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鞆町の歴史(古代から中世)
古代から中世
発掘調査によって,縄文土器や弥生土器の破片が出土していますが,鞆が文献に最初に登場するのは『万葉集』です。
730年(天平2年)に大伴旅人(おおとものたびと)が鞆の浦のむろの木を歌い,736年(天平8年)には遣新羅使(けんしらぎし)がやはりむろの木を歌っています。このころすでに,鞆の浦は港としての役割を果たしていたものと思われます。
927年(延喜7年)に編纂された延喜式には,沼名前(ぬなくま)神社が式内社として記録されています。
また,源平合戦(1180年~1185年)の頃には,奴可(ぬか)入道西寂や鞆六郎の名が知られます。
『長門本平家物語』には,鞆の浦で兵船を整えたという記述がありますので,平安時代末期の鞆の浦は確実に港としての機能を有し,港町も形成されつつあったようです。
南北朝時代の鞆の浦は,足利尊氏が,九州下向途中の1336年(建武3年)に,光厳(こうごん)上皇の院宣を受け取った場所として重要視されます。
『梅松論(ばいしょうろん)』によると,この院宣によって尊氏は朝敵の汚名を返上でき,その気勢は大いに上がったといいます。さっそく九州の大友氏泰に対して,鎮西に向けて出発することを申し送っています。このためか,後に尊氏は鞆の浦の金宝寺を備後安国寺と定めています。
尊氏は,またたく間に九州全体を勢力下に治めると,京都に攻め上がる最後の軍議を鞆の浦で行い,海陸二手に分かれて進軍する決定を下しています。
鞆の浦での南北朝の戦いは,大可島,小松寺などを舞台に繰り広げられ,鞆の浦が両者の戦いの重要な拠点だったことを示しています。
1349年(貞和5年)には,足利直冬(ただふゆ)が中国探題として大可島城に入り,短期間ですが鞆の浦は中国地方8か国の政治の中心となりました。
室町時代後半になると,備後地方の国人は,大内氏と尼子氏との対立の狭間で去就に迷い,その間隙をぬって台頭した毛利氏の旗下に服することになります。大内氏,尼子氏を倒して中国地方の覇者となった毛利氏も,鞆の浦を重要視し,鞆城を築いています。
室町幕府の最後の将軍,足利義昭(よしあき)は1573年(天正元年)に織田信長によって京都を追われました。毛利氏を頼った義昭は,1576年(天正4年)に鞆城に入り,信長包囲網を築くために画策しますが,秀吉と講和を結ぶことによって,幕府再興の夢はついえます。「足利氏は鞆に興り,鞆に亡ぶ」と言われるゆえんです。