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コレクションIV:イタリアを中心とするヨーロッパの近・現代美術

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年10月13日更新

ジュゼッペ・パリッツィ (Giuseppe Pallizi)  1812-1888

羊飼いと羊の群れの風景の画像
《羊飼いと羊の群れの風景》1870年頃
Pastorello con Gregge Nel Paesaggio
49.0×72.0cm 油彩,カンヴァス

イタリア中部に位置し、アドリア海に面したアブルッツォ州のランチャーノに生まれる。1836年、ナポリ王立美術学校に入学して伝統的な絵画技法を学び、アカデミズムの画家として成功を収めた。一方で、1844年からパリに制作の拠点を移した後は、バルビゾン派の影響を受けつつ、風景画と動物画を一つのカンヴァスに統合するという新たな画風を生み出してフランス市場において高い人気を集めた。

本作には、森や草原を生命感あふれる詩的な風景として表現することを得意とした、作家独自の作風がよく見て取れる。左手の羊、あるいはヤギの群れは光との戯れを見せながら大地と空を結びつけており、画面奥へと鑑賞者の目を導く羊飼いの少年の配置など、細かい構図的配慮が全体の調和を崩すことなく、生き生きとした情景を作り出すことに成功している。 

 

フィリッポ・パリッツィ (Filippo Palizzi)  1818-1899

ザンポーニャ奏者
《ザンポーニャ奏者》1862年
Zampognaro
70.0×60.0cm 油彩,カンヴァス

イタリア南部のヴァストに生まれる。画家のジュゼッペ・パリッツィの弟。1837年、ナポリ王立美術学校に入学するが、教育方針に馴染めず退学。その後は私設の美術学校で絵画を学び、王室主催の展覧会では出品作の多くが高い評価を獲得した。19世紀ナポリを代表する画家のひとりとして幅広い主題の絵画を描いたが、特に当時の絵画ジャンルの中では「低位」とされていた動物画や風景画を積極的に描いた。

本作では、明るい屋外の自然光の下に人物を配置しつつ、陰影が暗い色の絵具によって人物と背景に明確に施されている。兄ジュゼッペの影響でターナーやコローの透き通るような光や明るい色彩の表現に魅了されつつ、光と影の効果を劇的に用いるイタリアの伝統的な手法も取り入れた折衷的な作品といえる。バグパイプの一種であるザンポーニャは、イタリアで広く親しまれた楽器であり、奏者の服装を含め、当時の風俗を写す資料としても興味深い。

 

ギュスターヴ・クールベ (Gustave Courbet)  1819-1877

波の画像
《波》1869年
La vague
34.5×51.8 cm 油彩,カンヴァス

フランス東部、スイスに近い小都市、オルナンに生まれる。1840年にパリに出て、古今の絵画を研究。当時主流であった新古典主義やロマン主義絵画における想像による理想化に反して、同時代の「あるがまま」の姿を包み隠さず描き、物議を醸した。1855年には、自身の作品が出品を拒否されたことに対抗して、万国博覧会会場の前で「レアリスム」の名を付した個展を開催した。1871年、パリ・コミューンに参加。崩壊後、ヴァンドーム広場円柱破壊の責を問われ、入牢、その後スイスに亡命した。フランスに戻ることなく、58歳で没。

山に囲まれた地で育ったクールベにとって海は身近なものではなかったが、パトロンのブリュイヤスに南仏に招かれて以来、どこまでも果てしなく続く海の姿に魅了され、繰り返し描くことになる。特に1860年代は、ノルマンディを頻繁に訪れ、100点近くの海の風景画を描いた。本作は、1869年にノルマンディの漁村エトルタを訪れた際に描かれたものである。曇り空の荒れた海の上には、2艘の帆船が描かれている。現実の波を迫真的に表現している絵画であると同時に、ロマン主義の畏怖を伴う海景画も想起させる。

 

エドワード・マイブリッジ (Eadweard Muybridge)  1830-1904

動物の運動♯610
《動物の運動 #610》1887年頃
No.610 Animal Locomotion
17.8×42.3 cm コロタイプ

イギリス、キングストン・アポン・テムズに生まれる。1852年頃、アメリカに渡り、出版社や本屋を経て写真をはじめ、ヨセミテ渓谷などの風景写真のシリーズで成功を収めた。1872年頃、元カルフォルニア州知事スタンフォードの要請により、走っている馬の足が4本同時に地面から離れるかどうかを調べるため、連続撮影に取り組み、これを証明した。マイブリッジはさらに探求を進め、1878年頃には12台のカメラに、開発した電動シャッターを取り付け、馬の走行路に等間隔に配置することで1/1000秒程の高速連続撮影に成功した。その後も、ペンシルヴァニア大学などの協力を受け、動いている動物や人間をおよそ10万点のコマ写真を撮り、そのうち瞬間的な動きを記録した2万点を、写真集『動物の運動』(1887年)にまとめ、大きな反響を得た。彼の作品は映画の発明や未来派の絵画に大きな影響を与えた。

 

ウジェーヌ・カリエール (Eugène Carrière)  1849-1906

腕組みの座る女の画像
《腕組みの座る女》
Femme
46.0×38.0 cm 油彩,カンヴァス

パリ近郊のグルネ=シュール=マルヌに生まれるが、少年時代をストラスブールで過ごす。リトグラフの工房で修業した後、パリ国立美術学校のカバネルの教室で学ぶ。初期の作品は、ルーベンスやベラスケスの影響を受けた流麗かつ重厚なものであったが、1877年から翌年までのロンドン滞在中にターナーの作品に出会い、大気と光の表現に強い関心を持つようになった。やがて中流家庭の生活の親しみやすい光景を、モノクロームに近い色調で、朦朧とした輪郭で描き、人気を博した。1890年には、親しく交流していたロダンとともに国民美術協会を設立。1898年からは、画塾を開き、マティスやドランらを指導した。

本作は、セピア色の背景にぼんやりと対象が浮かび上がるというカリエール独自の神秘的なスタイルで描かれている。画面には、モノクロームの腕を組む女性を確認することができるが、ほとんど輪郭のない顔には、目や鼻のわずかな影が認識できるのみである。カリエールは、1879年に娘と妻の姿を描いて以来、母と7人の子どもの姿を多数描いている。90年代に入ると対象の輪郭が次第に曖昧になり、普遍的な母性を感じさせるようになる。本作に子どもの姿は確認できないが、抽象的な女性の姿には、画家が繰り返し描いた母性を想起させる。

 

ジョヴァンニ・セガンティーニ (Giovanni Segantini)  1858-1899

婦人像
《婦人像》1883-1884年頃
Ritratto di Signora
120.0×87.0 cm 油彩,カンヴァス

北イタリアのチロル山中のアルコ・ディ・トレントに生まれる。ミラノのブレラ美術学校に一時学んだほかは、おおむね独学で絵を学んだ。1886年からアルプス山地に住み着き、農民の生活を風光とともに描いた。晩年、新印象主義の分割画法に近い、独自の点描画法を案出し、後の未来派などにも影響を与えた。

この作品はセガンティーニがアルプスに移る以前の初期の肖像画で、画中に年記はないが、左下にGとSを組み合わせた署名があり、同種のものは1880年代前半の作品にしばしば見出せるものである。この頃セガンティーニは、1883年のアムステルダム万国博覧会で金賞を受賞し、画商グルビシーの後援を受けるなど、成功をおさめはじめていた。褐色の薄暗い背景から浮かび上がるようにこちらを見つめている威厳に満ちた黒衣の婦人が描かれている。鈍く光る貴金属の宝飾品、繊細なレースのハンカチ、右の手から垂らされた眼鏡などは、彼女が教養ある裕福な女性であることを暗示する持物であるが、同時に若きセガンティーニの確かな描写力を物語っている。本作は以前、ロンバルディアに出自を持つスイス、ティチーノ州の一族に伝えられていたとされる。

 

ジャコモ・バッラ (Giacomo Balla)  1871-1958

輪を持つ女の子
《輪を持つ女の子》1915年
Bambina col Cerchio
51.0×60.5 cm 油彩,カンヴァス
 

イタリアのトリノ生まれ。バッラは、ボッチォーニらとともに、1910年代から詩人マリネッティの指揮のもと、運動や速度といったダイナミックな表現によって、芸術表現上の革新をもたらそうとした「未来派」のひとりであった。バッラが重なりあう何本もの足や尾で、犬の動きを表現した《首輪につながれた仔犬》(1912年)は、「未来派絵画技術宣言」の原理を体現した作品として最も知られるもののひとつである。

本作でバッラが主題としている輪遊びは、デ・キリコの《通りの神秘と憂鬱》(1914年)に印象的なシルエットで登場する少女とも重なるような、当時のポピュラーな遊びである。画家は少女の顔や体を抽象化し、その動きを強調して描いている。顔の部分の巴形の渦巻と、背後の大きな波動のようなそれとの連動する2つの渦巻は、鋭角三角形で描かれた少女の運動が大気を巻き込んで大運動へと展開している様子を表出する。それはバッラの提唱する「造形複合体」の試みのひとつであった。旧大光コレクション。

 

アルベール・マルケ (Albert Marquet)  1875-1947

停泊船、曇り空の画像
《停泊船、曇り空》1922年
La rade, ciel nuageux
38.4×46.0 cm 油彩,カンヴァス

フランス南西部の港町、ボルドーに生まれる。パリの装飾美術学校でマティスと出会い、親密な友人となる。1905年のサロン・ドートンヌにマティスらとともに参加し、原色に近い荒いタッチの作風が「フォーヴ(野獣)」と称された。しかし、強い色調のいわゆるフォーヴ様式を用いたのはわずかな期間のみであり、やがて部屋の窓から俯瞰した海景やパリの風景を、灰色を基調とした調和と均衡のとれた構図で描いた。

本作は、アルジェリアの首都であるアルジェの港を描いたものである。マルケは、1920年に初めて訪れて以来、毎年のようにこの北アフリカの地に滞在し、第2次大戦時には5年間をこの地で過ごしている。妻となるマルセル・マルティネは、初めての訪問の際のガイドであった。港に船が停泊する姿は、画家の幼少期の思い出、ボルドーの港とも重なるものであったと考えられる。曇り空の柔らかい色調の下、遠景の突き出た岸、埠頭、中景の停泊する船などが幾何学的に配置され、画家独自の調和した構図を創り上げている。

 

ウンベルト・ボッチォーニ (Umberto Boccioni)  1882-1916

カフェの男の習作
《カフェの男の習作》1914年
Studio per Uomo al Caffè
58.0×46.0 cm 油彩,カンヴァス

イタリア南部、レッジョ・カラブリアに生まれる。1900年、ローマに出てバッラから色彩分割の基礎を学んだ。その後1902年、パリやロシアなどを訪ねた後、ミラノに移って詩人マリネッティと知り合う。1910年、バッラやカッラとともに「未来派画家宣言」に署名した。こうして未来派運動に加わったボッチォーニであったが、この頃まではイタリアの分割主義者ガエターノ・プレヴィアーテの影響を受け、象徴主義的な作品を描いていた。しかし、1911年にボッチォーニはパリを訪れてキュビスムの研究をはじめ、その手法によって運動や同時性とダイナミズムを総合するようなスタイルを確立しようとした。

この作品では日常の風景が大胆に解体され再構成されていく過程で画面に運動性もたらされ、カフェに座る男は、腕やテーブル、手に広げた新聞などをのぞきほとんど具体的な姿をとどめていない。画面に張りつけられた新聞(パピエ・コレ)には、制作年である「1914」という数字もみえる。ボッチォーニはこの2年後、落馬によって34歳の早すぎる死を遂げた。旧大光コレクション。

 

マルク・シャガール (Marc Chagall)  1887-1985

青い花瓶の画像
《青い花瓶》1978年
Le vase bleu
60.0×73.0 cm 油彩, テンペラ, カンヴァス
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019, Chagall® G1937

ロシア(現・ベラルーシ)のヴィテヴスクのユダヤ人街に生まれる。1911年、パリに移り、現実や夢、追憶が交錯する独創的な世界を色彩豊かに描き、人気を博した。第二次大戦中にアメリカに亡命するが、1947年にフランスに帰国、南仏で後半生を過ごした。絵画のみならず、陶器、彫刻、舞台装飾、版画、ステンド・グラスなど様々な分野の芸術を手がけた。

この作品は、シャガールが91歳の時の作品である。画家が幼年時代を過ごした村で見かけた家畜、青年時代の画家自身と最愛の妻ベラを想起させる花束を持った恋人たち、晩年を過ごしたニース近郊の町サン=ポール・ド・ヴァンスなどシャガールの人生の重要なモチーフが時を超越して画面に散りばめられており、それらを花瓶に生けられた豪華な花束が飾っている。画面は、画家が「幸福の色」と称した青で覆われている。

 

ジョルジョ・デ・キリコ (Georgio de Chirico)  1888-1978

広場での二人の哲学者の遭遇
《広場での二人の哲学者の遭遇》1972年
Rencontre de deux philosophes dans un square
80.0×60.0 cm 油彩,カンヴァス
©SIAE, Roma & JASPAR, Tokyo, 2019 G1937

ギリシャ生まれのイタリア人として育つ。ミュンヘンの王立美術学校で学ぶ。ベックリンやクリンガーの絵画と、ニーチェの哲学に影響を受け、神秘と不安のイメージを絵画に表現するようになる。1911年、パリに移住、形而上絵画をはじめる。無人の広場や街角など建築的な空間と、顔のないマネキンやオブジェからなる謎に満ちたデ・キリコの芸術は、アポリネールらの賞賛を得た。1915-18年、イタリアに召集され、フェッラーラの軍病院でカッラを知り、ともに形而上絵画派を提唱した。1920年頃からは神話主題や古典的作風に移行するが、晩年となる1960年代から70年代には、かつての自分の主題を再制作する新形而上絵画の時代をむかえた。

本作は、1917年フェッラーラ滞在中に描いた素描《数学者たち》がもとになっており、素描の画面奥には建物があったが、完成作では蒸気機関車と大きな煙突、山々のある風景が描きこまれている。これらはデ・キリコの芸術上にしばしば登場するモチーフで、鉄道会社に勤めていた父や、少年時代の思い出などが投影されていると考えられる。

 

ジョルジョ・モランディ (Giorgio Morandi)  1890-1964

静物の画像
《静物》1929年
Natura Morta
23.8×29.4 cm エッチング,紙

イタリアのボローニャに生まれたモランディは、同地の美術アカデミアで学んだ。一時、デ・キリコやカッラらの提唱する形而上絵画派の運動に加わるが、そこから離れ、ビンなどのありふれた日常品を繰り返し描いた。物たちが圧倒的な存在感を放ち、深みをますモランディ絵画の本質をよく理解するデ・キリコは、彼の絵を「日常の事物の形而上学」と評した。ボローニャで教鞭をとり、同地をほとんど離れなかったモランディだが、エッチングを中心とした版画制作は20代の頃から始まり、活動に波はあったものの生涯にわたって続けられた。モチーフは油彩画の場合と同じく、静物、花、風景などであり、彼の芸術表現上の関心が一貫したものであったことを窺わせる。これらは、ほとんどフォンダッツァ通りのモランディの画室に備えられていたもので、モランディは注意深く配置換えしながらモチーフとしたのであった。机の中央に配置されたカップ、ビン、ジョッキ、花瓶などが存在感を醸し出す一方、ハッチングの陰影は、定規などを使わずフリーハンドでひかれており、画面全体にどこか素朴で温かみのある雰囲気を作り出している。

 

ルチオ・フォンタナ (Lucio Fontana)  1899-1968

空間概念-銀のヴェネツィア
《空間概念-銀のヴェネツィア》1961年
Concetto Spaziale, Venezia d'Argento
60.0×50.0 cm 油彩,ガラス,カンヴァス
Concetto Spaziale, Venezia d' Argento, 1961 © Lucio Fontana by SIAE 2019 G1937

イタリア人の両親のもと、アルゼンチンのロザリオ・デ・サンタ・フェに生まれる。ミラノのブレラ美術学校に学び、抽象画を描き、パリのアプストラクシオン・クレアシオン(「抽象・創造」)に参加。第二次大戦中はアルゼンチンに渡り、1946年革新的な「白の宣言」を起草。翌年ミラノに帰国すると、一連の「空間主義宣言」を発表し、空間主義の運動を広める。カンヴァスに穴を開けたり切り裂いたりする「空間概念」シリーズを展開して、新しい絵画空間の創造をめざし、戦後のイタリア芸術界に大きな影響を与えた。

1961年、フォンタナはヴェネツィアのパラッツォ・グラッシでの「芸術と瞑想」展に招待され、そのためのシリーズを制作した。それは銀色や金色、黄色、茶色の絵具を豊かに使い、穴を開け、色の着いたガラス片を貼り付けた作品であった。これらヴェネツィア・シリーズのひとつに属する本作は、厚塗りの銀色が月夜の干潟の水面の照り返す光を表わしているようにも見える。

 

メダルド・ロッソ (Medardo Rosso)  1858-1926

門番の女性の画像
《門番の女性》1883年
La Portinaia
37.0×30.0×17.0 cm ワックス,石膏

トリノに生まれる。1882年、ミラノのブレラ美術学校に入学。翌年、アカデミー特有の伝統的な授業に抗議して退学処分となった。1880年代前半までは自然主義的作風で制作を行っていたが、次第に作品に深い精神性を持ち込むようになる。1884年にパリでロダンや印象派の画家らと交友して以降、印象主義が独自の造形理論の支柱となり、石膏と蝋を用いて光の効果を最大限に活かす作品を生み出した。

本作には、石膏にワックス(蝋)をかけるというという素材上の試みを通して、フォルムの流動性を強調し、伝統的な彫刻にある堅牢さを壊そうという意図がある。重ねられたワックスの効果によって、光と影が際立つ一方、フォルムは曖昧になり、光、空間、空気が対象と溶け合うように一体化しているような感覚を与える。

 

アルナルド・ポモドーロ (Arnaldo Pomodoro)  1926-

球体の画像
《球体》1982年
Sphere
120.0×120.0×120.0 cm ブロンズ

イタリアのモルチャーノ・ディ・ロマーニャに生まれる。舞台装飾・貴金属工芸などの仕事に携わった後、1958年、弟のジオらと工房「3P」を創り、同年ローディのデザイン展で一等賞を受賞した。1959年、政府の奨学金を得て渡米。独学で彫刻の制作を始めていたポモドーロは、アメリカ留学中に目にしたブランクーシの彫刻に衝撃を受け、本格的に彫刻家に転じる。「球体」はその直後の1963年に開始されたポモドーロの代表的シリーズであり、周囲を写しこむ表面や、機械のような緻密な内部の構造には、かつて彫金で培った技術が生かされている。

本作では、地球を思わせる滑らかな球に、突如亀裂が入り、メカニックな部品のような内部を表出させている。ポモドーロは、表面を「合理性」や「理性」、亀裂を「根源性」や「深層意識」、「物質にひそむ力」などを暗示するものとして対比的に捉え、「今日このふたつが『共存』するところにこそ、価値があるのだと思います」と述べている。球体には数多くのヴァリエーションがあり、ローマの外務省ビル前など、世界各地に設置されている。

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