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コレクションII:瀬戸内圏関連

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年10月13日更新

満谷 国四郎 (Mitsutani, Kunishiro)  1874-1936

和装の女の画像
《和装の女》 1912-26年頃(大正時代頃)
96.7×31.5 cm 油彩,カンヴァス

岡山県総社市に生まれる。1891年、上京して五姓田芳柳に入門し、翌年、小山正太郎の不同舎に転じる。明治美術会で活躍したが、同会解散後は太平洋画会を創立。1900年、渡仏して、ジャン=ポール・ローランスに師事。1907年、東京府勧業博覧会で一等賞を受賞。1911年から14年まで再度渡仏し、帰国後はアカデミックなものから一変して、単純化されたフォルムと明快な色彩による装飾的な画風になる。1925年、帝国美術院会員。

この作品は、画風から2度目の滞欧後、大正期頃に描かれたものと考えられる。大正浪漫独特の甘く耽美的な雰囲気が演出され、満谷の画風の変遷をたどるうえで興味深い作品である。

 

鹿子木 孟郎 (Kanokogi, Takeshiro)  1874-1941

フランス風景の作品画像
《フランス風景》1917(大正6)年頃
39.9×45.5 cm 油彩,カンヴァス

岡山市に生まれる。1888年から松原三五郎の天彩画塾で学ぶ。1892年、小山正太郎の不同舎に学ぶ。1900年、満谷国四郎らと渡米、後にフランスへ渡り、歴史画家ジャン=ポール・ローランスに師事、古典主義的な技法を学んだ。1904年、帰国して太平洋画会会員となるとともに、京都に画塾を開く。翌年、浅井忠らと関西美術院を設立。1906年、1915年とその後2度にわたって渡仏し、3度目の渡欧では風景画家エミール=ルネ・メナールにも出会い影響を受けた。

この作品は、滞欧中に描かれた43歳頃のもの。街はずれの寂しげな道端で、脚を投げ出して座りこんでいる人物や傾きかけた電柱など寂しげな空気を感じさせる。

 

寺松 国太郎 (Teramatsu, Kunitaro)  1876-1936

青苔斜陽の画像
《青苔斜陽》1933(昭和8)年
88.5×63.7 cm 油彩,カンヴァス

岡山県倉敷市に生れる。田中九衛に洋画の手ほどきを受け、1900年、上京して小山正太郎の不同舎に入った。一時、岡山で図画教師を務めるが、1906年に浅井忠を慕って上洛し、開設されたばかりの関西美術院に入学。浅井忠が院長を務める同院で学んだ寺松は、浅井がフォンタネージから学んだ自然の観察力に加え、印象派的な色彩感覚も継承した。1908年、《眠れる女》が第2回文展に初入選、以後入選を重ね、関西洋画壇の重鎮となる。坦斎と号して日本画も数多く手がけた。

この作品は、57歳の作で、緑陰に後ろ向きに立つ裸婦を配して、印象深い画面をつくっている。青々とした緑の中に、木漏れ日を浴びて様々な光の変容をみせる肌が細やかな色遣いで浮かびあがっている。

 

赤松 麟作 (Akamatsu, Rinsaku)  1878-1953

裸婦
《裸婦》
80.3×60.6 cm 油彩,カンヴァス

岡山県津山市に生まれる。1883年、大阪に移る。1897年、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、在学中から黒田が主宰する白馬会に出品。1901年、第6回白馬会展で《夜汽車》が白馬会賞を受賞。文展には第2回展から参加し、ほぼ毎年出品を重ねる。1918年には、光風会会員(1936年)となる。1907年、大阪梅田に赤松洋画塾を開設し、その門下に佐伯祐三を輩出するなど美術教育にも尽力する。その功績により、1948年、大阪府文芸賞受賞。

この作品では、白馬会で学んだ外光派の光の表現を印象派風のつややかな色彩として消化し、独自の画境が見られる。

 

児島 虎次郎 (Kojima, Torajiro)  1881-1929

ベルギー、ガン市郊外の画像
《ベルギー、ガン市郊外》1909-12(明治42-45)年頃
64.5×80.5 cm 油彩,カンヴァス

岡山県高梁市に生まれる。1902年、東京美術学校に入学するとともに、大原家の奨学生となる。1908年、大原孫三郎の出資によりヨーロッパに留学。当初パリで学び、翌年、ベルギーへ移り、ゲント美術アカデミーに入学する。1911年、パリのサロンに初入選。1912年に帰国するが、毎年サロンに出品を続け、1920年にはサロン・デ・ソシエテ・ナショナルの会員に推されている。ベルギーで学んだリュミニストの手法と日本の風土の融和を目指し、明るいタッチで人物や風景を描いた。大原の命により、1919年、1929年に再度渡欧し、後の大原美術館のコレクションの核となる100点以上の西洋美術を蒐集した。

本作は、留学先であるゲント(ガンはフランス語発音)で描かれたものである。建物や樹々などの縦の線が繰り返し強調されることにより、蛇行する川の奥行きを感じることができる。煙突など建物には棒状の筆触が用いられ、川面には歪曲する筆致により水の反射を表現するなど、フランス印象主義をベルギー独自に発展させたリュミニストであるエミール・クラウスの影響が見られる。

 

南 薫造 (Minami, Kunzo)  1883-1950

夏
《夏》1919(大正8)年
116.7×91.0 cm 油彩,カンヴァス

広島県呉市に生まれる。1907年、東京美術学校卒業後、イギリスに留学しボロー・ジョンソンに師事。ラファエル前派、ターナー、ホイッスラーの影響を受ける。その間、パリにも渡り、印象主義にも接する。また白瀧幾之助や富本憲吉らと交遊する。1910年に帰国後、雑誌『白樺』の主催で有島生馬と二人展を開催し、新時代のホープとして注目された。同年、文展初出品作《坐せる女》が3等賞、翌年には《瓦焼き》が2等賞受賞。その後も光風会展、日本水彩画会展にそれぞれ作品を出品するとともに、文展にて連続で賞を受賞し、画壇での地位を確かなものにした。1929年に帝国美術院会員、1932年に東京美術学校教授、1944年には帝室技芸員に就任する。生涯を通して、温かみのある、どこか懐かしみのある作品を描き、人気を博した。1943年からは故郷の呉市安浦町に疎開し、その後亡くなる1950年までこの地で過ごした。

本作は、1919年の第1回帝展出品作であり、画家の代表作のひとつである。晩夏の頃の自然の力強い生命力が写し出されている。中央に大きく描かれた老木は、嵐か雷雨によるものか、所々折れた個所があるが、こんもりと緑を茂らせ、枝を四方に伸ばし、堂々とそびえ立っている。装飾的な雲の表現は、1916年のインド旅行以来表れ始めたものである。アーチ型のカンヴァスは、南が留学時に感銘を受けたジョットやシャヴァンヌの壁画の影響と考えられる。

 

小林 和作 (Kobayashi, Wasaku)  1888-1974

秋山の画像
《秋山》 
80.3×100.0 cm 油彩,カンヴァス

山口市秋穂東に生まれる。1908年、京都市立美術工芸学校を卒業。1913年、京都市立絵画専門学校別科卒業後、第7回文展で《志摩の波切り村》を出品して褒状を受ける。1920年、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎に師事。1922年、京都より東京へ転居。梅原龍三郎、中川一政、林武らの知遇を得る。1924年、春陽会に初入選。1925年から2年連続で春陽会賞を受賞し、1927年に同会の会員となる。1928年、渡欧し、翌年に帰国する。1934年、春陽会を退会して、独立美術協会会員となる。同年、尾道に転居し、永住。以後、風景画の題材を求めて日本全国を旅する。

この作品は、岐阜県の新穂高温泉付近の秋景を描いた作品である。画面の中央に描かれた蒲田川の青々とした渓流とわずかに残る緑の木立は、赤や黄色と色付く樹木に対して、秋冷な印象を与えている。

 

小野 竹喬 (Ono, Chikkyo)  1899-1979

柳蔭の画像
《柳蔭》1918(大正7)年
118.0×39.5cm 絹本着色

岡山県笠岡市に生まれる。本名英吉。はじめ竹橋と号した。1903年、日本画を学ぶため京都に上り、竹内栖鳳の門に入る。1910年、美術談話会・黒猫会(ル・シャ・ノワール)の結成に参加。1911年、京都市立絵画専門学校卒業。1916年、第10回文展特選。1918年の国画創作協会の設立に加わる。暖色系の温順な色彩、シンプルで明快な構図の風景画を特徴とした。

本作は、水辺の大樹のもとに舟を寄せる舟人を描く。

 

森谷 南人子 (Moritani, Nanjinshi)  1889-1981

内海初夏の画像
《内海初夏(高島)》1944(昭和19)年
99.3×134.4 cm 紙本着色

岡山県笠岡市に生まれる。本名利喜雄。1905年、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。1909年、京都市立絵画専門学校に入学。1915年に同校の研究科を卒業。同人誌『光芒(コロナ)』主催の展覧会に村上華岳、野長瀬晩花らとともに出品。1916年頃、笠岡市に転居。1918年、国画創作協会第1回展に出品。1920年より尾道市に定住。1928年の国展日本画部解散後は、新樹社創立に参加するが、1930年の解散後は、帝展、新文展に作品を発表。戦後は中央画壇との交渉を断ち、尾道で瀬戸内の田園風景を題材として描いた。

この作品は、南人子が55歳の時に描いた作品である。この年、高島が国の名勝に指定された年でもあった。展望台のある神卜山から俯瞰して、笠岡諸島の美しい景観を淡い色調で表現している。

 

須田 国太郎 (Suda, Kunitaro)  1891-1961

冬の漁村
《冬の漁村》1937(昭和12)年
48.5×59.7 cm 油彩,カンヴァス

東京に生まれる。1910年、独学で油彩画を始め、1913年、京都帝国大学(現・京都大学)文学部に入学し、美学美術史を専攻。1916年、同大学の大学院に進む。1917年、関西美術院へ入る。1919年から4年間渡欧。主としてヴェネツィア派とスペイン絵画を研究した。1934年、独立美術協会会員となる。1947年、日本芸術院会員。1959年には、第10回毎日美術賞特別賞を受賞。1950年からは京都市立芸術大学教授となり学長代理(1956-57年)もつとめる。同大学名誉教授の称号を受けるなど、教育界においても大きな足跡を残した。

この作品は、兵庫県の北端、丹後半島を旅した時に描かれた、須田46歳の作である。日本海から寒風が吹き抜ける厳しい自然環境の下で、漁村の人々のささやかな生活感が表現されている。

 

池田 遙邨 (Ikeda, Yoson)  1895-1988

林丘寺の画像
《林丘寺》1926(大正15・昭和元)年
146.0×142.0 cm 絹本着色 2曲1隻

岡山県倉敷市に生まれる。1912年、大阪の天彩画塾で洋画を学ぶ。1914年、第8回文展に水彩画《みなとの曇り日》で初入選を果たすが、小野竹喬の勧めで日本画の道を歩み始める。1928年、第2回帝展で《雪の大阪》が特選。1984年に文化功労賞、1987年には文化勲章を受章している。

この作品は、第1回聖徳太子奉讃美術展に入選した、遙邨30歳の時の作品で、京都修学院村にある寺院を描いたものである。同作は、1931年に開催されたアメリカ、オハイオ州の「トレド-日本画展」にもQuiet Lifeの題で出品された。

 

片山 牧羊 (Katayama, Bokuyo)  1900-1937

漁村春懶の画像
《漁村春懶》 1929(昭和4)年
242.5×173.2 cm 絹本着色

広島県尾道市に生まれる。本名健三。1915年大阪に転居して、南画の手ほどきを受け、1917年京都に移って、庄田鶴友に師事した。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に《おぼろ》を出品、初入選で特選となり注目される。翌年には無鑑査で《森》を出品した。1931年《かげろう》を出品した直後に病に倒れ、再び帝展に姿をみせることはなかった。

この作品は、1929年、第10回帝展に入選した牧羊29歳の時の作品である。桃や菜の花の咲く千葉県南端の漁村を叙情的に描いたものである。嬰児をあやす女性や子どもなどの表情に長閑さが感じられる。

 

吉原 英雄 (Yoshihara, Hideo)  1931-2001

シーソーⅠ
《シーソー I》1968(昭和43)年
99.7×98.5 cm エッチング,カラーリトグラフ,紙

広島県尾道市に生まれる。1950-53年、大阪市立美術研究所に学ぶ。1952年から吉原治良に師事し、1954年、具体美術協会の会員となるが、翌年には退会し、同年にデモクラート美術家協会会員となる。1970年、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。1978年、京都市立芸術大学教授に就任。退官後は、同校の名誉教授となる。1992年、京都府文化功労賞を受賞。1994年、紫綬褒章を受章。2005年、ふくやま美術館で「吉原英雄 ポップなアート」を開催する。

この作品は、1968年、吉原が37歳の時、第6回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞を受賞した代表作である。アメリカのモード雑誌の広告写真を引用し、反復して使用するなど、ポップ・アートの手法がみられる。

 

平櫛 田中 (Hirakushi, Denchu)  1872-1979

寿星の画像
《寿星》1962(昭和37)年
47.0×41.0×28.0 cm  木,彩色

岡山県井原市に生まれる。1882年、福山市今津町の平櫛家養子となる。1893年、彫刻家中谷省古に弟子入り、後に高村光雲に師事。1935年、帝国芸術院会員となる。1944年、東京美術学校教授となる。1954年、文化功労者。1958年、第43回院展に20年をかけた超大作《鏡獅子》を出品。1962年、文化勲章を受章。1966年には福山市名誉市民となる。

この作品は、田中が90歳頃に制作したものである。寿星とは、七福神の一人、寿老人のことである。江戸時代、七福神は、福徳長寿の象徴として民間において広く信仰された。本作では、端整な面立ちの白髪の寿老人が杖を携え、白鹿を伴っている。その表情には、落ち着きと風格が感じられ、田中の卓越した技量がみられる。

 

金重 陶陽 (Kaneshige, Toyo)  1896-1967

一重切花入の画像
《一重切花入》1964(昭和39)年
20.0×13.0×11.0 cm 備前焼

岡山県備前市に生まれる。幼少時代より父楳陽について人物、動物、花鳥などの細工物を習った。昭和初期より、窯の構造の研究を進め、土味と窯変を生かした古備前の復興に尽力し、桃山風備前の土味を出すことに成功。今日の備前焼再興の礎を拓いたことから「備前焼中興の祖」と称される。1942年、川喜田半泥子の勧めで、荒川豊蔵、十代三輪休雪(後の休和)と「からひね会」を結成。1952年、北大路魯山人に頼まれ、北鎌倉山崎に備前窯をつくるなど備前焼を世に知らしめる役割を果たした。1952年、備前焼無形文化財記録保持者に認定される。

この作品は陶陽の晩年、68歳頃のものである。竹花入の素朴で自然な美しさが備前特有の侘びた土味と巧みな箆さばき、焦げ肌で表現されている。茶室で花をひきたてる脇役に徹しながらも備前焼ならではの渋く重厚な存在感を漂わせている。

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