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神辺の文化財 「国指定文化財」

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

廉塾ならびに菅茶山旧宅 (国特別史跡)

1953年3月3日指定

現在の廉塾講堂

指定当時(昭和28年)頃の廉塾講堂

近世山陽道に面した外門

菜園

方円の手水鉢

 廉塾(れんじゅく)は1781(天明元)年、菅茶山が34歳の時に地元の神辺に開設した私塾で、はじめは居宅の南に見える黄葉山(こうようざん)にちなみ「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」と名付けました。
講堂は桟瓦葺平屋建てで、6畳2室と8畳1室の連なる3室を襖を外して使用していました。初期の黄葉夕陽村舎は素読(そどく)を教える寺子屋のようなものと考えられていますが、開塾4年後には「金粟園(きんぞくえん)」という別塾を設けるまでに発展し、そこでは他国の講義も行われました。1807(文化4)年の神辺大火で全焼した居宅を塾の方に移しています。1792(寛政4)年45歳の頃に末弟の恥庵(ちあん)に家業である酒造業を譲り、この頃から「閭塾(りょじゅく)」と称して塾の経営に専念しています。そして、1796(寛政8)年10月、茶山は塾の永続を願い、田畑を添えて塾を福山藩に献上したいと申し出ました。この申し出は明けの正月に聞き入れられ、塾は福山藩の郷塾となり、以後「神辺学問所」と呼ばれるようになり、「廉塾」という名もこの頃に付けれたものと思われます。「廉」という字には「倹約する・贅沢をしない」という意味が含まれ、茶山の教育方針に沿って付けられたものと思われます。施設は講堂・居宅の他に隣接して3棟の寮舎が設けられ、塾生たちはそこで寝泊りしていました。講堂東側には、円形と方形をあわせた手水鉢(ちょうずばち)を設置し、これは「水が器の形に従うように、人も環境や教育、交流などによって善く悪くもなる」ということを示し教えています。講堂前の中庭には用水が流れ、ここで塾生たちは筆や硯などを洗ったといわれています。また、近世山陽道に面した表門と、施設に入るための中門の間の菜園で野菜を作り、防火用水を兼ねた養魚池では鯉を養殖し、来客に振る舞うこともありました。
 廉塾での教育方針は貧富や親疎(しんそ)によって塾生を差別せず、分け隔てなく学ぶ機会をあたえるというものでした。漢詩人としても大変有名であった茶山を慕い、全国各地から集まった塾生は、10~20歳代の若者を中心に2,000~3,000人いたと推測されています。
 江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、1953(昭和28)年3月3日、国の特別史跡に指定されました。現在でも居宅とともに、講堂・寮舎・書庫・養魚池などが旧観をよくとどめ保存されている全国でも数少ない郷塾です。

堂々川1番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川1番砂留 堂々川(どうどうがわ)に建設された砂留の中で最も下流に位置し、提長9.6m、提高3.2mの大きさで、平野部に最も近いことから、流出した土砂を食い止める最後の拠点といえます。現在のものは築造当時の一部であり、記録では当時のものは提長10間7尺(約20m)と、かなり大きなものでした。1773(安永2)年以前の築造と推測され、下流域を土砂災害から守るため最初に造られたものと思われます。整層布積で造られたこの砂留は、度重なる土砂流出により、嵩上げ増築を繰り返しながら現在の上部まで至ったものと考えられます。

堂々川2番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川2番砂留 1番砂留の上流約180mに位置し、提長25.8m、提高3.9mの大きさで、右岸袖部(写真左)は江戸時代後期の築造と思われ、荒々しく素朴な乱積になっています。水通し部は崩壊し1912(大正元)~1915(大正4)年にわたって増改築されたもので、谷積になっています。左岸袖部(写真右)の最上層は明治以降の谷積による改築です。この砂留の特徴は、4番砂留にも見られるように、中央の水通し部に接続する形で谷積の水叩き部が設けられていることがあげられます。

堂々川3番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川3番砂留 2番砂留の上流約60mに位置し、提長36.2m、提高5.46mの大きさで、上層1.6m、下層3.86mの2層からなり、下層は1832(天保3)年から築造され、上層は明治以降の嵩上げ増築です。上層・下層ともに整層布積ですが、下層の大きな割石に比べ、上層は小さな割石を使用しており、より緻密な構造になっています。通常の堰堤形式と異なり、まず裏面に石を積み上げ、後に約3m前方から裏面と平行するように中詰めしながら表面を築く2重構造で、非常に合理的且つ耐久性に優れた構造になっています。これが計画されたものか、偶然できたもかはわかりませんが、日本が世界に誇ることのできる江戸時代の堰堤であるといえるでしょう。

堂々川4番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川4番砂留 3番砂留の上流約130mに位置し、提長31.5m、提高3.3mの大きさで、江戸時代後期の築造と推測され、2番砂留と同様に中央の水通し部は谷積で築かれています。右岸袖部(写真左)は整層布積で、左岸袖部(写真右)は谷積になっており、いずれも明治以降に改築されたものです。この砂留の特徴は、2番砂留にも見られるように、中央の水通し部に接続する形で谷積の水叩き部が設けられていることがあげられます。

堂々川5番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川5番砂留 4番砂留の上流約180mに位置し、提長31.4m、提高8.8mの大きさで、構造形式・石積方式・形状などから、下流の3番砂留に次いで1832(天保3)~1835(天保6)年頃に築造されたものと思われます。基礎部分は整層布積ですが、途中から整層乱積になっています。よって、この部分は後に嵩上げされたものと思われます。明治になってから、その上に小型の割石を用いた増築を施し、さらに最上部は昭和になって谷積で嵩上げされています。右岸袖部(写真左)は、元々は西の山際まで延びていたものが、道路工事により一部が取り壊され現在の形となりました。堂々川砂留群の中でも上流の6番砂留に次いで大規模なものです。

堂々川6番砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

堂々川6番砂留(大砂留)

堂々川6番砂留(大砂留)

 5番砂留の上流約210mに位置し、別名「大砂留(おおすなどめ)」とも呼ばれ、提長55.8m、提高13.3mもの大きさを誇ります。基礎・下層・中層・上層の4層で構成されており、最初の元となった基礎部分は大割石を用いた非常に荒い整層乱積で築かれており、記録では1773(安永2)年3月にはすでに築造されていたことがわかっています。そして、この上に1835(天保6)年、整層布積による大堰堤を築造し、それが今の下層部になっています。その上の中層部は1882(明治15)年頃に嵩上げ増築されたもので、さらにその上の上層部は、1976(昭和51)年に当時の上層部にあった石積を除去し、谷積に積み替えたものです。この「大砂留」は、堂々川砂留群の中でも最大の規模を誇り、代名詞的な砂留として現在も地元から親しまれています。
 また、6番砂留の上流部には公園(堂々公園)が整備され、広く人々に活用され憩いの場となっています。

鳶ヶ迫砂留 (国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

鳶ヶ迫砂留 5~6番砂留の間の堂々川に合流する支流に位置し、提長39.3m、提高10.7mの大きさで、1732(享保17)年の鳶ヶ迫(とびがさこ)池の築造にともない池の前面に築かれたのが始まりと考えられています。この池は毎年のように土砂が流入し、1765(明和2)年と1813(文化10)年に再築が行われていますが、土砂の流入しやすい状況は変わらず、雨ごとに土砂で埋没し、次第に池面が高くなっています。それにともない前面の堰堤も修理・増築を繰り返し現在の形になったものと思われます。整層乱積に近い方式で築かれたこの砂留は、幾度となく修理され、1870(明治3)年、さらに1884(明治17)年にも修理が行われています。

内廣砂留(国登録有形文化財)

2006年8月24日指定

内廣砂留 6番砂留の上流の堂々川に合流する支流に位置し、提長6.2m、提高3.8mの大きさで、この付近から本流の堂々川への土砂流出が著しいため、支流で流砂を食い止めようと江戸時代中期に築造されたものと考えられています。最初は荒い構築だったものを、左岸が土砂で崩壊したため、水通し部の嵩上げと同時に左岸袖部(写真右)を設け、乱積で増改築したものと思われます。上層部は明治になってからの嵩上げ増築です。小型ですが、本流の堂々川を守る上で非常に重要な役割を持っていました。
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