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コレクションI:福山市・府中広域市町村関連

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年5月12日更新

藤井 松林 (Fujii, Shorin)  1824-1894

百花百鳥之図
《百花百鳥之図》1889(明治22)年
121.2×54.0 cm 絹本着色

福山藩士藤井好道の子として福山城下長者町に生まれる。福山で高田杏塢、吉田東里から絵の手ほどきを受け、京都で中島来章に師事する。1864年の長州の役の際には、地形を測写するなど藩絵図師として従事し、明治維新後は画道に精進する。1877年、第一回内国勧業博覧会に出品。1889年、《遊鯉図》、《百福図》を宮中の命に謹写する。1891年には、尾道の浄土寺の庫裏、方丈の障壁画に着手し、晩年の大作となる。

この作品は、松林66歳の作品で、四季折々の動植物を濃彩で描き、平明で温雅な雰囲気を醸し出している。

 

小林 徳三郎 (Kobayashi, Tokusaburo)  1884-1949

花と少年の作品画像
《花と少年》1931(昭和6)年
53.1 ×65.0 cm 油彩,カンヴァス

福山市に生まれる。幼名藤井嘉太郎。幼い頃に母方の伯父小林徳三郎の養子となり襲名。1909年、東京美術学校西洋画科を卒業。1912年、ヒュウザン会の創立に参加、同展に作品を発表。1913年から1917年頃まで、劇団『芸術座』の舞台装飾主任をつとめる。1918年、第5回院展で《風景》が初入選、以後同展に出品を続ける傍ら、1923年に春陽会の第1回展から参加し、1926年に同会会員に推挙される。主題は、風景、静物、人物と幅広く、鮮やかな色彩と明快な筆触で暖かみのある画風を生み出した。

モデルは画家の愛息、輝之助である。幅広い題材を手掛けた小林にとって、子どもたちをモデルにした日常風景もまた重要なモチーフだった。画面から醸し出されるそのほのぼのとした空気に子どもの成長を見守り続ける画家の優しい眼差しを感じることもできる。このような子どもの健やかな成長を祈った作品も手掛けていた作者の遺志を受け継ぎ、当館主催の『ふくやま子ども「生きる」美術展』では、第7回展から「学校賞」を遺族の了承を得て「小林徳三郎賞」に改称した。受賞校にはこの《花と少年》を陰刻したトロフィーが手渡されている。

 

大村 廣陽 (Omura, Koyo)  1891-1983

雪の作品画像
《雪》 1929年(昭和4年)
201.0×191.0 cm 絹本着色 2曲1隻

福山市東村町に生まれる。幼い頃より画才を発揮し、日本画家を志す。1911年に京都市立美術工芸学校を卒業後、京都市立絵画専門学校本科に入学。同年の第5回文展に《休み》が初入選し、翌年の第6回文展でも褒状を受ける。1914年、同校を卒業後、竹内栖鳳塾(竹杖会)に入り、文展、帝展に連続入選。1929年、帝展無鑑査となった。作域は、仏画や風景画にも及んだが、その本領は温雅な筆致で描く花鳥画や、とりわけ動物画にあった。

この作品は、廣陽36歳の時の作品で第10回帝展の出品作。清澄な雪景色に蕾をほころばせた梅が描かれるなど三寒四温の春の訪れを感じさせる。

 

金島 桂華 (Kanashima, Keika)  1892-1974

魚心暖冬の作品画像
《魚心暖冬》1936(昭和11)年
147.7×250.5 cm 絹本着色

福山市神辺町に生まれる。1911年、竹内栖鳳に入門。1918年には第12回文展に初入選、その後第6回帝展で《芥子》が特選になり、以後帝展、日展で活躍した。1954年、芸術院賞を受賞、1959年には日本芸術院会員となる。1960年、日展理事。1966年、勲三等瑞宝章受章。1969年、京都市文化功労賞受賞。京都市文化功労者。1974年、逝去。勲二等瑞宝章を受章。

この作品は、新文展招待展に出品した桂華44歳の作品である。冬の陽光を受けてゆったりと泳ぐ鯉の群れを描いている。

 

福田 恵一 (Fukuda, Keiichi)  1895-1956

安養の作品画像
《安養》1926(大正15・昭和元)年
左・右208.5×111.5 cm, 中236.0×211.5 cm 絹本着色

福山市神島町に生まれる。1917年、東京美術学校図画師範科を卒業。西山翠嶂に師事し、1924年、第5回帝展に《うすれ行く斜陽に暮る》が初入選。1934年の第15回帝展では審査員をつとめ《主計頭清正》を出品するなど歴史人物画を得意とした。1938年には、仏像・仏画研究のため中国に旅行。1952年、第8回日展に《ガラス》を委嘱出品。

この作品は、第7回帝展に出品した恵一31歳の時の作品である。仏画を思わせる三尊形式の画面で構成されている。安養とは極楽浄土の意で、幼くして亡くした我が子を弔う気持ちで描かれたものと考えられる。

 

吉田 卓 (Yoshida, Takashi)  1897-1929

羽扇を持てる裸婦
《羽扇を持てる裸婦》 1926(大正15・昭和元)年
90.0×130.4 cm 油彩,カンヴァス

福山市西町に生まれる。1920年、川端画学校本郷洋画研究所に学び、内田巌と親交を結ぶ。1922年、二科展に初入選し、以後毎年入選。1926年、佐伯祐三、林重義らとともに、二科賞を受賞。1928年には二科会会友に推薦される。翌年、渡欧を計画し、後援会結成のため関西方面へ旅行中、病にかかり31歳の若さで急逝した。

この作品は、1926年の二科賞受賞作で、吉田29歳の作である。薄塗りの裸婦は、暗褐色の明暗により重厚な存在感を備えている。横たわる裸婦の肌の表現など、浮き立つように表現され、吉田が類のない色彩画家であったことをうかがわせる。

 

猪原 大華 (Inohara, Taika)  1897-1980

若桐の作品画像
《若桐》1927(昭和2)年
209.0×190.0 cm 絹本着色 2曲1隻

福山市神辺町に生まれる。1918年、京都市立絵画専門学校の別科に入学。1921年、第3回帝展に出品、初入選。1923年、同校の本科を卒業。同校研究科在学中は、国画創作協会展にも出品。1931年、土田麦僊の山南塾の塾員となるが1936年、麦僊の逝去により閉塾したため、翌年に西村五雲の五雲塾晨鳥社に入塾。五雲没後は、旧五雲塾員らによって再発足した晨鳥社に加わり、以後亡くなるまで、山口華楊とともに同塾の指導にあたる。

この作品は、第8回帝展に出品した大華30歳の時の作品である。淡く明るい色調で、草花やアゲハチョウやミツバチなどの昆虫、大きな葉を繁らせた若桐が描かれている。

 

大島 祥丘 (Oshima, Shokyu)  1907-1996

月下遊敖
《月下遊敖》1947(昭和22)年頃
145.0×146.0 cm 紙本着色 2曲1隻

島根県出雲市に生まれる。本名は算悟。1926年、京都市立絵画専門学校に学び、1937年、第1回文展に《展傘図》を出品し、初入選。その後、堂本印象に師事し、東丘社(印象画塾)の会員となる。1942年、疎開先であった福山市に定住。1946年に日本画塾、三樹社を主宰するなど後進の指導にも精力を傾けた。1951年、第7回日展に《窓》を出品し入選。1968年、東丘社第25回記念展に出品した《段圃宿雪》が受賞。1995年、ふくやま美術館において「大島祥丘の世界展」を開催した。

この作品は、祥丘40歳頃の作品である。戦後、自宅の庭先に偶然現われた鼬が、月夜に群れ遊ぶ様子を濃彩で描いている。

 

片山 公一 (Katayama, Koichi)  1910-1969

南仏の港の作品画像
《南仏の港》1968(昭和43)年
91.0 ×116.0 cm 油彩,カンヴァス

福山市野上町に生まれる。1931年、独立展の第1回展に入選、洋画家になることを決心する。独立展を中心に活躍し、中山巍や小林和作、田中佐一郎らに師事。1948年に独立賞を受賞。1951年、同会の会員に推挙された。福山では、師範学校時代の恩師や画家仲間、財界人など支援者たちの期待を集めた。1950年頃からは、ほぼ毎年のように東京から帰郷し、数ヵ月間を福山で過ごして作品を制作、個展を開催した。片山の支援者たちは、後援会を結成して、1960年、1966年と2度の渡欧を援助した。晩年は、南フランスの溢れる陽光に魅了され、明度の高い色彩とリズム感のある躍動的な筆触で独自の画風へと昇華させた。

この作品は、第36回独立展の出品作である。晩年の片山は、南フランスの景色を大変気に入り、本作もパステルカラーを思わせる中間色の柔らかい色調でカンヌの港を描いている。手前に密集して停泊しているボートや遠景の建物など、リズミカルで軽快な描線からは、片山の意気軒高な息遣いを感じさせる。

 

奥田 元宋 (Okuda, Genso)  1912-2003

若葉の頃の作品画像
《若葉の頃》 1946(昭和21)年
174.0×268.0 cm 絹本着色

広島県三次市に生まれる、本名は厳三。1931年、日彰館中学校を卒業後に上京し、児玉希望の内弟子となる。一時文学や映画に傾倒し、シナリオライターを目指すが、1935年に再び希望に師事する。1936年、新文展鑑査展に《三人の女性》が初入選。1938年、第2回新文展で特選。1944年に郷里へ疎開し、美しい自然のなかに風景画の新境地を開く。1962年、第5回新日展では、文部大臣賞を受賞。1973年、日本芸術院会員に就任。1984年、文化勲章を受章。

この作品は、第2回日展に出品した元宋34歳の作品である。現在の三次市吉舎町あたりを描いたものである。少女をはじめ、牛の親子や若葉の木々を穏やかな筆触で描き、長閑な春の様子を伝えている。

 

塩出 英雄 (Shiode, Hideo)  1912-2001

泉庭
《泉庭》1950(昭和25)年
149.4×444.8 cm 紙本着色 4曲1隻

福山市城見町に生まれる。1936年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科を卒業。在学中から奥村土牛に師事する。1937年、第24回院展に《静坐》が初入選する。1949年、第34回院展で《賀寿》が奨励賞と白寿賞を受賞、以後、院展を中心として意欲的に充実した作品を次々と発表、内閣総理大臣賞(1969年第54回院展)など多くの賞を受賞する。日本美術院常務理事、武蔵野美術大学名誉教授、日本美術家連盟常務理事を歴任した。

この作品は、1950年、英雄38歳の時、第35回院展で日本美術院賞・大観賞を受賞した。東京・八芳園に取材したもので、清新な空気につつまれた静寂の世界が凝縮されている。

 

高橋 秀 (Takahashi, Shu)  1930‐

風fuの作品画像
《風(fu)》2003(平成15)年
125.0×180.0 cm アクリル,金箔,錫箔,綿カンヴァス

福山市新市町に生まれる。1961年に安井賞を受賞。1963年、イタリア政府招聘留学生としてローマに渡る。1976年ヴェネツィア・ビエンナーレ出品。1993年、ローマ国立近代美術館で個展「高橋秀ローマ30年」展を開催。1994年、紫綬褒章受章。1996年、倉敷芸術科学大学教授に就任。2004年、41年間暮らしたイタリアを引き上げ、岡山県倉敷市の沙美海岸にアトリエと住まいを移す。2010年、岡山県文化賞を受賞。2011年、ふくやま美術館にて「高橋 秀・全版画」展を開催。2018年、蓮華院誕生寺(熊本県玉名市)の多宝塔に壁画作品が収まる。2019年、世田谷美術館にて「高橋秀+藤田桜――素敵なふたり」が開催される。

この作品は、高橋73歳の作である。渡伊40周年を記念して岡山、福山の百貨店にて開催した新作展の出品作である。作品名からも俵屋宗達の《風神雷神図屏風》(建仁寺)の影響を受けて制作したものと考えられる。高橋は、このような作品を自ら“琳派”と称し、金箔をあしらったダイナミックな曲線が、画面全体に心地よい緊張感をもたらしている。

 

圓鍔 勝三 (Entsuba, Katsuzo)  1905-2003

漁婦の作品画像
《漁婦》1937(昭和12)年
40.0×135.0×107.0 cm 木

広島県尾道市御調町生まれる。本名は勝二。彫刻家を志し、京都の関西美術院で学んだ後、1928年、上京して日本美術学校に入学。1930年、帝展に初入選。1933年、澤田政廣に師事。1946年の第2回日展と翌年の第3回日展に連続して特選。1950年の第6回日展でも特選となり、翌年には審査員を務める。1953年、多摩美術大学教授に就任。1965年、第8回日展で《旅情》が文部大臣賞を受賞。翌年、同作にて日本芸術院賞を受賞した。1970年、日本芸術院会員となり、1988年、文化勲章を受章。1989年、広島県名誉県民。翌年、川崎市名誉市民となる。1993年、御調町に圓鍔勝三記念館(現・圓鍔勝三彫刻美術館)が開館。

この作品は1937年、第1回文展に出品した32歳の作である。若い女性が漁の網を懸命に引く姿を力強く表現した初期の代表作である。

 

野田 正明 (Noda, Masaaki)  1949-

可能性の作品画像
《可能性》2005(平成17)年
50.0 ×49.0×40.0 cm ブロンズ

福山市新市町に生まれる。1972年、大阪芸術大学美術学科卒業。1977年にアメリカに渡り、現在、ニューヨークを拠点に活動している。1979年、ボストン全米版画展で買上賞を受賞して以来、シルクスクリーンなどによる版画、絵画、立体作品を制作。近年では、個展の他にギリシャ、中国・深圳など、国内外でのモニュメント制作にも主体的に取り組み、2009年、ギリシャ・アメリカン大学(ギリシャ)をはじめ、宍道湖畔(島根県松江)、レフカダ・カルチャー・センター(ギリシャ・レフカダ島)、2019年、小泉八雲記念公園(東京・新宿)など、ラフカディオ・ハーンゆかりの地にモニュメントを設置している。2017年、紺綬褒章受章。広島文化賞受賞。

この作品は、野田56歳の時に制作されたもので、鋳造によるブロンズ彫刻である。鏡面状に磨かれた作品は、見る角度によって様々に変化する。有機的なフォルムは、鳥の飛翔や流体のスピードといったイメージが表され、ダイナミックな生命感を漂わせている。それは華やかなゴールドの輝きを放ち、私たちに無限の可能性を感じさせるものである。

 

桑田 笹舟 (Kuwata, Sasafune)  1900-1989

いろは歌の作品画像
《いろは歌》
60.0×134.0 cm 紙本墨書

福山市坪生町に生まれる。本名明。1922年、神戸小学校の教員となる。戦後日展に書が加わり、1951年に特選を受賞する。その後、日展審査員、評議員、理事を歴任し、1970年改組第1回日展出品作《母》で日本芸術院賞に輝くなど、戦後かな書壇に大いなる足跡を残した。郷里の福山でもかな書道普及に尽力し、多くの有能な書家を育成するとともに、生涯にわたり古筆研究と料紙制作を追求した。1986年、福山市名誉市民に推戴。

この作品は、いろは歌47文字を、字間と行間を極力つめて書き、文字のデフォルメと大小そして墨継ぎの変化で見せる。渇筆の大きな3文字では作品に広がりを作り、前半部分から後半は作品下部に墨を集めて画面を支えている。

 

栗原 蘆水 (Kurihara, Rosui)  1931-2010

詩経の語の作品画像
《詩経の語》1988(昭和63)年
102.0×103.0 cm 紙本墨書

福山市駅家町に生まれる。本名靖。1948年に村上三島の門をたたき、本格的に書の道を歩む。1954年、日展初入選。1962年には日展特選を受賞し、1969年に日展審査員就任、1988年に日展文部大臣賞を受賞するなど書壇を牽引した。明・清時代の書風を基に扁平で重厚感のある書風を確立。晩年には線を極限まで削ぎ落とした簡素で雄大な作品を発表し、79歳で没するまで飽くなき探求を続けた。2016年、福山市名誉市民に推戴。

この作品では、剛毛の筆で書かれた力強い線に緩急、肥痩の変化がある。特に扁平な字形の中に大きく空間を取って明るさを作り周囲の余白と呼応させている。堂々とした筆致に重厚な味わいと風格を感じさせる作である。

 

山根 寛齋 (Yamane, Kansai)  1933-2010

八繋象嵌八角箱の作品画像
《八繋象嵌八角箱》1992(平成4)年
23.3×23.3×12.0 cm 黄肌,神代欅,棗,象嵌

福山市加茂町粟根に生まれる。同郷の作家、井伏鱒二の助言を受けて指物の道へ進み、22歳のときに、「寛齋」の号を鱒二から授かる。倉敷の修竹軒玉堂、大野昭和齋に入門して技術を磨き、特に、桑や欅の杢目を活かした作品を得意とした。日本伝統工芸展を中心に作品を発表し、2003年、広島県指定無形文化財保持者に認定された。

本作は、キハダ材で作られた八角形の箱である。箱の構造は被蓋造で、蓋表から蓋側面にかけて、様々な木材の細片を象嵌することで、「八」の字を繋いだような文様を表している。木画と呼ばれるこの技法は、寛齋50歳代後半の作品に多く見られるが、それぞれの木が持つ色合いを巧みに取り合わせた本作は、この作家の円熟期を象徴する一点といえよう。1992年の第39回日本伝統工芸展出品作。

 

姫谷焼色絵日輪竹文皿

姫谷焼色絵日輪竹文皿の作品画像
《姫谷焼色絵日輪竹文皿》江戸時代(17世紀後半)
口径17.5 高さ3.3 cm 磁器

姫谷焼とは、17世紀後半に、現在の福山市加茂町百谷に存在した窯で製作された、やきものの総称である。窯跡からは、青磁、白磁、染付などの磁器のほか、陶器も出土するが、特に、肥前窯からの影響を受けて、色絵磁器が多く作られたと考えられている。本作は、太陽を背景とした竹や筍を、染付と、赤、緑、黄の上絵付によって描いた丸皿である。余白を広くとって、器の中心にモチーフをまとめた素朴な意匠が、姫谷焼の特色をよく示している。

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