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歴史人物 ~水野勝成(みずのかつなり)~

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月5日更新

水野勝成

 福山藩初代藩主。「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られる一方,城下町建設や産業育成,治水事業などを積極的に行い,今日の福山発展の礎を築きました。
 1564年(永禄7年)三河国刈谷において水野忠重の子として生まれ,幼名を国松・藤十郎・六左衛門といいました。父忠重の姉は徳川家康の生母於大の方であることから,勝成と家康はいとこの関係になります。
 1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」の後,忠重の勘気に触れて中国地方や九州を放浪した後,1585年(天正13年)豊臣秀吉に仕えます。秀吉が島津を攻略した九州攻めの後も肥後国に留まり,佐々・小西などの諸大名に仕え,たびたびの合戦で手柄をたてます。1600年(慶長5年)に父の遺領三河国刈谷藩3万石を継ぎ,1615年(元和元年)大坂夏の陣の活躍により大和国郡山藩6万石に加増されました。
 西日本が外様大名で占められていた1619年(元和5年),西国鎮衛の任を帯びた譜代大名として備後国に入封し,10万石の領主となりました。1622年(元和8年)には,石高に比して破格の規模である五重五層地下一階の天守閣をもつ巨城(福山城/正式名称:鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)を完成させ,地名を「福山」と名付けました。また,芦田川デルタの干拓による城下町の建設をはじめ,綿花栽培の奨励による繊維産業の育成や上水道の敷設,戦国時代以来荒らされていた神社仏閣の修理・再建など,領内の治政に力を尽くしています。
 1638年(寛永15年),幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は,子勝俊とその子勝貞とともに約6,000人を率いて幕府軍に加わりました。老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことでした。
 1639年(寛永16年)家督を勝俊に譲り,1651年(慶安4年)に88歳で死去。菩提寺の賢忠寺(福山市寺町)には高さ5メートルを超える巨大な五輪塔があります。