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備後ゆかりの書家

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月2日更新
桑田笹舟谷邊橘南宮本竹逕
村上三島桑田三舟栗原蘆水

桑田笹舟 

くわたささふね

1900~1989(明治33年~平成元年)
福山市坪生町に生まれる。近藤雪竹・丹羽海鶴に漢字を、安東聖空にかなを学ぶ。
32歳で関西書道会展最高賞、東方書道会展最高賞受賞と、早くからめざましい活躍を続けた。戦後は、かな文字発生の根源にまで遡って探求し、田中親美に料紙づくりを学ぶなど、古筆の研究を重ね、かなの美の本質を追求した。
1970年、日本芸術院賞を受賞。日展参事・日本書芸院名誉顧問などを務め、現代かな書の第一人者として活躍し、多くの門人を育成した。1986年には福山市の名誉市民となった。
著書に「和漢書道史」「かな書道概説」「かなのすがた」などがある。

 「ふるさとは」

 紙本墨書 縦35.5cm 横48.5cm
本作に使われている料紙も笹舟の手作りで、菊の花を型押ししている。その上に濃墨で漢字作品のような力強い筆致で歌が書かれている。
壮年期には、流麗で繊細な筆致を好んだ笹舟も、晩年には書風が大きく変化し、万葉がなを多用した。行間をすっきり空けた構成からは凛とした空気が伝わってくる。弦楽器的流麗さから打楽器的リズム感の表現への変貌が窺える作品である。桑田笹舟「ふるさとは」
ふるさとは ここにありしか 朧夜に
むかいてあれば 涙こぼるる  (窪田空穂)

谷邊橘南

たにべきつなん

1905~1980(明治38年~昭和55年)
福山市田尻町に生まれる。1920年に京都に移住し、京都を中心に活動。奈良学芸大学教授等を務める。
書を辻本史邑、比田井天来、比田井小琴に、古筆を料紙研究家の田中親美に学ぶ。
はやくから正岡子規門下の岡本大無につき歌を習っていたが、かなの世界に入るきっかけも自分の歌を書くためだったという。歌と書が分離し、歌をよくする人が少なくなったかな書道界にあって、詩書一体の表現を追い続けた橘南の存在は極めて貴重である。正統的かなのテクニックの確かさには定評がある。
歌集に「橘頌」がある。

 

「青芝山」 あおしばやま

紙本墨書 縦30.0cm 横47.0cm谷邊橘南「青芝山」
各行を極端に傾斜させ、行の延長線が集る右下を焦点として、上部に放射線状に広がるように構成されている。こういった極端な構成は散漫になる恐れがあるが、集中と開放がうまく調和し、雄大な世界を作りあげている。
晩年にはこのように大胆な構成の作品が多くなり、用いた筆も毛先のかなり長いものであった。 鋭い刃物で切ったような、切れ味の良い、すがすがしい線が橘南作品の特徴といえる。
目の前に 雲はだかれば さき山の
青芝山は くもり涼しき(自詠)

 

宮本竹逕

みやもとちくけい

1912~2002(大正元年~平成14年)
福山市赤坂町に生まれる。文検合格後、教職の傍ら漢字を炭山南木、かなを桑田笹舟に学ぶ。
日展に書が加わると、壁面芸術としてのかなのあり方を模索し、当時の関西かな書壇の重鎮、安東聖空・桑田笹舟・田中塊堂・谷邊橘南らと全国遊説し「大字かな」の普及に力を注いだ。
平安朝の古筆を研究する傍ら、現代的なかな表現を模索し続けた。その書は流麗なかなの美に、大らかな万葉的情緒を取り入れ、雄壮な作風を展開した。
1973年日本芸術院賞受賞。日展理事・日本書芸院常任顧問などを務めた。著書に「関戸本古今集」「大字かな技法」などがある。 

「琴の音に」

ことのねに宮本竹逕「琴の音に」紙本墨書 縦12.5cm 横12.5cm

2002年
最晩年90歳の作であるが張りのある強い線には全く驚かされる。
書き出しから4行目までの、圧縮され密度のある文字群に対して、それ以降の広く疎な空間を作るという構成法は、竹逕が得意としたものである。疎密を極端に強調し、正方形の紙面に対して全体を円形に配置したことで、明るく爽やかな作品となっている。用いた筆は毛先の短いものが多く、ふっくらとした暖かい線で統一されているのが、竹逕作品の特徴である。
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琴の音に 峯の松風 かよふらし
いづれのをより しらべそめけむ (斎宮女御)

 

 

村上三島

むらかみさんとう

1912~ 2005(大正元年~平成17年)
愛媛県上浦町(現・今治市)大三島に生まれる。2歳の時に大阪府三島郡吹田町に移る。
大阪泉尾工業学校在学中、書を片山萬年に学び、漢詩漢文を山中月山に学んだ。1945年(33歳)、辻本史邑に師事し、日本書芸院創立に参加した。
書風は若い頃から王鐸を研究、戦後の明清調の書風の流行を代表する存在であった。辻本史邑の没後、日本書芸院理事長として関西書道界の結集と発展に尽力した。1985年日本芸術院会員・1998年文化勲章受章、書壇の重鎮として後進に大きな影響を与えた。

「王鐸詩七絶草書幅」

村上三島「王鐸詩七絶草書幅」
おうたくししちぜつそうしょふく
紙本墨書 縦117cm 横55cm

三島は1940年、28歳ごろから明末清書の文人・王鐸の書に傾頭し、行草体による連綿作品を発表し続けた。
本作は王鐸の七言絶句を草書で三行に書いたものである。
字間はほとんどあいていいないが、行間を広くとり、文字中の空白をゆったりとっているため、大らかで明るい作となっている。
古廟歌鐘未覚愁
千秋心事兩悠悠
前途不敢看君札
又到黄昏月満楼
 王鐸詩 三島書

 

 

桑田三舟

くわたさんしゅう

1927~2010(昭和2年~平成22年)
桑田笹舟の三男として、神戸市須磨区に生まれる。戦後から約40年間を父の故郷の福山市で暮らした。
1945年、18歳で父・笹舟に師事。1989年、笹舟の没後は「書道笹波会」を継承。
1999年日展内閣総理大臣賞、2002年日本芸術院賞受賞。
関戸本古今集や香紙切など平安王朝の優美なかなを研究し、笹舟とは異なる独自の書風を確立、空間の美を意識した細線による躍動感あふれる作品を発表した。装飾料紙の制作・研究にも熱心だった。    

「艶白」

 えんぱく紙本墨書 縦83.0cm 横175.0cm桑田三舟「艶白」※クリックすると拡大します

2007年(第39回日展作)
万葉歌人で三十六歌仙のひとり山部赤人の和歌一首を9行に書いている。全体を大きく二つの集団に分け、さらに右を二つにし、単調をくずす。二行目の行頭「う」と五行目の「ふじ」を思い切って長くし、あえて類似形を入れることによって新鮮さを感じさせている。
中央右上の白と左側の大きく空いた白の美しさを意識した。2003年日展出品作『斜白』からこの『艶白』まで5年にわたって付けられた「白」のシリーズ最後の作である。本作は最後の日展出品作となった。

多故のうら遊 たごのうらゆ
う地出でゝ  うちいでて
みれ八    みれば
真白二楚   ましろにぞ
ふじの
高嶺二    たかねに
由幾八    ゆきは
ふ利介類  ふりける  (山部赤人)

桑田三舟について解説したまんがです。
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まんが桑田三舟 サンプル画像 サンプル

 

栗原蘆水

くりはらろすい

1931~2010(昭和6年~平成22年)
福山市駅家町に生まれる。23歳で、府中高等学校在学中から指導を受けていた村上三島の内弟子として上阪。
三島が得意とした王鐸や趙之謙などを学び、その後宋の四大家の一人蘇軾(そしょく)の書に傾倒、特に行草書の作品で安定感のある書風を確立した。八大山人のほか于右任や江戸末期の神官、三輪田米山の大らかな書風にならった書も遺した。晩年には線をぎりぎりまで省略した簡素で雄大な作品や、調和体による作品も発表し続けるなど、没するまで精力的に創作活動を続けた。
1998年日展文部大臣賞受賞。1994年日本芸術院賞受賞。
2003年、故郷の福山市に長年収集した明清時代の書画や文房至宝など375点を寄贈。ふくやま書道美術館の開館に尽力した。

栗原蘆水「はじめに」※クリックすると拡大します 「はじめに」

紙本墨書 縦120.0cm 横245.0cm
1996年(第19回長興書展作)

1990年頃から、話し言葉による読み易く分かり易い書(調和体)を発表しようという運動を、師・村上三島が推し進め、栗原蘆水も精力的に調和体に取り組んだ。
大らかな書、そして素朴な書を追求した自作の言葉である。調和体には古典といえるものがなく、漢字と平仮名を調和させるのが難しい。平仮名も漢字も必要最小限の画数にし、横広の安定形で簡素化した。一字一字は独立させることで素朴さを出した。求め続けた書の結実といえる作である。
はじめに画いた大らかさと素朴な味が出せないで今度も筆をおく

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