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伝統産業館
伝統産業館
松永地域の産業を支えたい草・塩・下駄の生産関連の資料を時代の変遷を追って展示しており、地域産業の歴史を継承しています。
建物は旧丸山下駄工場を整備したもので、下駄関連の機械等は生産工程にあわせて、当時とほぼ同じ状態で展示されています。
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備後地域の温暖な気候はい草の栽培に適しており、い草を素材として生産される備後表の名は、すでに室町時代の1460年(長禄4年)の文献に登場します。
安土桃山時代の1600年(慶長5年)頃には沼隈郡山南村出身の長谷川新右衛門が、短いい草を活用した中継表の製法を考案したことで、い草を無駄なく使えるようになり、備後表の生産を飛躍的に伸ばしました。
江戸時代には福山藩が奨励策を行うことで、高い品質が維持され、幕府にも高く評価され、2010年(平成22年)には、文化財修理に使う資材(畳)として文化庁から「備後熊野い草圃」が『ふるさと文化財の森』に設定されました。
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松永の塩づくりの起源は古墳時代の6~7世紀まで遡ります。
全国的に「松永の塩」として有名になったのは、江戸時代に福山藩に登用された本庄重政が塩田開発を進めてからです。
重政は1660年(万治3年)から1667年(寛文7年)に入浜式塩田という当時最新式の技術を導入し、塩作りを推進しました。
1667年(寛文7年)、塩田築調工事が完成し、重政はこの地が末永く繁栄することを願い、「松寿永年」という言葉に因んで「松永」と命名しました。
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1878年(明治11年)に丸山茂助は松永村に小さな下駄の製造小売店を開きました。
その後、茂助は安価な材木の入手と全国に先駆けた生産の機械化に成功し、安価で大衆的な下駄の生産が可能となりました。
そして、松永は日本一の下駄生産地となっていくのです。
下駄作りは塩田で働く人々の雨天時や夜間の副業として行われ、優秀な職人を確保できたことも成功した大きな理由です。
1955年(昭和30年)には年間5600万足を生産し空前の活況を迎えますが、次第に生活様式の変化にあわせて、下駄に限らずサンダルやスリッパなどのはきもの生産へと転業していきます。
こうして下駄作りで培った技術は、はきもの産業へと受け継がれ、自然の感触を楽しむことができる松永の下駄は時代が変わった今でも多くの人に愛されています。