくなってきました。自分でそれを自覚しだした頃、「書き留める」という習慣をつけましたが、最近は書いたこともどこに書いたのか忘れるようなことまであります。私と同世代の皆さんはいかがでしょうか?そんな忘れやすい私ですが、以前、上司や患者さんから言われた言葉で忘れられない言葉が三つあります。これにはガツンときて、私のその後に大きなインパクトを与えたと思っています。
 その一:「高倉は分からんからな」。これは後期研修を福山市民病院で行っていた時代、外科のトップのN先生に言われた言葉です。このコーナーのNo51「外科医39年(4)」にも少し書いています。N先生は私の忘れられない尊敬する恩師の一人です。この言葉はN先生の回診の時、私が胃切除術後早期の患者さんのプレゼンを行っていた時に言われました。正確にはプレゼンが終わってN先生が患者さんを診察し、病室から出たところで言われたように覚えています。言葉も正確には「K君は分かるが、高倉は分からんな」だったと思います。K君というのは私の一級後輩の大変優秀な医師で卒後4年目でした。何が分からなかったかというと、患者さんの身体で起こっている重大なこと、つまり縫合不全が分からないということです。腹部に入っている管から汚いものが出てくれば縫合不全だと誰でも分かりますが、それより以前に分からなければならないということです。術後2~3日の間にどんな熱がどのように出ているのか?脈拍はどこかの時点で数や強さが変化をしていないかどうか?何よりも患者さんの顔、そこから出てくる生気はどうか、このようなことを総合的に判断して、身体の中で起こっていることを分からなければならないということです。私は最初の研修病院での消化器外科の経験が極めて浅かったので随分劣等生であったと思います。この言葉で、とにかく患者さんを何度も何度も診に行って患者さんの様々な症状、所見を記憶に留め、わずかな変化も見逃すまいと思いました。確かに答えはbed sideにあります。
 その二:「手術はこなすものですか」。これは私が大学から広島市内の病院に転勤する際、転勤の挨拶状に「手術ばかりをこなす齢でもなく、、、」と書いていたのを見られて、大学時代の恩師であるM先生からお叱りの手紙を頂いた中に書かれていた言葉です。自分自身では「こなす」という意味の中に「一生懸命さが足らない手術」や「手抜きの手術」という意味は全くありませんでした。しかし、そのような言葉を使うこと自体、私の心の中に「手術への恐れ」が希薄になり、「手術に慣れて」いたのかもしれません。手術には結果としてなら完全な手術はあり得ますが、結果が分かるまでは完全とは誰も言えないのです。そしてまた、手術は「させて頂く」ものでもあり、「命がかかった」ものでもあります。M先生の手紙は今も私の机の中にあります。現在は執刀をする機会は少なくなりましたが、メスを握る前には必ずこの手紙のことを思い起こしています。
 その三:「それは先生の考えでしょう」。これは広島市内の病院に勤務していた頃、末期のがん患者さんの今後の治療方針について娘さんに説明した際にその娘さんから言われた言葉です。医療者なら当然だと思いますが、私もずっと「患者さんが第一」だと思って医療を行ってきました。そして、そんな想いで医療を行っているのだから、自分の考えが100%正しく、ご家族も私の提案を受け入れてくれるに違いないと思っていましたが、「それは先生の考えでしょう」と言われたわけです。それ以来、病気については客観的な説明をするに留め、まず患者さんやご家族の意見を聞き、求められれば自分の意見を言うようになったと思います。医療に限らず、人にはいろいろな考え方があり、実は正解はないのかもしれないと今は思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.55 消費増税と病院

2013年11月01日

 ついに2014年春から消費税が3%増税されることになりました。増税については賛否両論があり、どちらを取るにしても国民のすべてが納得をすることは到底出来ないと思います。ただ、増税するのであれば、そしてまた法人の復興税を1年前倒しで止めようというのであれば、適正な議員定数・歳費の検討や実施、おそらくまだあるムダの削除、生活必需品に対する軽減税率の導入、企業に対する賃上げ上昇への働きかけなどを真剣に考えてほしいと思っています。
  病院でよくある苦情に「待ち時間が長い」ということがあります。いくら予約診療を行っていても、飛び込みで状態の悪い人が運ばれてくれば、医師は外来の診療をストップしてその患者さんの診療に当たらなければなりません。こんな患者さんが一人来られれば簡単に1時間は診療が遅れてしまいます。このようなことは日常茶飯事であって、待ち時間の苦情を訴えられる人も多くはそのことは理解をされています。では、待ち時間の何が問題なのでしょうか?実は「いつまで待つのか分からない」ということが一番の苦痛のようです。この消費増税も、いつまで待てば賃金が上がるのかがある程度具体的に提示されれば、国民の多くは「きついけどそこまで頑張ろう」と思うのではないでしょうか。いつまでたってもゴールが見えないのでは不安が増幅されると思います。また、増税部分は社会保障、財政の健全化にしか使用しないと首相は明言していますが、その先はまだ具体的には描かれておらず社会保障改革の議論も実はこれから始まるわけです。
 さて、病院経営にも消費増税は大きな影響があります。病院でも改築や増築費用、医療機器、診療材料、薬剤の購入など多くのお金が動いています。福山市民病院のような自治体病院であっても企業であることは間違いありません。通常の企業であれば自分の売り出す商品に値段をつけて売り出すわけですが、それを決定するには原材料費や人件費、その製品を作るための工作機械の費用、機械を動かすのに要した電気代や商品一個あたりの利益などは勿論のこと、同様の商品を売り出している他の会社の売値も考慮に入れて決めているわけです。ところが病院の商品はまさしく医療そのものですが、これは国によって決められていて全国一律です。各々の病院で勝手に値段をつけるわけにはいきません。名人の手術と研修医の手術は同じ値段ですし、下手な人に手術をしてもらうと合併症が起こって余計に医療費がかかるということさえ起こります。また、病院は物品を購入する際には消費税分を上乗せして納入業者にお金を払うわけですが、患者さんに医療費を請求する際には、消費税分を請求することは出来ません。つまり、病院は問屋には消費税は払うが小売りの時にはその分は請求できないという仕組みになっています。ただ、国は消費税部分は診療報酬に含まれていると言っていて、来年春の診療報酬改訂でも、この度の増税に配慮した改定にするということですが、財源が限られている以上、果たしてどれだけの穴埋めが出来るのでしょうか、はなはだ疑問に思っています。恐らく多くの病院の経営はまた一段と苦しくなるのではないでしょうか。
 私は、医療は教育と同じで多くの部分は国が責任を持って行うべきであると思っています。確かに今医療は皆保険制度のもとで行われていて、フリーアクセスで平等な医療が行われているように見えますが、残念ながらどこでも等質で品のいい医療が行われているというわけではないと思います。私自身は随分厳格に使用基準を決めている薬剤などが、いくらかの医療機関ではあまり考えることもなく(と私が思う)ごく普通に使われていたり、余命いくばくもない患者さんに殆ど使用する意味のない(と私が思う)高額な医薬品も使われています。私は医療の世界でさらに標準化が進めば、右肩上がりの医療費も幾分抑えられるのかもしれないと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.54 同門会

2013年10月15日

 われわれの世界では同門会という組織があります。これに属していない医師もいますが、一般の方々には馴染みがないかも知れません。
 医学生は大学を卒業する少し前に医師国家試験を受けます。今年の合格率は90%くらいだったでしょうか。普通に勉強していればそれほど問題なく合格します。私が医師になった当時は不合格の人を探すのが難しかったくらいですが、最近は少し難易度が上がっているのかもしれません。そして晴れて医師国家試験に合格すれば、自分の希望した研修病院で2年間の臨床研修を受けるわけです。以前にも書きましたが平成16年まではそうではなくて、医師国家試験に合格した卒業生は多くが大学の医局に入局していましたが、この同じ医局の集まりを同門、あるいは同門会と言っています。診療科によっては多少システムに違いはありますが、しばらく大学で研修を行った後、関連病院に赴任して何年間かさらに研修を行うのが平成16年までの常でした。関連病院にいる医師も基本的には同門です。研修を終え研究のために大学に帰っても回りの医師は同門の医師ばかりです。意識はしていなくても同門の人たちには何とも言えない親近感、絆が芽生えてきます。
 私の所属する岡山大学第一外科(現消化器外科)は大正11年8月(1922年)に開かれました。もちろん外科学自体はもう少し前(明治21年)から存在していましたが、第一外科と呼ぶようになってからの91年の伝統もなかなかのものだと思います。同門会の名簿というものがあって毎年送られてきます。果たしてこれまでの同門の人数はいくらくらいか数えてみました。平成24年12月現在、健在の人が943人、亡くなられた人が440人、合わせると1,383人の大きな組織であることが分かりました。入局した頃は名簿の一番最後の方に名前があるわけですが、私の名前ももうかなり若いページのほうに出ています。これを見るとこれまで実に多くの人に助けてもらってきたのか、指導してもらってきたのかが良く分かりますし、これからも続く伝統のピースの一つになれたことを誇りに思っています。
 年に一度、同門の集まりがあり、これを開講記念会(簡単には同門会)と呼んでいます。以前は12月の第一日曜日と決まっていましたが、前教授の時代に10月の第一日曜日に変わりました。必ず参加しなければならないことはないのですが、私は懐かしい人たちに会えることもあって参加しています。各関連病院からの学術発表や、特別講師による講演、さらに現在大学で行われている臨床や研究の概要が教授から説明されます。また、開講記念会の前日の夜は関連病院ごとの集まりもあり、その病院で研修を行った医師たちが世代を超えて集まっているようです。若い医師にとって最初の学術発表が開講記念会ということもしばしばです。仲間内だからといってなあなあということはありません。OBからは厳しい教育的指導を受け、壇上で立ち往生という場面も見られます。 それも研修なのです。若い医師にはいい経験になっていると思います。
 医局の形はいろいろあるのだと思いますが、「教授への絶対服従」、「軍隊的規律」などはあったとしても遠い昔の時代で、今は医療と同じで「説明と同意」がなければ人事も進むはずがありません。一人で考え行動するのも悪くはないと思いますが、人の助けを借りるのも悪くはないと思います。より多くの人の話を聞き情報を仕入れる方が一人で情報を得るより効果的だと思います。まして体験談が聴けたらより効果的です。私にとって同門とは、外科医として多くのことが学べた組織であり、得難い友や先輩を私に与えてくれた組織であると思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.53 外科医39年(6)

2013年10月02日

 大学病院の病棟では約6年間仕事をしました。身分は文部教官助手です。その前に少しの間法務技官という身分も経験し、病棟勤務の傍ら岡山刑務所の医務課長をしていたこともあります。刑務所の中は号令、点呼、隊列行進などあたかも軍隊を思わせるような場所でした。
 私が大学に勤務していた1980年代のはじめの頃は、肝臓や膵臓の手術がようやく安全に行われるようになってきた時期ですが、例えば肝臓の予備能力をどのような方法で評価するのかなどは確立していなく、手術自体も拡大手術といって癌から離れた組織もろとも根こそぎ取ってしまうというような激しい手術を行っていました。私のボスのM助教授は独創的な手術を考案される外科医であり、また高難度の手術をいとも簡単に行っているように見せる「神の手」の持ち主で本当に尊敬していました。そんな独創的な手術の一つに胆管癌で行った「肝十二指腸間膜全切除」というのがありますが、この手術と膵臓を切除したり肝臓を切除する手術を組み合わせるような手術となると、朝9時過ぎに始まり翌日の朝4時、5時に終わるような大変時間のかかる手術でした。しかし、たとえどんなに時間が長くかかろうとも世界で誰もやっていない手術を私たちはやっているという満足感の方が大きく、疲れは感じませんでした。岡山大学の肝胆膵外科は全国的にはやや遅れてスタートしたこともあって、学会活動も活発に行いました。私自身、学会や研究会などで1年間に25回ほど発表した年もあります。発表スライドを作りながら来年の学会の抄録を書くなどは当たり前のことでした。外から見れば大変そうに見えたかも知れませんが、いつ思い起こしてもこれほど充実した時期はありません。
 大学病院では多くの場合、手術は教授や助教授、せいぜい講師クラスが行うものとされていました。私たちのような若い医師は大学での執刀機会はほとんどありません。私が受け持つ患者さんは殆どが肝胆膵疾患の人で、助教授の手術の助手を担当していました。本当に切除が困難と思われるような手術を数多く視ることが出来、その後の大きな財産になりました。
 肝胆膵グループの人が病棟勤務を終え関連病院に赴任していく時には卒業記念として「肝切除」を執刀するというのが常でした。私は卒業手術というのはありませんでしたが、3~4年経ったころ助教授に前立ち(第一助手)をして頂いて2例の膵頭十二指腸切除を執刀させていただきました。助教授が前立ちされる時は、術者にすこしでも迷ったような空気があれば即座に術者を交代させられますし、あまり手術中には指図もされません。自分が確かめられているのは間違いなく緊張のしっぱなしです。助教授の前立ちは何かあれば助けてもらえるという安心感はありましたが、かえって自分がどの程度成長したのかは分かりませんでした。近いうちに大学を辞めて庄原赤十字病院に赴任するということが決まった頃だったでしょうか、たまたま同じ日に、膵切除と肝切除が並列で手術予定になりました。助教授は肝切除を執刀されることになり、膵切除は私が執刀することになりました。これまでの2例は助教授が手術についてくれていましたが、このような状況は初めてです。不安でしたが手術を始めなければなりません。手術が始まり3~4時間経ったころ背中に人の気配を感じたので振り向くと助教授が足台の上に立ち、私の肩越しに手術をじっと見ておられました。肝臓の手術が終わったとのことでした。私の手術の手伝いに入って下さるのかと思っていましたが、そんなこともなく知らない間に手術室を出られていました。手術が終わり、標本を持って研究室に帰りその整理をしている最中に助教授が来られ「よう取れたな」とボソッと言われました。本当に拙い手術だったと思いますが、この言葉は何よりもうれしく、ほんの少し自信がつきました。
 もう一つ、肝胆膵グループの卒業記念としてM助教授オリジナルの通し番号が入った鉗子を頂くということがあります。博士号を取得した人は2本、残念ながら取得せずに出て行く人は1本という決まりでした。私はこの鉗子を実は6本頂きました。ちょっとした誇りです。この鉗子は今も手術援助に行く際には必携のアイテムで、これまで東は三重松坂、南は沖縄石垣まで旅をしています。
 そして1988年(昭和63年)の春、総勢3人の外科でしたが、そのトップとして広島県北の庄原赤十字病院に赴任することになりました。その後の話はまたの機会に書かせて頂こうと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.52 外科医39年(5)

2013年09月13日

 1979年の夏、大学に帰って間もない頃、同時期に大学に帰った同じ第一外科の研究生が教授の前に集められました。同期に入局した者もいましたが、1学年下の人たちが多かったように記憶しています。教授は癌免疫や移植免疫をテーマに長く研究をしてきた方で、私は「癌は手術で治すもの」と思っていましたから、何となく免疫という単語そのものに外科医として違和感を持っていました。なんとか臨床に直結するような研究があればいいのにと思いながら教授の話を聞いていましたが、その時教授が「岩国から帰ってこられたM先生が肝胆膵の研究を指導される」と言われ、「希望者は?」と問いかけられたので、間髪をいれず手を挙げました。こんな経緯で肝胆膵グループに所属することになりました。
 この研究生としての日常ですが、毎日研究室にこもって研究をするのではなく、週に3回、ネーベンと称して関連病院に診療援助に行っていました。そうでないと無給ですので家族を養うことが出来ません。私の研究は膵癌の胎児性抗原の研究でしたが、肝胆膵グループの研究は歴史が浅いため同じグループには指導をしてくれる人はなく、他のグループの先生や、内科の先生方に実験手順を教わりました。関連病院では立場上、手術を行うことも殆どなく、外科医としては後戻りだなと思ったこともありますが、肝胆膵グループの指導者(助教授)のM先生が他の施設に手術に行かれる時に一緒に行って手術を見たり、研究生でありながらグループが小さな所帯だったので、大学の臨床データをまとめたりする仕事もしていました。この頃はまだ肝胆膵外科は黎明期と言ってもいい時期で、教室には膵癌のまとまったデータはなく、1970年頃からの膵癌患者のカルテとレントゲン写真を病棟のカンファランスルームに運び、1例ずつ症状や画像所見、術式、予後など、データ収集を行っていました。
 以前も書いたことがありますが、今、若い医師は専門医を志向し、大学には帰りたがらなくなっているようです。しかし、多くの同世代の医師と意見を戦わせたり、思うような研究結果が出ないときに相談しあったりすることで、ノイヘレンの頃と同じような「絆」を作ることもでき、人間として成長することが出来ると信じています。また、今後臨床をやって行く上でもテーマをみつけ、それにどのように対処していけばいいのかなどこれまでより深く考えることが出来るのではないかと考えています。
 この研究室時代は「自分の研究は本当にうまくいくのだろうか」とか「いつになったら成果が出るのだろうか」、「いつ終わるのだろうか」とか不安もいっぱいありましたが、病院から患者さんの急変で呼び出されるということもなく、今思えばいい時代だったと感じています。やがてこんな研究室時代も終り、1982年の夏から大学病院の病棟でいよいよ勤務することになりました。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.51 外科医39年(4)

2013年09月02日

 No29~31まで「外科医39年」と題してこのコーナーに書きました。もう今は40年となっているのですが、行きがかり上、同じ題目で(4)~(6)までシリーズで書いてみます。これは外科医になって5年目から15年目くらいのまでの話です。
  倉敷の外科系市中病院に4年勤務し救急疾患に対応する基礎的な知識とABC的実践力は身についたと思い、大学の医局長に「同じ病院に4年勤めたので転勤したい」と申し出ました。倉敷の病院は大変居心地の良い病院で、誰からも親切にされ可愛がられていた(思いこみかも)ので、ずっといてもいいとさえ思っていましたが、消化器外科医を目指して外科医になったのだからいわゆる基幹病院と言われている症例の多い病院に行きたいと思ったわけです。
 1977年の春ごろ、大学から電話があり、「福山市民病院はどうか」と言われました。電話のあった頃はまだ病院は実際には稼働しておらず、その年の夏にオープン予定で、外科のトップは入局した時の指導医であったN先生であることを知りました。もちろん、即座に「行きます」と返事をしました。看護師も新採用の人が多く、オープンまでの間しばしば勉強会を開いて、私も何回か講義をしました。外科のスタッフは5名で、トップのN先生の下に、卒後12年目のI先生、5年目の私、4年目のK先生、麻酔科で2年、外科は1年目のO先生でした。ただし、院長が大学の現職外科教授で教授と院長を兼任されていました。私の後輩のK医師は前任地で若いながらもかなりの消化器外科の症例を経験しており、またO医師は麻酔にかけては本職であり、どちらも私より病院の役に立っていたと今でも思っています。
 私は福山市民病院で消化器外科を本格的に学びました。上司の手術を見て、いつも手順を反芻し、術後管理はひたすら成書を読んで勉強しました。今でもそうですが、このN先生に少しでも近づきたい、N先生のような外科医になりたいと真剣に思っていました。回復室の患者さんのベッドの横で寝泊りをしたこともしばしばあります。横にいたからといって、決して患者さんの容態が良くなるわけでもないのですが、とにかく傍にいると安心しました。私はややどんくさいところがあるのですが、N先生に「K君は一度患者さんを見れば異常が分かるのに、君はなかなか分からんね」と言われたことがあります。確かにそうでした。これは仕方がないことですが、センスの問題もあったのでしょう。とにかく、1日に何回も何回も患者さんのところに行って、少しの異常でも気がつくようにしようと思いました。
 学会で発表することや、経験した症例を論文にまとめて投稿することの大切さもN先生やI先生から教わりました。学会には発表をしないと出席することが出来ませんでした。したがって、手術予定が少なく時間に余裕があるときには外科スタッフ全員で近くの国立病院の図書館に出向き、発表や論文を書くための参考文献を調べたりしていました。経験する症例の重症度などが倉敷時代より高く、また何かにつけて初めてのことも多く、あっという間に2年が経過しました。
 福山市民病院での研修もあと半年になった頃、運悪く結核になりました。消化器外科医としてある程度仕事も覚えてきた頃でしたが、N先生から「患者は受け持たないでよい。外来と麻酔だけをするように」と言われた時はショックでした。来る日も来る日も麻酔だけ、病棟へは上がることも出来ず、夕方5時になると「もう帰ってよろしい」と声がかかり、肩を落として官舎まで歩いていたのを覚えています。
 いよいよ、大学に帰る1週間ほど前、I先生から「あんたは今受け持ち患者がいないから、最後に私の患者の手術を執刀しなさい」と言われました。やや太った胃癌の患者さんでしたが、この患者さんの胃全摘をI先生が第一助手、N先生が第2助手、そしてあろうことか大学の外科教授であったT院長が第3助手というメンバーで執刀させていただきました。私の初めての胃全摘手術で今でもその時の感激を覚えています。
  福山市民病院は私にとって本格的に消化器外科を研修した病院であり、指導をして頂いた先生方、同僚の先生方への感謝は忘れられません。1979年の夏、後ろ髪を引かれる思いで病院を退職し大学に研究のために帰りました。いつかN先生の役に立つようになったら、また一緒に仕事をしたいと思っていましたが、まさか30年以上たってまた帰ってくるとは思ってもいませんでした。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.50 お盆あれこれ

2013年08月12日

 今年もお盆がやってきました。言うまでもなくお盆は、この時期に行われる祖先の霊を祀る行事です。この国では8世紀頃には夏に祖先供養を行うという風習が確立されたようですが、1000年を超えて今に至るまで延々とそのような行事が続いていることに感心します。
 他の地域でも同じだと思いますが、私の田舎では8月13日から8月15日の間がお墓参りの期間で、とりわけ13日は「お参りをしないといけない日」でした。動ける人は全員、多少こぎれいな服を着て参ります。子供の頃から今に至るまで、私も殆ど欠かすことなく8月13日のお墓参りはしていますが、お墓参りをするとその道中で先輩や友達に会うことも多く、ちょっとした挨拶だけでも出来て、帰ってきてよかったと感じていました。
 地域によってお盆の行事は異なるようですが、盆踊り、灯篭流し、精霊流し、迎え火、送り火などがあります。私の田舎では盆踊りだけはありましたが、その他の行事はなく静かに祖先を祀っていたように思います。ただ、近くの宮津という街では8月16日に灯篭流しがありました。灯篭流しの日は同じ所で花火大会もあって大勢の見物客で賑わっていましたが、今もきっとそうだと思います。私も子供の頃に叔父の車で見物に連れて行ってもらったことがありますが、打ち上げ花火の音の大きさとその光と色の見事さに圧倒されたのをよく覚えています。
 田舎の子供たちの夏休みは何といっても海に行って泳ぐのが最大の楽しみでした。ところが丹後の海はお盆を過ぎると波も高くなり、クラゲがたくさん出てきます。クラゲに刺されるとたまりませんし、波も高くなると危ないので海で泳ぐのはお盆までと言われていました。お盆が過ぎれば夏休みももう2週間です。「ワークブック」は仕上げていても、その他の課題が出来ていないことが多く、子供ながらに最後の1~2週間はかなり頑張って宿題に取り組んでいましたが、今の子供たちはもう少しスマートに夏休みを過ごしているのでしょうか。都会の子供たちもお父さんやお母さんの田舎に帰ってお墓参りをしているのでしょうか。1000年後もお盆になると日本人は先祖の霊を祀っているのでしょうか。取るに足らないことですが興味はあります。
 恐らく皆さんもそうだろうと思いますが、「盆と正月」、この国の1年の2大行事の時期になると同窓会があったりクラス会があったりしてなにかしら想うことが多くなり、会えなかった友人に1年に1回の電話をしたり、メールをうったりされてはいないでしょうか。お盆は人を優しくさせるのかもしれません。そして、お盆を過ぎれば日の暮れも多少は早くなり、7時を超えればもうあたりは暗くなります。私は、先祖を祀り終え、気持ちも新たに秋の収穫やその先の厳しい冬を迎える準備にかかる分岐点がお盆ではないかと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.49 都会(マチ)と田舎

2013年08月01日

 先日、父の先輩の葬儀に田舎に帰ってきました。私の自宅から車で3時間半ほどかかります。以前は自動車道もなく、車だと7時間も8時間もかかっていましたが随分便利になりました。小さい頃にいつも見ていた景色が頭の中に焼き付けられているのだと思いますが、山の連なりや田畑を見ると何とも言えない安堵感を今でも感じます。私は、田舎の風景には情景という文字がよく合うと思っていますが、都会で生まれ育った人は情景といえばどんな絵を頭に思い描くのでしょうか。少しレトロな街角の、それこそ「三丁目の夕日」的な景色でしょうか?聞いてみたい気がします。
 そもそも田舎で育った者はどんなふうにマチを意識していくのでしょうか?私がマチを意識したのは保育所に通っていたころだと思います。同じ町内からバスで通ってきている男の子が何人かいて、彼らは髪の毛をのばし、半ズボン姿で靴を履いていました。私の部落の子供たちは殆どが丸刈りで長ズボン、草履履きです。私は彼らをマチから来ている子供たちと思っていました。また、母の親戚が隣町にあり、春のお祭りのときによく行っていましたが、その町は人が多く、自動車が何台も走っていました。私の部落ではバス以外、自動車を見かけることは殆どなく、私にとってそこは間違いなくマチでした。どうも、自分の周りでは見られない光景を目にする場所が、私にとってはマチであったようです。しかし、そのマチも自分の成長とともに行動範囲が広がり、次第にマチではなくなっていきました。
 私が初めて本当の都会を目にしたのは、小学2年生の時です。父に京都に連れて行ってもらいました。当時の写真を見ると夏休みのようです。さすがにその時は半ズボンで靴を履いていますが、頭は丸刈りのままです。はじめて電車も目にしました。動物園にも行きました。田舎でみる景色とはとにかく圧倒的に違います。ビルが立ち並び、通りを歩けば人と肩が触れ合い、田舎では風の音や雨の音くらいしか聞こえませんが、ありとあらゆる音が耳に喧しく響いてきます。随分楽しそうなところだとは思ったかもしれませんが、本能的に住むところではないと思ったように記憶しています。
 今住んでいる岡山市や仕事をしている福山市は私にとってはとても暮らしやすいところです。マチでもなく田舎でもなく、災害も少なく気候も温和です。もちろん、瀬戸内の魚介類も美味しく食べることが出来ます。やはり、無機質な建物が立ち並ぶより、緑が手に届くところにあり、建物に凹凸があるほうが優しい気持ちになれるようです。
 マチであれ田舎であれ、楽しく生活が出来ていればどちらでもいいのだと思いますが、人と人との関わり、心の通いは田舎の方がきっと強いと思います。この国が何かおかしくなってきているのは教育の問題やモノがあふれ過ぎたこともあるのでしょうが、なんでもマチ化していき、人々の心の通いが希薄になっていることも大きな原因であると思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.48 兄弟

2013年07月17日

 私には4歳違いの弟がいます。京都府の公立高校に勤務していましたが、昨年春、その校長を最後に定年退職しました。この弟が生まれて間もなく母が結核になり入院生活を送ったので、弟は母の姉の家に引き取られそこで育てられました。正確には何年間くらい入院していたのかは覚えていませんが、多分2年間くらいだったでしょうか。
 ある日、母が退院していくらか経った頃、保育所から帰ってくると、見知らぬ子供が家の中の鴨居からつるしたブランコに乗って遊んでいて、その日から母の布団には彼が入って寝るようになりました。その時が弟を意識した最初で、多少嫉妬も感じていたように思います。子供の頃の私たち兄弟の仲は世間一般の兄弟と一緒だったと思っています。4歳も違えば喧嘩をしても兄にかなうこともないので、弟も私に向かってくることはありませんでした。その弟と同じ屋根の下で暮らしたのは私が高校を卒業するまでで、その後は夏休みや冬休み、春休みに帰省をした時には一緒に過ごしていましたが、それぞれにやることも増え、特に社会人となってからは盆、暮れに会う程度になりました。職業も違うことから共通の話題もなく、しっかりと話し込むということは殆どありませんでした。
 一昨年の12月、父が亡くなる時、弟と二人で父のベッドのそばでいすを並べ、夜中じゅう一緒に看取りました。何を話すでもなかったのですが、お互いが一緒にいた頃の家族を想い、お互いを想っていたのだろうと思っています。その後はまた、時に会い話をする程度ですが、今年の5月の連休には弟夫婦が弟の長男の家族と一緒に岡山まで遊びに来てくれました。父や母がいなくなった今、弟はたったひとりの子供時代の家族の思い出を共有出来る存在であり、大切にしたいと思っています。
 実は、弟のことを書いてみようと思ったのは、先日、とあるご兄弟に会ったからです。お兄さんが50歳少し、弟さんが40代ですが、このご兄弟は実にさわやかで、どちらもイケメンです、今はもうよくなっておられますが、弟さんが病気になられた時の話をいろいろうかがいましたが、お互いがお互いを想う気持ちが実に真剣で、うらやましく思いました。こんな兄弟のお父さんやお母さんはどんな人だろうとも思いました。このご兄弟にもそれぞれの家庭があるわけですが、お子さんがおられたらきっといい子なんだろうなと思います。やはり、人を作るのはまずは家庭だと思っています。そして次にその周りの社会、地域となるのでしょうか。私は単身赴任ということもあって、地域とのつながりが実に薄いのですが、退職をしたら少し地域に溶け込んで、特に子供たちに関わる活動をしてみたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.47 ある依頼原稿ー青春ー

2013年07月01日

 先日、あるところから「私の青春」と題して800字くらいで文章を書いてくれないかと依頼を受けました。おまけに20代の頃と現在の写真も一緒にと。写真はともかく、800字程度の原稿なら負担にもならないので「いいですよ」と簡単に引き受けましたが、いざ書こうと思っても何を書けばいいのか分からなくなりました。そもそも青春とは何なのか、それが自分の中で定義出来ていなかったのです。
 青春といえばサミュエル・ウルマンの有名な詩がありますが、やはり青春は老人よりは若者に似合うと思います。ウルマンはこの詩の中で、青春とは創造力やたくましい意志、情熱、勇猛心などを心に持った有様を言うのだと言っていますが、これには同意します。
 私の20代は学生時代の数年と医師になっての数年間ということになりますが、この時にウルマンの言うような心を持っていたのかというとどうでしょうか。なので、私自身の青春の定義として「何かをもとめてひたむきに頑張った時期」としました。青春に打算はあってはならないと思いますし、駆け引きも(恋は別ですが?)あってはいけないと思っています。あくまで結果は恐れず、ひたむきでなければいけませんし、確かに命も惜しまないということもあると思います。そう言えば学生時代にはボッタクリに頭にきて、物騒なものをポケットに忍ばせ夜の街を歩いたこともありました。しかし、これは定義からは外れていますし、とても寄稿するような書きものにはなりません。つまるところ、学生時代を題材にして「私の青春」が書けないのです。いったい学生時代に何をしていたのでしょうか。試験前の勉強はある意味、死に物狂いの時もありましたし、バスケも少しの期間やりました。それなりの恋愛も経験しましたが、何を取ってみてもひたむきには頑張っていなかったことに気がつきました。
 医師になってからの20代の後半は、これはひたむきでした。この「院長室より」のNo.39に少し書いていますが、なにせゼロからの出発ですので、「ひとかどの外科医」になることだけを考えて仕事をしていました。
 そこで原稿ですが、結局、「私の青春」は研修医時代のことを書くことになりました。あまり面白くない文章にはなりましたが、こんな青春もあっていいと思いますし、私自身まだ「ひとかどの外科医」を目指していますので、今も青春が続いているのかもしれません。
 最後に、ウルマンは理想や情熱や希望を持ち続けることが青春だと言っていますが、私は歳をとってあまりにギラギラは気持ち悪いと思いますので、あと少しスマートに人生を楽しもうかと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.46 趣味と特技

2013年06月17日

 履歴書に趣味や特技を記載する欄があります。職務上、面接試験などをすることがありますので、しばしばそれを目にしますが、特技としては英語検定やパソコンソフトの検定資格、趣味ではさまざまなスポーツ、読書、旅行などがよく書かれています。もちろん、空白のままの人もかなりおられます。私自身は履歴書のこの欄に何かを書いたという記憶はありません。ただ、新しく赴任した病院の広報誌などに自己紹介文を書くこともあり、趣味や特技は記載するようにもとめられる項目なので、思いつくまま何かを書いた記憶はあります。それ以外にも、いろいろなところで趣味や特技を聞かれることがありますが、みなさんはいかがでしょうか?
 わたしはもともと趣味や特技がない人間なので、これを聞かれるとちょっと困ってしまいます。だいたい「趣味」とはなんぞやと広辞苑で調べてみました。(1)感興をさそう状態。おもむき。あじわい。(2)ものごとのあじわいを感じ取る力。美的な感覚のもち方。このみ。(3)専門家としてでなく、楽しみとしてする事柄、となっています。だいたい、「あなたの趣味は?」と聞かれる場合は、(3)について聞かれているのだと思いますが、(2)についてならば、秋になり落ちる枯葉をみればおおいに感じるところもあるので、私は決して無趣味ではないということになります。(3)の楽しみとしてする事柄ですが、旅行などは楽しいこともありますが億劫に思うところもありますし、時に行くゴルフもスコアが悪かったり、天候が悪いととても楽しいなどとは言えません。要は時間も忘れて打ち込むことができたものは仕事以外になかったということです。次に「特技」ですが、同じく広辞苑によれば特に優れた技量。特別の技能、とあります。特に優れた技量とはどの程度の技量のことでしょうか?以前、何かの雑誌にオリンピックの体操選手の「特技」が「体操」と書いてあるのを目にしたことがあります。これはまさに国を代表して出場するほどの技量であるので「特技」としていいのではないかと思いますが、一般の人は謙遜してしまって、「これが特技です」となかなか口にすることをはばかれるのではないでしょうか?スポーツ選手が自分のやっているスポーツを特技とするなら、私の特技は「外科手術」ということになりますが、これを書くのもどうか、と思っていますので、私はいつも「特技なし」としています。
 いずれにしても「趣味」や「特技」は自分を成長させてくれるものがいいと思います。これまでそれを見つけられずにきた私は、いかに底が浅い人間かと、その都度反省をさせられています

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.45 「「みる」について」

2013年06月03日

 2013年4月、新しく病院に来られた職員に話をする機会がありました。他の職場から市の人事異動で来られた「古い新人」もいますが、新卒の人たちも多く、私は信念として「鉄は熱いうちにこそ打たねばならない」と思っていますので、とにかく、「福山市民病院はどのような病院なのか」、「何を期待されている病院なのか」、「これが当院の行うべき医療だ!」など自分なりに熱く語りました。私もそうでありましたが大学の講義などでは顔を伏せ、明らかに寝ている学生もいますが、さすがにそのような人はなく、みんな真剣で聞いてくれていたように思いました。その中の話をひとつ。
 「みる」という言葉にはいろいろな漢字があてはめられます。わたしはこの「みる」にあてはめられた漢字は、人の成長や人生を表していると感じています。まず「見る」です。「見る」はただ単に何かを見ることであって、その見る様は赤ちゃんから幼稚園児程度が何かを見るくらいのことで、探究心は感じられません。そして「視る」になります。これになると何かを得ようとする姿勢があり、思慮や感慨、反省もあります。早ければ小学生頃からみられる「みる」だと思います。次は「看る」です。病院では極めて大切な「みる」ですが、この「看る」の対象は基本的に人間で、しかも対象の身体や心で起こっていることを観察しなければなりません。「見る」も「視る」も自分のことだけを考えていればいいのですが、「看る」になると相手のことを考えなくてはならなくなり、場合によっては自己犠牲も強いられてきます。レベルの高い「みる」です。そして「診る」になります。対象は人を含むすべての生物です。このレベルの「診る」に達するにはかなりの高等教育をうけることが必要で、誤った「診たて」をすると対象の生命にまで危険が及び、責任は重大です。「診る」になれば相手の内面で起こっていることを知り「手当て」を行わなければならず、深い知識や考察、技術が要求されます。医療の世界であれば看護職は「看る」ことが、医師は「診る」ことが求められています。私は病院で働く者は事務職であっても、「看ようとする姿勢」は必須だと思っています。
 以上が要旨ですが、「看る」や「診る」にもいろいろなレベルがありますので、少しでも最高のレベルを目指してほしいというような話をしました。人生で例えるなら「看る」や「診る」は仕事バリバリの時期にあたると思います。そして最後の「みる」は「観る」です。これは子供から老人まで楽しむことのできる「みる」です。対象は幅広く、興味があるものなら何でもありです。  私はまだ「観る」に関しては初心者です。ゆっくりとした時間が手に入れば「観る」のマイスターを目指したいと考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.44 「デジタルとアナログ」

2013年05月16日

 デジタルという言葉を初めて耳にしたのはいつ頃だったのでしょうか。はっきりとは忘れましたが、恐らく「時計」の接頭語として「アナログ時計」とか「デジタル時計」という言葉が最初に出てきた頃のように記憶しています。その後しばらくは下火になっていた(と思っています)のがパソコンの普及とともにまた世の中に現れて、今では「君はアナログだねぇー」などと多少差別の響きも感じられるような言い方でこの「アナログ」、「デジタル」という言葉が使われています。
 「アナログ人間」という意味が「パソコン」などの電子機器に弱い、「スマホ」など使えこなせそうもない、情報収集は書籍からでも十分だと思うような人をさすのなら私は間違いなく「アナログ人間」です。だいたい、私のパソコン歴は新しく、初めてノートパソコンを買ったのはまだ今から10年少し前のことです。それまでは原稿も手書きで書いていました。実は平成の初めの頃、パソコンを使って論文を書いていた研修医と手書きの私とでその速さを競争したことがあります。研修医の指の操作は人差し指一本での操作で、ソフト自体も今と比べればお粗末で、当然私の大勝利かと思っていました。しかし結果は私の負けでした。私は400字詰めの原稿用紙に書いていくのですが、その用紙の殆どを書き上げたところで失敗をするとまた一から書き直しをしなければならないわけです。パソコンの方は失敗をしてもその部分だけデリートすればいいだけで勝負になりませんでした。そんな経験をしたにもかかわらずその後数年は手書きを通していましたが、学会発表や講演でのスライド作りの必要性に迫られて平成9年に第一号のノート型パソコン(Mac)を購入しました。もちろん何の基礎知識もありません。いちから後輩に使い方を教えてもらいました。初代のパソコンには「イヴ」と名前をつけかなり可愛がりましたが、その後のパソコンには名前もなく現在のものは四代目です。
 たしかにパソコンは便利ですし、Netに接続すればそこから得られる情報は無限と言ってもいいほどのものがあります。私も少しは使っていますが、パソコン、ネット、スマホなどの外来語の機器、手段には安心感がないように思いますし、何となく薄っぺらで質感、重量感が感じられません。こちらから呼んでもいないのに訳の分からないウィルスに感染してしまったり、固まってしまってにっちもさっちもいかなくなることもあります。また、それらから仕入れた知識は簡単に手に入れることが出来るのと同じで簡単に忘れてもしまいそうです。やはり、時間をかけメモ書きなどをしながら収集した情報や、液晶画面より紙媒体を通して仕入れた情報の方が頭の中にも長く残ってくれそうな気がします。やっぱり私は根っからの「アナログ人間」のようです。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.43 「追想」

2013年05月01日

 「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉があります。三国志のなかの有名な一節ですが、中学生の頃に読んで、諸葛孔明という人はとんでもない軍師だと思いました。仲達のように走り逃げ去ることではないですが、何かをきっかけに故人を思い起こしたときに、自分にもう一度鞭を入れたくなる気分になることはしばしばあると思います。
 福山市民病院は2月末に増築が完了し、病院の管理部門や事務部なども増築棟に移転することになりました。最も古い本館と言われている建物に応接室があったのですが、職員の増加とともにいろいろなところが手狭になり、最後はこれも医局の一部となったので、増築棟に応接室も新設しました。この応接室や増築棟のロビーなどに絵画や写真を寄贈したいと言われる方がおられて、ありがたくいただくことにしたのですが、これらの中に、福山市民病院の初代院長のB1サイズの写真額がありました。実は初代院長は私が岡山大学第一外科に入局した時の教授で、教授を辞められる1年前から当院の院長も兼務されていました。入局して3~4か月は大学で研修をしたので教授回診にはつくのですが、その当時教授と話をする機会はほとんどありませんでした。その後、昭和52年の当院の開院時に私も後期研修医としてこの病院に赴任し、2年間初代院長からいろいろなことを教わりましたし、その後も折に触れて可愛がっていただいたと思っています。
 その初代院長の写真ですが、昭和46年ごろ関連病院で手術をされている最中に撮られた肩口から上の写真で、その眼光はまるで獲物を狙う鷲の眼と言っていいほどの鋭さで、最初見たときは「怖さ」を感じ、ぞっとしました。私にとって初代院長はあくまで柔和で優しく気品があり、書物に出てくる「プロフェッサー」の雰囲気がぴったりという印象しかありませんでした。当初は、難しい手術をされていたのだろうかとも思いましたが、これは「病に対する怒り」と、それに立ち向かう「プロフェッション」の眼だと感じました。たしかに人は年齢を重ねるにつれ「怒り」や「畏れ」が薄れてくるのは事実です。私は初代院長の写真を見て、自分自身がこれらを忘れていたと思いました。医療人であるからには「病への怒り」を忘れてはならず、また「医療行為に畏れ」を持たなければいけないことを改めて思い起こしました。
 この写真額は医局の入り口に掲げました。当院の医師たちも同じ思いを感じてくれるのではないかと思っています。それともう一つ、初代院長の自筆の書を木彫にしたものも写真の横に掲示しました。それには「本立而道生」と書かれています。論語の中の一節ですが、基本を大切にすることを説いた言葉です。当院の病院訓として残していきたいと考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.42 「望ましい外科医」

2013年04月16日

 昨年だったか一昨年だったか、外科学会雑誌のある号に「麻酔科が考える望ましい外科医」という文章が書かれていました。あくまで「麻酔科が考える」というタイトルがついていますが、この冠を外したとしても書かれていることはまさに「望ましい外科医」であり、このような外科医が主治医ならば患者さんにとってもきっと「素晴らしい主治医」であると思います。以下に列挙してみます。
 (1)技術が優れている、(2)出血が少ない、(3)手術時間が短い、(4)感動する手術が出来る、(5)患者のことを一番に考えている、(6)他のメディカルスタッフを尊重する、(7)自分勝手ではない、(8)手術中に無駄話をしない、(9)大声で怒鳴らない、だそうです。(1)、(2)、(3)、(4)は外科医にとっての腕(Technical Skill)ですが、(5)から(9)までは技術とは関係ないことです(Non Technical Skill for SurgeonsでNOTSと言うそうです)。しかし、このNOTSが優れている者は外科の技術も優れていると書かれていました。外科系を目指している学生や研修医がもしこれを読まれたら参考にして下さい。
 私はどうでしょうか。すべて当てはまると言い切りたいところですが、残念ながらNOTSのところに当てはまらない項目があります。ただ、私にとっては手術中のリズムを作るのにちょっぴり必要かなと思っていることなので、無駄ではないと考えています。
 「外科医の腕前は麻酔科のドクターに聞け」と言われています。麻酔科の先生はそれこそ手術中に無駄話をすることもなく黙々と、いろいろな監視装置(モニター)に気を配るのは勿論のこと、術野の雰囲気、吸引の音、外科医たちの話に耳を傾け、時には術野をのぞき安全に手術が行えるよう麻酔をかけてくれます。私が若い頃は麻酔科の医師はまだ少なく、手術の麻酔は自分たちでかけていました。今から思えば恐ろしいことで、麻酔の進歩も手術が安全に行えるようになった大きな要因であると思っています。この麻酔科の先生たちは、いろいろな外科医の手術を見ます。自分の所属する病院以外でも、他の病院に出張して麻酔をかけることもあり、その病院の外科医の腕前も見ることが出来ます。もし、病気になり手術が必要になったら、知り合いに麻酔科のドクターがいればその人にどの医療機関で手術を受ければいいのか聞いてみるのがいいのではないでしょうか。
 さて、先の9項目ですが、自分のことは棚に上げさせて頂いて、さらに追加して私が考える素晴らしい外科医として、(10)創造力に優れている、(11)紹介医を大切にする、(12)学会活動がきちんと出来る、(13)論文を書く、(13)若手の教育に熱心である、(14)他者の意見に耳を傾けることが出来る、を挙げたいと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.41 「オリエンテーション」

2013年04月01日

 年度が始まりました。この国の多くの職場で新人と言われる人たちが働き始めていると思います。新人たちの多くが大学や高校、あるいは専門学校での、はたまた前の職場での友との別れを経てそれぞれの職場にやってきた人たちです。おそらく「頑張ろう」、「頑張りたい」という熱い思いをみんなが持っていると思っています。
 ここ福山市民病院にもこの4月、医師や看護師、その他のパラメディカル、事務職までふくめて100名を超える新人(中には出戻りの方もおられるようなので正確には新人とは言えませんが)が入ってこられました。病院職員全体の約12%にあたります。どこの職場でもそうでしょうが、病院でも新採用者に対して全体研修や部門毎での研修を行っています。採用時の研修は職場にとっては一大イベントで、私はこのオリエンテーションという研修は極めて大切だと思っています。その研修の内容、研修のレベルがその組織のレベルを物語っていると思いますし、また、この時期の研修ほど身につく研修はないからです。私は「鉄は熱いうちにこそ打たなければならない」と経験上、信じています。
 私も新採用者に小一時間、話をする時間を頂いています(初期臨床研修医たちとそれ以外の人たちに分けてしています)。以前にも書いたことがありますが、院長が職員を前にして話をする機会は多くはありません。仕事始めや仕事納め、それこそ4月の辞令交付の時などがそうですが、病院のごくごく一部の人しかその場にはいません。それ以外に話す機会と言えば「忘年会」でしょうか。こちらはかなりの人たちが参加しますが、忘年会では「1年間御苦労さまでした」と言うのが関の山、という雰囲気が会場にあります。というわけで、この新採用者に話をする小一時間が、新しく職員になったそれなりに多数の人たちに対して、私の医療に対する思いや病院に対する思いを直接話すことのできる唯一の機会であるかもしれません。医師になってからの40年間の思いを凝縮し、出来るだけ分かりやすく話すようにしています。新採用者の人たちがどんな気持ちで聞いてくれているのかは分かりませんが、5年もすれば500人の人に話をしたことになります。しっかりと理解をし、共鳴してくれた人たちはきっとこの病院の核になり、それぞれの部門をリードしていってくれると思っています。また、手前味噌ながら、私が院長になってから迎え、かつ初期研修を修了した研修医15名のうち12名が後期研修医として病院に残ってくれています。たぶん、最初のオリエンテーションのときの話が研修医の頭の中に残り、その後の研修生活2年間の間に、各診療科の指導医が「上手く打ってくれた」のだろうと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.40 「出会いと別れ」

2013年03月19日

 春は出会いと別れの季節です。最近、日本でも大学への入学を秋にするという話が出ていましたが私は反対です。出会いと別れ、惜別と希望は春こそ似合うと思っています。秋は冬の前触れであり、特に「うらにし」のどんよりとした気候の中で育った私にとっては晩秋にはなかなか希望を見出だしがたく、新入学生たちも元気が出ないのではないかと思います。
 「別れの3月」の象徴的な儀式として卒業式があります。保育所、小学、中学、大学と私も何回か経験しました。高校の卒業式は少しグレていたので出ませんでしたが、今は多少後悔をしています。卒業式の定番と言えば「蛍の光」、と「仰げば尊し」ですが、どちらの歌も心に響き、間違いなく別れの雰囲気をさらに盛り上げ感傷をいっそう深めてくれます。皆さんはどの時代の卒業式に一番の思い入れがあるでしょうか?おそらく最も頑張った時代の仲間との別れ、校舎との別れ、先生たちとの別れに強い思いがあるのではないかと思います。私は中学校の卒業式が一番強く印象に残っています。勉強は試験週間だけであまりしませんでしたが、3年間バスケに明け暮れ、その結果も私の出身中学校では初めて地域の大会での優勝ということにつながり、専門ではありませんでしたが、陸上の大会でも3年間800mリレーで勝ち続けたり、400mでは中3の時、府下大会に出場するなど本当に中身の濃い中学生活だったと思います。おまけに3年生の冬には今でも語り継がれている「38豪雪」があり、学校の屋根の雪下ろしまでしました。第2ボタンを誰かにあげるとか白線流しはありませんでしたが、胸の熱くなる卒業式だったと記憶しています。
 転勤は春とは限りませんが、これも別れです。医師は最初から最後まで一つの病院に勤務するということは普通ありません。若い間に何ヵ所かの病院を経験して最後の病院がやや長くなるというパターンが多いと思います。転勤の時の別れも寂しさがあるのは事実ですが、私はむしろ次の勤務地での新しい出会いの方が楽しみでした。新しい土地では必ず新しい出会いがあります。そんな人たちとの付き合いは自分の視野を広め、多角的な思考を育み、自分を高めてくれると信じています。また、新しい土地では人ばかりではなく、その土地のもつ四季や風情との出会いもあります。雪国の出身でない人が雪国に赴任すれば、必ず朝起きてみる真っ白な雪の美しさや雪をかぶった木々の姿に感動を覚えるのではないかと思います。どのように辺鄙なところであっても「住めば都」は事実であり、その土地でなければ経験できないことを必ず経験することが出来、それは必ず自分自身にとって役に立つと考えています。
 私には時間も少なくなってきていると思っていますが、これからも新しい人たちや土地との出会いを期待しているこの季節です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.39 「星の記憶」

2013年03月04日

 何気なく夜空を眺めると多くの星たちが見えます。そして確かに冬の星は空気が冷えて澄んでいるせいか他の季節と違ってきれいに見える気がします。先日、あるTV番組で南極寿星(カノープス)の話をしていました。この星はわれわれが見ることのできる恒星の中ではシリウスに次いで明るい星ですが、南にある星なのでなかなか北半球からは観測しにくいこともあって、古来中国ではこの星を見た者は長寿になるという言い伝えから南極寿星と呼ばれているそうです。日本での観測の北限は東北地方南部ということですが、この星に魅せられた人たちが真冬の深夜、双眼鏡を手に懸命に観測している姿が映像でながれていました。私は残念ながらまだこの星を見たことはありませんが、年金年齢にも達していますし、長寿を思うのなら早めに見るべきかもしれません。
 おそらく、多くの人は子供の頃に天体観測に興味を持ったのではないかと思います。私も小学生の頃、父が勤務先の学校から天体望遠鏡(何倍だったかは忘れましたが)を借りてきて、夏の夜空を観測しました。月のクレーターははっきりと見えましたし、木星の衛星も見えました、しかし何より感激したのは土星の輪が教科書の通りに見えたことです。父は小学校の教師でしたから多くの科目を教えていたのだと思いますが、多分理科は不得意だったのだと思います。そんな父がいろいろ解説をしながら教えてくれたのを思い出します。おそらくこの頃だったと思いますが、天文学者になりたいと思っていた時期がありました。父のにわか講義が子供の興味をさらにひくものであったなら・・・などと考えもします。
 また、夜空の月や星にはロマンを感じます。闇と静寂がそうさせるのかもしれませんが、月や星に願い事の成就を祈ったことも多くの人の共通の記憶ではないかと思います。科学の進歩で夜空の神秘もいろいろと解明されていっていますが、私自身は分からないところがあってもいいのではないかと思っています。皆さんは星座もいろいろご存知だろうと思います。私は天文学者になりたいと思っていたことがあるにもかかわらず星座は全く苦手です。私はどの星をどう組み合わせても、どうしても「はくちょう」や「おうし」や「かに」などには見えないのです。それでも二つの星座だけなら分かります。「オリオン」と「おおぐま座の北斗七星」です。オリオンは形が分かりやすく、輝きも明るく美しい星座で好きな星たちです。北斗七星はいうまでもなく北極星を探す目印になります。故郷を出てからこれまでどこにいても故郷を想う時には北斗七星を探し、そして北極星を確認し、故郷の方向を向いて両親に語りかけていました。そんな両親はもういませんが、これからも故郷に眠る両親を想うにはこの星は大切な星です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.38 「日本について、あれこれ」

2013年02月14日

 総選挙が終わり、自公政権に変わって2ヵ月あまりが経とうとしています。
 第3極と言われたグループもまとまることが出来ず、終わってみればほぼ予想通りの結末だったのではないでしょうか。本来は二大政党が切磋琢磨しつつ質の高い政治を行うことを目的に導入された小選挙区制であるはずが、政党の乱立によってかえって自民党の圧勝という結果になりました。
 原発、消費税、デフレ、TPP、国の安全、いろいろな争点がありました。皆さん方もそれぞれの思いで投票されたことだと思います。私が子供だった頃はモノがなく、生活レベルは今より悪かったのは事実です。私の父は教師で、祖母と母が農業に従事しているような家でしたが、一切の贅沢はなく年に一度、父の冬のボーナス日にふるまわれたすき焼きは何とも言えない至福の味でした。アイスキャンディーは夏の大掃除の日だけ食べることが出来ました。今の人なら我慢が出来ないかもしれない日常であっても幸せを感じることが出来たのです。今のこの国は向かうべき方向が定まらず、事が起これば、あるいは解決しなければならない課題があっても近視眼的な処方しか出せず、また国民も自分に関心のあること以外は丸投げの状況にあるように思えます。果たして今、どれほどの人が満ち足りた思いでいるのでしょうか。
 私は国のあり様が変わってきたのはやはり教育に大きな問題があると思っています。学校や家庭、地域での教育があまりに理屈に走り、ただ単に知識を詰め込むだけになり、機微や情緒を涵養することを怠ってきたことが根底にあるのではないかと思います。私は富むことが幸せであったり、欲しいものがすぐに手に入ることが幸せではなく、自分の周りが暖かいと感じればモノはなくても幸せだと思っています。作家の向田邦子さんが「幸福」の中で次のように書いています。「素顔の幸福は、しみもあれば涙の痕もあります。思いがけない片隅に、不幸のなかに転がっています。屑ダイヤより小さいそれに気がついて掌にすくい上げることのできる人を、幸福というのかもしれません」と。
 GNHという言葉があります。Gross National Happinessと言われる国民総幸福量のことで、国家経済の指標ではなく、心理的幸福や健康、教育、文化、環境、コミュニティー、政治、生活水準、自分の時間の使い方の9要素から構成されているそうですが、なんとこの国は178ヵ国中125位ということです。おそらく私が子供であった頃の方が上位にいたと思います。資源のないこの国はただ富を求めるだけではなく、本来の日本人が持っていた「惻隠の情」などの武士道的な思想や礼節、仁義などを育み、日本文化や伝統を大切にすることが、この国の世界における立場を高め、尊敬を得るのではないかと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.37 「尊敬する先輩」

2013年02月01日

 どなたにでも尊敬する先輩はいらっしゃると思いますが、今回はそんな先輩について書いてみたいと思います。
 師はあまりに遠い存在ですが先輩は年齢も近く、より身近に感じることができ、先輩の所作を見ていると自分にも出来るのではないかというような感覚を覚えます。ところがたった1~2年の先輩であっても手術の鮮やかさは勿論のこと、診断能力、治療戦略、それどころか人間性においても到底及ばないと思う先輩が時におられます。私にもそんな先輩がいます。
 その先輩のことは学生時代から名前だけは知っていました。学生の頃から同学年はもちろん、上の学年の人も下の学年の人も誰もが知っているという人が各学年に少数ですがおられます。先輩は空手の達人で、日本の学生空手選抜でヨーロッパ遠征をした時の主将を務めていたという話はあまりにも有名でした。しかしその先輩が卒業後第一外科に入局されたことは知りませんでした。
 その先輩と最初に会ったのは私が大学に帰局してからだと思います。研究室時代から病棟勤務時代を通じて一緒に遊び一緒に仕事をしました。その先輩の話を少々。
 お互い気心も知れて私の方は冗談も普通に言えるようになったと思っていた頃、私が何か冗談を言った後、「ちょっと来い」と病棟のとある部屋に呼ばれ、そこで「親しき仲にも礼儀がある」と説教をされました。何を言った後だったのか今はもう忘れましたが、恐らく私が先輩の微妙な琴線に触れることを言ったのでしょう。その後は私の口も少しはましになったのか注意をされたことはありません。空手の技に「三年殺し」というのがあると聞いたことがありますが、それは受けませんでした。もう一つ、朝の術前カンファランスである医師が胃癌の内視鏡所見をプレゼンしました。そこでポツっと一言、「ストーリーがない写真だな」。確かに病変部は遠いところから近接までそれなりに撮れているのですが、病変の全貌を明らかにするような撮り方ではなく、さらに胃の入り口である噴門から病変までの距離も良く分からず、また残るべき胃の上部は十分観察できていないような写真でした。手術を意識して内視鏡検査をしなければならないということなのでしょう。この言葉を聞いて私もなるほどと思い、自分で検査をする際には勿論のこと、他の人の内視鏡所見もその目で見るようになり大変参考になりました。
 大学は私の方が先に辞めました。先輩は長く大学におられ助教授を務められた後、関連病院に赴任されました。ある年、暮れも押し迫った12月29日に突然先輩から電話があり、「話がある」と言われました。病棟勤務時代の呼び出しがフッと頭をよぎりましたが、当日は広島で仕事をしていたので翌日に会う約束をしました。話の内容は見当がつきませんでしたが、実際に会って話を聞くと「院長を辞めて外科医に戻る」という内容でした。相談というより決めたことを伝えたかったということでした。日赤病院の院長をされていたので定年まではまだまだあったのですが、自分のその後を考えることもなくすっぱりと辞められ、四国霊場88か所の巡拝をされました。現在は開業病院に勤務され、その卓越した外科手術を若い医師に伝えておられますが、幾つになっても頭の上がらない尊敬する先輩です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.36 「友人」

2013年01月16日

 松の内も過ぎ、病院ではいつもと変わらぬ日常が始まりました。ただ、寒いと活動性も低下しますし、休み明けということでなかなか仕事のペースが戻らないこともあるのではないかと思います。
 正月の楽しみに賀状があります。私は賀状に関しては結構マメで、高校生の頃から友達に賀状を出していました。大学、社会人と人の繋がりが増え行動範囲が広がるにつれその枚数も多くなって今では900枚くらいの賀状を出しています。研修医や患者さんからの賀状にも必ず返信を出すようにしていて、結果的にこんな枚数になってしまいました。以前は一人ひとりに定型文に加えて2~3行の文章を入れていたのですが、さすがに最近は枚数も多くなってきたので、親戚、先輩、同僚、後輩、患者さんなどとグループに分け、それぞれ文面や構成を変えて出すようにしています。
 おそらく私の手許に届く年賀状の中で最も古くから来ているものは中学卒業時からやり取りをしている2枚だと思います。もう50年ほどになります。しかしこの相手とは中学を卒業してから一度も会ったことがありません。なので、今顔を合わせてもお互いが判らないかもしれませんが、彼らの年賀状を見ると瞬時に中学生の頃の記憶がよみがえってきます。「どうしているだろうか?会いたいな」と思いますが、なかなか実現できません。
 私は決して生涯を通じての友だけが真の友だとは思っていません。その時その時、真剣に付き合った友はすべて真の友だと思っています。どの時代の友と今会ったとしても付き合っていた当時と同じ気持ちで接することが出来ると思います。お互いの仕事が違っていて、たとえ今共通の話題がないとしても、その時代の話で盛り上がるのは間違いないですし、そこから今日までの話は途切れることはないだろうと思っています。学生の頃、友人と「親友論」を論じたことがあります。私は「相手が生きるために自分が死ねばいいのなら死ぬことが出来るのが親友だ」と言いました。彼に対してはそんな気持ちで付き合っていました。しかし、彼は「自分は死なない」と言いました。「そんなものか」とは思いましたが、今でも彼とは付き合っています。人それぞれでいろいろあるのだと思いますが、友人が多い人、信頼できる先輩・後輩が多くいる人は人からも好かれているでしょうし、その人自身も人が好きなのだと思います。
 病院も大きな組織ですから複雑な人間関係があると思いますが、その人間関係のゆえに患者さんの治療に問題が起こるようでは困ります。みんな仲良くが理想ですが、仲が良すぎてなあなあになりチェック機構が入らないのも問題です。ここはプロフェッショナルとして切磋琢磨し最高のパフォーマンスを発揮してほしいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.35 「責任ある医療」

2013年01月04日

 新しい年が始まりました。皆さん方も年末年始は過ぎた年に感謝し迎える年に祈りを込められたのではないかと思います。
 若い頃はそばにいつも臨床があり、その診療に追われてなかなかゆったりと年末年始を過ごすということは出来ませんでしたが、最近は除夜の鐘も聴けるようになり近所の神社に初詣にも行けるようになりました。これまでは年中行事のように丹後の田舎に1月1日から3日まで帰り両親と過ごすようにしていましたが、昨年の正月からそれもなくなり寂しい気持ちにもなっています。
 前回、PDCAについて少し書きました。やはり年始めは1年の計を立てなければなりません。今年は「責任ある医療」を職員に訴えていきたいと考えています。
 人は多くのものに責任を負っていると思います。共存する人に対して優しくする責任、親に対する責任や子に対する責任、家に対する責任、仕事相手に対する責任、製造業の人であれば良いものを作るという責任などさまざまな責任があります。医療であれば何よりも患者さんやご家族に対する責任、他の医療機関に対する責任、チーム内の同僚に対する責任や病院に対する責任など、本当に責任だらけだと思います。この責任をしっかり果たすことが、信頼を得る最も大切なことだと考えています。これができない人は去るしかないと思います。同じ医療機関であっても地域における役割は異なっています。私の勤務する福山市民病院は地域における基幹病院で、地域においては救急医療やがん治療の拠点です。臨床において、あるいは学術においては地域をリードする病院でなければなりません。これを成し遂げてこそ真の職員であり、地域に対する責任や病院に対する責任を果たしていると言えると思っています。
 わたしはこの1年間、きっとこのことを言い続けると思います。職員にとっては耳に痛く、あるいはタコが出来るかもしれませんが、職務上仕方がないことだと考えています。
 さて、私の責任についても当然考えなければなりませんが、やはり何と言っても病院憲章にうたう「良質で信頼される医療」や「先進の救急医療」を行う環境を整備し、実践することが最大の責任であると考えています。しかし、実際はなかなか難しく、環境整備ではまず医師の確保が最も重要ですが、大学医局からの派遣もままならず、医師の待遇改善策も決して十分ではないと思っています。救急患者さんも100%の受け入れをしたいと思いますが、その時の状況によっては断らざるを得ない場合もあるようです。医師さえ十分確保できれば、との思いです。福山市は中核都市でありながら人口当たりの医師数は全国平均以下であり、どこかがマグネットの役割を果たして地域に医療資源を引き寄せなければならないと思っていますが、そのような病院になるべく努力を続けることを年初めの決意にしたいと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.34 「番外編―正月の風景―」

2012年12月27日

 今回は私の田舎の正月について書いてみたいと思います。しかしこれはあくまで私の家ではという話であって、その他の家がどうなのかは知りません。
 大晦日は朝早くから正月を迎える準備に大人たちは追われていました。父は床の間に鶴亀や七福神などの掛け軸を準備し、三方に鏡餅、みかん、昆布、つるし柿などを盛りつけ、母は家の中や庭先、神棚、仏壇の掃除をしながらおせちを作っていました。ちなみに鏡餅は自家製でこれは祖母と母が担当していました。子供たちの仕事はもっぱら廊下や窓ガラスの拭き掃除で、この仕事はお年玉も気になり結構気合いが入っていました。
 大晦日の夜は我が家の十大ニュース発表と紅白が定番でした。十大ニュースに刺激的なものはなく「テレビ購入」が一位になる程度のたわいもないことが殆どでした。テレビが初めて我が家に来たのは中学生の時でしたが、テレビのない時代もラジオに耳を傾けていました。ただ、紅白の時間もたいてい母は仕事をしていて、「今年もゆっくり見られなかったわ」と毎年のように言っていたのを覚えています。
 元日の朝は家族全員早起きです。父の前に全員で座ります。まず、父が「明けましておめでとうございます」と唱え、それに続いて家の者たちが一斉に「明けましておめでとうございます」と応えます。その後、父がその年の家の抱負、目標を言い、引き続き一人ひとりに「かくかくして欲しい」と言葉をかけ、お年玉とみかん、つるし柿を手渡します。ただ、お年玉は子供たちだけです。その後、家の者たちは相互に「おめでとう」の挨拶を交わします。曾祖父母が生きていた時には、母、祖母、曾祖父、曾祖母、弟の5人と挨拶を交わさなければならなかったのです。なんと他人行儀な!とずっと思っていました。この挨拶が済むといよいよその年最初の朝食になるわけですが、私の家では1月1日の朝はぜんざいと決まっていました。普通は雑煮だと思うのですが、理由は分かりません。もちろん、おせちはニシンが入った昆布巻き、焼き豆腐、きんぴらごぼう、数の子など普通のおせちでしたが、ぶりの照り焼きはありませんでした。ぶりの照り焼きは社会人になってはじめて経験しました。
 父は朝食を済ませると同じ部落の親戚の家、隣近所などに年始の挨拶に廻ります。当然我が家にも多くの人が廻ってこられます。この対応は母の役目でした。そうこうしていると年賀状が届き、まず私と弟が目を通し父の分、母の分、われわれの分と分けるのが常でした。父には何百枚かの年賀状が届いていましたが、いつかは抜いてやろうと本気で思っていました。
 丹後の冬の空はどんよりとした空で寒く、結構雪も降りますが、他の多くの家でも家の中では家族のだんらんがあり、ほんのり暖かい空気に満ち溢れていたと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.33 「年の終わりに」

2012年12月21日

 平成24年もあと僅かになりました。皆さん方にもいろいろなことがあったと思いますが、果たしてどのような年であったのでしょうか?
 人が行動するのにPDCAという言葉があります。つまりP(Plan)、D(Do)、C(Check)、A(Action)ということですが、多くの人は個人にとって、あるいは組織にとっての目標(Plan)を年初め、あるいは年度初めに考えることが多いのではないかと思います。このサイクルを常に回しつつ前に進んでいけば、普通は昨日の自分より明日の自分のほうが人間的にも成長しているということになるのでしょうか。病院も同じでPDCAを回さなければなりません。
 私は平成24年の病院の目標として(1)優しい医療、(2)安全な医療、(3)効率的な医療の三つを挙げました。医療を行う上ではごく当たり前のことでわざわざ標榜しなくてもいいことかもしれません。しかし、この当たり前のことをどうしても今年は取り上げたいと思いました。つまり、これらは医療の原点だと思うからです。
 福山市民病院は平成25年の春に106床の増床を控えており、昭和52年に当院が開院した時の「いつかは500床の病院に」の目標をついに達成することになります。平均在院日数が30日の時代から10日少しになってきた現在、病床数を少なくする医療機関が多い中で増床を行うことは勇気がいることでしたが、地域で医療を完結させるには当院がさらに病院力をつける必要があり、そのためには増床が必要と判断したわけです。今の医療水準を維持するだけでは増床は必要がないと思います。他院と違う、特徴のある医療を行うことが地域の役に立ち、そのための増床と考えています。この三つの医療目標は、当院の職員にもう一度医療の原点に立ち返って自分自身を見つめなおし、新しい自分になって来るべき春に備えてほしいとの想いで掲げたものです。
 しかし、この目標は完璧に達成できたとは言えませんでした。手術数や学会活動、平均在院日数や紹介率、病院収支などは目標を達成していますが、残念ながら医療事故はゼロではありませんでした。患者さんやご家族を思うと本当に申し訳なく思っていますし、これからも100%安全な医療を目指して取り組んでいかなければならないと考えています。
 年の終わりはCheckということになります。医療のレベルやしくみは時代とともに変わっていくとしても、「病む人を医師が手当てする」ということは変わることはありません。医療が高度化し、いろいろな職種ができ、チームでなければ対応できない時代になっているのは事実だと考えますが、当院の職員には決して医療の原点を忘れることなく、来るべき春に備えて自分自身のPDCAをいっそう回してほしいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.32 「あれから1年」

 昨年の12月に両親を亡くしたことは、以前このコーナーにも書きました。早いものであれから1年が過ぎようとしています。まさに「光陰は矢の如し」です。誰にとっても時間の長さは同じであるはずですが、感じ方は年齢と逆相関していて、60歳の大人の1年は10歳の子供の1年より6倍速く過ぎて行くように感じるのだそうです。
 私は人は強いと思っています。実際に診療をしていて、患者さんに「がん」であることを告知しなければならない場面がしばしばあります。私は患者さんが一人の場合は告知はせず、必ずご家族に同伴して頂くようにしています。そんな場面でなるべく柔らかく、ショックを与えないように(これは医療者の思い込みかもしれませんが)、希望を持って頂くように説明をします。多くの患者さんの頭はパニックになっているだろうと思いますし、「がん」という言葉を聞いた後の説明は全く聞こえていないかもしれません。従って説明する場合には同じ言葉を何度も何度も繰り返して、なるべくわかって頂くように気をつけています。その後手術までの患者さんをみていると、絶望、葛藤などの気持ちから受け入れに変わり、闘う気持ちに変わっていくのがよく分かります。私の専門分野の膵臓の悪性疾患は消化器外科の中では現在でも治りきる人は少なく、手術で取りきれたと思っていても肝臓に転移をしたりお腹の中に癌が散らばった状態で再発をしてきます。近年、新しい抗がん剤が開発されていて、確かに以前に比べれば効果はありますが、薬で治りきることはありません。こんな治る見込みのない再発をしてきた患者さんに説明をするときも初めてがんの告知をする場合と同じです。そしてその受け入れも私には殆どの人が同じに見えます。もちろん、そこに至るまでにはご本人だけではなくご家族の方々の多くの涙がこぼれて落ちているとは思いますし、ご家族の前では涙は見せなくても一人で万感の涙を流され、自分の人生を振り返り、そして限られた命を受け入れる、恐らく多くの人がそうだろうと思います。
 両親の死の後、私はしばらく意欲が低下しました。私を良く知る人がその頃の私を見れば何かいつもと違うなと分かったのではないかと思います。以前、祖母が亡くなった後、古武士のような父も一気に心身が老けたように記憶しています。自分の生まれた時のことを知っている家族は皆無になったことに寂しさを感じます。しかし、時も経ち、いつまでも何もしないわけにはいかず、次第に心の中でこのイベントの占める割合は小さくなっていきました。ただ、何気ない時に両親を思ったり、故郷を思ったりすると今でも涙は滲んできます。これはこの先も変わらないだろうと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.31 「外科医39年―その3―」

 多くの外科医は「手術がやりたい」から外科を選択したのだと思います。確かに向き、不向きもあるでしょうが、手術の嫌いな人が外科を選択するはずはありません。そして、外科医はいつも「手術が上手くなりたい」と思っているはずです。
 私が最初に赴任した病院では大きな消化器外科の手術を実際に執刀することはありませんでしたが、とにかく手術に飢えていた状態で、殆どの日曜・祭日も病院に行き、日直の先輩医師の仕事を手伝っていました。腹痛の患者さんが来ればまず私が外来に行き、所見を取り、白血球を数え、先輩医師に報告し、虫垂炎だと診断すればその執刀をさせてもらっていました。自分が助手をした手術はもちろん、麻酔の担当であった手術であっても開腹から閉腹までの手術の流れや術者の操作を覚えようと努力し、夜寝る前には布団の中でその操作を反芻していました。途中で記憶が途絶えることもしばしばありましたが、翌日には手術書を読み、次に同じ手術を視るときには記憶がとんでいる部分をしっかり視るようにしていました。若い頃は「手術は実際にやらないと出来ない」と思っていましたが、そのうち「視れば出来るようになり」、次は「読めば出来るようになる」と思うようになりました。そして最後は「自分の手術を創る」ことになるのだと思っています。また、外科医は器用でないと出来ないと思われているのかもしれませんが、決してそのようなことはありません。私自身、箸を普通に使うことが出来ませんし、手先は不器用だと思っています。外科医にとって最も大切なことは手術を組み立てる戦略で、つまるところ、敵を知り己を知る冷静な頭だと思います。
 私が医師になってから最も影響を受けた3人の先生については。このシリーズの「No.8 再び邂逅」で記していますので見て頂ければいいのですが、最初に出会った先生がこの倉敷の病院の副院長でした。4年間の在職期間の間、毎日副院長宅で朝ごはん、晩御飯を頂き、風呂に入り、洗濯までしてもらい、息子のように可愛がっていただきました。出来の悪い私が、何が起きるかわからない救急主体の病院で無事に研修を終えることが出来たのは、院長や副院長のご家族をはじめ、多くの病院スタッフのおかげであったと今でも感謝をしています。現在の院長は私の大学研究室の1年後輩ということもあって、時に手術の手伝いに行くことがありますが、病院に入ると何とも言えない安らぎを今も感じています。
 そして、1977年、いよいよ次の病院に赴任することになりました。
 この続きは2013年のどこかで書きたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.30 「外科医39年―その2―」

2012年11月22日

 大学病院での研修を終え、私が最初に赴任したのは倉敷市内の150床規模の外科系開業病院でした。現在では外科系の疾患だけを扱うような病院で最初の研修を行うことはまずありませんが、当時は普通でした。医師数は院長を含めて外科の常勤医が6名、大学からも診療援助に若い先生が来られていました。外科以外にも脳神経外科、整形外科がありましたが、これらの科は大学から医師が週に何回か来られて診療をされていました。
 今でも昔でも研修医にとって大切なことは「救急のABC」の習得です。AはAir way(気道確保)、BはBreath(呼吸管理)、CはCirculation(循環確保)ですが、救急医療を行う上ではまずこれらのことがある程度できなければなりません。例えば気道確保を行うには気管の中にチューブを入れて(気管内挿管)バッグか人工呼吸器かで肺に酸素を送り込むのですが、この気管内挿管というのが難しいわけです。全身麻酔の手術の際には必ず行う処置ですが、手術の時に先輩に教えてもらっても何回も失敗してしまいます。まずまずのレベルになったと判断されたらいよいよ当直が始まります。この病院は救急病院であったので救急車がよく来る病院でした。当直業務が始まった当初は先輩たちが遅くまで病院に残っていてくれて「何かあれば手伝うよ」という態勢ですが、深夜になれば帰っていかれます。それから翌日の朝までの7時間ほどは当分の間は不安でした。猪首の人は挿管が難しく、挿管が出来なかったら命に関わるしどうしようと本当に不安な気持ちで当直をしていました。しかし、当直のある日、猪首で肥満のある人が腹部刺創によるショック状態で救急搬送されて来られましたが、無心の内に挿管し、血管確保も行っていました。私は麻酔を担当しましたが、手術が終わって院長から「ご苦労さん」と声をかけられた時には、初めて役に立ったと思い、これ以降は当直に対する不安な気持ちも次第に消えていきました。
 私はこの病院に4年間いましたが、大きな消化器外科の手術はあまり経験できませんでした。腹部外科の手術で最も多かったのは急性虫垂炎で、その他、胆嚢結石や胃潰瘍の穿孔(破れること)や出血などで、胃がんや大腸がんなどの悪性疾患の手術は多くはなく、進行症例などは大学から教授や助教授が来られて執刀をされることもありました。初めて見る手術は先輩と一緒に他の施設に見学に行ったり、主治医となって初めて術後管理をする症例の場合は大学病院まで行って点滴指示をまる写しにして帰り勉強をしていました。もともと怠け性だと自分のことを思っていますが、社会人になれば頑張ろうと決めていました。目の前の患者さんのことで判らないことがあれば患者さんに対して責任が果たせませんし、何よりも失敗や事故を起こせば田舎の両親に恥をかかせることになると思っていたからです。

若い頃から今に至るまで、両親が亡くなっていてもこの思いは変わりません。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.29 「外科医39年―その1―」

2012年11月12日

 病院のHPは医学部生も情報収集のために見てくれています。外科医志望者が減っている現在、私の外科医としての歩みを書くことも意義があるかもしれないので少し記してみたいと思います。
 まず、外科の選択理由ですが、性格的に内科系よりは外科向きの性格かなと自分で思っていたことが最大の理由です。学生時代、東大内科の教授であった沖中先生の「14%の誤診率」の話を聞いて、「こんなに偉い先生でも誤診するのなら自分などいくら誤診するかもしれない、結果が早く判る外科の方がいい」と思いました。外科系の中では脳神経外科、心臓血管外科、消化器外科の選択で多少考えましたが、一番身近な疾患を扱うのは消化器外科だろうと思い、岡山大学第一外科に入局しました。
 同期入局は14名でしたが、約3ヵ月の間、大学病院で新人は一人ひとりオーベンと呼ばれる指導医について外科のイロハを教わります。また、朝は7時頃開始のオーベンからの1時間ほどの一斉講義があり、学生時代から夜型人間になっていた私にはこれはかなり苦痛でした。教授や助教授の回診日にはこの早朝講義の前には受け持ち患者さんを診て回り、もし発熱などがあれば自分で患者さんの耳たぶから血液を一滴とり顕微鏡で白血球をカウントしたり、尿を遠沈し細菌を調べたりしておかなければなりませんでした。検査を怠っていればオーベンから大目玉は当然で、その日の昼ごはんや晩ごはんは自前になってしまうわけです。ちなみに新人のことをノイヘレン(略してノイ)と呼んでいましたが、ノイの仕事は回診準備や回診につくこと以外に、手術助手や指示出し、検査の介助などでした。本当に朝早くから夜遅くまで病棟で仕事しクタクタ状態になりますが、時にはオーベンが食事に連れて行ってくれたり、懐具合によってはさらに行くということもありました。かなり濃密な3ヵ月ですが、このことで「同じ釜の飯を食った同期の絆」、「外科に対する忠誠心」、「ファイティング スピリット」などが植え付けられたように感じています。
 私のオーベンは大学卒業後12年ほどの医局では中堅のN先生でした。温厚な先生で、膵臓や胆道疾患を主に診ておられました。物事を途中で投げ出さない、やるときはとことんやる、こんな評価をよく耳にしました。また「Nの前にNはなく、Nの後にNはなし」とも、私の後輩の結婚式のスピーチで当時の助教授が言われたこともよく覚えています。この時はN先生とは3ヵ月の師弟関係だったのですが、5年後にまた私は仕えることになりました。これまでもこれからも私にとっては感謝しきれない恩師です。
 ちなみにわれわれの同期は一人交通事故で亡くなりましたが、その後一人増え、今でも14名です。入局以来、毎年2回、それぞれの居住地を持ちまわりしながら同期会を続けていますが、今でも一番盛り上がるのはノイヘレンの頃の話です。

―次回へ-

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.28 「号外―初期臨床研修医マッチング結果―」

2012年10月29日

 平成24年10月25日、奇しくもプロ野球のドラフト会議の当日に、来年度の初期臨床研修医のマッチング結果が公表されました。このマッチングシステムは一般の方々には馴染みが少ないと思いますが、かいつまんで言えば、来年医師国家試験を受け医師となる予定の人達の研修先を決定するしくみです。臨床研修病院にはそれぞれこれまでの実績などから初期臨床研修医の定数が決められていて、希望者を何人でも獲得できるということはありません。医学生は病院見学をしたり、HPを見たり、クラブの先輩たちから話を聞いたりして情報を集め、志望先を決めます。しかし極めて人気の高い病院は定数も多いのですが、志望者も多く、受験成績によっては必ずしも自分の志望した病院に行くことができないケースもあります。要は相思相愛でなければ想いが叶わないのです。
 当院はこれまで5人から6人の研修医枠を頂いていました。5名枠のときは5名すべてが充足されたこと(フルマッチと言います)はありますが、6名フルマッチということはこれまでありませんでした。病院が大きくなろうとしている時に若い医師から人気がない病院では先が思いやられますし、若い医師が少なければ病院の活気も無くなってしまいます。私が院長になってからはとにかく若い医師を増やそう、当院で初期研修を行ってくれた医師を後期研修医として病院に残ってもらおうという思いで、それを声にも出して言ってきました。病院の指導医、研修医たちも学生が病院見学に来た際などにはこの病院の素晴らしさを伝え、夜は一緒に食事をしたりしていたようです。その効果もあってかどうか、ついに福山市民病院は来年度初期臨床研修医6名フルマッチの結果を得ることが出来ました。6名フルマッチは病院の悲願でしたので大変うれしく思っています。
 今、私の手元に昨日発表のあったマッチング結果の一覧表があります。当院は幸いフルマッチでしたが、同じ県内でも10名を超える欠員が出ている大きな病院がありますし、他県ですが当院と変わらない医療機能を持っていながら(研修医定数も6人)マッチ0という病院もあります。広島県全体でみれば187人の定数のうちマッチしたのは139人でマッチ率は74.3%でした。行きたい病院に行けない研修医や、しっかり研修ができる病院でありながら研修医が来てくれない病院のことを思うと、このマッチングシステムも改良する必要があると思っています。地方にありながら多くの研修医を集めている病院もあることは事実ですが、「都会の有名な病院で研修したい」という医学生の志向は今も続いていると思います。
 当院は足元をしっかり見つめ、院内の教育・研修体制をさらに進化させる努力を続けていたいと考えています。
  (このコーナーは月に2回の約束でしたが、昨日のマッチング公表を受けて号外と言うことで書かせて頂きました)

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.27 「医療訴訟」

2012年10月25日

 大きな医療事故(死亡事故や著しい身体障害が残るような事例)や、納得のできない亡くなり方をした場合、しばしば医療訴訟が起こります。いったん訴訟が起こると訴えられた医療機関も訴える患者さん側も多くの時間と労力を使うことになります。訴訟は決して生産的ではなく気持ちも滅入るので、なんとかそうなる前に話し合いで解決出来ればいいと思います。
 この国の医療訴訟は2000年前後から増加してきました。この原因として1999年に起こった重大な医療事故(横浜市立大学の患者取り違え事件、都立広尾病院の消毒薬の静脈内投与事件)や、患者さんの権利意識の高まりなどが挙げられています。しかし医療機関の安全管理対策も改革され、2004年の1,110件をピークに近年は減少傾向で2010年は793件になっています。
 私自身が個人で訴えられたことはありませんが、前任地で私も治療に関わった膵癌(肝転移あり)患者さんのご家族に、診断の遅れ、手術時の説明の不十分さ、化学療法に関する説明の不足、術後に起こった脳梗塞に対する治療の不的確さなどを理由に病院が訴えられるという経験をしました。この訴状を見ましたが、私自身も極悪非道で、医師としての適性に欠け、この世の中に害をなす者と激しく書かれていました。私は主治医として、この患者さんやご家族に対していつものように治療内容を説明し、同意を取り、お亡くなりになるまで真面目に一生懸命治療をしたつもりですが、ただお亡くなりになった時、院内にはいませんでした(無論、他の担当医は病室にかけつけています)。また、訴状によると、「亡くなる前日、こともあろうに重篤な患者がいるにもかかわらず、エレベーターの中で仲間の医師と高倉医師は談笑していた」と書かれていました。たしかに、エレベーターの中で奥様を見かけた記憶があります。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということなのでしょう。この訴状を読むまでこのご家族にはなんの感情も持っていませんでしたが、俄然戦う気持ちになりました。私の関係している部分については、相手の主張には文献検索なども行い真っ向から反論しました。この訴訟は一審、二審とも病院の勝訴でしたが原告側が最高裁に上告しました。最終的には最高裁では棄却され勝訴が確定しましたが、決着まで6年かかりました。
 「To Error is Human」という言葉があります。人は誰でも間違えるという意味です。病院でもこの前提に立って、重大な事故をどうやれば未然に防ぐことが出来るのか、2重3重のチェックシステムを取り入れています。また、事故が起これば何故起こったのかを検証し、必ずフィードバックし再発防止にも努めています。医療の世界でのミスは取り返しのつかない結果に直結します。医療従事者、一人ひとりがプロフェッショナルとしての自覚を強め、安全な医療に取り組まなければならないと心から思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

 No.26 「教育病院」

 この国ではいろいろな学会で指定する教育病院があります。私の関係する消化器外科の領域で言えば、日本外科学会外科専門医制度修練施設や日本消化器外科学会専門医修練施設、日本肝胆膵外科学会高度技能専門医修練施設などがそれに当たります。つまりこれらの教育病院に属し、学会で定められた手術執刀数を経験しなければ専門医の資格は取得できない仕組みになっています。外科の最も基盤となる学会は外科学会であり、外科を志す者は将来の進路が消化器外科であれ呼吸器外科であれ、あるいは乳腺外科であれ心臓血管外科であれ、この外科専門医を取得しなければその上位の専門医資格は取得できません。その外科専門医を取得するまでは外科修練開始後最短5年かかり、経験手術数が350例(領域ごとに経験最低数が決まっています)、執刀医として120例の経験が義務付けられています。一般の皆さん方はこの経験数を多いとみられるでしょうか、それとも少ないと思われるでしょうか?
 最近は、患者さんの高齢化などで以前に比べればリスクの高い患者さんが増えてきていますが、そんな背景の中で教育病院には研修医に手術を経験させる必要があるわけです。外科専門医程度ならばそれほど難易度の高い手術は実際には執刀することは少ないのですが、消化器外科専門医、高度技能専門医となると高度な手術を経験させなくてはならなくなります。最近ご自分やご家族が手術を受けられた方、手術前に担当医か主治医から、「この手術は研修医に執刀させてもいいですか?もちろん上級医がしっかり指導しますし、難しそうであれば上級医にすぐ変わります。手術はチームで行いますので大丈夫です。」などという説明を受けられたでしょうか?私が主治医として患者さんを診ていた時には必ずこのような説明をしていましたが、患者さんから「いや、若い先生は困る。先生にしてほしい」と言われたことはほとんどありません。医師と患者さんの信頼関係が作られていたら、患者さんはしっかり教育病院としての役割も理解して頂けると思っています。しかし、医師にもいろいろな人がいて、こんなことは一切言わない医師もいると思いますが、私は誰が手術をしたのか、誰がその手術チームの責任者なのかということを患者さんは知っておくべきだと思っています。
 教育病院で決められた期間、決められた手術などの臨床経験を積むなど一定の資格をクリアし、試験を受ければ専門医になるわけですが、この専門医制度にも多少の問題があり、現在改革に向けて討議されています。ビデオによる実技審査が必要な分野もあれば必要のない分野もあったり、診療報酬上、専門医が執刀しようが専門医以外の医師が執刀しようがその手術の保険点数が同じであるなど課題があると思っていますが、そのことはまたの機会に記します。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.25 「1年の便り」

2012年09月27日

 広報室長から依頼され病院HPのコーナーに拙文を寄せるようになってちょうど1年経ちました。月2回、月始めと月半ばに原稿を広報室へ届けています。こちらからはどれくらいの人に読んで頂いているのかは分かりませんが、知人の医師や病院の職員、委託業者の人から、あるいはドイツに住む姪や弟の学校関係者の人達からも「読んでますよ」と耳に入ってきています。そうなると余計下手なことは書けないな、と思いますが、これまで通り「思うこと」を書いていこうと考えています。
 思えばこの1年は私にとってまさに激動の1年でした。私は運勢というものにはこだわらない性質で、昨年が私にとって易学上どのような年であったのか全く知りませんが、個人的には良い年ではなかったと思っています。まず、夏の始まりの頃、38度を超える熱が3~4日続き、胸のレントゲン写真を撮ったところ、ものの見事に肺炎になっていました。そういえば昨年の死因の第3位に初めて肺炎がなっていましたが、肺炎などというものはもう少し高齢の人の病気かと思っていました。これは入院せず、朝夕の抗生物質の点滴で治しましたが、若くはないということを実感させられました。そして、このコーナーでも書かせて頂きましたが、12月に母と父が相次いで亡くなりました。母については覚悟がありましたが、父は本当に突然だったのでショックでした。これまで多くの患者さんを看取り「死が当たり前」になりかけていましたが、近い肉親との別れを経験し、家族の気持ちを忘れかけていた自分を感じました。
 勤務する病院の方は昨年の夏から増築工事が始まり、こちらのほうは順調に進んでいますが、昨年から院内で医療に係わるアクシデントやインシデントがやや目立つようになりました。福山市民病院は三次救急を行っている病院ですが、一般的に救急を扱う病院はどうしても患者さんの身体状況の把握などが難しいことや重症度が高いこともあり、そうでない病院に比べて医療事故が多いと言われている中で、あまり事故が起きていないという印象を赴任当時から感じていました。しかしこれは間違っていたようです。安全な医療は医療を行う上では最も大切なことであり、原因を明らかにして2度と起こさないシステムや安全が当たり前の風土を創っていかなければならないと思っています。
 しかし、悪いことばかりでもなく、良いこともありました。両親は亡くなりましたが年明けに孫が生まれました。思えば私が生まれた年にも父方の祖父と高祖母、母方の祖父が亡くなりました。私自身はこの年まで肺炎を患ったくらいで元気で生きてきましたから、是非、この孫も元気に育ってほしいと念願しています。
 追伸です。運勢にはこだわらない私ですが、少しでも安全な医療が提供できればとの思いで、先日、副院長や看護部長、参事、事務部長たちと安全祈願のため近くの神社にお参りしました。是非、神様に聞き届けて頂ける事を願っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.24 「医療連携」

2012年09月12日

 しばらく医療のことについて記していませんでした。今回は近年言われている医療のKey Wordsの中から「医療連携」について書いてみたいと思います。
 「医療連携」という言葉も比較的新しい言葉ですが、実はこれも以前からあったことです。私が初めて赴任した病院は倉敷市の外科系個人病院で主に一般外科、整形外科、脳外科を扱っていました。その他、老人の慢性疾患患者も入院していました。現在、その病院は肝胆膵外科学会の高度技能医修練施設にも認定されるほど頑張っている病院ですが、当時は外傷や急性虫垂炎や潰瘍穿孔など外科的な救急疾患を多く診る病院で、なかなか消化器の悪性疾患の手術はありませんでした。そんな中で当時の院長はクリニックから紹介されてくる虫垂炎などの患者さんの受け入れを絶対断らないこと、手術後や退院時には紹介医に電話をしたり手紙を書くこと、患者さんを紹介元に帰すことをいつも言われていました。つまり、40年ほど前にもこのような「医療連携」はあったのです。
 しかし、確かに最近の「医療連携」は以前のものとは少し違ってきているのは事実です。医療資源に限りがあることや、各々の医療機関の機能に少し違いもあり、すべての病院が同じことをやる必要はないという考えから機能を分担し連携しようという仕組みです。以前は一つの病院で簡単な手術から年に数例の複雑な手術までやろうとしたり、退院した後もその患者さんをずっと診たりしていましたが、現在は地域で患者さんを診よう、その地域の病院群をひとつの病院と考え、地域で医療を完結させようという考え方です。国は病院をその病院の扱う患者の特性や医療資源投入の多寡などにより、「急性期病院」、「慢性期病院」、「療養型病院」などに分けようとして、その動きを加速させてきています。いずれ時がたてば地域において病院の機能分化は進むのでしょうが、急性期をやろうと思っている病院はなかなかその看板を下ろすことが難しく、病院間での生き残り競争は激しくなるのではないかと思っています。
 福山市民病院のある福山・府中医療圏は人口50万人余りの医療圏ですが、人口当たりの医師数は全国平均以下で、若い医師が減ってきています。この圏域の最大の問題点は小児救急で、小児科医の高齢化と医師数の減少によって小児二次救急を圏域で診ることができない日が月に何日かあります。小児科医を一つ、あるいは二つの病院に集約して全ての患児を診るというふうにすれば多少は良いのでしょうが、どの病院も事情があり、現有の医師を抜かれることにはきっと大反対でしょう。かく言う私も僅か2名の貴重な小児医が引き抜かれることがあるのなら断固反対をするつもりです。医療連携は進めなければならないのは事実ですが、つまるところ根っこの部分では病院間の競争の結果で「やむを得ず」進むということもあるのだと理解しています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.23 「夏の思い出」

2012年08月30日

 9月に入り朝夕は涼しく感じるようになりましたが、今年の夏も猛暑が続き多くの熱中症患者も発生し、8月21日現在63名の人が亡くなったと報道されています。私が子供の頃は吹く風を熱風と感じるようなことは無かったと記憶していますが、今年の夏もやはり熱い風を感じました。大気汚染が進み、道路が舗装され、ビルが建つなどコンクリートがあふれてきたからでしょうか?
 こんな今年の夏のある日、何気なく空を見上げたら入道雲が見えました。その雲は少しずつ形を大きく、また背を伸ばしていっているように見えました。誰かに似ているかなと思いながら見ていましたが、そのうち子供の頃のことを思い起こしてきました。そんなことを思いだそうなどと言う気持ちで見ていたのではないのですが、自然にそんな気持ちになっていました。
 この時いろいろ思い出したことの中に、小学6年生の時の夏休みの宿題、「自由研究」がありました。私の田舎近くに峰山町という町がありますが、この町は奥丹後地方の中心の町で、私の田舎では人や物が集まる町だと思って下さい。私の田舎からこの町に行くルートは2本あり、一つはバスが通っている主要道路、もうひとつが距離は近いのですが舗装もされていない狭い道です。この二つの道路の交通の実態、つまりどんな車(田舎のことなので自転車も含む)が、どの時間帯に、どれくらい通るかなどを調査したのです。この研究を立案したのは父で、実際の調査は、二つの道が見通せる場所から私と弟の二人で行いました。朝から夕方までゴザに座り「あっち、トラック1台!」などと声をあげて「正の字」を書いて記録していたのだと思います。当時の田舎にはまだ車は少なく、子ども二人でほぼ正確に車の種類や台数なども目視し記録することが出来たのです。勿論、研究ですからただ単にその結果をグラフ化するだけではなく、結果についての考察も行いました。思えば私の最初の研究はこれだったのです。ちなみのこの研究は4年後に弟もして、その結果を私の時と比較検討しました。なかなか高い評価を得たようですが、この時の実地調査には私は参加していなかったように記憶しています。
 その他、最初、父に海に連れて行ってもらい泳ぎを教えてもらったことや隣組から出した貸し切りバスに乗って母や弟と行った海水浴のことなど、何故だか子供の頃のことばかり思い起こして、そして不思議に傍らに親がいる光景ばかりで、思わず涙が滲んできました。入道雲を見たのがお盆前だったからでしょうか?初盆の両親が私を呼んでいたのかもしれません。
 次の夏も元気で迎えられたらと思いながら秋を待つこの頃です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.22 「閑話ーオリンピックの感動ー」

2012年08月13日

 ロンドンオリンピックが終わりました。皆さんも寝不足になりながらテレビでいろいろな競技を観戦されたことと思います。競泳陣の頑張り、体操の内村選手の快挙、その他、男女サッカーや卓球女子、アーチェリー、フェンシングなど団体競技での健闘が見る者を熱くさせてくれたと思っていますが、皆さん方はいかがだったでしょうか?
 私が記憶している最も古い夏のオリンピックは1956年に行われたメルボルンオリンピックです。水泳の古川選手や山中選手、レスリングの笹原選手のことなどをよく覚えています。しかし、今、競技を見て覚えるほどの感動はなかったように思います。まだ小学生だったので恐らくメダルの価値も、そこに至るまでの選手の苦労も分かっていなかったからだと思います。やはり、感動を覚えるにもそれなりの人生経験が必要だということでしょうか。歳をとると涙もろくなると言います。今回も北島選手に対する松田選手のコメントなどを聞くと涙がこみ上げてきました。しかし私はこれは歳のせいではなく、松田選手の北島選手に対する感謝の気持ちや、これまで日本の水泳を引っ張ってきた苦労へのねぎらいを私が感じたからだと思っています。多分、多くの涙は人の成長の証しだと思います。
 しかし、すべてのスポーツが同じように人に感動を与えるのかといえばそうでもありません。また同じスポーツであっても結果が分かっているような競技はそれほどの感動も得られないと思います。思えばオリンピックは高校野球の感動に似ているように感じます。オリンピックは4年に一度、一度チャンスを逃がせば次の舞台には立つことが出来ないこともあります。高校野球も高校3年間しか経験することは出来ません。限られたその一瞬に勝負を決する潔さも感動を生む原点なのかも知れません。
 競技には必ず勝者と敗者がいます。みなさんもそうだと思いますが、私はそのどちらにも拍手を送りたい気持ちになりますし、一人ひとりのコメントを聞き、結果に至るまでの彼らの長い努力や自己犠牲を思うと頭が下がる思いをしています。称賛は決して勝者だけのものではないと思っています。
 私のオリンピックの原点からもう56年も経っています。その間、この国でもオリンピックは開かれましたが、今回のオリンピックを見てまた開かれてもいいのではないかと思うようになりました。確かに国の財政は厳しく開催するべきではないという意見も理解することは出来ます。しかし、みんなの思いを一つにすること、絆を肌で感じることが出来ることなど、忘れかけたこの国のIdentityを思い起こすきっかけになるような気がしています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.21 「チーム医療」

 近年、医療の世界では「EBM(根拠に基づく医療)」、「インフォームド・コンセント(説明と同意)」、「チーム医療」、「医療の質」などという言葉がよく使われていますが、一般の皆さんはどのように理解されているでしょうか?これらは確かに近年になってよく耳にする言葉ですが、医療の世界では実臨床としてなら以前から行われていたこともあります
 たとえば「チーム医療」、皆さんはどのような医療を「チーム医療」だと思われますか?おそらく多くの方が、患者さんを中心にして医師や看護師、薬剤師など医療に携わる者が情報を共有し協調して患者さんの医療に当たることと思っておられるでしょう。私もそう思っていますが、以前の医療はそうではなかったのでしょうか?そのようなことはありません。今も昔も医療は医師一人で出来るものではなく、医師は看護師に介助をしてもらいつつ患者さんを診察し、薬を処方すれば薬剤師がそれを調合し、リハビリの処方が出れば理学療法士などがその指示のもとでリハビリを行っていました。つまり以前から医療は「チーム医療」なのです。ではなぜ近年になって「チーム医療」という造語が生まれたのでしょうか?私はその要因として医療(情報)の複雑化、医療従事者の多忙さ、患者さんの多さなどが挙げられるのではないかと考えています。簡単にいえば、以前は患者さん一人の情報はそれほど多くなく、単に口頭で他職種の人に伝えるだけでもその患者さんの情報は医療従事者の間で共有できていましたが、最近は一人の患者さんであっても多くの検査を受け、多くの薬を内服し、治療選択も多岐にわたり、多くの医療従事者がそのすべてを熟知することが難しくなり、治療上問題が生じてくることが時に見られることがあり、「チーム医療」を推進しなければならない、などということになったのだと理解しています。
 「インフォームド・コンセント」も然りです。私が見てきた先輩医師たちはいつも患者さんやご家族にいくつかの治療法を提示し、またその必要性を説明しておられました。確かに患者さんに対して「がん」という言葉を使ったり、場合によっては死に至る合併症まで事細かに説明はしていなかったかも知れませんが、私が若い頃は「癌=死」という社会通念であり、おそらく何よりも患者さん自身が聞きたくなかった言葉なのです。
 医療を行うも人、医療を受けるも人、ヒポクラテスの時代から医療者は患者さんや患者さんの家族を思って医療をしてきたことは間違いのない事実であり、これはこの先も変わることはないと信じています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.20 「閑話」

2012年07月17日

 病院の広報室長が「院長室より」というコーナーを設けますので何か書いて下さいと言って始まったこのコーナー、月に2回の更新をこれまで続けてきました。今回は公立病院の広報スペースを使って書くような話ではないかもしれませんが、沖縄と北海道以外はまだ梅雨の真只中ということで、雨の話を書かせて頂きます。皆さん方も雨にまつわる思い出はたくさんあると思いますが、雨の続く時期にはそんな思い出をたぐり寄せながら雨の音を聞くのもいいのではないでしょうか。
 いつの頃か「悲しき雨音」という大変美しいメロディの曲が流れた時期があります。とにかく人の心に響くメロディでよく口ずさんでいました。調べてみるとこの曲は、カスケーズ(Cascades)というグループが1963年にリリースした曲で、私が高校生の頃の曲ということが分かりました。多分、一番多感なころなので、余計印象が強かったのだろうと思います。
 私はこの曲に出会う前から雨の音を聞くことが好きでした。ソフトボールなどをして遊んでいる最中に雨が降るのはさすがに嫌でしたが、家の中で聞く雨音、とくに夜、布団の中やお風呂に入りながら雨音を聞くと何とも言えない満ち足りた気分を感じていました。今にして思うと、おそらく布団に入る前やお風呂に入る前には家庭の団欒があり、家族の温もりを感じていたからこそ雨粒の旅の終着に優しい気持ちになり、その音にさえ温もりを感じていたのではないかと思います。
 この雨音を聞くのが好きという癖?は今でも変わりません。やはり今でも雨音は心を落ち着かせてくれますし、たいした考え事などしていませんが、雨音を聞きながらの考え事には何か箔がついたような気もしています。
 最近、地球規模の気候変動が報道されています。変な時期に台風が来たり、けた外れの集中豪雨が各地を襲い、多くの人が被害にあわれています。地球の温暖化が主な原因であると言われていますが、その原因となっているのは紛れもなくわれわれ人類が営む生活です。太古の昔はどれほど空気がきれいだったでしょうか。流れる川もきっときれいで澄み切っていたと思います。
 私の先輩でエコ・サージャリー(エコの外科)を提唱されている方がおられます。外科で使う手術器具もディスポ製品であふれ、多くのごみを出しています。これらのごみは間違いなく環境破壊の一端を担っているのでしょうから確かに先輩の言われるようにエコの外科を考えてみる必要もあると思います。
 大きな雨粒であれ小さな雨粒であれ、雨音はいつまでもやさしく響くべきだと思います。
 蛇足ながら、「悲しき雨音」はネット上で聞くことが出来ます。どうか美しいメロディを聴いてみて下さい。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.19 「外科今昔」

2012年06月29日

 最近の外科も随分変わってきました。消化器外科領域では腹腔鏡下の大腸切除や胃切除が普通に行われ、最近では膵臓や肝臓の領域でも導入されてきています。かつては腹部を切開する際、おなかの中の臓器を傷つけることなく腹壁を一刀のもとに切開出来る人が手練れだと言われたりもしていましたが隔世の感があります。ちなみに腹腔鏡下の手術は患者さんの術後の痛みも軽く腸の動きの回復も早いので、術後早期に動くことができ、また食事の開始も従来に比べると随分早くなりました。
 TVドラマで外科医が手術の前に前腕から手先にかけての部分を洗っているようなシーンが出ることがあります。これを「手洗い」と言いますが、これも随分変わりました。私が若いころはかなり毛の硬いブラシで4~5分、ゴシゴシと洗っていました。もちろん水は滅菌水です。普通これを2回ほどしていましたが、相当痛くて皮膚に傷がつくようなこともありました。これも今では消毒薬か石鹸で揉み手洗いをして後はアルコールを刷り込む程度になりましたし、なんと水は水道水を使用するようになりました。
 外科の常識と言われていたこともいつの間にか消滅しています。たとえば消化管を切除して吻合した場合、吻合部位に内圧がかかり縫合不全が発生する危険性があることから必ず鼻から胃や腸の中に細い管を入れていました(経鼻胃管などと呼んでいます)が、今ではもう殆ど入れなくなってきています。またその管は「オナラ」がでるまでは入れておくものだと教わりましたが、最近では管を入れるにしても術後1日目には抜いてしまいます。食事は「オナラ」が出てからというのも常識でしたが、今ではそれにこだわらず術後早期から食事は開始しています。外科に限らず、まだまだ医療の世界にはいろいろな常識がありますが、やがてそれらの常識もきっと変わっていくものだろうと感じています。
 また、入院から退院までの流れも変わってきています。多くの病院では患者さんの在院日数を短くしていく必要からいろいろな検査は入院前に済ませ外来で手術日を決めてしまいます。患者さんの入院は大抵手術の1~2日前、入院した時にはおおよその退院日まで決められています。何か手術や術後管理がオートマティックに進められているような印象を持たれるかと思いますが、われわれ医療人はそのような印象を患者さんに与えることなく、優しく暖かい心の通った医療を行わなければならないと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.18 「onとoff」

2012年06月18日

 Onとoffをうまく使い分ける人が仕事でも成功するのだ、などと言われています。皆さん方はonとoffを意識して日常の生活を送っておられるのでしょうか?
 私自身のことを振り返ってみると、on、offがそれなりに機能していたのは高校生くらいまででした。中学生の頃は、学校で授業とクラブ活動、家では試験の前以外は勉強せずに完全にoff、高校生の頃も比較的規則正しい生活でした。大学生になると生活のリズムは昼夜逆転したり遊んだりでoffの時間が長く、まあ試験前だけは死に物狂いのon状態でした。そして医師になってからはもう芯からのoffは殆どありませんでした。そもそも医師という職業はこのon、offの切り替えがなかなか難しいと思っています。特に救急疾患に関わる診療科や手術を行っている診療科、人の生死に関わる診療科の医師たちは本来の意味でのoffの時間を取れることは無いと思います。いつ病院からの電話が鳴るかもしれず、電話で対応が出来る程度ならまだしも多くの場合病院に出かけて処置をしたり手術を行わなければなりません。たとえ電話で指示を出したとしても気になってしまい、もう心は完全にon状態になっています。私も週末に自宅へ帰っていたところ病院から容態急変の連絡が入り、岡山から広島まで深夜に車を走らせて帰り10数時間の手術を行ったことなど数えきれないほどの時間外緊急手術を行ってきました。もちろん、学会で遠くに行っていても連絡は入ってきますし、場合によっては学会場からとんぼ返りということもありました。
 こんな生活をしている医師の平均寿命はどうなのでしょうか?ある調査によると医師の平均寿命は76.6歳(2003年のデータ)で2005年公表のこの国の男性78.79歳、女性85.75歳に比べるとやはり短いようです。私も最近は患者さんを受け持つこともなく、以前のように病院から緊急電話が入ることは少なくなりました。それでもまだ枕元には電話を置いて寝るなど長年の呪縛から完全に解放はされていません。本当に不思議なもので電話と救急車の音にはどこにいても敏感になっているようです。もう少しすれば晴れて退職ですので久方ぶりにメリハリを効かせた生活ができるかな?と思っていますが、今度はoffだけになってしまって老化が加速度的に進むのではないかとも恐れています。
 つまるところ、on、offなど意識してもどうにもならないので、真面目にかつ自然に人生に取り組んでいればいいのではないかと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.17 「トイレの神様」

 2年ほど前、植村花菜さんの歌う「トイレの神様」がヒットしました。彼女はその中でおばあさんとの思い出を歌っていますが、実際この国ではトイレに神様がいると伝承されている地域があって、厠神と言われているそうです。私が子供のころ、私の家には物知りの曾祖父や曾祖母がいましたが、トイレを掃除すればきれいになるなどということは聞いたこともなかったので、私の田舎にはそのような言い伝えはないのかもしれません。しかし、私は男だったので敢えて言わなかった可能性もあります。
 ところで皆さんは神様を信じていますか?私はずっと信じています。それこそ私の場合はトイレが神様の居場所になっていることが多いのです。保育所に通っていたころと記憶しているのですが、近所の子供たちと一緒に隣町の教会に時々行っていました。教会ではお菓子を貰い、オルガンにあわせて歌ったり牧師さんの話を聞いていました。牧師さんは外人さんであったように覚えています。このころ覚えた歌が「浜辺の歌」でしたが、何やら悲しげな旋律であったことを覚えています。この時の牧師さんの話に神様の話が出てきました。恐らく「正しい行いをしなさい」と言われ、そのあとで「神様は願い事を聞いてくれます。どこでお祈りをしてもどんな小さい声でお願いをしても神様にはちゃんと聞こえています」というような話であったように記憶していますが、前段の「正しい行いをしなさい」についてはあっという間に忘れ去りましたが、この話を聞いて以来、何か困ったことがあるとなんでもかんでも「神様へお願い」をするようになりました。お願いが他の人に聞かれてはまずいので絶対大丈夫という場所、そうトイレでお願いをすることが普通になりました。トイレ以外の場所と言えばお風呂でしょうか。本当に何度も何度もこれまでお願いをしてきましたが、願い事で一番多いのは患者さんのことでした。自分の寿命と引き換えにこの患者さんを元気にしてほしいという願い事が多分一番多かったように思います。その願い事がすべて叶っていたら私はもうこの世にはいないかもしれません。
 医療関係者でない方がこんな話を聞けばびっくりされたり、神頼みで医療をやっているのかと非難されるかもしれませんが、医療の世界では常識では考えられないことが起こったりして、なにか超人的な力にすがりたくなることもあることを理解して頂きたいと思います。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.16 「座右の銘」

2012年05月14日

 書物を読むと時に著名人の座右の銘を目にします。座右の銘を辞書で引くと、まさに読んで字のごとくですが、いつも自分の座る場所のそばに書き記しておいて戒めとする文句、とあります。座右の銘の多くは古人の言葉を表わしたものが多いように思いますが、みなさんはどのような言葉を座右にしておられるのでしょうか?
 私はとくに座右の銘と言えるほどのものは持っていませんが、以前から大切にしている言葉としてなら「敬天愛人」という言葉があります。ただこれも子供のころに好きであった西郷隆盛がこの言葉を好んでいたということが理由で、深く意味も知ろうとしませんでした。しかし、医師になり人の生死に関わるようになってから次第にこの言葉の意味するところが分かってきたような気がして、自分なりの解釈を若い医師にもしばしば説明しています。私の考える「敬天愛人」は「医療の世界にはまだまだ分からないことが多く、真摯に患者さんや病に向き合わなければならない。そして医療や患者さんを敬い、かつその結果に恐れを持つべきである」ということです。長年の臨床外科医としての経験からそう思うようになったのですが、完璧と思った手術でも合併症を起こしたり、もうどうにもならないと思った患者さんが奇跡的な回復をしたり、「神の仕業」としか思えないことを何度も経験しました。おそらく多くの医師が同じような経験をしていることと思います。いかに現代医学が進歩したとはいえ、われわれの医学はまだ行きつく先のほんの入り口に辿り着いただけなのかもしれません。
 当院では初期研修医の研修修了式の日に彼らが希望する書物を贈呈するということを以前から行っています。そして、この書物に院長が何か言葉を書き記すことになっています。まず、下手な字が署名入りで残ってしまうというプレッシャーがあり、さらに下手なことは書けないというプレッシャーやそうそう毎年同じ言葉は書けないというプレッシャーもあります。当院の初期研修医は1学年5名ですが、みんなに同じ言葉という訳にもいかず私は一人ひとりに違った言葉を記しています。出来ることなら彼らの性格や進む診療科の特性などを考慮して少しは心に残る言葉を記したいのですが、もともと古書を読むということはなく四苦八苦しているのが実情です。今更ながら仕事以外に興味を持てなかった自分自身を反省していますが、仕事を終え、ゆったりとした時間が持てるようになれば書物に親しみ、残りの人生の道標となるような名言に出会いたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.15 「神の手」

2012年05月01日

 先ごろ、天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀された順天堂大学の天野 篤教授が「神の手」の持ち主として話題になりました。「神の手」とは人並み外れた技量の持ち主であったり、通常は手の及ばない領域にメスを入れたりすることのできる医師のことを言うのだろうと思います。確かにそのような手術を行うことのできる医師はいると思います。
 私は若い頃、外科の上司と手術について意見を交えたことがあります。私は誰でも努力をすれば手術はある程度上手くできるようになると言い、上司は手術はセンスであるので誰でも上手くできるものではないとの意見でした。どちらが正しいのかはわかりませんが、少なくとも「神の手」は誰にでも備わっているものではないことは確かでしょう。
 私は「上手い手術」にはふた通りの手術があると思っています。ひとつが「神の手」的な、こんな手術はとても自分にはできないと思わせてしまう手術であり、もうひとつが、例えば高難度の手術を執刀していて、手術についている若い医師にこんな手術は自分でもすぐにできると思わせてしまう手術です。私の恩師が「神の手」の持ち主であったかどうかはさておき手練であったことは間違いなく、また常人にはない創造性を持っておられ、その手術はいつ見ても「いとも簡単」であったことは確かです。もちろん私に同じ手術がすぐにできるはずもなく、恩師は後者に入る外科医であったと思っています。私も若い医師を指導する立場になってからは、このスタイルでいこうと思い、高難度手術を如何に易しく行うかということをテーマの一つにあげていました。
 もともと外科の手術はその外科技術を手取り足取り教えてもらうようなものではなく、徒弟が棟梁の技術を見て憶えていくのとよく似ています。センスというのはポイントの押さえ方が的確ということでしょうか。また、「上手い手術」を見たことがない人が「神の手」になることも困難なことだろうと思います。しかし、「神の手」の持ち主はそれほどたくさんいなくてもいいのです。世の中の多くの疾患は別に「神の手」でなくとも確かな治療をすることが可能です。私はむしろ外科手術においてさえ必要なものは「神の手」よりも本来人が持っている「理性と愛」だと思っています。やはり何よりも患者さんに対する、あるいは病気を治したいという熱い想いが大切なのではないでしょうか。
 もちろん、「神の手」にも「自称神の手」や「マスコミ神の手」など各種の「神の手」があることに注意をされることも医者選びの際にはご注意が必要かもしれません。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.14 「桜」

2012年04月10日

 今年も桜の季節がやって来ました。日本人ほど桜を好む国民もいないと言いますが、明治の頃にこの国が米国に贈ったあのポトマック河畔の桜の見物にも100万人を超える人が集まり「花見」を楽しむそうです。ただし、米国では花見でお酒を飲むことは禁止されているそうで、この国の花見とは少し様相が違うようです。
「願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」という西行法師の歌があります。皆さんは桜と言えば「満開」、「散りぞめ」、どの時期の桜がお気に入りでしょうか?なかなか花見を楽しむ時間がないのかもしれませんが、人として成長していくためにはやはり時節を感じる余裕がなければならないと思っています。
 この国には桜の名所がたくさんあります。これまで勤務してきた土地、土地にもみんなが花見を楽しむ場所がありました。福山ならばやはり福山城の桜でしょうか?庄原市の上野公園の桜も見事でした。その土地の花見を思い起こせば、そこで知り合った多くの仲間も思い起こします。庄原赤十字病院に勤務していたころはまだ外科医としての実力は不十分で、術者としての経験も少なく初めて執刀する手術が多く、とはいえ私自身が外科のトップという立場にあったので、とにかく患者さんに信頼してもらわなくてはならず、またその責任を果たさなければならないという思いで頑張っていたことを思い出します。
 私がこれまで見た桜でその数に圧倒されたのは津山市の鶴山公園の桜と弘前城の桜です。どちらも見事でした。花見と言えば多くの桜が美しく花開いている下で仲間と一緒にお酒を飲みながらというのが定番だとは思いますが、そんな風習は明治以降にソメイヨシノが全国に拡散したからで、それ以前は1本の桜を見て楽しむというのが一般的であったようです。こんな一本桜の中で特に雄大な五本の桜を日本五大桜というようですが、残念ながらどれも中部地方から東北にかけての桜でいつかは見てみたいと思ってはいますが、私はまだ見たことはありません。
 みなさんにもきっと思い出深い花見や桜があると思います。私にとって最も思い出深い桜は小学校に入学したその日に校門近くで咲いていた満開の桜です。私の実家近くには立派な桜の木がなく家族でどこかに出かけて花見を楽しむということもなかったので、枝が見えないほどの満開の桜をそれまで見たことがなかったのです。今はもうその桜の木は小学校ともども無くなっていると思いますが、私の心の中ではこの季節になると見事な花を咲かせてくれています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.13 「単身赴任」

2012年04月02日

 4月は病院にも新採用の職員が多く入ってきます。新卒の人に加え、当院に転勤してきた方々もおられます。どのような職業であれ転勤は日常茶飯事かもしれません。医師の世界では最初に勤務をした病院で退職まで仕事をするということはまずあり得ないことです。私も何回も転勤しました。私は1973年に医学部を卒業した後、6年間関連病院で研修しました。1979年に研究のため大学に帰りそれを終えた後、6年間ほど大学病院に勤務しました。大学病院での勤務期間は多くの人が半年から1年間くらいで、その後関連病院に赴任していくことが多いのですが、私の場合3年、4年を過ぎても教授から何故か声がかかりませんでした。当時借家をしていましたがこれが狭くなってきたので「家を建てると転勤の話がくる」というジンクスは知ってはいましたが、家を建てることにしました。すると間もなくジンクス通り教授から声がかかり、1988年4月に庄原赤十字病院という広島県北の病院への転勤を命ぜられました。家は3月末に完成しましたが、妻は建てたばかりの家は空けられないといい、子どもたちのこともあって結局単身赴任をすることになりました。今はもう24時間営業のコンビニは珍しくはありませんが、当時の庄原市には24時間営業の店はなく、手術で夜遅くなるともう開いている店もないので、カップヌードルや缶詰などを大量に買い込んでいました。こんな生活は体にいいわけがないことは分かっていましたが、自炊などしたこともなくどうにもなりませんでした。私の単身赴任はその後大学に帰った2年間を除き今でもずっと続いていて今年で23年目になります。
 若いころの単身赴任は自由気儘で、仕事以外に制約されるものもなく、空いた時間を自分の思うように使うことが出来るのが魅力で、レトルト食品や缶詰ばかりの毎日でもそれほど不便を感じませんでしたが、50歳も過ぎれば、自宅に帰れば食事の用意がしてあり、お風呂はちゃんとお湯が入っている方がいいと思うようになりました。いつか単身赴任の「How to」ものを書こうかと思った時期もありましたが、おそらくこれは実現しないでしょう。
 いま私の勤務している病院は岡山大学と川崎医科大学の医局から医師を派遣して頂いています。病院の立地が山陽道の福山東インターのすぐそばであることや、もともと岡山・倉敷に近いということもあって、岡山・倉敷から通勤している医師も何人かいます。私もそうであったように勤務地域への転居を奥様たちが嫌がっておられるのでしょうか?単身赴任族や長距離通勤族の職員の健康を気にしているこの頃です。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.12 「東日本大震災と父のこと」

2012年03月13日

 昨年の3月11日から1年が経過しました。亡くなられた方が16,000人近く、そして今なお行方が分からない方が3,000人を超えており今更ながら自然の持つ強大な力と無慈悲さを痛感させられています。1周年の先日、皆さん方の一人ひとりが追悼の気持ちを捧げられたことと思いますが、私もまた改めてお悔やみを申し上げたいと思います。

 いろいろな事情があるのだと思いますが、震災からの復興は遅々として進まず、がれきの山もまだ全体の6%ほどしか整理されていないようですし、原発事故の除染作業も気の遠くなる時間がかかりそうです。本当に被災地の方々にどのような言葉を投げかけたらいいのか分かりません。どのように言葉をかけても芯からの癒しにはならないと思うからです。親しい人からの励ましや慰めは確かに嬉しく感じますし勇気づけられると思いますが、その言葉の効果は恐らく短い時間しかなく、多くの被災者は亡くなられた家族、友人、失われた家や故郷を思い、懸命な努力で前を向こうと頑張っておられるのだろうと思います。何十年かかろうと被災地に人が帰り家屋が建ち、震災前以上の活力が取り戻されることを念願しないではいられません。

 私は昨年暮れに母に続いて父を亡くしました。母の七日毎の供養のために私が実家に帰っていたまさにその日、供養の終わった後少し頭痛を訴えていた父は突然昏睡状態となりそのまま意識を回復することもなく、90年の生涯を閉じました。長く教職にあった父は殊のほか私には厳しく子供の頃はこの世で最も怖い存在でした。しかし中学生以降は自主性に任せ多くを語らず、歳を経るにしたがい多少頑固ではあったものの帰省をするたびに多く話をするようになりました。それでもまだまだ教えてもらわなければならないことがあったのも事実でその点が心残りです。しかし私の痛みは東北の人たちの予期しようもなかった多くの痛みに比べれば問題にならないほど小さいものだと思っています。母の思い出も時間とともに日常の中に埋もれて行っています。父の思い出もそうなって行くことでしょう。父は佐藤一斎の「春風以人接 秋霜以自粛」という言葉が好きで色紙によくしたためていました。私が小さい頃には父の春風を感じることが出来ませんでしたが、四季の風を感じる感性が私になかっただけなのかもしれません。医師になりながら両親の健康やその管理に何も貢献できなかった私ですが、母の早春賦と父のこの言葉を心の宝にして日々を送っていきたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.11 「忘れられない患者さん」

2012年03月01日

 学会などで「この一例」とか「忘れられない症例」などというテーマで討議の場が設けられることがあります。多くの場合、このようなときに取り上げられるのは「これまでの常識を超えるような方法で手術した患者さん」であったり、「とんでもない合併症を起こした患者さん」の話です。たとえ少々難しい手術であっても、すっと良くなる患者さんのことは忘れてしまいます。やはり、忘れられない患者さんとは忘れることのできない「何かがあった」患者さんなのです。

 私にも忘れられない患者さんが何人かおられます。やはり外科医ですので手術をした患者さんばかりで(指導医が手術をされて私が術後管理を行ったという患者さんも含みます)、どうしても大きな合併症を起こした患者さんや、10数時間かかる大きな手術を行った患者さんがそれに当たります。消化管の手術は切除をした後、消化管をつながなければなりません(吻合といいます)。つないだところがはじけること(ピンホール状の小さいものからまったく離れてしまうものまで様々です)を縫合不全といいますが、消化管の吻合ではある確率で縫合不全が発生します。私が最初に縫合不全を経験したのは、胃がんで胃切除術を行った患者さんの胃と十二指腸を吻合した部位の縫合不全でした。医師になって1年目のことで手術は上級医が行いました。この術後管理を私が担当したのですが、現在なら絶食にしてカロリーの高い輸液を行い、漏れている場所に管(ドレン)を入れて消化管液を体外に排出させます。当時は有効な栄養管理法がまだ普及しておらず、見よう見まねで高カロリー輸液も行いましたが、感染のコントロールも不十分であったこともあり、その患者さんはお亡くなりになりました。現在なら救命できていた患者さんで、40年ほど経過した今でも残念に思っています。縫合不全は手術機器や周術期管理が発達した現在でもある確率で発生し、そのうちのいくらかの人は、二次、三次の合併症を併発して不幸な転帰を辿ることがあります。まだまだ安全な医療には到達出来ていないのが実情です。

 私は、医師は謙虚であるべきだと思っています。患者さんに対して謙虚であるのは当然ですが、「病」に対しても謙虚でなければならないと思っています。「これで大丈夫か?」、「何かが起こるかもしれない」と思う気持ちが、重大な合併症を未然に防いだり、合併症をより軽微ものにしてくれると信じています。医療に絶対はありません。忘れられない患者さんから本当に多くのことを学ばせて頂きました。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.10 「医学博士・専門医・総合医」

2012年02月15日

 一昔前、多くの医師は卒業後5~6年経ったところで一度大学に帰り、研究生活を送るのが常でした。生活もかかっているので、週のうち2日から3日ほど近隣の病院で働きながら研究をするわけです。その研究結果を博士論文としてまとめて大学に提出し審査を受けて合格すれば医学博士になります。大学で研究している3年程度の期間は、それまで自分が経験してきたような手術を執刀したり入院患者を受け持って治療したりすることは少なく、多くは外来診療と内視鏡検査などの検査を担当することになります。卒後5~6年たつと少し臨床にも自信がついてくる時期なので、この時期に臨床から多少でも遠くなることには抵抗感があります。私もそうでした。実際、医学博士号を獲得したからといって手術が上手くなるわけでもなく、報酬に何らかのインセンティブがつくわけでもありません。

 最近の若い医師は、大学で研究をすることに迷いもあるようです。しかし1つのテーマを深く掘り下げ、論文を読んだり同僚と議論をする間に思考していく過程が次第に精錬されていくようになります。これはその後医師として仕事をしていく中で大きな財産になると思います。若い医師はとかく早く知識を深め技術を修得して専門医としての地位を確立したいという傾向が強いように思われますが、やはり全身の基本的診療が出来ない人は専門医としての能力にも問題があるのではないかと思っています。ところが平成16年に新しく初期臨床研修制度が発足して以来、研修医は大学よりも市中病院での研修を選択し、研修終了後も大学に帰り研究を行うことに意義を感じなくなっているように思えます。市中病院も医師数が充足している病院はともかく、そうでない病院は医師を繋ぎとめることが病院経営にも直結しているので、なかなかたやすく研修医を手放さないようです。

 昨年、東日本大震災の後に医療救護で現場に行った後輩の医師が言っていました。「現場では専門医はいらない。なんでも診ることのできる医師が必要だった」と。福山市民病院でも「専門医」は数多くいますが、なんでも診ることのできる「総合医」は少数です。新患の方が来られた時、問診をして必要ならば検査の予定を立て、後日検査結果を説明し、さらに検査が必要であったり専門治療が必要なら専門医の外来に紹介するという当たり前の医療が難しくなってきています。サッカーではディフェンダーも必要なら攻撃に参加しますし、フォワードの選手も自陣まで帰り懸命に守備をします。フォワードの選手で自分はフォワードなので攻撃しかしないという選手はレギュラー選手にはなれませんし、それどころかチームには殆ど不要かもしれません。

 医療も同じだと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.9 「医局」

2012年02月01日

 皆さんは「医局」という言葉にどのようなことを連想されるでしょうか?「薬局は知っているが「医局」って何?」と思っておられる方もおられるでしょう。かつて多くの医学生は大学を卒業すると自分の進むべき診療科を決め、出身大学や出身地の大学の診療科に入門しました。このことを「入局」といい、自分の所属した診療科を「医局」と呼んでいます。

 「医局」に入った後はその関連病院で研修を重ねたり、大学で研究生活を送ったりするわけですが、大学の命令で赴任地が決められ、なかなかその命令を拒否することが出来なかったのは事実で、先輩から聞いた話では、ある日突然、「来週から四国へ行ってくれ」と医局長や教授から電話があったこともあるようです。大学医局は教授がヒエラルキーの頂点にいて絶対的な権力を握り医局員はコマとして使われているという多少誇張された話が、医局の絶対悪につながり、なんとかその権力を削ぎたいという考えから現在の初期臨床研修制度も考えられたようです。私は医局について否定的な考えは持っていません。問題があった医局もあったとは思いますが、「同じ釜の飯」を食う仲間はどれほど年月が経っても大切な仲間ですし、横のつながりではなく多くの先輩方と臨床や研究を共にでき、それまでなかった縦のつながりもできて自分を成長させてくれます。

 初期臨床研修制度は平成16年から始まりました。発足当時から今も、研修医は大学での初期研修を敬遠し市中病院で研修する者が多く、そのため大学に研修医が少なくなり、その人員補充に過疎地などから医師が大学に呼び戻されたり、パートで派遣されていた病院からパート医がいなくなったのです。医学生は初期研修の場として都会の有名病院を選択し、決して過疎地とは言えない地方からも若い医師が消えていっています。「医局」が全盛の頃は、どのような過疎地であれ「医局」が責任を持って医師を派遣していました。若い医師は過疎地にはだれも行きたくはありませんが、「2年後には希望の病院に行ってもらうから」とか、開業予定の者には「開業前には地域医療を勉強しなければ」と諭し派遣をしていたようです。一度流れができるとそれを食い止めることは至難で、特に「きつい」、「きたない」、「危険」な診療科は医師を充足させるのが難しいと思います。今や私の専攻する外科も絶滅危惧種です。外科医がいなくなればどうなるでしょうか?いつか外科医が減少していった経緯についても記してみたいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.8 「再び邂逅」

2012年01月16日

 このコーナーのNo5で出会いについて少し記しました。その後、個人的にいろいろな出来事があったのでその他のことを書きましたが、今回再び邂逅について記したいと思います。

 人生には多くの出会いがあると思います。出会う相手は人もいるでしょうし、自然、環境、なんでもその対象になり得ると思います。多くの人が多くの人やモノに出会っているはずですが、その人の感性によってその出会いが「決定的な邂逅」であるのかどうかということになるのでしょうか?

 医師になって診療科を選ぶ際にも言わば感性を研ぎ澄ませて選択をしなければなりません。私にとっては外科との邂逅が果たして決定的であったかどうかは実は分かりませんが、少なくとも後悔なく外科医として歩んで来られたので間違いではなかったと思っています。世の多くの人が外科医は「手先」を良く使うので「手先」が不器用では務まらないと思っているかもしれませんが、実はそんなことはありません。手先は箸が使える程度であれば(私はまともに使うことができませんが)十分で、やはり問題はその手を効率的によどみなく、あるいは先を読みつつ、あるいは美しく動かすべく指令する頭、すなわち戦略だと思います。

 私の肝胆膵外科との関わりも2人の恩師に会うことがなければなかったことです。一人は今でいえば後期研修医の頃に在籍した病院(実は今私が勤務している福山市民病院ですが)の外科科長であったN先生で、肝切除や膵頭十二指腸切除などの手術が市中病院では殆ど行われていなかった頃であったにも拘わらず、長時間の手術であっても緊張感を保ったまま、また妥協することなく執刀されていました。先生の診療姿勢はまさに真摯で、姿を見ているだけで安心感があり、このような医師になりたいとずっと思っていました。もう一人は研究のために大学に帰った際の指導者であった当時の岡山大学助教授のM先生です。ちょうど時期が肝胆膵外科の黎明期であり、M先生は関連病院から大学に帰ってこられ、「肝胆膵外科」を立ち上げられている時でした。私たち「肝胆膵グループ」は研究の傍ら臨床経験はないにもかかわらず学会発表をしていました。研究が終了してからしばらく大学附属病院にいたので、何度も何度も先生の手術を眼にすることが出来ました。門前の小僧ではないですが、まず「見て」覚え、「やって」覚え、「読んで」出来るようになった気がしています。今でも困難な手術に向かう際には恩師ならどうされるだろうかということを必ず考え、術中も恩師の頭の中に入りこみながら(つもりですが)、私の「手先」の修正をお願いしています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.7 「年の始め」

2012年01月05日

 明けましておめでとうございます。
 昨年はこの国は未曾有の災害に見舞われましたし、私個人にとっても激動の年でした。今年はぜひ平穏な年であることを願っています。
私が子供の頃は冬休みの間に登校日があって、その時「年の始め」という歌を歌っていた記憶があります。今はどうでしょうか?確かに気温に寒暖はあるものの、夏の果物を冬に食することもでき、またその逆もあります。夏はクーラーがあり、冬には様々な暖房器具もあります。世の中に季節感がなくなっているという現実はあるもののクリスマスからお正月にかけてはやはり一味違った時期であり、それらは季節の大きなイベントであるに違いありません。
 おそらく多くの人が大晦日からお正月にかけては去りゆく年に想いをはせ、新しい年に何かの決意を確認するでしょう。しかし、切れ目のない日常の中でその決意は次第に色褪せ、それを継続させることが難しくなり多少の後ろめたさと共にそれは過去の記憶になってしまうことが多いのではないかと思われます。私もそうです。お正月の頃にかくありたいと思ったことの半分でも出来ていればここにはいないかもしれません。が、しかし、それが分かっていても院長は職員の意識を常に呼び覚まさなければなりませんし、実際に意識の高揚した職員を期待しています。自分を棚に上げて申し訳ない気持ちを持ちつつ今年もそうするでしょう。
 私の今年のテーマの一つは「安全な医療」です。病院ではさまざまな事故(取るに足らないものから重大なものまで)が発生しているのは事実です。多くは患者さんには何の実害もないのですが、どこかで気づかなければ害が及ぶことになります。「医療の不確実さ」という言葉があります。確かに防ぎようのない事故が起こるのは事実です。しかし、それでもそれらの事故は何らかの要因があるはずで今はそれが分からないだけだと思います。私は外科医であり、特に肝臓や膵臓を専門にしている外科医なので、かなり致命的な合併症を経験したこともあります。こんな時「私が術者でなければ合併症は起きなかったかもしれない」という思いを常にしています。どのように優れた外科技術を持っていてもその技術で合併症を起こしていたのでは本末転倒です。いつの日か「合併症0」の日が来るかもしれませんが、まだ遠い日のように思えます。
 しかし患者さんに是非分かって頂きたいことがあります。すべての医師が「なんとかこの患者さんを治したい」、「この患者さんを良くしたい」という想いで仕事をしているということを。医師を含む医療者と患者さんが敵対していては良い医療は生まれないことを。医療者と患者さんが手を取り合って病に向かうことで初めて「治療」が始まるということを。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.6 「母の死」

2011年12月14日

 12月3日、母が逝った。7年ほど前に大腿骨骨折をして以来、それまでのアルツハイマー様の病状も進行して、6年半ほど前から寝たきりに近い状態になり特別養護老人ホームに入所していた。1年ほど前には経口摂取もままならなくなり手術リスクは高かったが腸瘻を造設してもらい経腸栄養で栄養の維持を行っていた。帰省のたびに母を見舞い、私はおろか自分自身が誰かも分からない母を見るのはずいぶん辛かったが、この日のあるのは随分前から覚悟はしていた。だが、しかしである、通夜、葬儀と長く母の記憶をたどる機会があり、さまざまなことが思い起こされ涙が止まなかった。
 母は弟を出産して間もなく肺結核に罹り2年余りの入院生活を送ったことがある。まだ20代の若さだった。同室であった入院患者が何名も亡くなられたことは後から聞いた。その頃の母の日記を学生のころに読んだことがあるが、その中には「明日の命の不安と今朝ある命への感謝」が多く書き綴られていた。家族と離れ、幼い子供たちを置いて旅立つことになるかもしれない「恐れ」はどれほどのものがあったのだろうかと背筋が震え母を大切にしなければならないと誓ったが、それでも私は母親孝行が出来なかった。
 このたび人の記憶は極めて断片的であることも分かった。母の思い出は止ったシーンとして思い浮かぶが動画では出てこなかった。母の手作りの料理は思いだすが、母がどのように手を動かしていたのか、一緒に歩いた田舎の道のどの場所をどんな歩幅で歩いていたのか、その時に靴を履いていたのか下駄をはいていたのか、思い出せない。これ以上なく近い存在であるはずなのに情けなく恥ずかしい。
 私も長く外科の第一線で仕事をしてきて、多くの「死」を見てきた。人にはそれぞれに人生があり、その終わりは必ず来る。従容としてそれを受け入れる準備はしなければならないし、出来れば笑顔がいい。 母は女学校時代によく歌っていたという「早春賦」が大好きだった。毎日、心の中で歌いながら、来春を待ちたいと思っている。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.5 「選択と邂逅」

2011年11月29日

 「選択」と「邂逅」はその人の人生にとって決定的な意味を持つものだと思います。自らが何かを「選択」するとき、それはそれまでの「邂逅」が少なからずその決定に影響を与えていると思います。
 私はもともと文系人間だと思っています。事実、小学生のころの教科では理科が嫌いでした。しかし小学5年生の時の担任の先生によって少しだけ理科に目覚めたように思います。今でも鮮烈に覚えていますが、その先生は最初の理科実験室での授業で、テーブルの上にアルコールを少し撒きマッチで火をつけたのです。もちろん田舎の子どもたちは「火事だぁ!」とびっくりして騒ぎ出しました。そのとき先生は「なぜテーブルは燃えないのか?物が燃えるには条件がある」ことを教えてくれました。それまでの理科の授業には「理」を感じず、ただ「記憶」であったものがその時を境に一変しました。事象には理があることが少し解り、理科の授業も楽しくなりました。その先生に巡り合えていなければ私は恐らく理系に進むことはなく、今、医師として働いていることはなかったかもしれないと思います。
 人が誰でも「選択」を迫られるように私も、医学部の選択、診療科の選択、外科医になってからのキャリアパスなどいろいろな「選択」をしてきました。ただ、その「選択」が正しかったのかどうかは分かりませんし、正解はないのかもしれません。そしてまた「邂逅」もいろいろな邂逅があるのだと思っています。私にはこれまでに「決定的な邂逅」をしたと思える恩師が4人います。小学5年、6年の担任であった先生もその一人です。しかしもっと「決定的な邂逅」をしていた誰かがおられたのかも知れません。もしそうであったのに私自身が気づくことなくその人が眼の前を通り過ぎていたのなら、それは私に「感性」がなかったということだと思います。
 「選択は今の自分を明日なりたい自分に変えてくれる唯一の手段である。それが選択の力である」と「選択の科学」の著者シーナ・アイエンガー教授は言っています。私はこれからもいろいろな時にいろいろな「選択」を迫られることがあるのだろうと思いますが、感性も磨きつつ正直な選択をしていきたいと考えています。

福山市民病院 院長 高倉範尚

No.4 「秋の夕暮れ」

2011.11.14

 人は昔から秋の夕暮れには寂しさを覚えるといいます。新古今集にある三夕はそのどれもがうら悲しい歌です。またミレーの「晩鐘」や「落ち穂拾い」も秋の夕暮れだからこそ胸を打つのだと思っています(事実は知らず勝手な思い込みです)。

 学生の頃の帰省にはいつも山陽本線を使っていました。岡山から私の田舎までは山陽本線で大阪まで行き、大阪駅で東海道本線に乗り換え京都駅で降り、京都駅からは宮津線経由の豊岡行きに乗って帰るのが遠回りにはなりますが時間は一番かからなかったように記憶をしています(それでも6~7時間かかりました)。岡山から田舎に帰るのは楽しみばかりでしたが、休暇を終え田舎から岡山に帰ってくるときはいつも寂しい気持ちになっていました。特に山陽本線で姫路を過ぎたあたりにさしかかるのは大抵夜だったので、車窓から播州平野の山際の家々に灯りが付いているのを見て、それらの家では今どんなにか楽しい団らんの時間をおくっているのだろうと思うと、休暇中に田舎で家族と過ごしたいろいろなことが思い起こされて涙がにじんだこともありました。やはりそんな感傷も秋から冬にかけての時期が強かったように覚えています。歳を経るに従い感受性も衰えたと思っていますが、新大阪・岡山間の山陽新幹線が開通してからはそのようなことは感じられなくなりました。トンネルが多いことやそのスピードの速さゆえ窓外の景色を楽しむ時間など全くなくなりました。

 このたびの東日本大震災や東電の原発事故では考えさせられることも多々ありました。皆様方も一人ひとりがいろいろな想いを感じられたことと思います。「豊かさ」とはいったい何なのでしょう。便利なモノを手に入れ、美味しいものを食べ、寒い時には暖かく暑い時には涼しく暮らすことが「豊かさ」でしょうか?海外旅行に出かけたり、「ブランド品」を手に入れることが「豊かさ」でしょうか?私は子供のころ、エアコンはおろか扇風機もない夏、蚊帳の中で団扇をパタパタしながら両親や弟と一緒に寝ていました。そんな中でも家族との会話は幸せな時間でした。寒い冬にはヒーターなどなくても掘りごたつに入り家族で団らんしていれば芯から温まったように覚えています。東北の人たちの求めているのはやはり「モノ」ではなく人の心の優しさだろうと思います。

 秋は人を寂しくさせますが優しくもさせると思います。病院の職員には今以上に患者さんやご家族に対して優しい気持ちを持ってほしいと思いますし、あくせくせずゆったりとした気持ちで仕事をしてほしいと思っています。

福山市民病院 院長 高倉 範尚

No.3 「マロニエ」

2011年11月02日

 岡山大学に入学し20名あまりの学生宿に下宿することになりました。通う大学や学部は雑多で、学生は多士済々でした。朝から晩まで姿勢を正して囲碁を打つ先輩、みんなから「先生」と呼ばれていました。明け方まで「人生論」を語る先輩、「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、我らの恋が流れる」、アポリネールを高々と朗読する先輩などなど。この下宿は朝夕2食の賄い付きで、毎月一度下宿代さえ納めていれば基本的には食いはぐれがないという点で実に助かりました。医学部の学生は教養の2年間は津島キャンパスで授業を受け、3年目からは医学部のある鹿田地区に引っ越すのが常ですが、私はあまりの居心地の良さに卒業するまでの6年間をこの下宿で過ごしました。そうです、この下宿の御主人がその昔「マロニエ」という喫茶店を開いておられ、その喫茶店内が下宿の学生たちのたまり場になっていました。この「マロニエ」で多くの先輩、同期、後輩と寝食を共にする間に「和」も身についたのだろうと思っています。ちなみに「和」は福山市民病院の開設当時から院内に伝わる大切な言葉で、今も手術室の一角に成末名誉院長の「和」一文字の墨書が掲げてあります。
 教養から専門課程に上がる頃にちょうど大学紛争が起こりました。1969年1月のことでしたが、学生集会で「スト突入」が決議され、ストはその後半年余にわたり続きました。大学が再開されればすぐに進級試験が行われることは分かっていたので郷里にも帰れず、かといっていつ始まるかもわからないのに試験勉強もできず、はたまた自分を高めるために時間を使うという発想もありませんでした。これまで私が過ごしてきたなかでこの時期ほど無意味な時期はなくもう一度やり直したい気持ちがあります。
 医学部では専門課程の1年目に基礎医学を学びますが、高校の授業の延長線ともいえる教養時代の授業と違って専門課程の授業を受けることで気持ちが洗われるようになったことも覚えています。そんな気持ちになるのは何と言っても「解剖実習」で、おそらく多くの学生が「解剖実習」を行う間に医学に対するまじめな気持ちが芽生え、医師として病者に対する責任感や使命感などを会得していくのではないかと思っています。医学には解剖学、病理学、生理学などの基礎医学分野と内科学、外科学などの臨床医学があることは御存知だと思います。患者さんを診る臨床医学も勿論重要ですが、基礎医学無くして臨床医学はありえず(学生時代にはなかなか理解し難かったのですが)、私はもう一度学生時代に帰れたら今度こそまじめに基礎医学を学びたいという気持ちでいます。

福山市民病院 院長 高倉 範尚 

 

No.2 「自己紹介続編」

2011年10月17日

 さて、前回このコーナーで私は「丹後」の出身であると記しました。丹後の冬の厳しさは山陽路出身の私の妻には大変な驚きであったようです。ただ、冬が過ぎれば必ず暖かな春が訪れます。厳しさに耐え力を蓄え我慢をすれば、いつかいい日が来ることを丹後に育った者ならば誰でも自然に会得しているのかも知れません。そうです、丹後の人たちは「我慢も楽しい」ことを知っているのです。ちなみに前楽天イーグルス監督の野村克也氏は私の高校の先輩です。どんなにかっこよく見せようともどうにもならない丹後人、野村さんは確かに典型的な丹後人だと思います。

 丹後には「丹後七姫伝説」があります。皆さん、ご存知でしょうか?

 羽衣天女、乙姫、間人皇后、安寿姫、小野小町、静御前、細川ガラシャの七人です。実在の人物からそうでない方までいろいろですが、どの方も何らかの形で丹後に関わる方々です。天橋立や城崎温泉巡りの途中に「七姫伝説」の地を回るのもいいかも知れませんよ。

 このあたりで自己紹介に戻ります。私は父が教師(母も元教師)で、生まれたころは曾祖父母、祖母も健在で多少の田畑・山林を持つ農家に生まれました。高校生くらいまでは農繁期には家の手伝いもしていましたが、その頃のことでよく覚えていることがあります。丹後では刈り取った稲を、5段、6段に組んだ稲木に昇った人をめがけて下の人が放りあげて干していくのですが、「もちね」というもち米は稲穂からはがれやすいので、地面にムシロを敷いて作業をします。作業が終わった秋の夕暮れ、祖母がこぼれおちた「もちね」をムシロから拾い上げていました。でもその量はどれくらいなのでしょう?実は片掌に余るくらいなのです。片掌に余るくらいであっても「もったいない」のです。この祖母も10年ほど前に亡くなりましたが、「モノを大切に」することを教えてもらいました。

 今でも医学部を受験した理由を時に聞かれることがあります。「妹を新生児メレナで亡くしたから」とよく答えていました。私が2歳ころのことで記憶にはありませんが、今なら救命できただろうと思っています。しかし、この理由は取ってつけた理由で、実は殆ど理由はなく、強いて挙げれば母の兄弟に医師がいて、その叔父の雰囲気にあこがれたのかも知れません。

福山市民病院 院長 高倉 範尚
 

No.1 「自己紹介」

2011年10月05日

 平成23年10月から福山市民病院のホームページがリニューアルし、病院の広報委員会から「院長室より」というコーナーを作るので院長から情報発信をして欲しいと依頼を受けました。院長という仕事柄、病院の広報誌(「ばら」という素晴らしい広報誌があります。ホームページにもアップしていますので是非ご覧になって下さい)などにモノを書くことはあるのですが、読んでいただく対象としては医療関係者、医学教育の関係者そして病気の方やそのご家族などを意識していますので、書く方としても焦点が定まらない文章になってしまう恐れがあります。従ってこのコーナーでは医療には全く関係のない「一般の方」を対象に、私が医療について思うことをざっくばらんに書きとどめることにしたいと思います。ただ、初回となる今回は、簡単な自己紹介とさせて下さい。

 私は京都府北部の丹後半島の出身です(現、京丹後市弥栄町)。丹後の冬は陽を見ることがなくどんよりと曇り、雪起こしの雷鳴とともに毎冬50cmを超える積雪があります。今でこそ雪が降れば立派な除雪車が出動してきれいに雪をすかしますが、私が子供のころはさして広くない道に積もった雪の中に車の轍がそっくり残り、車が対向しようものなら殆どと言っていいくらいどこかを相手の車にこすりつけながら離合していました。しかし、お互いの運転手はののしりあうのではなく平然と「すんませんなぁー」と言いながら笑顔さえ浮かべていました。「雪道で運転をすれば車に傷がつくのは当たり前」であり、相手を非難するなどということはないのです。この話は昭和30年代の話です。今はどうなっているのでしょうか?ちなみに今年の冬に帰省した際も大雪で、スタッドレスを装着して帰りました。それでも途中でスリップしてハンドルの操作がうまくいかないことがありましたが、その時道端の家からスコップを持ったご夫婦が出てこられ除雪をしてくれました。これで事なきを得て実家に辿り着きましたが、お互いを助け合う気持ちはまだ健在であると思いました。冬はこんなに厳しいのですが、夏はきれいな遠浅の浜で海水浴を楽しむこともでき、日本の四季が凝縮されたところです。近隣には天橋立、城崎温泉、伊根の舟屋、出石の武家屋敷などの観光スポットもあります。どうか一度行ってみてください。

 で、自己紹介ですが、そんな丹後から岡山大学医学部に入学し、卒業したのが昭和48年、それ以来ずっと中国地方で外科医を生業として医師という職業に従事し現在に至っています。

 このコーナーは月に1~2回くらい更新したいと思っています。一方通行の発信で申しわけございませんが、どうか宜しくお願いいたします。

福山市民病院 院長 高倉 範尚


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