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鞆の浦について
鞆の浦の見どころについて
鞆の浦は、万葉の時代から海上交通の要衝として、瀬戸内で最も栄えた港町の一つです。この大きな要因は、瀬戸内海の中央部に位置し、往時、潮流の変化を待って航海をしなければならない「潮待ち」に最も適していたからです。
平安時代後期のころから、東アジアとの貿易や貨幣経済の進展によって日本各地で港町が発達し、鞆の浦でも祇園社(現:沼名前神社)の門前から関町にかけては京にも劣らない商業都市として栄えました。
毛利・福島時代には、城山に鞆城が築かれ、1576年(天正4年)には室町最後の将軍足利義昭が鞆にのがれ幕府再興を図りました(鞆幕府)。
1609年(慶長14年)に一国一城令に先駆けて、鞆城が廃城となった後、鞆の浦は港を中心とする商業、鍛冶業、保命酒等の酒造業、漁業を生業とする人々で賑わう町になりました。また、朝鮮通信使来日の際は、鞆の福禅寺の客殿・對潮楼に宿泊し、寺からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しています。
近代になると山陽本線の開通と自動車交通の発展で、1000年に及ぶ港町の繁栄も過去のものとなり、現在では古い町並みや港湾施設が残る情緒溢れる町として再評価されています。
常夜燈(港湾施設5点)
鞆町には常夜燈や雁木、船番所跡、防波堤の大波止や船の整備を行った焚場の跡など、近世の港湾施設がほぼ当時のまま残されています。
西町の大雁木先端に建つ常夜燈は「とうろどう(燈籠塔)」と呼ばれ親しまれた燈台で、1859年(安政6年)に西町の人々によって寄進されました。基壇からの高さが10mを超える雄大な塔で、現存する江戸期の常夜燈のなかでは日本最大級の高さです。航路安全の願いをこめて、竿柱の南面には「金毘羅大権現」、北面には「当所祇園宮」の石額が掲げられています。
港には、「雁木」と呼ばれる潮の干満に関わらず積み荷の揚げ下ろしが可能な階段状の船着場が現存しています。これだけ大規模な雁木を見ることができるのは、今では鞆の港だけになっています。
船の出入りを監視する船番所は、江戸時代の初めに大可島の先端高台に建てられました。現在でも鞆奉行・荻野新右衛門重富によって造られた高い切込接の石垣をみることができます。
中世港町の面影を残した近世の港町がほぼ完全に残されている点に、わが国でも唯一無二の港湾都市文化遺産であると評価されています。
いろは丸展示館
いろは丸展示館は江戸時代に干拓された土地に建築された浜蔵で、付近には近世港湾施設の「雁木」「常夜燈」が存在し江戸時代にタイムスリップしたようです。
いろは丸展示館は木造二階建て、切妻造妻入、本瓦葺きで、十九世紀中期の建築と考えられ、当時は鞆港の雁木に向かって同形式土蔵が林立して壮観な町並みでした。海に面する妻入りの土蔵群は江戸の港町に多く見られた景観でしたが、現存例は極めて少なく貴重なものです。
展示館として多少の改造を加えられていますが、保存状態は良く、屋根下地は古式の竹野地を使い、外壁は白漆喰塗りの大壁造りで、腰壁は雨に強い板張りとしてます。
展示館には坂本龍馬が鞆沖で沈没した「いろは丸」の遺品や沈没状況を示すジオラマなどを展示しています。
現在の「いろは丸展示館」は1997年(平成9年)に国登録文化財となっています。
太田家住宅(国重文)・鞆七卿落遺跡(県史跡)
太田家住宅は、江戸時代中期から明治時代にかけて保命酒の醸造販売で栄えた、鞆の浦屈指の大商家の建造物群です。保命酒は、餅米を主原料に、焼酎、16種類の和漢薬味などを使って醸造した薬味酒で、江戸時代の鞆の特産品でした。
建物は主屋(18世紀中期)を中心に、炊事場・南保命酒蔵(18世紀前期)、北保命酒蔵(1788年)、西蔵(1789年)、東保命酒蔵(1795年)、釜屋・新蔵・北土蔵(19世紀前期)の9棟で構成されています。各建物の豪壮な立ち並びに加え、主屋の市松模様の土間や網代天井、蔵のサイコロの目を模した海鼠壁などの意匠は、大商家ならではの風格です。
現在は、保存修理により江戸時代末から明治時代初期の姿に復元され、鞆の歴史的町並みの中心をなしています。
鞆七卿落遺跡は、幕末期に尊王攘夷派の三条実美ら七卿が、太田家住宅及び太田家住宅朝宗亭に立ち寄ったことから、その名がついています。1863年(文久3年)8月23日と1864年(元治元年)7月18日~20日に立ち寄った記録が残っており、幕末の緊迫した様子を偲ぶことができます。
医王寺・太子殿
桃林山医王寺は真言宗の寺院で、826年(天長3年)に空海によって創建されたと伝えられており、『木造薬師如来立像』(県指定重要文化財)を本尊とする寺院です。さらに、木造阿弥陀如来坐像(市指定重要文化財)、木造地蔵菩薩坐像、木造十一面観音立像なども室町時代の優作であり、室町時代の隆盛を極めた寺院です。
現在の本堂は1685年(貞享2年)に福山藩主水野勝種の援助によって造立されたもので、仁王門や鐘楼も江戸時代の建造です。
医王寺裏の山腹には太子殿があります。元々は境内にありましたが、昭和の戦後に移築したといわれています。建築年代を示す資料は残っていませんが、様式上から1700年代前半のものと考えられています。ここからは鞆港や瀬戸内の島々の展望を楽しめます。
後山の中腹にある太子殿は、風光明媚な景勝の地にあることからオランダ商館医師のシーボルトも景観を絶賛しています。シーボルトはこの付近まで登って、植物・昆虫採集もしています。
圓福寺(えんぷくじ)
圓福寺は、室町時代には釈迦堂と呼ばれ、現在の沼名前神社の南側にありましたが、慶長年間末頃(1610年頃)に現在地に移り、圓福寺と号しました。この場所は、戦国時代以前は島であり、軍事上の要衝地として度々戦場となりました。南北朝時代には大可島城があり、北朝軍と南朝軍による鞆争奪戦が激しく行われています。
江戸時代には瀬戸の島々や四国が眺望できる景勝地として、朝鮮通信使上官の常宿となりました。また、漢詩会・歌会・句会も度々行われ、様々な文化交流の舞台となりました。なお、境内には芭蕉の句碑もあります。
本堂に掲げられている当寺の山号「南林山」の木製扁額は、1711年(正徳元年)に朝鮮通信使の写字官花庵が残した書をもとに制作したものです。また、頼山陽の教育者で、頼一族の中で一番の書家と評された頼杏平は、本堂背面の座敷を「夾明楼」と命名し、その書を残しました。現在、座敷にはその扁額が掲げられています。
座敷から鞆の浦の美しい景色を眺めながら、往時の文化交流の舞台を感じることができる貴重な場所です。
對潮楼(たいちょうろう)/福禅寺
福禅寺は平安時代の天暦年間(947年~957年)創建と伝わる古刹で、鞆の浦でも古い歴史をもつ寺院です。もとは観音堂と呼ばれ、1610年(慶長15年)に再建された後、現在の福禅寺と号するようになりました。
對潮楼は江戸時代の元禄年間(1688年~1703年)に客殿として建立され、海に面した石垣の上に佇み、瀬戸内海の美しい景色を眺望できることから、公的な迎賓館として使用されました。特に将軍の代替わり毎などに朝鮮国から派遣された朝鮮通信使は、鞆に寄港し、ほぼ全てが對潮楼を訪れ、国際交流の歴史舞台となりました。
1711年(正徳元年)、朝鮮通信使8名は對潮楼からの眺望を大絶賛し、従事官の李邦彦が「日東第一形勝」の書を残しています。1748年(延享5年)には、正使の洪啓禧が客殿を「對潮楼」と命名し、その子の洪景海がその書を残しています。
朝鮮通信使が残した書や漢詩は大変素晴らしく、多くの人に知ってもらいたいと願う菅茶山たちにより、江戸時代に木版刷りのできる版木にされました。これらの版木は、今も對潮楼に掲げられており、往時の国際交流の一端を窺い知ることができます。
桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ部屋)
1867年(慶応3年)4月23日、現在の岡山県六島付近で坂本龍馬ら海援隊が大洲藩から借用した「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突し、「いろは丸」の乗員は「明光丸」に乗り移り、大きく損傷した「いろは丸」を曳航(船をロープで引っ張ること)し、一路港湾施設の整った鞆港を目指しましたが途中で沈没してしまいました。この後、鞆の浦に上陸してから4日間、龍馬たち海援隊は廻船問屋「桝屋清右衛門宅」へ、紀州藩は「圓福寺」に宿泊し、双方の宿泊先の中間地点の旧町役宅「魚屋萬蔵宅」や「福禅寺・對潮楼」で談判を行いました。談判を重ね、最終的に龍馬たちは紀州藩から多額の賠償金を勝ち取ることができました。これは「いろは丸事件」と呼ばれています。当時すでに幕府から命を狙われていた坂本龍馬は、「才谷梅太郎」という名前をつかい桝屋清右衛門宅に投宿しました。
桝屋清右衛門宅には「いろは丸事件の際に坂本龍馬がここに泊った」という伝承がありましたが、長年その場所は確認されていませんでした。1989年、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから、地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、隠れ部屋が発見されました。部屋は当時のまま手つかずで残されていましたが、ほこりや傷みがひどく、天井裏へ通じる階段もありませんでしたが、現在は整備を行い一般公開しています。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、1977年(昭和52年)から始まった地元有志による調査・収集活動が原動力となり、福山市制70周年の記念事業として、鞆城跡の高台に建設されました。館内には、古代から近世にいたる歴史資料、お手火神事やお弓神事などに関する民俗資料などが常設展示され、「潮待ちの館」の愛称で親しまれています。また、特別展や企画展では、鞆の浦を中心にした瀬戸内の歴史・文化・民俗をテーマに,特色ある展覧会が開催され、人気を集めています。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館のある低丘陵を利用した鞆城跡に立つと、半円形の港や港湾施設をはじめ、自然の防波堤であった仙酔島・弁天島・玉津島・津軽島など名勝「鞆公園」に指定された島々を近くに見ることができます。
その風光明媚な景観は、国立公園第1号の「瀬戸内海国立公園」の一角でもあり、頼山陽は「山紫水明所」と表現しました。はるかに遠くを望むと、四国連山が雲をいただき、朝鮮通信使が「日東第一形勝」と絶賛した穏やかで雄大な自然景観が眼前に展開します。鞆の浦の魅力は、歴史遺産だけでなく、それと自然景観とが見事に融合した文化的景観にあります。
鞆の浦観光情報センター
「鞆の浦」バス停の正面にあるのが鞆の浦観光情報センターです。鞆の浦を観光する際の最近の観光情報が揃っています。
ここでは、お勧めの観光・飲食・宿泊場所やアニメの聖地を教えてくれるほか、英語・中国語・韓国語等の多言語MAPも揃えています。Free Wi-Fiスポットも整備されているので、手軽に最新情報をゲットできます。
ポストカードや保命酒など鞆の浦らしいお土産物も多く置いてあります。
また、鞆の浦をより知りたい方には、鞆の浦の歴史・文化やロケ地に関する情報などをわかりやすく教えてくれる「鞆の浦しお待ちガイド」がオススメです(要予約)。
沼名前神社
沼名前神社は、式内社として古くからその名が伝えられていましたが、江戸時代には社名として残っていませんでした。1875年(明治8年)、現在の沼名前神社境内に鎮座していた祇園社と渡守社を合併し、沼名前神社と号するようになりました。大綿津見命(海上安全)と須佐之男命(無病息災)を祭神としています。
古来より多くの人々の信仰を集めてきており、その証として貴重な文化財が数多く残っています。その中でも、最も注目を引くのが国重要文化財沼名前神社能舞台です。元は能好きの豊臣秀吉が京都伏見城に設置したと伝えられ、福山城築城の際に二代将軍徳川家忠から福山藩初代藩主水野勝成が譲り受けたものです。この能舞台は、簡単に分割して移動できる『移動式能舞台』で、戦場でも随時組み立てて使用できる大変珍しいものでした。福山藩主三代勝貞が、能舞台と秀吉遺愛と伝わる能面を当社へ寄進しました。その後、1738年(元文3年)に現在のような固定式となりましたが、現存する全国唯一の移動式能舞台です。
この他、当社に残る数多くの石造物や建造物、伝統行事のお弓・お手火神事などは、往時の鞆の賑わいを今に伝えています。
安国寺
備後安国寺は、1339年(暦応2年)足利尊氏の命によって全国に開かれた安国寺のうちの一つです。
元々は無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年(文永10年)に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が備後安国寺の前身です。鎌倉時代の優れた建物と仏像が、安国寺の長い歴史の重みを語っています。
室町時代に『安国寺』と改め、室町幕府の衰退とともに荒廃しましたが、毛利輝元、安国寺恵瓊によって再興されます。なお、釈迦堂後方に位置した本堂は1920年(大正9年)に残念ながら焼失しました。
国重要文化財の釈迦堂は、鎌倉時代の仏殿の姿を留めており、堂内には重要文化財の『木造阿弥陀如来及び両脇侍立像』などが安置されています。境内一帯は、備後安国寺として広島県史跡に指定されており、室町時代に作庭された枯山水が今も伝わっています。
中世の歴史・文化を伝える全国的にみても多彩な文化遺産を有する古刹です。
仙酔島・弁天島
【仙酔島】
鞆港の沖、市営渡船で約5分の所に浮かぶ周囲約6キロの島で、「仙人が酔う程に美しい」ということが島の名前の由来となっているといわれています。
太古の自然が残る島内には5種のハイキングコースが整備されており、西側の仙人ヶ丘展望台からは日本の夕陽100選にも選ばれた美しい日没の風景が望める。また、キャンプ場や海水浴場、塩工房といったレジャー施設がそろい、国民宿舎などの宿泊施設もある。
国内でも珍しい5色(青・赤・黄・白・黒)の岩「五色岩」も見ることができます。
※仙酔島へは、福山市営渡船(平成いろは丸)が運行しています。
時刻表は、こちらをクリック
【弁天島】
鞆の浦と仙酔島の間にある無人島で、別名を「百貫島」と言います。
ランドマークの朱塗りの弁天堂には、漁師たちの守り神である弁財天が祭られています。
堂のそばに立つ塔婆には鎌倉時代の年号が刻み込まれ、広島県内で年代が判明しているものの中では最も古く、県の重要文化財に指定されています。
毎年5月の弁天島花火大会は弁天島から打ち上げられ、夜空いっぱいに美しい花が咲き海面を照らします。
鞆の浦観光鯛網
鞆の浦の初夏の風物詩、観光鯛網。鯛網は、鞆の浦に約380年も伝わる伝統漁法です。
多島美で知られる瀬戸内海は、入り組んだ海岸線と適度と分布する深浅を持ち、複雑な潮流や大きな干満差、そして水温の関係から餌も豊富で、魚類の生育に適し、稚魚、成魚それぞれに恰好の棲息場所になっています。
この海を取り囲む各地の漁師たちは、沿岸部に建て網を張って、岸近くに寄ってくる鯛を獲っていましたが、沖合いに群がる鯛を出向いて積極的、効果的に獲る方法を考え出しました。それが「しばり網漁法」を応用した鯛網でした。
鞆の浦観光鯛網では、船上から約380年も伝わる伝統漁法を見学することができます。
「しばり網漁法」とは、鯛を追い込む目の大きい「大引網」と鯛を獲る「袋網」を使い、親船となる網船は二艘で並走し、それぞれの網を上げながら、離れていた網船同士が交差します。それから少しずつ距離を縮め、互いの網をしばり上げるようにして鯛を網の中に追い込み漁法です。
2015年(平成27年)には「鞆の浦 鯛しばり網漁法」が福山市無形民俗文化財に指定されました。
お手火神事(市無形民俗文化財)
お手火神事とは、松明の火によって神輿が行く場所を浄める行為で、沼名前神社の祭神「須佐之男命」の神輿渡御に先立つ祓いの神事として行なわれる火祭りです。
手火は、小割りした肥松を八つ割にした青竹と神木のムロの木8本で周囲を固め、横縄10本・縦縄3本で結んだ長さ4.5m、重さ約150kgの大手火3本と、長さ約50cmの小手火1本があります。
午後6時、祭り開始の太鼓が白装束に身を包んだ少年によって打ち鳴らされ、午後7時に二回目の太鼓が鳴り須佐之男命を迎えます。午後8時に三回目の太鼓で本殿奥から神火を神前の小手火に移し、順次大手火3体に点火して拝殿まで担ぎ上げ、勇壮に練り歩きます。
この祭りは、旧暦6月4日に近い土曜日の「お手火」神事に始まり、7日に神輿が大可島の御旅所へ「渡御」、14日に御旅所より「還御」、そして18日の御神納で終わる長期間の祭りで、かつては「祇園市」と呼ばれる市が立ち鞆の町は大いに賑わったものでした。
鞆の浦の主なお祭
〇2月上旬 お弓神事
沼名前神社で行われる、年頭にあたり、過ぎた一年の悪鬼を射払って新しい年の平穏を祈る古式豊かな行事です。福山市無形民俗文化財です。
〇2月下旬~3月中旬 鞆・町並ひな祭
鞆の浦の町並みのお店、旅館、町家で代々伝わっている雛飾りを公開します。江戸時代~明治時代にかけての貴重なお雛様をみることができます。
〇5月上旬~中旬 鞆の浦観光鯛網
〇5月最終土曜日 福山鞆の浦弁天島花火大会
瀬戸内に初夏を告げる風物詩、多彩な花火は鞆の浦ならではの風情をかもしだします。打ち上げ前には、地元の住民と子どもたちが伝統芸能「アイヤ節」を披露します。
〇6月30日 茅の輪くぐり
沼名前神社で6月30日の夏越の祓えに行われる茅の輪くぐりの神事です。この輪をくぐると、罪やけがれ、災厄や疫病を祓い清めると信じられています。
〇7月第2日曜日の前夜 お手火神事
〇8月 淀姫神社の渡御・還御祭
俗にダンゴ祭りと呼ばれ、平の投げ神輿が有名です。
〇9月(旧暦8月11日に近い3日間の金土日) チョウサイ(秋祭り)
渡守神社の秋の例祭。例祭のときに引き廻される山車をチョウサイと言い、当番町によって見事な山車が引き廻されます。
〇9月(旧暦8月1日に近い日曜日)鞆の津八朔の馬出し
子どもの誕生と健やかな成長を願って、八朔の馬(台車付きの白い木馬)に子どもたちを乗せて町中を練り歩きます。
〇12月第一土・日曜日 鞴祭り
鞆鍛冶の氏神 小烏神社の祭りです。前夜祭には夜店も立ち並びます。