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福山空襲遺跡案内板について

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年7月22日更新

 福山空襲を後世に語り継ぐため,そして,福山空襲の道しるべとするため,市内10カ所に福山空襲遺跡案内板を設置しています。
 ここでは,福山空襲遺跡案内板の設置場所と案内板の説明文を紹介します。
 身近にある戦争遺跡をめぐり,戦争の実相について考えてみませんか。

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1.火と熱風で破損した土橋(福山市吉津町)

2.焼夷弾で焼けた光善寺「英霊堂」の軒(福山市東町)

3.福山遊園地の噴水池(福山市霞町)

4.空襲の炎で焼けた石垣(福山市丸之内)

5.空襲の炎で一部焼けた安部和助別邸(福山市丸之内)

6.焼夷弾で顔が破損した石仏(福山市寺町)

7.空襲の傷痕が残る福山最上教会(福山市東桜町)

8.空襲の傷痕が残る高野山福山別院(福山市丸之内)

9.福山城公園内に残る防空壕跡(福山市丸之内)

10.空襲の傷痕が残る福山護国神社跡(福山市草戸町)

1.火と熱風で破損した土橋(福山市吉津町)

土橋 戦前は,福山駅から備後府中駅を結ぶ旧両備鉄道の「胡町駅」が設置され,吉津町から胡町,大黒町,今町,笠岡町,神島町上市,陸軍歩兵第四十一聯隊兵営に繋がる道として賑わった。

 1945年(昭和20年)8月8日の夜,福山空襲によって倒れた民家が石の石柱を直撃したため,火と熱風による被害を受け,破損したままの状態で現在に至っており,福山空襲の実相と悲惨さを知る教材となっている。

 なお,1941年(昭和16年),「金属類回収令」のため,上部にあった「火袋」(ろうそくなどを入れて火を灯す,鉄製の入れ物)は,半強制的に政府により回収された。

 現在,設置されているものは戦後になって復元されたものである。

2.焼夷弾で焼けた光善寺「英霊堂」の軒(福山市東町)光善寺

 ここ光善寺は,1945年(昭和20年)8月8日の夜,福山空襲により山門と英霊堂を残しすべて焼失した。英霊堂の軒は,焼夷弾により発生した火災の痕と焼夷弾が貫通した痕のふたつの傷痕を残す貴重な空襲遺跡として保存されている。

 なお,戦前にあった場所から,現在の位置(寺境内)に移設されている。

 また,英霊堂は福山空襲遺跡として現存するものの中で,唯一の木造建築物である。

3.福山遊園地の噴水池(福山市霞町)

ローズコム 噴水池
 かつての福山遊園地(現:福山市中央公園)の広場にあった噴水池は,1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲時,多くの人が飛び込んで炎と熱風から身を守った。噴水池の噴水上部が記念として野外音楽堂の一角に埋められていたが,2008年(平成20年),まなびの館ローズコムの建設に伴い,現在の地へ移設され保存されている。

 この福山市中央公園内には,福山空襲の悲惨さを伝える「福山市戦災死没者慰霊碑(母子三人像)」と「原爆死没者慰霊碑」が建立され,慰霊と平和を願う場所となっている。

 *福山市戦災死没者慰霊碑(母子三人像) 作:今城国忠
   福山市制55周年記念事業として1972年(昭和47年)に建立

4.空襲の炎で焼けた石垣(福山市丸之内)案内看板

 福山城は,徳川幕府の西国鎮衛の拠点として1622年(元和8年)に譜代大名・水野勝成によって築かれた。

 近世最後の城郭建築として,最も完成した城と言われたが,1873年(明治6年)に廃城となり,鏡櫓など多くの建物が取り壊された。さらに,1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲によって,国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失した。

 福山駅北側道路沿いの石垣は,空襲による火災で,高温の激しい炎に長時間さらされたため,高いところまで赤く変色し,鋭角だった石は丸くなり,焼夷弾による被害を伝えている。

5.空襲の炎で一部焼けた安部和助別邸(福山市丸之内)

安部和助別邸 現在,国の登録有形文化財となり,市民に親しまれている福寿会館は,「昭和の鰹節王」と呼ばれた安部和助により,1930年代に大規模な別荘として建設された。

 現存する和風本館,茶室,洋館の東側には,玄関,台所,洋風居間,和風居間などが配置された建物があったが,1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲により焼失した。

 敷地内には,空襲で破壊された玄関跡や破損した石段,炎で変色した石垣など,戦争の記憶を伝える遺構が今も多数残る。

6.焼夷弾で顔が破損した石仏(福山市寺町)大念寺

 大念寺は,安那群川北村(現:神辺町)で創建され,1619年(元和5年),初代福山藩主・水野勝成の福山城築城にあたり,寺町へ移ったとされる。

 1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲により,本堂などの建物は,すべて焼失した。境内にあったこの石仏も,焼夷弾を受けて顔の一部を破損した。

 戦後,現在の位置に安置され,焼夷弾による空襲の被害を今に伝えている。

7.空襲の傷痕が残る福山最上教会(福山市東桜町)

福山最上教会 福山最上教会は,日蓮宗「神仏習合」の寺院として創建。本山を「身延山久遠寺」として,商人の信仰を集めて非常に賑わった。

 しかし,1945年(昭和20年)8月8日の夜,福山空襲によって本堂は焼失した。

 また,境内には,火と熱により赤く焼けた自然石の供養塔二基が残っており,空襲の凄まじさを伝えている。

 

8.空襲の傷痕が残る高野山福山別院(福山市丸之内)高野山福山別院の案内板高野山福山別院の石畳

 高野山は,平安時代の819年(弘仁10年)頃より,弘法大師「空海」が修行の場として開いた真言宗の本山で,比叡山(滋賀県)と並ぶ日本仏教における聖地である。

 高野山福山別院は,遍照山龍華院という。1884年(明治17年)8月5日の創建である。

 1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲によって本堂は全焼し,現在でも本堂基壇石・鐘楼台座・手水鉢・本堂に通じる石畳などに空襲の傷痕が残っている。

9.福山城公園内に残る防空壕跡(福山市丸之内)

防空壕跡
 太平洋戦争の末期頃,日本本土への空襲が激しくなると予測され,国(内務省)の指示によって,各家々の床下に防空壕が造られた。しかし,家用の防空壕だけでは足りず,崖を利用した防空壕も造り,身を守っていた。

 ここには,近隣の人々が共同で利用していた防空壕跡が残っており,戦争の記憶を今なお伝えている。

 

 

10.空襲の傷痕が残る福山護国神社跡(福山市草戸町)福山護国神社跡

 1940年(昭和15年)以降,多くの奉仕者によって護国神社本殿の建設が進められた。しかし,1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲で完成間近の本殿は焼失した。現在,護国神社の名残を伝えるものは,参道にかかっていた「神橋」のみで,橋の中央あたりには焼夷弾による焼跡とくぼみが残っており,当時の空襲の凄まじさを伝えている。

 なお,焼け残った「鳥居」は1963年(昭和38年)に,ふくやま文学館の南側に移設され,福山の復興を見守った。