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コレクションIII/日本の現代美術(2)

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月2日更新

白髪 一雄(Shiraga, Kazuo) 1924-2008

尼崎市に生まれる。京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)で日本画を学ぶが、卒業後、洋画に転じて吉原治良に師事。具体美術協会の中心的作家として、1955年の第1回展から全展に連続して出品。1950年代後半より内外の美術展に出品し各賞を受賞、個展も1962年のパリのスタドラ-画廊を皮切りとして各地でたびたび開催するなど、精力的な創作活動を展開した。絵具を手のひらでこね、足で描くというような直接的な肉体的行為によって、画面にダイナミックな躍動感を表出、日本におけるアンフォルメルの代表的な作家のひとりである。彼は、油絵の具を多量にカンヴァスの上に出して足で一気にひっかきまわすように滑走して描くことで有名である。

この作品は、深い青を基調とし、それを浸食するように黒と赤が画面に渦巻き、情念と静寂を激しさの中で融合させた秀作である。

 

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《地巧星玉臂匠》 1961年(昭和36年)
161.5×130.5 油彩,カンヴァス

田中 敦子(Tanaka, Atsuko) 1932-2005

大阪府に生まれる。本名、金山敦子。京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)を中退。その後、吉原治良に師事し、1955年、具体美術協会に加わる。第1回展に運動と音と色を問題とした作品を発表。1956年、第2回展には、多数の電球や管球、電線で作った電気服を出品した。具体美術展は第15回展まで連続出品し、1965年、同会を退会。同年には、ニューヨーク近代美術館で開催された「日本の新しい絵画と彫刻」に出品、作品が同館の買上となった。2001年には、芦屋市立美術博物館と静岡県立美術館で大規模な個展が開かれ、絵画とオブジェで独自の精神世界を表現した展覧会は、海外の巡回展でも高く評価された。

田中敦子は、1965年の暮から“360゜”と名付けられたシリーズにとりかかったが、この作品もそのシリーズ中の1点である。1968年8月に大阪のあかお画廊で開催された個展「ATSUKO TANAKA」でのリーフレットでは、《360゜NO.4》という作品名で出品されたが後に改題された。もともとは、具体美術協会に出品した電球や管球を取り付けた意匠が原型となっており、実際に身にまとう電飾の意匠から絵画へと派生したものである。円形の白いカンヴァスには、合成樹脂エナメルの塗料による赤色や青色の丸い形の色面が塗り重ねられている。この鮮やかな色の組み合わせは、彩度の関係から奥行を感じさせる。また無数の線は、丸い形をした色を繋ぎとめるように絡み合って見える。円形であることから天地に関係なく、どの方向からも見ることが可能であり、作者の計画では、作品の裏にモーターを取り付け、画面を回転させる予定であった。

 

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《“67”》 1967年(昭和42年)
183.7×183.7 合成樹脂エナメル塗料,カンヴァス・合板

中村 一美(Nakamura, Kazumi) 1956-

千葉市に生まれる。1984年、東京芸術大学大学院美術研究科油画を修了。在学中にバーネット・ニューマンの絵画の生成や構造に関心を抱く。また山登りが好きで、山間や山頂の風景を描き始める。樹木の連作は具体の作風を思わせるが、常に絵画の感情と構造を理知的に制御し配置していく生成は、戦後の日本人画家では稀な存在である。以後、平安や江戸の絵画を検討しながら制作を続け、絵画空間はより客観的な透明感が生まれている。2007年、タカシマヤ美術賞受賞。

作品に画家の意図を交えず、物質性のみを強調するミニマリズムは、日本の美術界にも多大な影響を与えた。中村一美も学生時代に一時傾倒するが、逆にそんな環境に疑問を感じるようになっていく。中村が考えたのは、抽象芸術であっても、画家の個人的な記憶や思想を原点とする制作方法であった。その出発点となった「Y」シリーズは、かつて実家が営んでいた養蚕業の想い出と結びつき、また桑畑を示す地図記号でもある「Y」を基本形とし、1点ごとに異なる描法でこれを繰り返し描くものだった。同じ基本構造を持ちながらも、その差異が多様なヴァリエーションを生むこの制作方法は、当時の現代美術の行き詰まりを突破し、様々な展開の可能性を与えるものであった。中村はこの後、格子状の斜線や鳥などを基本とする、様々なシリーズを手がけていった。本作では黄色い格子状のダイナミックな線が、画面全体を覆っている。タイトルとなった慧可は中国の禅宗の僧で、古くから日本美術の画題とされてきた。中村は日本美術を研究し、格子構造や、とりわけその独立で不可侵の空間性については、絵巻物などに根拠を見出したと述べている。

 

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《慧可》 1988年(昭和63年)
239.0×139.0 油彩,カンヴァス

林 武(Hayashi, Takeshi) 1896-1975

国学者林甕臣の子として東京に生まれる。1920年、日本美術学校に入学したが、すぐに退学。1921年、樗牛賞、1922年には二科賞を受賞。二科会と共に円鳥会にも出品、一九三〇年協会の創立会員となり、1930年独立美術協会を設立。1934年、渡仏。1967年には文化勲章を受章。初期にドラン、マティスなどの影響をうけ、フォーヴィスムを基調としながら独自な構成理論をもち、重厚な質感、筆触の作風をみせた。(MC)

林武は1921年、第8回展二科展で入籍して間もない妻をモデルにした《婦人像》(関東大震災により焼失)を出品し、初入選をはたすとともに樗牛賞を受賞した。その翌年にも妻をモデルにした《本を持てる婦人像》を二科展に出品し、二科賞を受賞している。この作品の描かれた1927年は画家として自信を持ちだした頃である。妻、幹子はどんなに家計が苦しくても画材代はいとわなかったという。ここには、画家の妻としての自信と貫禄といった内面が巧みに捉えられている。顔の表情には独特のデフォルマシオンが加えられ、厚塗りの画肌、柔らかいカーブをもつ構図には、この後の画風の変遷を垣間見ることができよう。林は回想録『美に生きる』(1965年)の中で「自分の獲得した妻が女神のように思えたことは、絵に対する新しい意欲となった」と記しているように、妻はこの画家の原動力ともなっていた。度々モデルをつとめている。  

 

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《妻の像》 1927年(昭和2年)
90.9×72.7 油彩,カンヴァス

里見 勝蔵(Satomi, Katsuzo) 1895-1981

京都市に生まれる。1913年、関西美術院に入り、鹿子木孟郎の指導を受ける。1919年、東京美術学校西洋画科卒業。1921年、渡仏しヴラマンクに師事。1925年、帰国し同年、二科展で樗牛賞受賞。1926年、前田寛治、佐伯佑三らと一九三〇年協会を設立。1930年、同会解散後、二科会も退き、独立美術協会を結成。戦後は国画会に加わった。1954年、再度渡仏、ヴラマンクに再会する。1958年帰国。晩年まで一貫してフォーヴィスムの画風を展開した。

イビサは里見が度々題材としたスペインの田舎町である。この作品は、彼が55歳の時のものであるが、生涯変わることのなかった生き生きとしたダイナミックな筆勢をうかがうことができる。ここには、1921年、26歳だった里見が渡仏先で知ったフォーヴィスム(野獣派)の中心人物であるモーリス・ド・ヴラマンクに受けた薫陶が息づいている。鮮やかな原色を使った力強い荒々しい筆致の中に、荒涼としつつもたくましさを漂わせた風景が浮かびあがる。

 

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《イビザの岩山》 1950年(昭和25年)
116.7×90.9 油彩,カンヴァス

高松 次郎 (Takamatsu, Jiro) 1936-1998

東京・渋谷に生まれる。東京芸術大学卒業後、1963年に赤瀬川原平、中西夏之とハイ・レッド・センターを結成し、実験的な活動を試みる。事物や人のシルエットをカンヴァスに投影した「影」のシリーズや、紐や布による作品、木や石の一部だけに加工した「単体」シリーズなど、既成の表現形式に拘泥しない作品によって、現代美術の代表的存在となる。70年代には「平面上の空間」シリーズ、80年代には「形」シリーズを手がける。1996年、新潟市美術館と 三鷹市美術ギャラリーで個展を開催。

高松次郎の晩年の絵画「形」シリーズは、1984年の「無題」から始まる。高松はある種の原型的な生命体をそこに表わそうと試みた。つまり様々な色彩による蛇行線の集積やスピード感のある有機的な形がうごめくように描いた。蛇行する複雑な曲線は、各所で弛み、絡み合い、幾重にも交錯して層をなしていく。そこに飛び散る飛沫(点)は、やがて線や形へと生成していく原初的なものである。その点や線、有機形体が複雑に絡み合って交響曲となり、生命体となって表れるのである。

 

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《形(No.1201)》 1987年(昭和62年)
218.0×182.0 油彩,カンヴァス

糸園 和三郎(Itozono, Wasaburo) 1911-2001

大分県生まれ。1927年川端画学校、1929年前田寛治の前田写実研究所に入所。1930年、春陽会にフォーヴ的作風で入選。1931-37年、独立展出品。1934年よりシュルレアリスムの影響を受け、1939年美術文化協会の創立に参加。1943年、井上長三郎らと新人画会創立。1947年、自由美術協会に参加。1957年、日本国際美術展で佳作賞。1964年、自由美術協会を退会し無所属になる。

この作品はベトナム戦争を題材にしている。主題以外のモチーフを画面から排除した緊密な構図で、精緻なマチエールをつくり出している。

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《川と家》 1962年(昭和37年)
90.0×72.7 油彩,カンヴァス

今井 俊満(Imai, Toshimitsu) 1928-2002

京都に生まれる。1952年、渡仏し、おもにパリで活躍し、当時盛んであったアンフォルメルの絵画運動に、堂本尚郎とともに参加。アンフォルメルを日本に紹介し、美術を通しての国際交流に尽くした功績は大きい。1960年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ、1963年、第7回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として出品する。1979年、紺綬褒章を受章。1997年には、フランス芸術文化勲章(コマンドール)を受章するなど、内外で高く評価された。1980年代からは、作風を大きく変え、アンフォルメルと日本の伝統美の融合をめざした「花鳥風月」のシリーズを制作するなど、晩年まで革新的な精神を持ち続けた。  

この作品は、今井俊満のアンフォルメルの時期の、最後のものである。1952年にフランスへ渡り、パリのアンフォルメル運動に参加した今井は、フランスの批評家ミシェル・タピエの賞賛を受け、60年代末までパリに在住して制作を続けた。この作品にもみられるように、今井の作品はダイナミックな表現と重量感のあるマチエールで、アンフォルメルの代表的な画家として国際的に評価された。アンフォルメルとは、不定形なるものという意味で、現実の世界を理性による観察でとらえるのではなく、本能と直感により世界の始原や生命の起源を探り表現するものである。本作品も混沌とした精神の揺れの軌跡を刻む線、また赤、青、黄色の原色や黒白の無彩色が画面を奔放に覆いつくし、強い絵肌が形成されている。この重厚な画面は、巨大な神獣を髣髴とさせる。作品名のシメールとは、フランス語で、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を持ち、口から火を噴くギリシャ神話の怪獣キマイラのことである。

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《シメール》 1968年(昭和43年)
130.0×162.0 油彩,カンヴァス

草間 彌生(Kusama, Yayoi) 1929-

長野県松本市に生まれる。京都市立美術工芸学校に学ぶ。幼時より強迫的常同パターンが眼前に出現、その幻視作品を数多く制作する。1952年、精神医学の西丸四方博士が作品に注目、関東精神神経学会などで紹介する。同年、松本市公民館で個展を開催し、270点を展示する。1957年、渡米、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグやブルックリン美術学校に籍をおく。この頃から、反復からなるモノクローム絵画を始め、同時にニューヨークの芸術家たちと親交を深める。ポップ・アートや環境芸術の先駆けとなる作品や、「ハプニング」の形態をとった発表も試み始め、1965年にはロックフェラー財団基金を受ける。自作自演の映画や、ボディー・ペインティングによるパフォーマンスなども手掛ける。1998年、ニューヨーク近代美術館で個展。

草間彌生は1957年に渡米してすぐに西海岸シアトルに住み、個展を開催した。翌年にニューヨークに移ったが、ここで抽象表現主義の画家たちの巨大な絵画を目の当たりにし、草間の作品も大画面に向かっていった。モチーフも先鋭化し、一面を網目模様で埋め尽くすネット・ペインティングを描きはじめた。黒く塗った画面に薄い白を塗り重ね、その上に白色の絵の具で小さな円弧を反復して網目模様にする作品を描き、ボストンとニューヨークで1959年に発表した。その後、1961年にかけ赤い絵の具によるネット・ペインティングも制作した。白と同じように、黒地に薄い朱赤を塗り重ね、朱赤で網目を描いたもの、黒地にピンクのもの、黒地そのままに朱赤のものなど、幾つかのパターンで描いた。この作品は、まさに同時期のニューヨークで、白地に朱赤を使って描かれたものである。強迫観念的に生み出されるこの網目パターンは、草間の幻視体験から生まれた、心の中にひろがる無限の宇宙、あるいは生への鼓動といえるものである。

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《NO.X》 1960年(昭和35年)
183.0×122.0 油彩,カンヴァス

北大路 魯山人(Kitaoji, Rosanjin) 1883-1959

京都市に生まれる。本名、房次郎。1903年、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞。1919年、東京・京橋に美術骨董の店「大雅堂芸術店」を開業。1925年、東京・赤坂に会員制の料亭「星岡茶寮」を開設。1926年、北鎌倉に陶磁器制作の場を構え、翌年、「魯山人窯芸研究所星岡窯」とし、本格的に作陶を始める。1954年、ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。1955年には、重要無形文化財織部焼(人間国宝)の認定承認を打診されるが辞退。一般に料理家、美食家として知られるが、絵画、書、陶芸、漆芸、篆刻など、幅広い分野で個性的な作品を生み出した。

北大路魯山人は、書、絵画、漆芸、陶芸といった、生活にかかわる造形に深くかかわった。なかでも、魯山人の陶芸は、美食の追求からはじまったものであった。料理を引き立たせるうえで、ありきたりの既成の器では、満足できなくなったからである。魯山人は、過去に制作された、優れた陶磁器を範として、器の形や絵付けを写した、いわゆる「本歌取り」も数多く制作した。この作品も、江戸前期の陶工、野々村仁清《色絵武蔵野茶碗》などを手本として、40歳頃に制作した作品である。側面の下方に青色が薄く塗られていることで、涼しさを感じさせる。ちょうど暑い夏がすぎて、虫の音が聞こえる頃のようである。月を金と銀を混ぜた渋い色調で描いて、全体の器の調子もしっとりとした落ち着きと気品を保たせている。魯山人の器は、「料理の着物」として、料理の盛り付けを念頭に入れて創り出されているが、この作品には季節の移り変わりに眼を向けた魯山人の自然観をも感じさせる。

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《金銀彩武蔵野鉢》 1925-34年(大正14-昭和9年)頃
高15.2 口径27.5

樂 吉左衞門(Raku, Kichizaemon) 1949-

樂家14代覚入の長男として京都に生まれる。幼名光博。1973年、東京芸術大学彫刻科卒業後、イタリア留学。1975年、帰国、京都工業試験場で釉薬の基礎を学び、作陶に入る。1981年、31歳で十五代吉左衞門を襲名する。主な受賞は、プリンストン大学・ヴィジティング・フェローシップ、日本陶磁協会賞、同金賞、MOA岡田茂吉賞優秀賞 (MOA美術館)、第1回織部賞(岐阜県)、第40回毎日芸術賞(毎日新聞社)、フランス芸術・文化勲章シュヴァリエ(フランス政府)、京都府文化功労賞(京都府)など。

樂茶碗は轆轤(ろくろ)ではなく手捏(てづく)ねで成形し、ヘラで削りだしていく、彫刻のような工程をもつ。黒樂茶碗の焼成は樂家独自の窯で1点ずつ焼き、途中で取り出し、酸化させて黒い色を出していく。樂吉左衞門はその黒色をさらに磨くため、黒の釉薬を七層に重ね、深みがあって量感のある漆黒の肌をつくりあげる。そしてその姿は、作者が敬愛する本阿弥光悦の影響を受け、温もりがあって丸味のある形になっている。高台周辺の黒釉のにじみが景色に程よい変化をつけているのが印象的である。銘「夜聴」(やちょう)は作者が、初唐の詩人、張説(ちょうえつ)の「山夜聴鐘」という漢詩からつけたものである。

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《黒樂茶碗 銘夜聴》 2003年(平成15年)
高9.3 口径13.0

加納 光於(Kano, Mitsuo) 1933-

東京に生まれる。少年時代は病弱で療養生活を余儀なくされたが、1952年頃に銅版画を独学ではじめ、1953年に詩人・瀧口修造を知り、その推薦で1956年、タケミヤ画廊で銅版画による最初の個展を開催。以後、大岡信など詩人たちとの共同制作も手がけるようになる。東京国際版画ビエンナーレやリュブリアナ国際版画ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレなど国際展で受賞するなど評価を高めていった。1978年からは油彩をはじめ、1980年、油彩画による初めての個展を開催。2000年、愛知県美術館で個展を開催。

加納光於はデカルコマニーを得意とする作家である。デカルコマニーとは、絵具を塗った紙面にもう1つの紙面を重ね合わせ、それを剥がしたときに転写される形象を作品とするシュルレアリスムの技法である。加納はそれを油彩に応用した。油彩に蜜蝋を混ぜて流動性を持たせたうえで下塗りをしたカンヴァス上に塗りこみ、そこに透明なフィルム板を接触させて、それを揺り動かしながら微妙な色調の変化を生じさせる。下塗りと作用させながら相互浸透させ、多様色彩の階調を作りだしていく。作為的でありながらも偶然性を利用した手法は、難解な題名とともに象徴的で寓意的な表現を生み出している。

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《不意の参入―風矢来》I 1990-91年(平成2-3年)
194.0×194.0 油彩,カンヴァス

堀内 正和(Horiuchi, Masakazu) 1911-2001

京都市生まれ。東京に移住し、青山学院中等部在学中に村山知義らの影響で彫刻制作を試みる。東京高等工芸学校工芸彫刻部に入学し、1929年、二科展入選を機に中退。二科の研究所で藤川勇造に具象彫刻を学ぶ。戦後は1966年まで二科を中心に活躍し、京都市立芸術大学の教授を長く務める。機知に富んだ視覚的錯覚や幾何学的形態の原理を追求した抽象彫刻を手がける。線から平面、さらに曲面、構築的立体へと、造形的展開がはかられた。日本の抽象彫刻の代表的存在。

この作品は、U字形に曲げられた3つのパーツで構成されたもの。幾何学的原理に基づく作品の1つだが、そこにはヤジロベエを想像させるような遊び心が散りばめられている。

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《線C》 1954年(昭和29年)
45.0×78.0×46.0 鉄

土谷 武(Tsuchitani, Takeshi) 1926-2004

京都市の窯元の家に生まれる。1949年、東京美術学校彫刻科を卒業、新制作協会展に具象彫刻を出品。1961-1963年に渡仏し、パリの国立高等美術学校を修了する。留学中に抽象的な《門》シリーズを開始する。その後、様々な素材に挑み、かたちと空間の関係を鉄の造形によって展開していった。1972年、第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大賞、1975年、第6回現代日本彫刻展(宇部)で大賞、1980年、第9回平櫛田中賞、1991年、第21回中原悌二郎賞(旭川)を受賞する。

《植物空間》と題された一連の作品(1989年-1991年)は、エスキース(習作)を含めると27点制作されている。それは、森や樹木をイメージする形から始まり、枯葉を意識させる形へと変化をとげた。この作品は、《植物空間VI》(高さ2m30cm)のための“エスキース3”である。薄い鉄板を折り紙のように折重ね、その隙間に生じる微妙な光の陰影が、「空気をはらんだほとんど質量をともなわない光や影の仕切りにすぎない」(『土谷武作品集』1997年刊)という作者の枯葉を語る言葉どおりに、その軽さと薄さを表現する。鋭敏な線と形の生み出す空間は、,堅い鉄にさえもろい枯葉を語らせることができる。

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《植物空間VI》 1990年(平成2年)
64.0×57.5×36.0 鉄

李 禹煥(LEE, U-FAN) 1936-

韓国慶尚南道に生まれる。1956年、ソウル大学校美術大学を中退し来日。日本大学文学部哲学科に編入し、また日本画を学ぶ。1967年の初個展から70年代にかけて、石や鉄板などを使った作品を発表。また一連の評論活動によって“もの派”と呼ばれる当時の重要な現代美術の動向を牽引し、大きな影響を与えた。絵画では70年代以降、一連の「点より」「線より」の秀作を生んでいるほか、版画、素描、立体など多様な作品で展開をみせている。

李禹煥が「点より」「線より」というシリーズ絵画を描きはじめたのは1973年頃からで、絵画における無限性を求めてのことだった。「絵画における無限概念を表す一つの方法は、絵づらを反復させることである。生まれては消え消えては生まれる生命現象のような反復性は、一瞬一瞬を一回性として非連続に連ねなくてはならない。一筆一画が独立していながら連結されていく有機的な仕組みは、画面を緊張感に満ちたものにしてくれる」(『LEE UFAN』1993年)と作者自身も述べている。これが「線より」の真髄である。

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《線より》 1978年(昭和53年)
162.0×291.0 油彩,カンヴァス