≪インタビュー企画≫時代を超えても変わらない、とんどに託す、思いと願い
“とんど”と呼ばれる火祭りは日本全国にありますが、中でも能登原とんどは「暴れとんど」として有名です。今回は能登原とんど保存会会長、北村滋充(しげみつ)さんにお話を伺いました。
▲能登原とんど保存会会長 北村滋充さん
―まずは、福山のとんどの起源を教えてください―
福山藩初代藩主・水野勝成が福山城を築城したとき、城の完成祝いに人々が「とんど」をつくり、城下を担ぎまわったという記録が残っています。とんど自体は、それよりずっと昔からこの地域にあったといわれています。
―その中でも、能登原とんどは、ほかの地域のとんどとはちょっと違うとお聞きしました―
最終的に燃やすのはどこも同じでしょうが、能登原ではとんどに華やかな飾り付けをします。それを担いで各地区から集合させ、さらにぶつけ合うんです。これは能登原ならでは。全国的にも珍しくこの辺りにしかないようです。
▲2016年の能登原とんどは1月10日(日)に開催
―飾り付けにはどんな意味があるのですか?―
能登原には天然記念物にも指定されていた老松「弓掛松」があります。この松は源平の能登原合戦で弓の名手平能登守教経が弓を掛けたと伝わるものです。これにちなんで的を模した飾りや弓矢を飾り付けます。的に刺さった弓矢は扇子のようなかたちを描き、実に縁起がいいんです。軸は松、飾りは竹、そして梅の花と、松竹梅そろい組。ほかにも代々繁盛するようにと橙を、無病息災にびわの葉っぱをと、使う素材もめでたいづくしなんですよ。
―そうやって飾り付けされたとんどを担ぐわけですね?―
神輿には神さんがのっていますが、とんどには子どもがのっています。神輿のように練り歩くわけではありませんが、中に入った子どもが交代で太鼓を叩くんです。締太鼓の小さいやつを叩きながらね、「そりゃ、とんどじゃよい」って、道を進んでいくんです。そのときは、なるべく民家のあるほうにとんどの正面を向けるようにします。縁起のいい飾り付けが見えるようにね。
―そして各地区から集合したとんど同士がぶつかり合うわけですね?―
ぶつかり合うといっても喧嘩とんどではありません。各地区、力を入れて制作するんで「うちのとんどが一番ええんじゃ」っていって、互いの勢いや完成したとんどを見せ合うように、ぶつけ合うんです。燃やすところも見ものですが、やはり能登原とんどの見せ場は能登原小学校の校庭でのぶつかり合いですね。
―まず、見て楽しめるんですね―
能登原とんどはサイズも大きいので迫力もありますよ。そうやって毎年、能登原の皆さんの健康と幸せを願い続けてきたんです。
―資料や設計図があるわけではなく、時代を超えた普遍の願いこそが能登原とんどを今に伝承してきたのですね―
とんどはぶつかり合いのあと、各地区に戻って16時ぐらいから燃やしはじめます。厄除けを願いながらね。そのときにお餅やなんかを一緒に焼くのはきっとほかの地域と同じだと思います。焼けた餅を食べたら風邪をひかんとか、習字を燃やして高く舞い上がったら字がうまくなるとか、勉強ができるようになるとか、昔からいろんな言い伝えがあります。そのような中でも能登原とんどは、飾り付けも豪華で全部縁起がいいものですからね、燃える姿の勇壮さは特別ですよ。
―一つのとんどをつくるのにどのくらい時間がかかるのでしょう?―
能登原にある6つの地区がそれぞれ約1か月かけてつくります。おとなも子どもも一緒になってつくります。竹と松の軸があって、その周りにはシメといって縄にわらをくくって編んでいきますが、8〜9段くらいは組みますね。同じ骨組みでも飾り付けは地区ごとに個性があるんですよ。それは華やかだし、見た目にも美しい。それを各地区「うちのが大きい」「うちのほうが美しい」と、ぶつけ合い、競い合うわけです。
―新しい年のはじまり。今年も能登原とんどの出番がやって来ましたね―
今年も住民の皆さんの幸せをとんどに託して祈ります。私が生まれるずっと前からあったこの能登原とんどですから、これからも変わることなく残していきたいと思っています。人が人の幸せを願う気持ちに終わりがないように、能登原とんども途絶えることなく、人の力で繋いでいきたいですね。