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福山ゆかりの先人(ふくやまゆかりのせんじん)

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「福山」というまちが誕生して400年を機に,本市の出身又はゆかりの深い人物の功績を顕彰し,もって郷土への誇りと愛着を育み,次代に継承していくため,「福山ゆかりの先人」を選定しました。

 

長谷川新右衛門(はせがわしんえもん)

(1531-1612/「備後表」発展の功労者)


​沼隈郡山南村(現在の福山市沼隈町)出身。備後表の功労者。工夫を凝らし,短いイ草を利用した「中継表」の製法を考案し,畳表生産農家に広める。これにより高品質な畳表の生産量が増加し,幕府や宮中へ納める御用表となる礎を築いた。

 

水野勝成(みずのかつなり)

(1564-1651/福山藩初代藩主・「福山」の命名者)


水野勝成の写真​​
水野勝成肖像画(賢忠寺蔵・画像提供)

三河国刈谷(現在の愛知県刈谷市)出身。福山藩初代藩主。徳川家康の従弟で「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られる一方,城下町建設や産業育成,治水事業などを英断をもって行い,福山発展の礎を築いた。1622年には福山城(城号:鉄覆山朱雀院久松城)を完成させ,地名を「福山」と名付けた。

 

野々口立圃(ののぐちりゅうほ)

(1595-1669/備後地方に俳諧文化を普及)

現在の京都府出身。1651年に福山に来て福山藩2代藩主水野勝俊に仕えた。明王院について述べた『草戸記』や参府の紀行文,社寺への奉納俳諧,四季折々の俳諧など,多くの作品を残している。備後地方の俳諧文化を盛んにした。

 

本庄重政(ほんじょうしげまさ)

(1606-1676/松永塩田の開拓者)

本庄重政

尾張の国(現在の愛知県)出身。塩田の開拓者。諸国を放浪し,赤穂で製塩法を学んだ後,妻の生家である福山へ移る。現在の尾道市に居を構え,福山藩4代藩主水野勝種の命で高須新涯造成,松永湾岸の干拓を指揮し,松永塩田の礎を築いた。

 

宮原直倁(みやはらなおゆき)

(1702-1776/郷土史「備陽六郡志」の著者)
現在の栃木県出身。医学・測量の技術を習得し,福山藩勘定方として出仕。江戸時代中期に記された備後国福山藩領各郡に関する郷土史「備陽六郡志」を作成。福山の歴史を知るうえで重要な資料を遺した。福山市重要文化財に指定されている。

 

菅茶山(かんちゃざん) 

(1748-1827/当代一の漢詩人・「廉塾」を開き民衆教育に尽力)

菅 茶山
菅茶山肖像画(重要文化財菅茶山関係資料,広島県立歴史博物館蔵・画像提供)

安那郡川北村(現在の福山市神辺町)出身。江戸期の朱子学者,漢詩人。幕府の大学頭から当代一の詩人と評された。京都で朱子学を学んだ後,神辺に私塾黄葉夕陽村舎を開き,民衆教育に尽力した。門下には,頼山陽や門田朴斎,藤井暮庵などがいる。後に福山藩の郷校となり廉塾と呼ばれる。藩命により『福山志料』などを編纂した。​

 

河相周兵衛(かわいしゅうべえ)

(1764-1833/「義倉」創設の中心人物)

河相周兵衛

深安郡千田村(現在の福山市千田町)出身。庄屋を務め,福山藩領内の豪農や商人と協力し,飢饉時に困窮者を救済する組織「福府義倉」の創設に尽力した。図書購入,医師育成,儒学振興にも努めた。

 

葛原勾当(くずはらこうとう)

(1812-1882/箏曲家・作曲家)

葛原勾当
葛原勾当肖像画複製(菅茶山記念館蔵・画像提供)

安那郡八尋村(現在の福山市神辺町)出身。3歳のとき天然痘をわずらい失明。9歳で箏を習い始める。地歌筝曲家,作曲家として活躍し,自ら考案した木活字で生涯にわたり和歌等を含む日記をつける。日記は「葛原勾当日記」として出版され,広島県重要文化財に指定。童謡作詞家 葛原しげるの祖父。

 

阿部正弘(あべまさひろ)

(1819-1857/福山藩阿部家7代藩主・幕府の老中首座として開国を主導)

阿部正弘
阿部正弘肖像画(福山誠之館同窓会蔵・画像提供)

福山藩阿部家7代藩主。25歳で江戸幕府老中となり,26歳で老中首座(現在の内閣総理大臣)に就任し,幕末の安政の改革を断行。人材育成のために藩校「誠之館」を江戸藩邸と国元の2か所設けた。1854年,江戸幕府の最高責任者として,ペリーと日米和親条約を締結するなど近代国家の礎を築いた。

 

富田久三郎(とみたきゅうざぶろう)

(1828-1911/日本三大絣「備後絣」の創始者)

富田久三郎

芦田郡下有地村(現在の福山市芦田町)出身。日本三大絣の一つである「備後絣」の創始者。18歳の時,絹の織り方を木綿織物に応用し,井桁絣を誕生させた。同業者の組合をつくるなど指導的役割を果たした。現在のデニム生産量日本一につながる備後絣の創始者。

 

窪田次郎(くぼたじろう)

(1835-1902/啓蒙思想家・医師)

窪田次郎
窪田次郎肖像(窪田家文書,広島県立歴史博物館蔵・画像提供)

​安那郡粟根村(現在の福山市加茂町)出身。啓蒙思想家・医師。深津村に民衆教育機関の啓蒙所を設立,全国に先駆けて小学校教育普及の下地をつくる。また,民撰議員設立を構想し,実現をめざして活動した。医学衛生結社による巡回診療等,啓蒙活動を行った。

 

丸山茂助(まるやまもすけ)

(1853-1917/日本一の下駄生産地「松永」の立役者)

丸山茂助
丸山茂助肖像(福山市松永はきもの資料館蔵・画像提供)

備後国松永村(現在の福山市松永町)出身。松永下駄産業の創始者。山陰のアブラギリを使った大衆向けの安価な下駄製作に成功。機械化にも積極的に取り組み,大量生産・製造コスト削減を可能にし,松永を日本一の下駄の生産地にした。

 

清水郁太郎(しみずいくたろう)

(1857-1885/東京大学産婦人科初代日本人教授)

清水郁太郎

備後国深津郡吉津村(現在の福山市吉津町)出身。東京大学の初代日本人産婦人科学教授,医学博士1号。第1回文部省官費留学生としてベルリン大学に留学。帰国後,漢方医学が強かった時代に,臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入。日本の産婦人科医学の進歩に貢献した。

 

森下博(もりしたひろし)

(1869-1943/実業家・商品広告の価値に着目し「日本の広告王」と呼ばれる)

森下博
森下博肖像(森下仁丹蔵・画像提供)

​現在の福山市鞆町出身。森下仁丹の創立者。世の中に役立つ広告方法を実践し,その大々的な広告宣伝により利益を上げたことから「日本の広告王」と呼ばれた。また,利益の一部を社会に還元し,自然災害や困窮者への支援,公共事業への寄付など,社会奉仕活動は膨大であった。

 

武田五一たけだ ごいち

(1872-1938/関西建築界の父・福山市市章の選定者)

武田 五一
武田五一肖像(ふくやま美術館蔵・画像提供)

​現在の福山市西町出身。東京帝国大学卒業後,東京帝国大学助教授をはじめ,各校で教鞭をとる。法隆寺国宝建築修理事務所長なども歴任し,橋梁,工芸デザインの分野でも活躍した。福山市市章の選定,福山市公会堂,福山市庁舎,福山市議会議事堂などを手掛けた。

 

山本瀧之助(やまもとたきのすけ)

(1873-1931/青年団運動の先覚者(青年の父と呼ばれる))

山本滝之助

​沼隈郡千年村(現在の福山市沼隈町)出身。社会教育家・思想家。教師生活のかたわら,青年団運動を始める。24歳のとき出版した『田舎青年』は,地方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して注目された。

 

吉田龍蔵よしだ りょうぞう

(1874-1945/世界で初めて人体から「日本住血吸虫」を発見)

吉田龍蔵
吉田龍蔵肖像(園尾裕・画像提供)

鳥取県出身。1901年深安郡中津原村(現在の福山市御幸町)に吉田医院を開業。当時の深安郡神辺町の片山周辺で発生していた原因不明の風土病の患者を診療。自ら多数の患者を解剖して原因究明に取り組み,京都帝国大学の藤浪鑑教授に病理解剖を依頼して剖見し,世界で初めて人体から「日本住血吸虫」を発見した。また,感染ルートも解明した。

 

磯永吉(いそえいきち)

(1886-1972/台湾農業の父・蓬莱米の父)

磯永吉

新馬場町(現在の福山市霞町)出身。農学博士・作物育種学者。東北帝国大学農科大学(札幌市)を卒業後,台湾へ渡り,台湾米の品質改良・台湾における日本米品種改良に取り組んだ。育成した品種は214種に及び,育成した米にちなみ「蓬莱米の父」と呼ばれた。

 

藤井厚二(ふじいこうじ)

(1888-1938/建築家・建築学者)

藤井厚二

現在の福山市宝町出身。建築家・建築学者。東京帝国大学卒業後,建築環境工学の分野を開拓する。日本の風土に適した住宅の在り様を研究し,先駆的実績をあげた。日本と西洋的な空間構成とを融合させる手法を提示した。1928年建築の京都にある平屋の自邸「聴竹居」は近代住宅建築の名作として名高い。

 

宮城道雄(みやぎみちお)

(1894-1956/箏曲「春の海」の作曲家・箏曲家)

宮城道雄
宮城道雄肖像(宮城道雄記念館蔵・画像提供)

兵庫県出身。7歳のときに失明し筝曲の道を志す。邦楽の真髄を追求し,新日本音楽の名称が生まれ,新境地を確立。「春の海」を作曲し,新楽器八十絃を発表。父の故郷「鞆の浦」に思いを馳せ,「春の海」は瀬戸内海の潮の香り,潮騒などが表現されていると言われている。

 

藤井崇治(ふじいそうじ)

(1894-1975/郵便制度の確立に貢献・電源開発総裁)

深安郡山野村(現在の福山市山野町)出身。京都帝国大学卒業後,逓信省に入り,郵便番号制度の先駆けとなる郵便戸番制の採用などを果たした。電気庁長官や電源開発株式会社総裁を歴任し,わが国の戦後の経済成長を支える電力需要への対応に貢献した。

 

小山祐士(こやまゆうし)

(1904-1982/劇作家)

小山祐士
小山祐士肖像(ふくやま文学館蔵・画像提供)

現在の福山市今町出身。劇作家。慶応義塾大学在学中より小山内薫に傾倒,その後久保田万太郎らに師事し,多くの優れた戯曲を発表した。主な作品に「瀬戸内海の子供ら」「二人だけの舞踏会」などがある。

 

天野辰雄あまのたつお

(1910-2001/福山市体育協会(現福山市スポーツ協会)会長・福山市のスポーツ界を牽引)

天野辰雄
天野辰雄肖像(公益財団法人天野スポーツ振興財団蔵・画像提供)

福山市光南町出身。天野実業株式会社の創始者。地域スポーツの振興を図ることを目的に,私財を投じて天野スポーツ振興財団を設立。1954年~1997年の43年の長きに渡り福山市体育協会(現福山市スポーツ協会)の会長を務め,この間,協会の法人化にも尽力した。国民体育大会やアジア競技大会広島の運営に携わるなど,生涯に渡って福山市のスポーツ界を牽引した。

 

塩出英雄しおで ひでお

(1912-2001/日本画家・日本美術院常務理事)

塩出 英雄
塩出英雄肖像(福山誠之館同窓会蔵・画像提供)

福山市城見町出身。日本画家。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)で金原省吾,高楠順次郎,奥村土牛に師事。「泉庭」が日本美術院賞受賞。「春山」が内閣総理大臣賞受賞。1973年紺綬褒章,1984年勲四等旭日小綬章受章。日本美術院常務理事。

 

本田實(ほんだみのる

(1913-1990/本田彗星の発見者)

本田實
本田實肖像(公益財団法人倉敷天文台蔵・画像提供)

鳥取県出身。独学で天文学を学ぶ。1937年福山市瀬戸町にあった黄道光天文台に入所する。生涯彗星探しに専念し,名前がつけられた本田彗星をはじめ,12個の彗星と11個の新星を発見した。

 

木下夕爾(きのしたゆうじ)

(1914-1965/詩人・俳人)

木下夕爾
木下夕爾肖像(ふくやま文学館蔵・画像提供)

深安郡上岩成村(現在の福山市御幸町)出身。名古屋薬学専門学校(現名古屋市立大学)を卒業。その後,帰郷し,薬局店を経営する傍ら,文学活動を行う。詩作は中学時代から,句作は戦争中から始め,詩,句の両分野で活躍した。代表的な詩集に「田舎の食卓」,句集に「遠雷」などがある。

 

小林政夫(こばやしまさお)

(1914-2000/実業家・戦後の地域経済の先導者)

小林政夫

福山市西町出身。日東製網株式会社の社長として,業界トップメーカーに育て上げる。福山ライオンズクラブ,広島経済同友会福山支部を創設。福山商工会議所の会頭を25年にわたり務め,戦後の高度経済成長期における地域の経済発展に尽力。

 

大島久見(おおしまひさみ)

(1915-2004/能楽シテ方喜多流職分・大島能楽堂を建設し能楽文化を普及)

大島久見
大島久見肖像(喜多流大島能楽堂蔵・画像提供)

福山市光南町出身。シテ方喜多流の能楽師。西日本では唯一,全国的にも珍しい個人での能楽堂を建て,定例能会を開催するなど能楽の普及,啓蒙に努めた。国重要無形文化財の総合認定保持者であった。

 

榮久庵憲司(えくあんけんじ)

(1929-2015/日本を代表する工業デザイナー)

榮久庵憲司
榮久庵憲司肖像(福山誠之館同窓会蔵・画像提供)

東京都で生まれ,福山市鞆町などで育つ。父を継いで仏門に入るも,現在の福山誠之館高校を経て,東京芸術大学に入学。工業デザインに開眼し,米留学を経てGKインダストリアルデザイン研究所を設立する。キッコーマン卓上しょうゆびんや,秋田新幹線「こまち」などの数多くのデザインを手掛けた。1988年IDSA(米国工業デザイン協会)より世界デザイン大賞受賞。