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邪鬼を払う 福山城の鬼門守護

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年2月1日更新
No.330

 鬼は古来より疫病や天災をもたらす存在として恐れられてきました。節分の日には豆をまく、鰯の頭を剌した柊の枝を戸口に立てるなど鬼を払う風習があります。
 また「鬼門」と呼ばれる方角があり、平安時代ごろから病気などの災いを防ぐ上で避けるべき方角とされてきました。鬼門は丑と寅の間(艮(うしとら))、すなわち北東の方角で、南西の裏鬼門とともに鬼の通り道と考えられており、この方角から鬼が出入りできないよう平安京では延暦寺を、江戸城では寛永寺を建立したといわれています。
 福山城築城に際しても城郭の鬼門に神社が祀(まつ)られました。この神社は福山藩初代藩主水野勝成の祖父忠政が刈谷城の鎮守として祀っていた社を、勝成が城の鎮守神として福山に移したものです。その後、阿部藩主の時代に家臣が江戸行きの道中、夢の中に城背の社に住む三蔵と名乗る稲荷神が現れたことから、三蔵稲荷と呼ばれるようになりました。
 さらに城下町の北東端には古くから吉津庄の産土神であった艮神社、神辺から移されて常興寺に安置されていた釈迦三尊像を本尊とした胎蔵寺、現在の妙政寺の場所に建立された弘宗寺などの寺社が配され、城下町の鬼門守護として位置付けられました。
 また裏鬼門の守護として、常興寺山にあった能満寺が築城に伴い城下南西端の現在地に移されたといわれています。

三蔵稲荷神社の写真 三蔵稲荷神社

文化振興課
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