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菅茶山の足跡を訪ねて(3)箱田道中
茶山は友人である河相君推や遍照寺の大空上人がいる中条に、箱田路を通って度々行き来しています。深夜になって中条から家に帰る途中の景色を詠んだ詩があります。
箱田道中
此經山蹊歳幾回
毎將夜半始還來
行思往事停籃輿(輿は竹冠に擧)
数點流蛍水竹隈
(要約)この山あいの道を年に幾度往来することか、いつも夜半近くなってから家に帰ってくる。以前はよくここでかごを止め、蛍火を眺めたことなどを回想していると、水辺の竹藪や ぶの中から数匹の蛍が出て飛んで行った。
時を忘れて夜更けまで交流を楽しんだ帰り道、箱田に差し掛かった時に思いがけず数匹の蛍が暗闇から現れ、流光を描きながら飛び去って行った情景を素朴に表現しています。
箱田には茶山と交流のあった人物が生まれています。幕府天文方の伊能忠敬に17歳で入門し、筆頭内弟子として、測量に従事し、日本最初の実測地図である「大日本沿海輿地全図」の完成に大きく寄与した箱田良助です。
良助は1814(文化11)年、江戸に滞在中の茶山を何度も訪ね、測量の話題で盛り上がるなどつながりを強めていきました。 また茶山は1809(文化6)年、九州第一次測量隊(第7次測量)が福山藩領内に入ったとき、神辺本陣に宿泊した伊能忠敬を訪ねて以来、忠敬とも親交を深めています。
なお幕末から明治維新期にかけて活躍した榎本武揚は良助の次男です。
<箱田良助誕生之地碑(中央・左)と箱田道中詩碑(右)>
084-928-1278