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コレクションIII/日本の現代美術

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年1月9日更新

中島夏之

東京に生まれる。1958年東京芸術大学油画科を卒業。ペイントやエナメルに砂を混ぜた連作「韻」により注目を浴びる。1962年頃より、日常的事物をアクリル樹脂で固めた「コンパクト・オブジェ」を制作する。高松次郎、赤瀬川原平らとハイ・レッド・センターを結成、街頭でハプニングを行い、また土方巽らの「暗黒舞踏派」と交流し舞台装置を制作するが、1966年より再び絵画に復帰する。70年代後半より色彩が重要な位置を占めるようになり、80年代には弓形と紫、黄緑といった色彩が緊張感を織り成す絵画空間を展開している。

中西夏之は既成の絵画を解体し、独自の手法を考案することにより絵画を新たに成り立たせようという画家である。1980年から始まる《arc・ellipse》シリーズは、大きな円弧の1部としての弓形を左画面いっぱいに描き、グレーの下地に白の筆触を交差させて集積させる。その描き方も独自で、約2メートルの長い柄の先に筆や刷毛をつけて描いていくのである。柄の長さは弓の長さと同じくらいである。それにより弓形と白の筆触の間に緊張関係や関連性が生まれている。1982年には紫シリーズが始まる。「紫は絵の一要素ではなく、絵を破壊するような要素だ」と自ら述べるように、破壊力をもった紫を中西のその絵画構造の中に招き入れようとした。

この作品において、弓形は大きくなり緊張感が緩んでいる。紫の部分は青や黒、黄色をわずかに伴って大きくなり、中西の絵画から破れ出んばかりの勢いである。それを白い網目模様でようやく引き留めているというところである。

 

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《紫・むらさきXI》 1982年(昭和57年)
227.0×181.5 油彩,カンヴァス

山田 正亮(Yamada, Masaaki) 1930-2010

東京生まれ。1953年に長谷川三郎に師事。1954年、東京大学文学部を中退。在学中よりモランディ、セザンヌに関心を持ち静物画を描き始める。1956-57年には静物画は輪郭線と面による抽象画となる。1958年、画面の枠則して方形を繰り返す絵画を描き、絵画の平面性をはっきりと自覚する。このとき絵画の表面を発見することになる。1959-74年にかけて、青、緑、赤、白、灰色などのストライプの絵画を繰り返し描く。彼はこの時期の作品について「絵画というひとつの平面の中で色彩の等価性というか、全色彩を使って形体を失っていくということは、全体的な形体を浮かび上がらせていくことになる」と述べている。この間、1965年に白い画面を青、黄、灰色の十字で区切った作品を、1966-67年に白、灰、銀色の無彩色の作品を制作している。山田は、1975年よりストライプから矩形の格子状の作品に向かう。当初、矩形は単一な平面として展開されるが、1980年代になると、継続して描くことからのみ沸き上がる自在な筆触による線の集積によって面が形成され、格子は所々に十字として残されていく。

この作品は、1987年の「第19回サンパウロ・ビエンナーレ」への出品作である。多くの線の集積は形態を成していき、色彩は相互に抑制されながらも重層的となっている。平面性に基本をおきがら、奥行きの表現も共存させ、動的で多彩な表面を実現している。

 

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《Work E.277》 1987年(昭和62年)
182.0×259.0 油彩,カンヴァス

荒川 修作(Arakawa, Syusaku) 1936-2010

名古屋市に生まれる。1956年、武蔵野美術学校(現 武蔵野美術大学)入学、後に中退。1958年から読売アンデパンダン展に出品し、棺のような木箱にセメントのオブジェを納めた作品で注目される。1961年に渡米、以後ニューヨークに住む。詩人マドリン・ギンズと出会い、以後制作をともにする。1964年頃から図式絵画のシリーズを開始。1970年、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表。1971年、ギンズとの共著『意味のメカニズム』を刊行、翌年同名の個展をドイツで巡回させる。1991年、東京国立近代美術館、1997年グッゲンハイム美術館で個展開催。1995年、「養老天命反転地」、2005年、「三鷹天命反転住宅」をつくり話題を呼ぶ。
荒川修作は、ニューヨークで詩人マドリン・ギンズと出会い、絵画を根本から問い直す思考を深めていった。その成果として1971年にギンズとの共著『意味のメカニズム』を刊行し、「読む絵画」を提示した。意味とは「あるものを考え抜こうとする欲望」、「意味を解こうとする意志」だとした。ものごとの意味そのものよりも、意味を解明するプロセスの重要性をテーマとして制作を続けた。

この作品の描かれた1973-74年頃には、円柱、矢印、幾何学図形、文字などが登場し、「読む絵画」の度合いを強めていった。ギンズは「回転の中心にある点が仮説点であるとすれば、放射される線によって形成される円柱は、実体化された思考の肉体である」(「アラカワ・図形からモデルへ」)と述べているように、抽象的な思考プロセスを図像化、図形化して現れてきたのが円柱である。これはマルセル・デュシャンの《チョコレート・グラインダー》との関連も指摘されている。ここに描かれる文字を日本に直接なおすと「それは消失した。つまりあらかじめ記号内容(シニフィエ)がそのなかに消失したように、消失はそれになった」となる。謎かけのようであるが、「意味」とは何か、絵画とは何かと問い直す作品である。

 

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《緩慢な動きのなかの認識できないものを調整し続ける(ナンバー)》
1973-74年 (昭和48-49年)
165.0×246.5 油彩・アクリル,カンヴァス

河原 温(kawahara,On) 1933-2014

愛知県刈谷市生まれ。1950年代前半より<浴室>シリーズや<物置小屋>シリーズで 注目される。1961-62年、メキシコで制作。1965年よりニューヨークに住む。1966年より「日付絵画」を描き、1968年より「I MET」「I WENT」の記録ファイルを制作。1968-79年、毎日の起床時刻を記した絵葉書を知人に送る。1977年、パリ、ポンピドゥー・ センターで個展開催。

この作品は「日付絵画」のひとつで、時間という記号を物質化して提示したものである。  

 

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《Nov.10、1987》 1987年(昭和62年)
各25.5×33.0 リキテックス,カンヴァス

山口 長男(Yamaguchi, Takeo) 1902-1983

京城(現在のソウル)に生まれる。1927年、東京美術学校西洋画科卒業後、渡仏し、佐伯佑三と交遊。1931年、帰国し、二科展に抽象的作品を発表。1938年には吉原治良、斎藤義重らと二科会の前衛的傾向の作家が集まって九室会を結成。戦後も二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展出品を続けた。

山口独自の抽象の世界は、1950年代から顕著となり、色数の限定とともに、独特の有機性を持った抽象絵画を確立した。1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加。1954年には、会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。1955年に第3回サンパウロ・ビエンナーレ、翌年に第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として出品。その後も国外展で出品を重ね、日本の抽象絵画の先駆的な1人となった。

山口長男の作品は、単に色や形、素材などを無機的に構成した抽象画ではなく、ペインティングナイフを使って何回も塗り重ねながら独特の絵肌を生み出し、画面との対話の中で引き出された平明な色や形をもとに表現している。 この作品は、カンヴァスではなく、ベニヤ板を支持体にして、油彩の黒色の地に赤茶色の図で成り立っている。実景を示す具体的な画像は描かれていないが、作品名の《堰形》から、赤茶色に塗り込められた形が堰の骨組みを単純化したものであることがわかる。これらの限定された色面は、作者の生まれ育った風土に結びついたものである。黒を背景にした赤茶色は、大きく横に広がる重量感とともに悠久の時を感じさせる。

 

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《堰形》 1959年(昭和34年)
183.0×274.0 油彩,カンヴァス

岡田 謙三(Okada, Kenzo) 1902-1982

横浜に生まれる。1922年、東京美術学校西洋画。その科に入学するが、翌年中退し渡仏、パリで藤田嗣治らと交流。1927年、帰国。その後は作品制作に没頭する。1937年、二科会会員に推挙。以後二科会を中心に発表を続け、甘美な女性像と叙情的な作風で人気を博す。戦後は渡米し、日本の伝統的な色感と簡潔な形態が調和する独自の抽象表現に到達。アメリカ画壇で国際的な地位を築く。

この作品は、肩越しにこちらを見つめる女性を中心に、人物群像がまとめあげられている。色調は地味でありながら、優美さが画面を包み込む。この叙情的な画風は、岡田の初期の特色である。この作品は第24回二科展に《つどひ》、《裸婦》とともに出品され、北川民次らとともに会員に推挙された。しかし、次第にこうして描かれる人物像は抽象化され、1950年に渡米、ユーゲニズムと称される抽象画の確立につながっていく。そこに漂う日本の幽玄の美をいかした色感は《海辺》の中にも滲み出ている。

 

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《海辺》 1937年(昭和12年)
145.5×112 油彩,カンヴァス

村井 正誠(Murai, Masanari) 1905-1999

岐阜県大垣市に生まれる。文化学院で石井柏亭、有島生馬らに師事し、1928年、卒業後に渡欧、抽象美術の洗礼を受ける。帰国後、瀧口修造、岡田謙三らと交友、また二科展などに出品する。1934年、長谷川三郎らと新時代洋画展を開催。1937年には自由美術家協会の設立に参加。1950年、モダンアート協会を創立。日本の抽象絵画の先駆者の1人となる。単純化された色面構成と明快な色使いが特徴的。

この作品は紀元2600年記念第4回自由美術家協会(1940年)に出品された4点の《四つのパンチュール》うちの1点。村井正誠は1936年から最初の抽象画「URBAIN」シリーズを描きはじめるが、その契機となったのが朝日新聞に掲載された内蒙古の町の航空写真だったという。街をテーマにした抽象というとモンドリアンの《ブロードウェイ・ブギウギ》(1942-43)が想起されるが、その影響関係はなく、むしろ航空写真が村井のイマジネーションを刺激した結果だった。4点の《四つのパンチュール》は2点ずつを対比させるシリーズで、この《No.2》ともう1点は、赤、青、白、黄、黒の矩形を組み合わせたヴァリアントになっている。その軽快なリズム感、明快な色面対比によって、日本の前衛美術、抽象美術の扉を開いた作品のひとつといえる。

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《四つのパンチュール No,2》 1937年(昭和12年) 60.5×71.0 油彩,カンヴァス

斎藤 義重(Saito, Yoshishige) 1904-2001

東京に生まれる。中学校在学中から絵を描き始めるが、1920年、ロシア未来派の亡命画家ダヴィッド・ブルリュークらの展覧会を見て大きな衝撃を受け、制作を一時中断。1930年頃から、ロシア構成主義やダダの影響によって、立体作品を中心とした構成的、抽象的な作品の制作を再開し、二科展、黒色洋画展、美術文化協会などに参加。1957年、第4回日本国際美術展でK氏賞、今日の新人57年展で新人賞。1959年には、国際美術評論家連盟賞を受賞。ヴェネツィア・ビエンナーレなど国際展にも数多く出品した。日本の現代美術の先駆者の1人として活躍した。

斎藤は、1960年頃から合板の表面に電気ドリルで穴や線溝を刻み込み、油彩を施す手法を用いた「作品」シリーズを発表した。この作品もカンヴァスに油彩という一般的な描き方ではなく、青色の彩色の下地には、粗く刻まれた合板の凹凸がみられる。画面全体は、あたかも風化した古い石壁のような質感をもち、全体に流星群の軌跡のような筋が「く」の字状に並び、その上を左端から中央にかけて3本の太い帯が重なり合って延び、それが右へと流れて渦を巻いている。

斎藤は、1930年頃から、構成的、抽象的な作品を制作したが、この作品は、「絵画の時代」から「ドリルの時代」へと移行した、その転換期に位置する重要な作品である。1964年、「ドリルの時代」終焉以後も、斎藤はペンチやクレーンの形を合板でレリーフにした作品や、合板を用いた立体作品など次々と新しい表現を開拓した。

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《ワーク》 1962年(昭和37年)
137.0×242.0 油彩,合板

東郷 青児(Togo, Seiji) 1897-1978

鹿児島市に生れる。本名鉄春。東郷家は島津藩に仕えていた旧家。1902年、一家で東京に移住、1910年、青山学院中等部に入学する。1915年、ドイツから帰国した山田耕筰を知る。同年9月、日比谷美術館で個展を開き、「コントラバスを弾く」などで日本における未来派の画家として注目された。1916年、第3回二科展に初入選、二科賞を受賞する。この年から有島生馬に師事。1921年、フランスに留学、マリネッティやピカソと接する。1928年、帰国、1931年、二科会会員、1943年、第6回新文展の委員及び審査員を務めた。戦後は二科会の再建に尽くし、フランス、メキシコでも二科展を開くなど国際交流も熱心で各国から勲章を受けている。1976年、東京都新宿区に東郷青児美術館が開設される。1978年、熊本にて死去、文化功労者として顕彰された。

この作品は未来派の実験をくぐりぬけて、簡潔な構成と陶器のような肌合いを持つ。大衆性の強い絵画の道を歩んでいくまでの節目をなすものである。

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《星座の女》 1944年(昭和19年)
235.0×89.0 油彩,カンヴァス

三木 富雄(Miki, Tomio) 1937-1978

東京生まれ。東京衛生技術学校中退後、独学で美術を学ぶ。1958-1963年、読売アンデパンダン展に出品。1963年、内科画廊の個展で初めて「耳」を出品。1964年、第6回現代日本美術展コンクール賞、1967年には第5回パリ青年美術家ビエンナーレ展でアンドレ・シュス夫人賞、第9回日本国際美術展で日本国際美術振興会賞を受賞。1968年、第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ、1969年、第10回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年代に活躍したアヴァンギャルドの代表のひとり。1978年、40歳で急逝。

耳を通して人間存在のあり方を問い続けた。この作品もそのひとつである。

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《耳》
83.0×46.0×14.0 アルミニウム

北川 民次(Kitagawa, Tamiji) 1894-1989

静岡県に生まれる。1913年、早稲田大学予科を中退し、伯父を頼って渡米。ニューヨークで劇場の背景を制作する職人として働きながら、アート・スチューデンツ・リーグで絵画の基礎を学び、ジョン・スローンに師事。1923年、メキシコのサンカルロス美術学校、1924年、旧僧院で絵を研修し、オロスコ、シケイロスらと交流。1925年、トラルパムの野外美術学校で児童美術教育に打ち込むとともに絵画制作にも励み、後に校長となる。1936年に帰国、翌年には二科会会員となり、日本での画家としての地位を築いた。第二次大戦中は、瀬戸に移り住む。終生、日本の風土とメキシコ美術のたくましい造形性を融合した画風で、家族の姿、母子、働く人々など民衆と愛をテーマにした作品を描いた。  

この作品は、1954年の第39回二科展に出品し、会員努力賞を受けた作品である。画中の北川民次の描いた女性たちは、素朴で生き生きとした表情をして、骨太の生命力を感じさせる。北川は、大正時代から長くメキシコに滞在し、メキシコの美術運動に深く関わった画家でもあった。メキシコがスペインの植民地支配から脱して、民族主義運動が盛んであった時期とも重なり、北川の作品は、セザンヌやゴーギャンといったヨーロッパ美術の影響を脱して、メキシコのプリミティブな風俗や生活感覚、そしシケイロスなどメキシコ人画家の影響のもとに、独創的なリアリズムを築いた。

本作品も、手を差し出す女性の表情などには日本人離れした感覚をみることができる。また、画面の構図では、中央の女性の頭を頂点として、左右二人の女性を底辺として、大きな三角形が形成され、どっしりとした安定感と力強さを感じさせる。

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《女のつどい》 1954年(昭和29年)
112.0 × 162.0 油彩,カンヴァス

岸田劉生(Kishida, Ryusei) 1891-1929

東京・銀座に漢学者岸田吟香の四男として生まれる。1908年、黒田清輝が指導する白馬会葵橋洋画研究所へ入り、油絵を学ぶ。1910年、第4回文展初出品。1911年、雑誌『白樺』に触れ、ゴッホ、セザンヌなどに強い関心をいだく。1912年、高村光太郎らとヒュウザン会展に出品し、大正時代に若手登場の新しい頁を開く。1915年、草土社を結成し、1922年まで9回の展覧会を開催。1916年、肺結核を患い、東京市外の駒沢村(現世田谷区)へ療養のため転地。翌年、神奈川県藤沢村鵠沼へ転居。静物画など室内制作に集中。1923年、関東大震災を機に京都へ移る。のち鎌倉へ転居。1929年、満州旅行の帰路、山口県徳山(周南市)で急逝。享年38歳。

《麗子十六歳之像》
1929(昭和4)年6月
47.2×24.8(M8号に近い特別寸法) 油彩,カンヴァス

晴れ着姿の麗子像である。白い額にすっきりとひかれた眉、そして瞳の輝きは、少女というよりも、一人の女性としての雰囲気を漂わせている。岸田劉生は、麗子を「デコちゃん」と愛称し、素描においては1歳から描いていたが、油彩画で描き始めたのは、1918年の数え年5歳の時からであった。本作は、《麗子五歳之像》にみられるような、頬のふくらみやつぶらな瞳といった幼児らしい愛くるしさといものは見られない。が、立派に成長した娘をみる父劉生の喜びが画面にあふれている。劉生は、1929年の正月に本作を含む2点の《麗子十六歳之像》を描いた。1月1日の劉生の日記には、「麗子に生れて初めての日本髪(桃われ)を結はせこれを油絵ではじめ、夜は半切四枚、棋道の表紙、色紙などかいてヘトヘトになつた。」と記している。うち1点は、5月に完成しているが、本作であるもう1点は、画面右中に「己巳六月劉生写」と年記があるとおり、6月までかかって仕上げた。画面は、縦に長く浮世絵の大首絵風の表現をとり、周囲に朱色の飾り縁や髪飾りなどを丹念に描いている。これは、劉生が浮世絵に傾倒して、その現実的な風俗の美を油彩画によって表現した作品であるといえるが、同時に12年にわたる麗子像の集大成であった。本作が完成したおよそ6ヵ月後、劉生は山口県の徳山で病没し、劉生が愛娘を描いた“最後の麗子像”となったからである。劉生が、麗子という存在を通して描いた、深い精神性を感じさせる作品である。

麗子十六歳之像
  

《橋》
1909(明治42)年9月15日
33.6×45.7(P8号) 油彩,カンヴァス

劉生の最も早い時期の作品。この橋は、今から100年近く前の日光街道沿いの千住大橋を描いたものである。荒川区と足立区の間を流れる隅田川に架けられ、現在は鉄橋となって人々の往来を支えている。

この作品を描いた岸田劉生は、当時18歳であった。作品裏側の木枠にも、劉生自ら、明治42年の9月8日と9月15日と2日間を要して描いたということを記している。この頃、劉生は、黒田清輝の指導する白馬会系の葵橋洋画研究所に学び、この作品にもみられる外光を意識した油絵を制作していた。色彩的には暗褐色が使われているが、水面を表した流麗な筆致からは、研究所で学んだ成果が発揮されている。構図的には、橋げたを画面の上部ぎりぎりに入れるなど、大胆な構図を用いて、浮世絵に見られる江戸風景の趣を感じさせる。

ただ、この作品は、その情緒的な風景を活写したのみにとどまらず、橋げたや橋脚の入り組んだ形にも視線を注ぎ、しっかりとした構造物としての橋を描こうとしている点に目を見張るものがある。劉生の深い観察力を垣間見ることができるとともに、その後の静物画や、麗子像など、緊密な写実表現を予兆させる清新な印象を与えている。

橋
  

《静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)》
1917(大正6)年11月19日
33.7×45.8(P8号) 油彩,カンヴァス

1916年7月、肺結核と診断された劉生は、翌年に神奈川県藤沢町鵠沼へ移り、室内での制作を余儀なくされたが、この時期に静物画で優れた作品を数多く生み出した。とくにこの作品は、岸田劉生26歳の時の作品である。ものの実在に迫った、密度のある描き込みは、ガラスビンや陶器の硬質な感じとリンゴの弾力ある軟らかさをも描きわけている。ここに描かれたリンゴは、ごくありふれたものであるが、モチーフとして長く机上に置かれたことによって、虫食いのあとなど傷んだ様子までが克明に描かれている。このリンゴ2個の間にある茶碗や湯呑は、イギリスの陶芸家で1909年から20年にわたって来日し、民芸運動に関わったバーナード・リーチ(1887-1979)が絵付けしたものである。何気ない普通のリンゴやビンがそこに「在る」ということの不思議さを感じさせる味わい深い作品である。

静物
  

《新富座幕合之写生》
1923(大正12年)3月13日(1924年11月1日補筆)
31.9×41.0(F6号)  油彩,カンヴァス

東京の京橋区新富町に、1923年の震災で消失するまで存続していた歌舞伎の劇場、”新富座”へ、劉生は足繁くかよっていた。役者や舞台への造形的、色彩的な関心を通して、近世文化の世界へ劉生のイメージを没入させ、新たな作品創造への契機としようと考えていたものと思われる。

この作品は劉生の晩年に集中する近世風俗画や浮世絵に触発された作品や、歌舞伎に取材した一連の作品の中の1つで、『劉生日記』にも記述がある、念入りに制作されたものである。

新富座幕合之写生