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菅茶山の足跡を訪ねて(11)西福寺の梅

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年2月1日更新
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 茶山は自身を「梅癖」と称すほど梅の花が好きだったようで、梅を詠んだ漢詩がいくつも残っています。神辺町の西福寺には、菅茶山の「西福寺賞梅」の歌碑があります。

 

品茶琢句坐斜陽

閑事偏知春日長

暮鳥還棲驚有客

梅花花底小僧房

 

(要約)

 お茶を楽しみ句を捻って座っているうちに日が傾いてきた。のんびり過ごしていると春の日は長い。日暮れに鳥がねぐらに帰って来ると、客(茶山)がいたことに驚いたようだ。満開の梅の花に覆われた小僧房でのこと。

 

 梅の咲き誇る頃の穏やかな景色と、鳥に心を寄せる茶山の人柄が伝わってきます。

 文人たちにとって梅は特別なものであったのか、身近な場所だけではなく遠方まで梅を求めて足を運びました。13歳年上の友、西山拙齋が神辺を訪れて、初めて顔を合わせた際も三原まで梅を見に行っています。

 西山拙齋は茶山に先駆け、鴨方に私塾「欽塾」を開いた儒学者です。京都で同じ師に学んでいますが、知り合ったのは郷里に帰ってからのことです。拙齋は茶山にとっては最も交遊を深めた人物で、師のような存在でした。神辺を訪れた拙齋は茶山とたびたび西福寺に遊び、詩を詠んでいます。1798(寛政10)年に拙齋が亡くなるまで交流は続きました。

 また茶山の編さんした「福山志料」の西福寺の項には、拙齋の漢詩が掲載されており,親交の深さを物語っています。

文化振興課
084-928-1278

手話通訳/要約筆記の有無: