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入封400年記念シリーズ(8)幕末の福山藩

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年11月1日更新
No.315

 風雲急を告げる1868(慶応4)年正月、本庄村の円照寺山上に布陣した長州軍砲兵隊は、福山城天守閣に照準を定めて一斉に撃ちかけてきました。砲弾は天守閣に命中しますが不発弾でした。
 さらに長州軍は阿部神社赤門の西側の竹矢来を破って殺到しますが、小丸山を守っていた福山藩少年隊が激しく小銃を撃ちかけ応戦します。この小丸山には前年の11月に亡くなった福山藩阿部家9代藩主阿部正方が仮埋葬されており、少年隊が警護をしていたのです。
 正方は幕府から命じられて2回にわたる長州戦争に出陣します。2回目の益田(島根県)の戦いでは敗れ、陣中で脚気を病んで福山へ帰陣しますが20歳の若さで亡くなります。
 藩の一大事の最中、尊攘派志士がひそかに薩長の尊攘派と気脈を通じ、徳川家の譜代でありながら討幕の諸藩と連携を図ろうとする中、正方が亡くなったのです。福山藩はその死を隠しますが、状況は万事休すの様相を呈しました。
 しかし「一藩(福山藩)の持論全く大儀滅親※の義に一決 朝命(朝廷の命令)を一途に順奉仕り侯」(原漢文)と記した福山藩家老の書状が、正使三浦義建・副使関藤藤蔭によって長州軍に届けられ、福山城下は戦禍から守られたのです。

※大儀滅親…君主や国家の大事のためには親兄弟も犠牲にするという考え

旧阿部神社赤門 旧阿部神社赤門

文化振興課
084-928-1278

手話通訳/要約筆記の有無: