ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 ふくやま観光・魅力サイト > ≪インタビュー企画≫何もないという前に、知ってほしい福山のこと
  • 福山市公式ホームページ
  • 福山ブランド
  • 福山市公式Instagram

≪インタビュー企画≫何もないという前に、知ってほしい福山のこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年5月29日更新

 鞆の浦を一望できる後山の中腹に「後山山荘」と呼ばれる建物があるのをご存知でしょうか?これは福山出身の建築家・藤井厚二によって設計された築80年以上の別荘を、同じく福山出身で日本を代表する建築家・前田圭介さんが再生したものです。二人の建築家による時代を超えた合作ともいえる「後山山荘」は、各メディアで取り上げられ話題となりました。世界に活躍の場を持ちながら、地元福山に事務所をかまえ、活動する前田さんに建築そして福山の魅力を伺いました。

 前田圭介さん
▲建築家 前田圭介さん

―そもそも福山って日本を代表する建築家を多く輩出していますよね―

 日本の建築学に大きな影響を与えた武田五一もそうですね。もともと日本には建築家という職業はなかったんです。それを文化として築いた功績は偉大です。一方、藤井厚二は日本の環境工学の先駆者。日本特有の四季の温度差や湿度、気候や風土に、西洋建築のいいところを取り入れられた方です。

 藤井厚二
▲藤井厚二(1888~1938)

 
後山山荘

後山山荘

▲後山山荘 毎月第2日曜日に公開。※予約制
 後山山荘ホームページhttp://ushiroyamasansou.com/

―武田五一は国会議事堂や国重要文化財の山口県旧県庁舎などの主要設計スタッフだったんですよね?―

 はい。福山市公会堂や戦災で焼失した福山市役所などの設計、市章のデザインにも関わっています。武田五一は東京帝国大学、今でいう東大を出て京大に建築学科をつくった人です。関西では建築界のドンみたいな方です。福山藩士の息子というところにぼくは勝手に親近感を感じていたりもします(笑)。同郷のよしみで藤井厚二を建築学科に招聘したのも武田五一なんです。藤井厚二は、武田五一のように大きな建築を手がけていたのではなく、人の住居というものを考え建てていた人ですね。

武田五一福山市市章
▲武田五一(1872~1938)▲福山市市章
戦災で焼失した福山市役所福山市公会堂
▲戦災で焼失した福山市役所▲福山市公会堂

―世代だけじゃなく、建築家としての活動も違ったんですね―

  当時は西洋の文化がたくさん入ってきた時代です。日本人はいいものを上手に取り入れる民族だと思うんですが、藤井厚二はまさしく日本の良さを残しながら、西洋のいいところを取り入れようとした人かなと。たとえば椅子に座る目線と畳座の違いとか、その両方を取り込みながら自然のエネルギーを上手に使うというか。自然に対してプロテクトするような文化じゃないですよね、日本て。もっとゆるやかに自然と繋がっている。その風土の中で海外建築の真似事してもしょうがないと。日本の自然に対する考え方で、新しい日本建築っていうのを作った方だと思います。京都の大山崎にある聴竹居はその極みとでもいうか。

―天皇陛下も見学を希望された、藤井厚二の代表作ですよね―

 聴竹居同様、後山山荘にもそれらの技術が取り入れられています。天井面に小屋裏換気を作って熱気を外に逃せるような機能を住居に持たせたり。環境共生住宅の礎を築いた偉大な方です。

 後山山荘 居間
▲後山山荘 居間

―そんな二人が福山から生まれたというのには何かあるのでしょうか?―

 どうですかね(笑)。まあ、まちから島なみが見えたり、海と山も近く、自然豊かな環境に加え、昔から栄えた港があるというのもあるのでしょうか。推測でしかありませんが、だからそういう人材を輩出してるのかなっていう気はしますね。

―前田さんは二人の影響は受けていると思いますか?―

 正直いうと、学生の頃はそこまで意識していませんでした。そこに関心をもつ幅がなかったんでしょうね。改めて意識したのは、ふくやま美術館での展示がきっかけです。美術館で建築展をやることって珍しいことなのですが、福山ゆかりの3人の建築展(武田五一、藤井厚二、田辺淳吉)を見て、その時、改めてすごい方だと感じました。それと同時に、そのことを知らない福山市民が多いなっていう気もして……。建築家である我々がレクチャーなどで伝えられたらいいなと思うようになったきっかけでもありますね。

前田圭介さん

―そんな地元のスーパースターの建築作品である別荘を、時空を超えてご自身が手がけることになったとき、どう思いましたか?―

 本当に残せるのだろうか……。誰が見ても解体するしかないと、もう崩れるのを待つしかないという状態だったんです。実際にもう、文献として残すしかないという方向になっていました。けど自分としては、不安はあるけど、壊すという選択はないなと。唯一、福山に残る藤井厚二の建築を壊すという選択肢はなかったですね。諦めることはいつでもできるので。そこで自分ができることは何か、藤井厚二をどう読み解くか、そのことだけに集中しました。
 もちろん予算にも限界がありますし、車が寄せられない場所なので、作業に通常の2倍取られても仕方ない。また、既存の別邸はとてもいい材料で作られていました。例えば、最近では茶室などにしか使われなくなってきている面皮付きの柱などが使われていました。時を経て、その隣に安価な材料を使っていいのかとか。自分が藤井厚二をどう読み解くかなどなど頭を悩ませました。

―ほかの建築の仕事とはまた違う作業ですね―

 施主も時間はかかってもいいということから、気づくと3年が経ってました。

―通常の2倍から3倍の時間をかけて、前田さんは何をしていたのですか?―

 崩れかけている現場に立ち、無言で語りかけてくる藤井厚二と向き合っていました。当時は心が折れそうになることばかりで(笑)。完成したのは、ぼく一人の力じゃありません。職人さんの力で出来たと思っています。みんないいものを再創造して残そうと、がむしゃらでした。多くの地元の職人さんは、腕と目利きがある人たちです。そういう凄腕の人たちとじゃなくちゃできなかった。自分は指揮者みたいなもので、自分一人の力で作ったものでは決してないんです。

修復時の風景修復時の風景
修復時の風景修復時の風景

―日本国内のみならず、世界からも注目される前田さんが、地元福山にこだわる理由は何なのでしょう?―

 東京などの大都市は建築家も多く集まるじゃないですか。けれど、大都市で活動している人たちだけが都市のことばかり語っているとどうしても温度差ができると思うんです。日本は東京だけで成り立ってるわけじゃないし、中核都市は日本中にたくさんありますよね。いろんな地域の個性を発信できる方が豊かだなって思うんですよ。東京には東京の楽しみ、福山だったら福山の楽しみ。その場合、福山ならどんな楽しみを提案できるか。いろんな楽しみがあってこそ、成熟した社会といえると思うんです。すでに日本はそういう段階に入っていると思うんですよね。これまで当たり前としてあったものが見直されて、バブルの頃とは違う本当に豊かだと思えるものを大切に、持続させていけるような時代になっていくのかなと。

―事務所を立ち上げる時から、やるなら地元でという考えだったんですか?―

 何もないとは言わせないって言ってますけど、僕自身、福山には何もないってことをずーっと聞かされて育ってきたんですよ。何もないってことを自慢気に言う地域というか(笑)。けど、そんなこと決してないんですよ。知らないだけというか。実際、学生の頃、夏休みに東京から友達が遊びに来たときとか、とりあえず鞆の浦に連れて行ってみるんですけど、実際案内できるほど知らなかったなって思ったこともあって……。福山を離れ東京に住んでみて、改めて福山のことを何も知らないなと思ったんです。福山に帰ってきて、その良さを発見していくこともそうだけど、何もないとは言わせない、自慢できるまちにしたいなと。というか、自慢できるものはいっぱいあると思うんです。それに気づく目をもてるかどうかなのかなって。建築を通して、自分が少しでもそういうことを発信していけたらいいなあと思っています。

―そういう意味でも、後山山荘が果たす役割は大きいですね―

 完成までに聴竹居にも数回行きました(笑)。彼が何をしようとしていたのかの変遷をたどりながら。鞆の浦の別荘の図面は残されていませんでしたが、聴竹居には平面図があるんです。そこにはサンルームに縁側と記してありました。冬場はサンルームとして、夏場は開放して縁側に。その奥にある居間に冷たい風を取り込める。藤井厚二は、外部をいかにして内部に取り込むかということを考えた方なのかなぁと。そう思うと、普段自分が考えている建築と変わらないような気がしたんです。だったら自分らしくやれば、それは藤井厚二がやりたかったことと本質的には同じなんじゃないかなって。そう思ったら肩の荷が下りました。サンルームは徹底して修復、再現して、ほかのところに関しては、もともとあったかたちの中で自分らしくやればいいかなと。そうすれば自分がやる意味もあるなと。

後山山荘 サンルーム
▲後山山荘 サンルーム

―時空を超えたセッションですよね―

 そこには、必然的に時間が必要だった気がするんですよね。時間が経つとコレでいいんだなと。すごい作業でしたけれどね。いや、藤井厚二は本当にすごい繊細な方なので、完成を見て「このぐらい?」とかも言われたくないし(笑)。とはいえあんまりプレッシャーを感じすぎると藤井厚二の真似事になるし。自分なりにどう読み解くかっていうことに徹しました。新しいことをやるには、やっぱり工夫と検証が必要。「デザインはいいけどディティールが粗いし使いづらいね」っていうのが一番嫌なので。デザインにはすべて理由があるんです。

前田圭介さん

―今後、福山のまちをどうしたいとお考えですか?―

 福山市民が自分たちのまちを自慢できるまちにしたいですね。自分の故郷がなくなったら寂しいじゃないですか。ホームがどう持続できるかっていうことを考えています。東京から建築家が来て、何か手がけてまた帰るっていうのも決して悪いことじゃないし、もちろんいいとは思うんですけど、地元にも信頼できる建築家が更にいたほうがいいなって。まちって少しずつ変化していくものなので、そのまちに住みながら時間を共にして、関わっていく方がもっとよくなり、豊かになると思うんですよ。ということを信じたいですね。一流の人たちと一流のものを作りたいという気持ちも強いです。こだわってつくられたものがまちに多くあることは素晴らしいじゃないですか。そういうものがあるまちっていいなって。今後、不特定多数の人たちが集える公共の場所がつくれたらいいと思ってます。もう何もないとは言わせません(笑)。