ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 担当部署で探す > 都市計画課 > 焚場調査結果の概要

本文

焚場調査結果の概要

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月2日更新

鞆港埋立てに伴う埋蔵文化財確認調査報告(概要)

焚場調査結果平面図焚場調査写真

1 はじめに

 現地調査の結果,雁木など現存する港湾施設を確認するとともに,地元での聞き取りにより沖合に石敷遺構の存在が推定され,さらにその遺構が文献などから“焚場”である可能性が考えられたため,確認を進めることになった。
 なお,“焚場”とは,木造船についた虫を駆除するために船底を焼いたり,付着したカキやフジツボを落としたり,修理を行なったりする場所・施設のことで,潮の干満を利用して船を海から引き上げ,作業を行なったものである。

2 調査結果

(1)現地調査結果

・石敷は,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
 範囲は約23×13mである。石材の一部には,石を分割したときの痕跡(矢穴痕)を明瞭に残すものがある。

・岩盤は,潮位表基準面(年間の最低低潮面に近い値で,図中に0で示した面)前後で平坦面を呈しており,陸側(西)から海側(東)に向かって緩やかに傾斜し,東端は急に傾斜して下がっている。
 南側と西側については,確認した範囲からさらに広がる可能性があり,想定できる範囲は100×40m程度の半月形になる。
 岩盤は摂理で凸凹があるため,明瞭な人工的痕跡を確認できなかったが,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦である状態から,No.12・13トレンチ付近を尾根筋にした丘陵状の岩盤を人工的に削平したものと考えられる。

・石列は,岩盤の平坦面縁辺部から沖へ向かって突出しており,石柱状の石材(約30~40cm角,長さ1.25~2.75m)34本を南北9m×東西6mの範囲に2列に並べてつくられている。
 機能や性格については詳らかにできないが,特別な付属施設であろうと思われる。

・今回確認した遺構は,平坦に削平された岩盤と,岩盤の傾斜が変化する部分に接ぎ足されている石敷や石列で,全体として平坦な「場」を構成している。

 (2)文書調査

・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたことが記載されている。

・ また同文書には,その後,御場所(焚場)100間のうち陸から流れ込む砂止めの石垣工事を60間にわたり行ったとの記載がある。これは寛政2・3年(1790・1791年)の文書(阿部家蔵)からも確認できるものである。

・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・個人蔵〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があり,宝永年間の文書にでてくる“焚場役所”と推定される。
 従って,施設の記載はないが,“焚場”はその前の浜であろうと推定できる。

・2枚の絵図には,(1)港を囲む波止の有無,(2)“焚場役所”の前の浜の石垣の有無という相違点がある。
 寛政2・3年(1790・1791年)の文書には,港を囲む波止と焚場浜の石垣が同時に作られたことが記載されているが,2枚の絵図はこの前後の港の様子を比較的正確に描写していると考えられる。
 従って,文化年間の絵図に描かれた“焚場役所”の前の浜の石垣は,波止と同時に新設された焚場浜の石垣である可能性が高く,これにより焚場の範囲がほぼ特定できる。

(3)江戸時代の海面水位について

・今回確認した遺構は,潮位表基準面のレベル付近に存在しており,年間を通じて遺構全体が海上に姿を表すことは少ない。
 しかし,気候の変動とそれに伴う海進・海退についての研究によると,地球規模で推定された海水準曲線では,1800年前後には現代の海水準に比べて海面水位が約50cmも低かったと推定されており,また日本列島においても江戸時代は寒い時代で,具体的な数値の変化は明らかではないが,現在よりは海水面が低かったと推定されている。
 以上のような研究成果から,江戸時代においては現在よりも遺構が露出しやすい状況にあったと思われる。

3 まとめ

(1)今回の調査で確認した遺構は,石敷・石列・加工の可能性のある岩盤である。
  石敷と岩盤の状況から,今回確認した遺構は,石敷と岩盤で有機的に構成された一つの“場”であると考えられ,河内屋文書に記載されている「敷石工事や自然の岩・石を切り均して,浜全体で大船10艘を焚船できるよう・・・」との記録に符合するものである。

(2) 遺構の規模は,南側・西側が岸壁等であるため端が確認できなかったが,南北100m以上,東西40m以上と考えられる。
  この規模は「御場所(焚場)100間のうち陸から流れ込む砂止めの石垣工事を60間にわたり行った」との記録から想定できる焚場の規模とほぼ一致する。

(3)遺構の位置は,絵図面に記載されている焚場浜の位置と大略一致する。

(4)現状では,遺構が海上に姿を表すことが少ない
  しかし江戸時代には寒冷化のために海水面が今よりも低かったという研究があり,当時は今以上に遺構の露出度は高かったと考えられる。

(5)以上のことから,今回の調査によって確認した遺構は,焚場である可能性が極めて高いものである。  

鞆町の歴史のトップページへ戻る