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≪インタビュー企画≫福山の土地が育てた、地元愛と学びの精神

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年10月31日更新

 福山市には、歴史にその名を刻む偉大な文化人と所縁のある建物が今なお多く残っています。今回ご紹介する廉塾(れんじゅく)もその一つ。

 廉塾とは、江戸時代後期に儒学者・漢詩人として活躍し,漢詩風を一変させたともいわれる菅茶山(かんちゃざん)が開いた私塾です。

 備後国安那郡(やすなぐん)川北村,現在の福山市神辺町川北で生まれ,「当世随一の漢詩人」と謳われた菅茶山。そして,その菅茶山が開き,国特別史跡にも指定されている廉塾。これらを守り,顕彰活動をしている「菅茶山顕彰会」の代表鵜野謙二さんにお話を伺いました。

「菅茶山顕彰会」鵜野謙二さん
▲「菅茶山顕彰会」鵜野謙二さん

――菅茶山とはどのような人物だったのですか?

 菅茶山が活躍していたのは江戸時代後期。儒学者としても漢詩人としても,その存在感は大きく,江戸を中心に知名度は高かったようです。特に漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』の評価は高く,当時のベストセラーにもなっています。菅茶山はその生涯の大半を地元福山(神辺)で過ごしました,詩人としての名声は全国に鳴り響いていました。

菅茶山
▲菅茶山肖像画(広島県歴史博物館所蔵)

――そんな菅茶山がなぜ廉塾を開いたのでしょう?                           

 菅茶山の少年時代,庶民の生活は厳しく,村の若者の中には働く意欲を失い,朝から博打(ばくち)をするわ,酒を飲むわで荒れている若者もいました。よくない遊興の風俗が蔓延していたんですね。菅茶山はそれを嘆き,学問をすることによって社会をよくしていこうと自ら19歳で京都に遊学しました。そして,34歳で郷里に帰り,その学びを地元の若者に広めるため,黄葉夕陽村舎,後の廉塾を開いたのです。

――地元のために村を出た菅茶山は,再び地元のために戻ってきたのですね。

 地元愛ですね。学問をすれば自ずと社会が見えてくる。社会が見えたら,知恵もつき,働く意欲も湧いてくる。そういうことを地元の若者に菅茶山は伝えたかったのでしょう。廉塾には地元の若者のほかにも,菅茶山の教えを請いに,全国から数百人もの人々が訪れたといいます。

――地元だけでなく全国からここ福山(神辺)に人が訪れたなんて,菅茶山の知名度は当時相当高かったんですね。

 知名度が高かったこともありますが,それに加えて菅茶山はとても人柄がよかったんですね。才能もありましたが,人に対する対応というものがとてもよく,菅茶山は人々からの信頼が厚かったようなんです。今でこそよくおもてなしの心と言われるけども,まさしく菅茶山にもそういう一面があったのでしょう。人に対しての気配りや思いやりが非常にある,人格者だったのです。

――おもてなしの心。それは,福山の気質みたいなものなのでしょうか? 福山の方はみなさん,おもてなしの心を強くお持ちのような印象を持っています。

 そういうところもあるかもしれませんね。そして,このエリアの人はみな謙虚です。そして,人,特に子どもを大事にする。菅茶山自身も,子どもを大事にする人であったようで,手記の中にもね,子どもと戯れるような記述もあるんです。小さい子どもにも学問を教えてやっておったんですね。塾生のことを学種と呼んでいたことからも,学ぼうとする若者に対する思いを感じ取れます。学びを得て,いつかみんな花を咲かせてくれるであろうと,教え子たちに希望を見ていたのですね。

――素敵な気質ですね。おもてなしと思いやり。

 廉塾の敷地の中には,菅茶山の直筆を刻んだ養魚池があるのですが,実はそれは元々防火用水池だったんですよ。菅茶山は,訪ねてきた客へのおもてなしのため,防火用水池を養魚池にし,魚を育てたといいます。そういう菅茶山の思いやりの心や教えが,ここ廉塾には多く残されているのです。

廉塾養魚池
▲廉塾養魚池

――廉塾にある池の石碑は,菅茶山の揮毫(きごう)によるものなのですね。

 そうです。石碑以外にも菅茶山を感じてとれるものが、この廉塾にはたくさんありますよ。敷地内には,養魚池のほかに当時と同様の畑が広がっているのですが,その畑は農業という学びに加え,学種たちの糧にもなっていました。食事はすべて自給自足で,田んぼになっていたときもあるようです。菅茶山という人は,謙虚で誠実な人だったんですね。日常の食生活は一汁一菜であったようです。

 廉塾
▲門をくぐると,そこには居宅兼元講堂へと続く道。その脇には豊かな菜園が広がる。

――その畑の奥に居宅兼講堂があるんですね。

 居宅には現在,六代目のご子息がお住まいなので,建物の中まで入ってじっくり見ていただくことはできませんが,講堂は左手から六畳,六畳、八畳とあります。庭には多くの人が詩にも詠んだ銀木犀の木や,昔はホタルが飛んでいた用水路もあります。そして,この四角と丸の「方円の手水鉢(ほうえんのちょうずばち)」。一般的に手水鉢というのはトイレにあるものなのだけど,講堂の近くにあるのはなぜだかわかりますか?

当時の塾生が学問をしていた講堂
▲当時の塾生が学問をしていた講堂

――えっと,まったくわかりません。なぜでしょう?

 中国の紀元前の思想家・孟子の弟子の筍子の格言で「水は方円の器にしたがい,人は善悪の友に依る」というのがあります。水は液体だから,四角の器に収まれば四角になるし,三角の器に収まれば三角になります。そういうふうに,器のかたちによって,水はいろいろ変わっていくと。まあ当然ですよね。人は,人間関係,社会環境,生活環境,地域環境によって,よくもなれば,悪くもなると。菅茶山は,それを表した方円の手水鉢を講堂から見える場所に置くことによって,生き方や学問の精神を示したわけです。手水鉢は手を洗う場所でもあるけど,単にそのためだけの場所ではなかったわけですね。そんなところにも,菅茶山の人物像が見て取れます。

方円の手水鉢
▲方円の手水鉢 

――なるほど。勉強になります。

 菅茶山は,文章表現に関しても,その人柄がよく表れていると言われます。当時同じく活躍していた漢詩人・頼山陽(らいさんよう)と比較されることが多いのですが,頼山陽が流れるような小気味良い溢れ出るような文章を書く一方で,菅茶山は自分の感性を交え,にじみ出るような文章を書くと言われていました。欲を持たず,権力を持たず,学問で自分自身を極めながら,人生80年,地域貢献,社会貢献に生きたのです。

――鵜野さんも「菅茶山顕彰会」の活動を通して,菅茶山同様,地元の地域に貢献しているわけですね。

 廉塾や菅茶山のことを改めて知り,菅茶山に惚れ込み,これこそ大切にしていかなくてはいけない福山の財産だと思ったわけです。そして,定年で教員を退職し,町内会長を務めたのですが,その頃からこの活動をはじめました。今の子どもたちは人間関係のコミュニケーションが困難になっていますよね。いわゆる,人間としての生き方,一人ひとりの生き方として,菅茶山の精神が,今の子どもたちに通じると思い,それを顕彰していけたらと思ったわけです。

鵜野さん

――学校の先生だったんですね(どおりで!)。活動としてはまずどんなことをされたんですか?

 当時,廉塾は荒れ放題でね。全国から訪ねて来られる方はおったのですが,申し訳のない状態でした。まずは,半年かけて草刈りからはじめました。遥々来られる方がいるのなら,気持ちよくいらしていただきたいと思いましてね。

――現在の主な活動は?

 月一回定例で地域のみなさんに回覧を回して、第二土曜日に菜園活動や清掃活動をしています。それから,神辺エリアにある6小学校の1〜6年生の全校生徒に,菅茶山の漢詩の素読学習をすすめています。今は意味がわからなくとも、彼の人物像を頭の中にしっかり入れて,なんとなくでもわかれば,そのうちもっと調べてみようかと思う子どもも出てくるだろうしね。

――まだ意味はわからなくとも,まずは菅茶山という人を知るということですね。

 ほかにも,菅茶山の詩を絵にするという活動もしています。毎年募集しているのですが,福山市内をはじめいろいろなところから応募があり,その総点数は3000点を超えています。そのうち600点を入選作品として,その中から優秀作品と最優秀作品を選び,移動展として春と秋の2回,神辺町町並み格子戸展と福山市役所ロビー展等を行っています。これがすごい好評なのです。自然の風景は今も昔もそう変わらんし,現代詩訳をしているから,梅の花は梅の花,桜は桜,ホタルはホタルと,自然の風物詩を中心にした漢詩から浮かんだ風景を絵にしてね。子どもの発想はすごいなと,おもしろいですよ。

――菅茶山が詩に詠んだ当時の風景を,現代の子どもたちが絵としてかたちに表現する。なんだかとっても素敵ですね。

 教員をしていた頃,週五日制ができました。そして,現在のように土日が全部休みになってから地域の意識が変わってきた気がしています。週五日制ではなく,意識としては週休二日になっているようですね。

 子どもたちは,地域の中で育っていきます。核家族が増えている昨今,より地域でふれあいを増やしたいと,それが活動の根底にあるのです。

 廉塾を建物として整備するということもそうだけど,子どもたちの交流の場をつくりたいというのが大きいですね。そして,そういった機会を増やしていくというのが活動の基本にあります。後世にね,菅茶山の遺芳(業績)と遺徳(人物像)を,しっかり継承していきたいと。それが一番の目標であり願いです。

――今後の目標は?

 菅茶山は人生80年,自分自身を磨く努力を惜しまず,中庸の美徳そのものでありました。そしてそのベースには,地元愛がある。そんな菅茶山を,そして廉塾を,知らないわけにはいかないぞと,福山のみんなに同じ気持ちを持って欲しいです。そういう発信を,私だけじゃなく,みんなでしていかなくてはいけないなと思っています。福山市外からいらした方に,だれでも語れる,みんなが案内できるっていうふうにならないとね。

このインタビュー企画について
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