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≪インタビュー企画≫捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月26日更新

 内海町には、水軍時代から明治末期にかけて、約300年にわたり九州西海の捕鯨に参加した歴史があります。それは、鯨を追う操船の技術やこの辺りで製作された鯨網の精度の高さと、独創的な技を買われてのことでした。現在、商業捕鯨は禁止されていますが、かつてあったその歴史をいまに伝えるため、捕鯨網船「双海(そうがい)船(ぶね)」を復元しようとするプロジェクトがあります。
 内海町田島出身で、現在はスタンフォード大学の客員教授を務める宮本住逸さんにお話を伺いました。

 宮本住逸
▲宮本住逸さん

―スタンフォード大学で教鞭を執ることになったきっかけを教えてください。

 IWC国際捕鯨委員会(科学委員会)で日本の捕鯨文化の特殊性について話したのがきっかけです。日本人は鯨の肉を食べるだけでなく、油は灯明やウンカ駆除に、ヒゲは文楽人形を操るひもに、さらに骨や皮も有効利用し、余すことなく活用したということ。そして戒名を付けて葬っていたという話に、スタンフォードの研究者が興味を持ったようでね。

―戒名を付けて埋葬……。鯨に対する敬意や感謝、愛情を感じます。けど、捕鯨に対する日本と諸外国との認識には大きな溝がありそうですね。

 捕鯨に反対している国が私を呼んでくれたということについては、今後の可能性は感じています。

―宮本さんが、日本の捕鯨文化から最も伝えたいことは何なのでしょう?

 民俗学で扱う信仰と、なによりも備後の生業の歴史の中に大切な要素があるということ。そして日本の捕鯨文化の特殊性です。

―と、言いますと?具体的には?

 日本には世界に例のない鯨に対する鯨霊供養という文化が根付いています。日本の開国をプッシュしてくれたのが鯨なんです。当時の日本沿岸には多くの鯨が回遊していました。欧米は多い年では700隻以上の捕鯨船が日本沿岸の沖合で鯨を取っていたのです。乱獲ですね。幕末まで鎖国日本はその事実を知りませんでした。日本の鯨組は、櫓漕ぎ船で網とモリを使って鯨を取っていた状態ですから、欧米の近代化された捕鯨船には追い付かない。そんな中で九州鯨組からオファーを受けた備後田島・横島の「鯨網づくり」集団は頑張っていたのです。その技は当時の九州各藩の鯨組に採用され、日本の古式捕鯨業に大きな足跡を残したということです。

内海町民俗資料館に展示している「双海船」の縮小模型
▲内海町歴史民俗資料展示室に展示している「双海船」の縮小模型

―捕鯨の賛否を唱える前に、まず知ることが大切な気がしますね。改めて、捕鯨について聞かせてください。

 日本の沿岸は鯨が多かったんです。季節によって鯨の通るルートは違うんですが、旧暦でいう11月は日本海側を通ってアラスカ方面に向かう。そして、向こうで出産し、対馬・五島を通って南下してくる。それを追いかけまわすのではなく、待ちぶせして捕るんです。日本は長らく鎖国していたため技術の発展が遅れ、当時は手漕ぎと帆で走るような船で漁をしていました。最初は突き取り式で漁を行っていましたが、突き取りと網掛け式を組み合わせるように発展したんです。

―手漕ぎってすごいですね。一頭の鯨に対して、総勢何人ぐらいで漁に出るんですか?

 沖組といわれた役割におよそ400人を越える漁民が従事していました。一艘の乗組員は約10人。勢子船といって、キャッチャーボートの役割をするのが20艘くらいで、捕った鯨を船に縛り付けて帰ってくる持双船が3艘、網船(双海船・双海付船)が12~24艘、万一の際の代替船などを合わせると50艘ほどの船団を編成していました。それらがすべて連携を取って、一頭の鯨を追尾するんです。元水軍出身者の一糸乱れぬチームプレイですよ。当時、日本最大であった平戸生月島の益富鯨組は2000人をゆうに越える規模の大組織でした。これは世界初で最大のマニュファクチュアといわれています。

蒼い大海原一杯に鯨船が展開し、2頭のセミ鯨に向かっていく
▲蒼い大海原一杯に鯨船が展開し、2頭のセミ鯨に向かっていく

―そんなに大きなチームだったとは、まったく知りませんでした。当時は一年で何頭ぐらい鯨を捕っていたのですか?

 一口には言えませんが、元禄期に益富鯨組が五島列島で87頭の鯨を捕獲しています。これはやや多い頭数です。捕れない年は0です。

―ゼロ?

 捕れないときは廃業の危機ということですが、平戸、唐津、大村、福岡各藩がバックアップをするんです。1頭分が4000両の値が付いたこともあったわけですから、相当な税収があるわけですね。突いて取っていたものを、網に掛け突き取ることで捕鯨効率があがります。「鯨網」がキーワードですね。呼子の中尾鯨組などは「田島納屋」を建ててまで優秀な網職人の確保に腐心します。

―なるほど。網をつくる技術が礎になっていたんですね。

 そうですね、福山藩の脇港に指定されていた田島浦は北前船の出入りが許され、網製品の取引で活況を呈していたといわれています。江戸期の絵図に描かれている軒を連ねる街並みが現在の姿と変わりない。

―どんな網だったのですか?

 1本の網は1000m以上。それらは1枚物でなく、沢山の網をつなぎ合わせた構造でした。つなぎ目はワラ縄を使いわざと切れやすいようにしていたんです。ここがポイントなんです。浮きも桐材のものを沢山使いました。

―それはなぜですか?

 鯨は20メートルから30メートルに達する巨大なもの、網に掛かると必死で暴れますね、1000メートル以上の長い網を三枚かぶっても、すさまじいパワーで逃げようとします。切れた網は鯨の体からは決して離れません、鯨は息継ぎをしますから網が抵抗の役目をし、浮かび上がったところを仕留めるという具合ですね。九州の海に合った網を作った、我々の先人の仕事ぶりに勇気と誇りを覚えます。

鯨網、目の間隔が80センチ以上もある
▲鯨網、目の間隔が80センチ以上もある

―技術も材料も、この土地ならではというわけですね。

 網をつくる技術は、先人から脈々と受け継がれてきました。網は1本の糸から作られます。当然、狙う魚により網目も大きさもすべて違う。勘がいる作業です。センスですね、センス。網の素材も藁から麻、さらに綿糸へと進化していきます。麻などはこの備後地方では昔から特産ですね。地産地消です。

―匠の技とセンス。カッコいいですね。

 女の人でもそうでしょ。服でもメイクでも、身支度っていうのはその人のセンスが出るでしょ。それと一緒ですよ。田島の箱崎地区には、網すき技術を受け継いだ人たちがたくさんいるんです。隣の横田漁港っていうきれいな港があるんですが、そこでも網すきをやっている漁師さんを見かけます。嬉しいことに、最近は私の子供世代の、若い漁業後継者が増えたと聞いています。この辺りの網をつくる技術はみな同じ。鯨網がルーツといってもいいでしょう。

宮本住逸さん

―当時の資料を見ても、内海町はとても栄えていますね。

 そうですね、ひとえに初代福山藩主の水野勝成の力添えに感謝しています。福島時代に荒れ果てていた神社仏閣を再興している跡が今でも残っていて、水軍菩提寺の常楽院、水野神社などがそうです。まち並みも村上水軍時代の姿を取り戻しているかのようです。網すきと、船大工の技術も素晴らしいですね。

―地元には船大工の方もいらっしゃるんですか?

 最後の船大工が現役で頑張っておられます。この歴史民俗資料展示室にある船は全て船大工の中尾さんの手によるものです。中尾さんは旧内海町時代の文化財保護委員も務められた実直な方で、非常に頼りにしている一人です。

復元した双海船の模型

―そんな方がつくる双海船、見てみたいです!

 復元した双海船は1/10サイズの模型です。それをここ歴史民俗資料展示室にある資料と共に常設展示しています、多くの市民に鯨漁の歴史を知ってもらえたらと思います。さらに双海船、鯨網のことをまとめて学習用の小冊子もできあがる予定です。少子化による人口減少問題が顕在化しています。身近な故郷の歴史を通して、一人でも多くの子供の、「聞く耳を育てていく」お手伝いができればこの上ない幸せと考えています。ふるさとの歴史はふるさとに学ぶことが必要なのではないでしょうか。

このインタビュー企画について
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