再建された 備後護国神社の石鳥居
福山城の北側、旧水道沿いの道路の東西に、備後護国神社の鳥居が建っています。西側の大きな鳥居には「昭和十八年九月吉日」、東側のひと回り小さな鳥居には「昭和十九年十一月吉日」と刻まれています。備後護国神社が阿部神社と合併したのは1957(昭和32)年で、不思議なことに鳥居の年代の方が早いのです。
備後護国神社は戊辰戦争で亡くなった兵を祀った招魂社が始まりです。福山城本丸の西側にありましたが、1940(昭和15)年、草戸の広い廃川地に移ることになりました。2基の鳥居はこの草戸の社殿のもので、大きい鳥居は三菱電機株式会社が、小さい鳥居は個人が奉納しています。市に誘致された三菱電機は奉納した年に福山で操業を始めたばかりでした。
国際情勢が悪化し、日本が戦争への道を進む中、神社への参拝者は激増していました。市内の神社7社への参拝道路は町内会や中等学校生徒などの勤労奉仕により建設されていますが、備後護国神社も「勤労奉仕ヲナサシメ以テ吾等ノ神社ガ吾等ノ手ニテ一日モ早ク竣功相成ル様格段ノ協力」を指示され、市内外の人々の勤労奉仕によって建設が進められました。しかし完成を目前にした1945(昭和20)年8月8日、空襲により社殿は焼失しました。
石製の鳥居と神橋は残りましたが、鳥居は破壊されるおそれがあったため、地中に埋めて隠されました。掘り出されて再建されたのは、西側の鳥居が1961(昭和36)年、東側の鳥居はその約20年後でした。
西側の石鳥居
東側の石鳥居
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