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鞆城跡(ともじょうあと) 

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年3月31日更新

市指定史跡 昭和51年(1976年)7月13日指定 

 この城跡は港を見下す要害の地にあり,しかも町の中央に位置する孤丘で格好の地理的条件を具えている。
 起源については明らかでないが,村上水軍がこの地に城を築いたと考えられている。また毛利氏が将軍足利義昭を鞆に迎えた時は城が存在していたものと思われる。
 この城が現在のような形にととのえられるのは,慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が,重臣大崎玄蕃を配し三層の天守を築いて城郭をととのえたことによる。
 元和元年(1615年)一国一城令により築きかけた天守は三原城へ移し,福島正則の後をうけて入封した水野勝成は長子勝俊の居館をここに置いた。勝俊が福山藩主となって以来は,ここに町奉行所が置かれ明治維新まで鞆の管理がなされた。
 現在は本丸(東側最高所にあり,約2,500平方メートルの郭),二之丸(本丸西側に接する約1,200平方メートルの郭)の一部と石垣等を残すのみとなっているが,かつては北部に三之丸があり,ここに町奉行所が置かれていた。

所 在 地鞆町後地

鞆城跡