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鞆町の歴史(近世)

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月2日更新

近世

対潮楼太田家住宅

 江戸時代になると,安芸・備後の領主として福島正則が入部してきます。正則は城山に支城として鞆城を再築しますが,1615年(元和(げんな)元年)の一国一城令にさきがけて1609年(慶長14年)に廃城となってしまいます。
 福島氏が1619年(元和5年)に改易になると,譜代大名の水野勝成(かつなり)が大和郡山から転封してきます。
 勝成は,まず神辺城へ入って福山城の完成を待ちますが,鞆も重要な拠点であり,2代勝俊(かつとし)は藩主になるまで鞆城跡の屋敷に居住していました。
 1639年(寛永16年)に勝俊が家督を継いだ後は,荻野新右衛門(おぎのしんうえもん)に屋敷と町中を預けて支配させました。これが鞆奉行の最初と言われています。
 このように,水野時代の初期には城下町的色彩が残っていましたが,勝俊が鞆を離れてからは,次第に港町の性格が強まり,鞆の津と呼ばれるようになりました。
 もともと鞆は港町として繁栄した町で,1650年(慶安3年)の祇園宮鐘銘には「古来商旅貿易之地也」と記されています。
 1672年(寛文12年),河村瑞軒による西回り航路の整備以後は,北前船や九州船が鞆の津に寄港し,鞆商業は著しい発展を示します。
 また,鞆の津は海駅としても重要な位置を占めていました。特に朝鮮通信使の寄港に伴う接待は,藩の総力をあげて行われました。計12回の来日の内,1811年(文化8年),対馬で引き返した使節を除くと,往き帰りすべて鞆の津に寄港しています。
 正使・副使・従事の三使の宿泊所には,慣例として福禅寺が当てられました。1711年(正徳元年)の従事李邦彦(イパンオン)は,対潮楼からの眺めを絶賛し「日東第一形勝」の書を残しました。
 その他,参勤交代の西国大名やオランダ商館長,琉球使節なども鞆の津に来航し,活気のある町の様子や,裕福そうな商家が軒をならべている様,そして遊郭や寺院についても日記などに書き残しています。
 こうして,港町,商業都市として発展した鞆の津には,大型船が次々と出入りするようになり,港湾施設も整備されていきました。
 幕末には,尊皇攘夷を唱える三条実美(さねとみ)ら七卿が,1863年(文久3年)8月18日の政変後,長州に下る途次,鞆の津に立ち寄っています。
 このように鞆の港は,古代・中世の鞆の浦から近世の鞆の津へと,その地理的,自然的条件を生かし,さらに人工の手を加えながら,瀬戸内の要港として発展してきました。
 現在も残る,古い町並みや数ある神社仏閣,そして港湾施設に往時の繁栄の跡を偲ぶことができます。