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平和の大切さを未来につなごう

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年7月16日更新

 悲惨な戦争を繰り返さないため,そして,戦争の記憶を風化させることのないよう,平和の大切さ,人権の尊さについてあらためて考えてみませんか。
 このページでは,福山空襲の概要,福山市内に現在も残る戦争遺跡について掲載しています。

  ≪項目≫

1.福山空襲

2.福山市内の戦争遺跡

● 2021年度の平和啓発の取り組みについてはこちらをご覧ください。
 ≫「2021市民平和のつどい・第67回市民平和大会」(別ページ)

1.福山空襲

 1945年(昭和20年)7月31日夜,B-29が1機飛来し,空襲予告ビラ約6万枚が散布されました。
 その8日後の8月8日午後10時25分ごろ,テニアン基地から発進したB-29爆撃機91機が襲来し,約1時間にわたり556トンもの焼夷弾が投下されました。焼夷弾は豪雨のように降りそそぎ,福山の街を焼き払いました。市街地の約80%を焼失し,壊滅的な被害を受けました。
 そして,福山空襲からわずか7日後の8月15日,戦争は終わりました。

福山空襲による被害状況

 
当時の人口
(1945年(昭和20年)8月1日現在)
58,745人
空襲時間 8月8日午後10時25分から約1時間
爆撃機数 B‐29爆撃機91機
投下爆弾

M47(油脂焼夷弾) 4,035発 139.2トン

M17(集束爆弾) 1,666発 416.5トン

市街地焼失面積 314ヘクタール(市街地の約80%)
被災者数 47,326人
犠牲者数 355人
重軽傷者数 864人
焼失家屋数 10,179戸

空襲直後の福山市
撮影:鴫原吉之祐さん(1945年8月9日)
福山駅は22時40分頃,焼夷弾攻撃を受け半焼しました。写真は,空襲翌日のものです。本線は8月9日早朝には,復旧し,運転が再開されました。

空襲直後の福山②
 撮影:瀬口利一さん
 空襲数日後の市内の様子(御船町より北を望む)

なぜ空襲をうけたのか 

 アメリカ軍の資料によると,陸軍歩兵第四十一聯隊などの軍事施設,川西航空機の部品組み立て工場(三菱電機福山製作所)や日本の5大染料工場の1つである帝国染料工場(日本化薬福山工場)などの軍需工場があり,およそ1から1.5平方マイルの住宅密集地域があることが空襲の目標となった理由とされています。

2.福山市内の戦争遺跡

 福山市内には,現在でも戦争遺跡が残る場所があります。
 詳しくは各ページをご覧ください。 

 ▶ 福山市内に残る戦争遺跡(福山空襲の傷跡と2つの慰霊碑を紹介しています。)

 ▶ 福山空襲遺跡案内板について(福山市内10カ所の戦争遺跡に設置している案内板を紹介しています。)

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