ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

常設展について

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年7月1日更新

はきもの玩具館

 「はきもの」と「郷土玩具」には大きな関係があります。
 はきものには,人々が厳しい労働の中で足を守り,生産力を高めるために知恵をしぼったものが数多くあります。その厳しい労働の中で生き抜いていくために求められた,住民のやすらぎとくつろぎ,祈りと願いがこめられた郷土玩具が創られ,代々大切に受け継がれてきました。
 はきものと郷土玩具は,人々が厳しい生活環境や労働条件の中で生き抜いていくために必要不可欠なものであり,人々の思いが込められた大切なものです。はきものは“カラダ”を支え,郷土玩具は“ココロ”を支えているのです。はきもの玩具館には,はきものと郷土玩具をテーマ別に展示しています。
 また,入口ロビーには,松永ゆかりの人物の紹介を行っています。

 

第1展示室 『はきもの』

 「労働とはきもの」,「信仰と行事のはきもの」,「芸能と遊びのはきもの」,「雪のはきもの」,「貴族と武将たち」,「皮沓(かわぐつ)と足袋」など,生活の中での様々な場面のはきものを展示。

第1展示室 はきもの資料

第2展示室 『はきもの』

 庶民のはきものの主役であった「下駄」,「草鞋」,「草履」を展示。

「世界のはきもの(民族・歴史)」と「日本における靴の普及の歴史」も展示しています。

 第2展示室 はきもの資料                                                          

栄光のはきもの

 有名スポーツ選手の靴を展示。野球,サッカー,マラソン,ゴルフなど様々なスポーツ選手の靴があります。

栄光のはきもの はきもの資料

 

第3展示室 『玩具と縁起』

 「招福開運」,「安産・成長」,「無病息災」,「厄除け・追善」をテーマに全国から収集した玩具を展示。

第3展示室 赤もの

第4展示室 『天神さま』

 学問の神様として有名な菅原道真の天神様を展示。全国各地で様々な天神様がつくられ,勉学や技芸の向上を願いました。

第4展示室 赤もの

第5展示室 『ふるさとの玩具』

 日本全国の限定された地域のみで作られた特色あるふるさとの玩具を展示。各地域の風土や生活,感性が色濃く表現され,人々の心のあり方を知る大きなてがかりとなります。

第5展示室 郷土玩具資料
                                                              

第6展示室 企画展示室

第6展示室

第7展示室 『カチナ人形』

 アメリカ合衆国アリゾナ州北東部の先住民族であるホピ族が作った精霊人形である“カチナ人形”を324点展示しており,“国内では最大のコレクション”です。動植物や祖先の精霊の化身の姿を木に刻み,彩色したもので,農作物の豊作や人々の健康,平和を願いました。

第7展示室 郷土玩具資料
 

第8展示室

 企画展示室。

玩具の樹

 様々な凧を使用して作られた玩具の樹があります。また,紙・土・木などの素材別に玩具を展示し,その制作工程も展示しています。

玩具の樹 郷土玩具資料
 

伝統産業館

 松永地域の産業を支えた下駄・い草・塩の生産関連の資料を歴史の変遷を追って展示。実際に使用されたていた道具や機械類も展示しています。

い草

 備後地域の温暖な気候はい草の栽培に適しており,このい草を素材として生産される備後表の名は,すでに室町時代の1460年(長禄4年)の文献に登場します。

安土桃山時代の1600年(慶長5年)頃には沼隈郡山南村出身の長谷川新右衛門が,短いい草を活用した中継表の製法を考案したことで,い草を無駄なく使えるようになり,備後表の生産を飛躍的に伸ばしました。

江戸時代には福山藩が奨励策を行うことで,高い品質が維持され,幕府にも高く評価され,2010年(平成22年)には,文化財修理に使う資材(畳)として文化庁から「備後熊野い草圃」が『ふるさと文化財の森』に設定されました。

い草 い草2

 松永の塩づくりの起源は古墳時代の6~7世紀まで遡ります。

全国的に「松永の塩」として有名になったのは,江戸時代に福山藩に登用された本庄重政が塩田開発を進めてからです。

重政は1660年(万治3年)から1667年(寛文7年)に入浜式塩田という当時最新式の技術を導入し,塩作りを推進しました。1667年(寛文7年),塩田築調工事が完成し,この年,重政は,この地が末永く繁栄することを願い,「松寿永年」という言葉に因んで「松永」と命名したのです。

このように松永地域の発展に貢献した重政は「松永の父」と呼ばれています。

伝統産業館(塩) 塩(道具)

下駄

 1878年(明治11年)に丸山茂助は松永村に小さな下駄の製造小売店を開きました。

その後,茂助は安価な材木の入手と全国に先駆けた生産の機械化に成功し,安価で大衆的な下駄の生産が可能となりました。そして,松永は日本一の下駄生産地となっていくのです。下駄作りは塩田で働く人々の雨天時や夜間の副業として行われ,優秀な職人を確保できたことも成功した大きな理由です。

1955年(昭和30年)には年間5600万足を生産し空前の活況を迎えますが,次第に生活様式の変化にあわせて,下駄に限らずサンダルやスリッパなどのはきもの生産へと転業していきます。

こうして下駄作りで培った技術は,はきもの産業へと受け継がれ,自然の感触を楽しむことができる松永の下駄は時代が変わった今でも多くの人に愛されています。

伝統産業館(下駄) 下駄(道具)