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菅茶山について

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

茶山ってどんな人

菅茶山肖像画(複製)菅茶山肖像画(複製)

 菅茶山については「顔は角ばり頬(ほお)がはっていて、年をとるにつれて頬は赤く、髪は白くなった。とても堂々としていて、むずかしい人に見えるけど、実際に話をしてみるとひかえめで角が立たず聞き上手で、まるで田舎(いなか)の人のいいおじいさんのようだ」と言った人がいます。
 茶山は1748(延享5)年2月2日、川北村(現在の福山市神辺町川北の七日市上)で東本陣役を勤めたこともあり、造り酒屋と農業を営(いとな)んでいた菅波樗平(すがなみ ちょへい)と、井原市出身の半(はん)との間に長男として生まれました。 

名前の由来について

茶山茶山晋帥 晋帥

  茶山のお父さんの名字は菅波(すがなみ)ですが、では、なぜ茶山は菅(かん)なのでしょうか。それは、茶山の時代、儒学を学んだ人たちは名字を一字にするのが一般的でした。そこで茶山もこれにならい「菅波」から一字を取り、さらにそれを中国風な読み方に「菅(かん)」と改めたのです。また、茶山の本名は晋帥(ときのり)で、茶山はペンネームのようなものです。作品にも「茶山」と書いたものや、本名の「晋帥」と書いたものがあります。
 茶山という名は生家や廉塾(れんじゅく)から北に見え、茶山が好きだった山「茶臼山(ちゃうすやま)=現在の要害山(ようがいざん)」にちなんだものと思われます。

茶山の両親について

 茶山の父・菅波樗平(すがなみ ちょへい)は、造り酒屋と農業をしながら本に親しみ俳句を好みました。樗平の俳句集「三月庵集(やよいあんしゅう)」を読んでみると「ゆたんして ひたと風ひく 二月哉(かな)=春が近づいてきて、だんだん暖かくなってきた。だからついゆだんをして風邪をひいてしまったよ」という句があります。「うん、あるある」と思わずうなずいてしまいそうですね。
 また、母・半(はん)は大変歴史に詳しく、茶山たち子どもが分からないことを尋(たず)ねると、すぐ教えてくれたといいます。こういった家庭環境が茶山に与えた影響はたいへん大きかったことでしょう。

 漢詩人菅茶山

  茶山は漢詩の達人であり、生涯に詠(よ)んだ漢詩の数は数千にもおよびます。その腕前は「当世随一」とまでいわれるほどで当時の第一人者でした。
 それまでの漢詩といえば儒学者(じゅがくしゃ)が詠む程度で、昔の中国の美しい言葉や、偉い人の残した言葉を真似(まね)たものが一般的でした。しかし、次第に個性的なものが求められるようになっていきます。その手本となった一人に中国の宋時代に田園詩人(でんえんしじん)として活躍した范成大(はん せいだい、1126~1193)がいます。范成大の『四時田園雑興(しじでんえんざっこう)』60首は、当時の詩檀(しだん)に大きな影響を与えました。江戸で新しい詩人たちを輩出した江湖詩社(こうこししゃ)の盟主、市河寛斎(いちかわ・かんさい)の詩にも宋詩風の田園詩がみられます。
 東の江湖詩社に対して、西の葛子琴(かつ・しきん)、六如(りくにょ)、菅茶山がいますが、特に茶山だけは日常が田園の中にありました。茶山は自分が実際に見たまま、感じたまま、経験したことを日本人の感覚で漢詩で表現し、それが大衆に受け入れられたのです。
 2,413首を集めた詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』は当時のベストセラーとなり、その名は全国に知れ渡ることとなります。

茶山の字について

 昔の人は自分で詩を作りそれを筆で紙に書くことによって、自分の思いや考えを相手に伝えました。茶山の書いた字を見ると、「う~ん、何が書いてあるんだろう」「読めない」という声が返ってきそうです。確かに、茶山の字は大変読みづらく、字に詳しい人でもなかなか読めない「草書(そうしょ)」という書体で書かれています。辞書に草書とは「書体の一種で行書(ぎょうしょ)をさらにくずして画数を省略したもの」とありますが、つまり、はやく書くことができる続け字のことです。
 よく「文字は人柄を表わす」といいますが、茶山の字はとてものびのびと軽やかな線で整然と書かれています。「こういった字を書く茶山って、どんな性格だったのかな?」なんてことを想像しながら作品を鑑賞すると楽しいですよ。

 なしとげた事

  『廉塾(れんじゅく)』という塾を開いたことで、全国各地(南は九州地方、北は東北地方)から多くの生徒が茶山のもとへ勉強にきました。そして、その生徒の多くは、茶山の教えをもとに自分のふるさとへ帰り学者として活躍しました。
 また、茶山の漢詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』全13巻が出版され、当時のベストセラーとなって多くの人々に読まれました。現在も詩吟(しぎん)や茶山ポエム絵画展など、子どもからおとなまでその漢詩は幅広く親しまれています。

  • 詩吟…漢詩に節をつけてうたうこと

なぜ京都へ

  当時の神辺は遊興(ゆうきょう)の風潮(ふうちょう)があり、青年期をむかえた茶山もよく遊んでいました。もともと身体が弱く病気がちであったため、体調を崩し大病をわずらってしまいます。病気のため家で読書をする日々がつづき、これをきっかけに自分の病気を治し、若者の身体の病気だけでなく心の病気も治そうと医者になることを志しました。そして学術・文化の中心地であった京都へ上る決心をするのです。
 当時の学問は儒学(じゅがく)なので漢文でした。医者の本は中国から渡ってきたものばかりで、漢文が読めなければならないため、医者のほとんどが儒者(じゅしゃ)でした。
 19歳の時、京都で市川某(なにがし)に古文辞学を、後に那波魯堂(なば ろどう)に朱子学を学び、6回の上京中に鴨方(かもがた)の西山拙斎(にしやま せっさい)や、頼山陽(らい さんよう)の父、頼春水(らい しゅんすい)らと交友関係ができました。

  • 遊興…外で飲食し遊ぶ
  • 風潮…その時代の好ましくない考え方や習慣

茶山は冗談好き

 神辺は山陽道の宿場町として賑(にぎ)わい栄えました。しかし、その反面、町の人々は博打(ばくち)や飲酒などの遊興(ゆうきょう)の風潮(ふうちょう)に染まり、生活が乱れがちでした。そういった様子を見て茶山は「かんなべに 酒のむ人は多けれど 本読む人は ちろりともなし=神辺に酒飲みは多いけれど、本を読む人はちっともいない」と言いました。
 「ちろり」というのは「ちっとも」という意味ですが、酒を燗(かん)する器の「ちろり」にかけたシャレで言っています。また「かんなべ」も「燗鍋(かんなべ)」にかけています。このように茶山は大変冗談が好きだったようです。

茶山は酒好き

 昔、花見や月見の際には「宴(うたげ)」といって、みんなでお酒を酌(く)み交わして漢詩や和歌を作りました。茶山の漢詩に『酒人某出扇索書=酒人(しゅじん)某(ぼう)扇(おうぎ)を出(い)だして書(しょ)を索(もと)む』という有名なものがあります。
 「一杯は人酒を呑(の)み、三杯は酒人を呑む、これ誰が語かを知らずとも、吾輩(わがはい)紳(しん)に書すべし=一杯は人が酒を飲んでいるといえるけれども、三杯となっては酒が人を呑んでしまう。これが誰の言葉かは知らないが、それを自分の心にいつもとどめて慎(つつし)むことにしている」
 茶山は、お酒を好んでいましたが、自分で頃合(ころあい)を心得ていて、決して飲みすぎるようなことはなかったということです。

茶山の苦手なもの 

 ある夏の日、茶山は広島への旅の途中「呼石(よぶいし)」という山に登りました。そこから見た瀬戸内海の彼方(かなた)にそびえる美しい山並みに感動して、思わず筆をとって絵を描いたといいます。大漢詩人の茶山も、あまりの美しさにそれを表現する言葉も出なかったという訳です。さて、その絵のできばえはというと、次のように茶山は言っています。
 「私はもともと絵を描くのは得意ではない。お伴(とも)の弟子が紙を押さえても、風に吹かれて紙は翻(ひるがえ)ってしまう、どうして私の見たまま、感じたままにこの筆は動いてくれないのか。描きあがった絵をみて、伴といっしょに笑ってしまった。」(『菅茶山』富士川英郎著より)
 茶山は、自然や風景などをたくさん漢詩に詠んでいますが、茶山の描いた絵というのは、あまり見られません。本人が語っているとおり、絵を描くことはあまり得意ではなかったようです。詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』には「呼石」という詩も収められています。
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