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コレクションIII:日本の近・現代美術

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年10月13日更新

吉田 博 (Yoshida, Hiroshi)  1876-1950

鞆之港の画像
《鞆之港》1930(昭和5)年
27.8×41.0 cm 木版

福岡県久留米市に生まれる。1893年、京都の田村宗立の画塾で学ぶ。翌年上京し、小山正太郎が主宰する画塾、不同舎に入門。水彩画に才能を発揮する。1899年渡米、欧州を巡って1901年帰国。翌年、太平洋画会の創立会員として参加。1907年の第1回文展から1909年の第3回文展まで連続して賞を受賞、写実的な画風の中にも豊かな色彩で叙情的な風景画を展開する。1910年、第4回文展の審査員及び陳列委員に任命される。

吉田は1920年、44歳の時、初めて木版画《明治神宮の神苑》を発表したことを契機に木版画に没頭しはじめる。そして、絵画と同様の構図と色彩をもつ独自の表現をこの世界に確立させた。透明感のある色彩の中にうかびあがる港の穏やかな表情は、吉田の作品に一貫する静謐な世界をあますことなく伝えている。

 

安井 曾太郎 (Yasui, Sotaro)  1888-1955

手袋の画像
《手袋》1943-44(昭和18-19)年
91.0×72.6 cm 油彩,カンヴァス

京都市中京区に生まれる。1904年聖護院洋画研究所に入所、梅原龍三郎らとともに浅井忠、鹿子木孟郎らの指導を受ける。1907年渡仏し、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事。その後、自由研究に入り、セザンヌに傾倒。1914年帰国。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別陳列して注目を浴びる。安井様式といわれる大胆な画面構築やデフォルメを用いた独自のリアリズムを確立し、梅原とともに日本の洋画界を牽引し続けた。

安井は、1929年、第16回二科展出品作《座像》(個人蔵)によって明快な輪郭と芳醇な色彩で自身の様式を生み出した。その後《金蓉》(1934年、東京国立近代美術館蔵)をはじめとする数々の代表作を発表し日本の洋画界に揺るぎない地位を確立する。この作品は1944年、戦艦献納帝国芸術院会員美術展覧会に出品された、安井56歳の時のものである。独特のフォルムや色感には安井の追求する様式美が存分に発揮されている。

 

岸田 劉生 (Kishida, Ryusei)  1891-1929

東京・銀座に漢学者岸田吟香の四男として生まれる。1908年、黒田清輝が指導する白馬会葵橋洋画研究所へ入り、油絵を学ぶ。1910年、第4回文展初出品。1911年、雑誌『白樺』に触れ、ゴッホ、セザンヌなどに強い関心をいだく。1912年、高村光太郎らとヒュウザン会展に出品。1915年、草土社を結成し、1922年まで9回の展覧会を開催。1916年、肺結核と診断され、東京郊外の駒沢村(現・世田谷区)へ療養のため転地。翌年、神奈川県藤沢市鵠沼へ転居。静物画など室内制作に集中。1923年、関東大震災を機に京都へ移る。のち鎌倉へ転居。1929年、満州旅行の帰路、山口県徳山(現・周南市)で急逝。享年38歳。

 

橋
《橋》1909(明治42)年
33.6×45.7 cm 油彩,カンヴァス

劉生の最も早い時期の作品。この橋は、今から100年近く前の日光街道沿いの千住大橋を描いたものである。荒川区と足立区の間を流れる隅田川に架けられ、現在は鉄橋となって人々の往来を支えている。

この作品を描いた岸田劉生は、当時18歳であった。作品裏側の木枠にも、劉生自ら、明治42年の9月8日と9月15日と2日間を要して描いたということを記している。この頃、劉生は、黒田清輝の指導する白馬会系の葵橋洋画研究所に学び、この作品にもみられる外光を意識した油絵を制作していた。色彩的には暗褐色が使われているが、水面を表した流麗な筆致からは、研究所で学んだ成果が発揮されている。橋げたを画面上部ぎりぎりに入れた大胆な構図は、浮世絵に見られる江戸風景の趣を感じさせる。この作品は、江戸情緒を感じさせる風景を活写したのみにとどまらず、橋げたや橋脚の入り組んだ形にも視線を注ぎ、しっかりとした構造物としての橋を描こうとしている点に目を見張るものがある。劉生の深い観察力を垣間見ることができるとともに、その後の静物画や、麗子像などにみられる緊密な写実表現を予感させる。

 

静物
《静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)》1917(大正6)年
33.7×45.8 cm 油彩,カンヴァス

1916年7月、肺結核と診断された劉生は、翌年に神奈川県藤沢市鵠沼へ移り、室内での制作を余儀なくされたが、この時期に静物画で優れた作品を数多く生み出した。この作品は、26歳の時の作品である。ものの実在に迫った、密度のある描き込みは、ガラスビンや陶器の硬質な感じと林檎の弾力ある軟らかさをも描きわけている。ここに描かれた林檎は、ごくありふれたものであるが、モチーフとして長く机上に置かれたことによって、虫食いのあとなど傷んだ様子までが克明に描かれている。この林檎2個の間にある茶碗や湯呑は、イギリスの陶芸家で1909年から20年にわたって来日し、民芸運動に関わったバーナード・リーチ(1887-1979)が絵付けしたものである。何気ない普通の林檎やビンがそこに「在る」ということの不思議さを感じさせる味わい深い作品である。

 

晩春の草道の画像
《晩春の草道》1918(大正7)年
45.0×36.0 cm 油彩,カンヴァス

本作は、神奈川県藤沢市鵠沼の自宅近辺で描かれたものである。劉生は、肺結核と診断され、病気療養のため1917年2月よりこの地に移住していたが、湘南の温暖な気候に次第に病状は回復していき、戸外での風景画制作も再開される。鵠沼での風景画には、代々木時代の自然と対峙した緊張感のある写実とは異なり、柔らかい筆触で、景観全体をスケッチで捉えるかのような寛いだ雰囲気を感じることができる。本作においても、前景に盛り上がった土を描くなど、代々木時代以来から引き継がれる大地と草の生命感が表現されると同時に、草木は柔らかい筆触で描かれ、自然との共生の意識が感じられる。1818年9月に二科展に、同年12月に第6回草土社展に出品された。

 

新富座幕合之写生
《新富座幕合之写生》1923(大正12)年(1924年補筆)
31.9×41.0 cm 油彩,カンヴァス

東京の京橋区新富町に、1923年の震災で消失するまで存続していた歌舞伎の劇場「新富座」へ、劉生は足繁く通っていた。役者や舞台への造形的、色彩的な関心を通して、近世文化の世界へ劉生のイメージを没入させ、新たな作品創造への契機としようと考えていたものと思われる。この作品は劉生の晩年に集中する近世風俗画や浮世絵に触発された作品や、歌舞伎に取材した一連の作品の中の1つで、『劉生日記』にも記述がある、念入りに制作されたものである。

 

麗子十六歳之像
《麗子十六歳之像》1929(昭和4)年
47.2×24.8 cm 油彩,カンヴァス

晴れ着姿の麗子像である。白い額にすっきりとひかれた眉、そして瞳の輝きは、少女というよりも、一人の女性としての雰囲気を漂わせている。劉生は、1929年の正月に本作を含む2点の《麗子十六歳之像》を描いた。1月1日の劉生の日記には、「麗子に生れて初めての日本髪(桃われ)を結はせこれを油絵ではじめ、夜は半切四枚、棋道の表紙、色紙などかいてヘトヘトになつた」と記している。うち別の1点(笠間日動美術館蔵)は5月に完成しているが、本作は、画面右中に「己巳六月劉生写」と年記がある通り、6月まで時間をかけ、仕上げられた。画面は、縦に長い浮世絵の大首絵風の表現をとり、周囲に朱色の飾り縁や髪飾りなどを丹念に描いている。これは、劉生が浮世絵に傾倒して、その現実的な風俗の美を油彩画によって表現した作品であり、12年にわたる麗子像の集大成でもあった。本作が完成したおよそ6ヵ月後、劉生は山口県の徳山(現・周南市)で病没し、劉生が愛娘を描いた「最後の麗子像」となった。劉生が、麗子という存在を通して描いた、深い精神性を感じさせる作品である。

 

東郷 青児 (Togo, Seiji)  1897-1978

星座の女の画像
《星座の女》 1944(昭和19)年
235.0×89.0 油彩,カンヴァス
©Sompo’ Museum of Art, 19014

鹿児島市に生れる。本名鉄春。1902年、一家で東京に移住、1910年、青山学院中等部に入学する。1915年、ドイツから帰国した山田耕筰を知る。同年9月、日比谷美術館で個展を開き、《コントラバスを弾く》などで日本における未来派の画家として注目された。1916年、第3回二科展に初入選、二科賞を受賞する。この年から有島生馬に師事。1921年、フランスに留学、マリネッティやピカソと接する。1928年に帰国、1931年に二科会会員、1943年に第6回新文展の委員及び審査員を務めた。戦後は二科会の再建に尽くし、フランス、メキシコでも二科展を開くなど国際交流にも熱心で各国から勲章を受けている。1976年、東京都新宿区に東郷青児美術館が開設される。1978年、熊本にて死去、文化功労者として顕彰された。

この作品は未来派の実験をくぐりぬけて、簡潔な構成と陶器のような肌合いを持つ。大衆性の強い絵画の道を歩んでいくまでの節目をなすものである。

 

小磯 良平 (Koiso, Ryohei)  1903-1988

婦人像の画像
《婦人像》1969(昭和44)年
52.0 ×44.0 cm 油彩,カンヴァス

神戸市に生まれる。1922年、東京美術学校西洋画科に入学。翌年、藤島武二教室に入る。1925年、第6回帝展に初入選。1926年、第7回帝展に《T嬢の像》を出品、特選となる。1927年、同校を首席で卒業。1928年、フランスへ渡る。《裁縫女》が第13回帝展で特選。1936年、新制作派協会の結成に加わる。1942年、《娘子関を征く》が第1回芸術院賞受賞。1953年、東京芸術大学教授。1971年、東京芸術大学名誉教授となる。1973年、赤坂迎賓館の壁画《絵画》《音楽》着手(翌年3月完成)。勲三等旭日中綬章。1979年、文化功労者となる。1982年、日本芸術院会員に推挙。1983年、文化勲章受章。

この作品は、小磯が東京芸術大学で教授として後進の指導にあたっていた66歳の時の作品である。この頃、小磯は、胸元にフリルのついた白いブラウスの衣装を着せた同構図の作品を数点描いている。艶やかな黒髪、清楚な面立ちの女性の表情が白い衣装と響き合い、その美しさに魅了されたからと考えられる。モデルの凛とした表情が、画面全体に清潔感のある印象を与えている。

 

福島 瑞穂 (Fukushima, Mizuho)  1936-

メール・マリー・イレーヌの肖像の画像
《メール・マリー・イレーヌの肖像》1962(昭和37)年
145.5×89.0 cm 油彩,カンヴァス

広島県に生まれる。高校在学中に独立美術協会の主催する公募展(独立展)で初入選する。1959年に女子美術大学芸術学部洋画科を卒業した後、1961-65年にかけてフランスへ留学。パリの修道院に寄宿しつつ絵を描いた。幼い頃からキリスト教に親しんだことがその作風にも反映されており、重厚なマチエールで人間の赤裸々な姿を描き出し、人間の理性や世界の不条理を問う作品を生み出している。

本作のモデル、メール・マリー・イレーヌは、福山暁の星女子中学校・高校の初代学院長である。同校の推薦によりフランスへ留学していた作家が現地でモデルと出会い、日本に肖像画を持ち帰りたいとの思いから制作された。背景に描かれた渡り鳥や海は、海を渡って海外での布教に勤めたモデル自身を暗示するものである。

 

松本 陽子 (Matsumoto, Yoko)  1936-

荒野での試みの画像
《荒野での試み》2010(平成22)年
194.0×259.0 cm 油彩,パステル,木炭,カンヴァス

東京都に生まれる。1956年、東京芸術大学美術学部油画科に入学。日本具象洋画の巨匠である小磯良平の教室に入り、色彩とデッサンの指導を受けつつ、小磯の勧めにより抽象画を描き始める。イーゼルではなく床の上にカンヴァスを広げて作品を制作するスタイルで知られるジャクソン・ポロック等を筆頭としたアメリカ抽象表現主義絵画の制作法に大きな影響を受け、今日まで一貫して非定形の抽象絵画表現を追求している。

60年代から90年代の終わりまで、自然界に存在する色から離れた人工的なピンクを主調とした抽象画群、「ピンク」の絵画の連作の制作に打ち込んでいたが、1996年にセザンヌの《大きな松》(1889年、サンパウロ美術館蔵)を目にしたことをきっかけに、2005年から緑色を主調とした抽象画、〈緑の絵画〉シリーズの制作を始めた。本作はその一つである。人工的なピンク色から一転して、自然を象徴するような色である緑を意識的に作品に取り入れた意欲作。

 

絹谷 幸二 (Kinutani, Koji)  1943-

薔薇の画像
《薔薇》1991(平成3)年
44.0 ×52.0 cm ミクストメディア,カンヴァス

奈良市に生まれる。1966年、東京芸術大学美術学部油画専攻卒(1966年小磯良平教室)。卒業制作で大橋賞受賞。1971年にイタリアへ留学、ヴェネツィアでアフレスコ古典画の技法を研究する。1974年安井賞展安井賞受賞。その後メキシコ留学などを経て、1993年東京芸術大学教授に就任、後進を育てる。アフレスコ絵画技法の地方講演なども行っている。2000年に芸術院会員となる。2010年に東京芸術大学名誉教授に就任。2016年、大阪の梅田スカイビルタワーウエスト27階に「絹谷幸二 天空美術館」が開館。2018年、日中平和友好条約締結40周年記念した絹谷幸二絵画展「愛と祈り・豊穣の翼」を開催。

メキシコの壺に活けられた色とりどりの薔薇が満面と咲き誇っている。その豊麗な薔薇は、生きる喜びを謳歌しているかのように、生き生きと表現されている。絹谷にとって色彩は、作品の生命線であり、人間にとっても活力の源として捉えている。絹谷の描く薔薇は、生からやがて死へと向かう、自然界における無常の時の流れにあっても、精一杯に咲く花々へ生命礼賛の思いで描いたものである。

 

森村 泰昌 (Morimura, Yasumasa)  1951-

MNB21 球形の詩-その4の画像
《MNB21 球形の詩-その4》1974(昭和49)年
224.0×186.4 cm ラッカー・エアブラシ,カンヴァス

大阪府に生まれる。1971年、京都市立芸術大学美術学部工芸科デザインコースに入学。卒業後、国内での個展開催に加え、世界的に権威ある芸術祭、ベニス・ビエンナーレにも作品が出品された。その作風は、美術史上の名作、歴史上の有名人等に作家本人がそっくりに扮するセルフポートレート写真で知られている。時代や国、人種、文化、年齢、性別を越えたものに自分を似せていく過程でオリジナルへの深い理解を図るのだ。

本作は、京都市立芸術大学在学中に公募展へ出品するために描かれた大型作品の1つ。カラフルな〇を内包する20の白い〇をさらに硬質な灰色の膜が覆っている。〇という同じ形だけで画面を構成しつつも、カラフルな〇の色彩や配置に規則性を持たせないことで、鑑賞者の視線を浮遊させる。

 

伊藤 福紫 (Ito, Fukushi)  1952-

空間と時間の中に1804の画像
《空間と時間の中に1804》1998(平成10)年
177.0×417.0×8.0 cm 雲肌麻紙にコンピュータ
ドローイング,ネオン,アクリル板,木

愛知県に生まれる。東京芸術大学および同大学院修了後渡伊。現在に至るまでイタリアでの制作活動を続けている。80年代前半には大学で学んだ日本画の技術を活かした平面作品、1987年からは和紙とネオン管、アクリル板等を用いた作品の制作を始める。以降、光を用いた作品の制作をつづけ、古代ローマの遺跡にコンピュータ・ドローイングを映写するインスタレーションを行うなど、あらゆる空間での展示を試みている。

本作は、アクリル板で作られた四辺形を複数組み合わせた上に、和紙を貼り付けた矩形の木枠を重ね、その裏にネオン管を仕込んで発光させる90年代の伊藤の代表作。ネオンを使った光の作品の魅力の一つについて作家本人は、「和紙を通して柔らかく拡散する光が、身体を取り巻き、全身が作品に包まれていくということです」と語る。鑑賞者と作品、空間が一体となるような感覚の創造を意図している。

 

中野 恵祥 (Nakano, Keisho)  1899-1974

迦楼羅天水瓶の画像
《迦楼羅天水瓶》1952(昭和27)年
30.5×12.5×6.2 cm 真鍮,板金造り,鍍金

東京都中央区京橋に梅村家の三男として生まれ、中野家の養子となる。白崎白善のもとで金工の技術を学ぶとともに、香取秀真との交流を通じて、古典的な主題に関心を抱き、特に仏教的なモチーフを作品とした。鋳金、彫金、鍛金、いずれの技術にも秀でたが、後年は、薄い金属の板を組み合わせた造形に取り組み、板金の持つ硬さや弾力を活かして、牛や蛙などの動物を生命感豊かに表した。

この作品は、仏法を守護する八部衆のひとり、迦楼羅をモチーフとした水瓶である。鳥形の頭部を栓、左腕を把手、右腕を注ぎ口とする形を、真鍮の板金を組み合わせて造形し、線彫と魚々子彫によってリズミカルに文様を施している。モチーフ、器種ともに仏教に関係するものではあるが、幾何学的な形態に還元された迦楼羅の姿は軽やかで、現代的な趣を感じさせる。1952年、第8回日展の出品作。

 

井伏 圭介 (Ibuse, Keisuke)  1930-2006

布目象嵌銅花瓶
《布目象嵌銅花瓶》1995(平成7)年
15.0 ×19.0×19.0 cm 銅,象嵌

1930年、東京都に生まれる。父は小説家の井伏鱒二。彫金を遠藤けい司(「けい」は金偏(かねへん)に圭)、海野建夫に、鍛金を三上猛夫に師事。1974年、伝統工芸新作展日本工芸会東京支部賞。生活工芸展奨励賞。光風会会員として活躍後、日本工芸会に移る。1977年、伝統工芸日本金工新作展文化庁長官賞、1979年、日本工芸会賞、1980年、奨励賞、同年、日本伝統工芸展総裁賞と受賞を重ねる。この間、1983年、日本橋三越で第1回個展を開催し、以後断続的に開催。1989年には、重要無形文化財保持者選賞を受ける。1998年、広島ホームテレビ文化賞受賞。2000年、日本工芸会金工部会長に就任し、同会の伸展に尽力した。

この作品は、1995年、第25回伝統工芸日本金工展に出品した井伏65歳の作品である。花瓶の器形は、小さな口と細く短い首から外に大きく張り出した胴が印象的で安定感がある。器の上面から側面にかけて、緑青を生かした鋸歯文が毛彫りされている。布目象嵌や線象嵌の技法を駆使して、有機的な曲線で意匠化された金と銀の胴部は、光の向きによって色調が変化するなど、華やかな印象を湛えている。

 

北大路 魯山人 (Kitaoji, Rosanjin)  1883-1959

金銀彩武蔵野鉢
《金銀彩武蔵野鉢》1925-34(大正14-昭和9)年頃
高15.2 口径27.5 cm 陶器

京都市に生まれる。本名房次郎。1903年、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞。1919年、東京・京橋に美術骨董の店「大雅堂芸術店」を開業。1925年、東京・赤坂に会員制の料亭「星岡茶寮」を開設。1926年、北鎌倉に陶磁器制作の場を構え、翌年、「魯山人窯芸研究所星岡窯」とし、本格的に作陶を始める。1954年、ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。1955年には、重要無形文化財「織部焼」保持者(人間国宝)の認定承認を打診されるが辞退。一般に料理家、美食家として知られるが、絵画、書、陶芸、漆芸、篆刻など、幅広い分野で個性的な作品を生み出した。

北大路魯山人は、書、絵画、漆芸、陶芸といった、生活にかかわる造形に深くかかわった。なかでも、魯山人の陶芸は、美食の追求からはじまったものであった。料理を引き立たせるうえで、ありきたりの既成の器では、満足できなくなったからである。魯山人は、過去に制作された、優れた陶磁器を範として、器の形や絵付けを写した、いわゆる「本歌取り」も数多く制作した。この作品も、江戸前期の陶工、野々村仁清《色絵武蔵野茶碗》などを手本として、40歳頃に制作した作品である。側面の下方に青色が薄く塗られていることで、涼しさを感じさせる。ちょうど暑い夏がすぎて、虫の音が聞こえる頃のようである。月を金と銀を混ぜた渋い色調で描いて、全体の器の調子もしっとりとした落ち着きと気品を保たせている。魯山人の器は、「料理の着物」として、料理の盛り付けを念頭に入れて創り出されているが、この作品には季節の移り変わりに眼を向けた魯山人の自然観をも感じさせる。

 

樂 直入 (Raku, Jikinyu)  1949-

黒樂茶碗 銘夜聴の画像
《黒樂茶碗 銘夜聴》 2003(平成15)年
高9.3 口径13.0 cm 陶器

樂家14代覚入の長男として京都に生まれる。幼名光博。1973年、東京芸術大学彫刻科卒業後、イタリア留学。1975年、帰国、京都工業試験場で釉薬の基礎を学び、作陶に入る。1981年、31歳で十五代吉左衞門を襲名する。主な受賞は、プリンストン大学・ヴィジティング・フェローシップ、日本陶磁協会賞、同金賞、MOA岡田茂吉賞優秀賞(MOA美術館)、第1回織部賞(岐阜県)、第40回毎日芸術賞(毎日新聞社)、フランス芸術・文化勲章シュヴァリエ(フランス政府)、京都府文化功労賞(京都府)など。2019年7月、長男 篤人が十六代吉左衛門を襲名し、直入を名乗る。

樂茶碗は轆轤ではなく手捏ねで成形し、箆で削りだしていく、彫刻のような工程をもつ。黒樂茶碗の焼成は樂家独自の窯で1点ずつ焼き、途中で取り出し、酸化させて黒い色を出していく。樂吉左衞門はその黒色をさらに磨くため、黒の釉薬を七層に重ね、深みがあって量感のある漆黒の肌をつくりあげる。そしてその姿は、作者が敬愛する本阿弥光悦の影響を受け、温もりがあって丸味のある形になっている。高台周辺の黒釉のにじみが景色に程よい変化をつけているのが印象的である。銘「夜聴」は、作者が初唐の詩人、張説の「山夜聴鐘」という漢詩からつけたものである。

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