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展示物

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

展示室

展示室入口展示風景展示風景展示風景

1階の第1展示室と2階の第2展示室とがあります。

パネルの紹介

「菅茶山の星」の紹介

 「菅茶山の星」パネル

 「菅茶山の星(小惑星)」は、1999年2月、鳥取にある佐治(さじ)天文台長の香西洋樹(こうさい ひろき)さんによって、世界で6846番目の小惑星に命名され誕生しました。
 きっかけは、菅茶山記念館に来られた香西さんが、菅茶山が日本の漢詩を大きく変えたり、すばらしい漢詩の作品を数多く作っただけでなく、いろいろな書物で「彗星(すいせい)のやってきた時の正確な記録」・「月食(げっしょく)の細やかな観察の記録」・地域に伝えられている天文に関係した出来事にとても高い関心を持ち、貴重な記録を残していることに大変感心され、命名してくださったのです。
 小惑星「菅茶山」は火星と木星の間にある小さな星で、直径約8キロ、太陽の周りを約3.7年で1周し、明るさは19等級です。(小さいため肉眼や小さい望遠鏡では見ることはできません。)

金島桂華」「猪原大華」の紹介

「金島桂華」「猪原大華」パネル

金島桂華(かなしま けいか 1892~1974) 福山市名誉市民

 1892(明治25)年6月29日、金島儀一郎・シナの長男として広島県安那郡湯田村(現在の福山市神辺町湯野)に生まれた。本名は金島政太(まさた)。
 14歳のとき、尼崎に移り西家桂州・平井直水に師事。1909年には大阪浪花絵画競技会に「細雨」を出品し褒状を受け、翌年の東京巽会展に「花芭蕉」で一等褒状を受けた。1911年、京都の竹内西鳳(たけうち せいほう)に入門。1914(大正3)年鎌倉円覚寺で、また1923年には京都妙心寺で禅の修行を行っている。1918年第12回初期文展(文部省美術展覧会)に「叢」を出品し初入選して以来、帝展(帝国美術院展覧会)・文展・日展(日本美術展覧会)に毎年のように出品し、第6回帝展(1925年)に「芥子」、第8回帝展(1927年)に「鳴于九皋」、第9回帝展(1928年)に「牡丹」を出品し特選を得て、1929(昭和4)年帝国美術院推薦となった。その後、1930年から10年間京都市立美術工芸学校教諭を勤めた。1934年帝展の審査員となって以来、文展や新日展(社団法人日展)の審査員を歴任した。
 戦後は、第8回日展(1952)に「鯉」で文部大臣賞を、第9回日展(1953)に「冬田」で芸術院賞を受賞し、1959年には日本芸術院会員になった。また、画塾衣笠会を主宰して後進の指導にあたるほか、1960年から日展理事を務めた。1969年京都市文化功労賞を受賞。1974年病歿。旧神辺町(当時の深安郡神辺町)は1979年2月16日、名誉町民の称号を贈った。現在は福山市名誉市民。
 画伯の作品は、写実を基調とした正攻法による清雅な花鳥図で知られている。

作者のことば

 私は遭遇する自然を何でも直ぐ写し度(たく)なるので、走る列車の窓からでも、車の中からでも、とも角も見て心を打たれるものはスケッチしないと気がすまないのであります。自然に対していると相手から話しかけてくる。花は花、鳥は鳥、山は山の持つ心が、脈々と自分の心に伝わってきて、自然と一体となって之を写生する楽しさは又各別のもので、疲れることを忘れます。従って小さな紙片のスケッチ一枚にも、今日迄生きて来た歴史を見るように愛着を感じます。素描(そびょう)こそ二度と出来ない自分の本源をなすものだと思うのであります。

(金島桂華素描画集「自序」より)

猪原大華(いのはら たいか 1897~1980) 福山市名誉市民

1897(明治30)年2月17日、猪原義澄・邦の長男として広島県安那郡八尋村(現在の福山市神辺町八尋)に生まれた。本名は猪原寿(ひさし)。
 1915(大正4)年画家を志し大阪に出て、1918年京都市立絵画専門学校別課に入学。1929(昭和4)年京都市立絵画専門学校嘱託教員となった。
 1921(大正10)年に第3回帝展に「鷄」を出品し初入選。1924年には土田麦僊(つちだ ばくせん)に師事し、国画創作協会展にも出品した。1930(昭和5)年、福田平八郎・山口華陽(やまぐち かよう)と中国に渡り研究に努めた。麦僊の死後、西村五雲(にしむら ごうん)に師事し、1938年五雲塾員らで新たに晨鳥社を結成。この間も帝展・文展・京都市展・晨鳥社展に出品している。
 戦後は第10回日展(1954年)に「池」を、第13回日展(1957年)に「梅」を出品し特選を得て、第4回改組日展(1972年)の「浄池」で内閣総理大臣賞を、第17回新日展(1974年)の「清明」で日本芸術院恩賜賞を受賞した。また、1960年に日展会員となり、日展審査員・評議員のほか京展・関西総合展の審査員を務めた。
 大華は教育にも関わり、1951年京都市立美術大学講師、1958年同助教授となり、1967年~1975年は比治山女子短期大学教授、1975年から嵯峨美術短期大学教授の職にあった。この年京都市文化功労者、翌年京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。1979年2月16日、旧神辺町(当時の深安郡神辺町)は名誉町民の称号を贈った。現在は福山市名誉市民。
 画伯の作品は、自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られている。

作者のことば

 ・・・さてこの生きる事と、描くということはまことに密接なもので、考えようによっては複雑なものである。私はこのような仕事の悩みの上にたって、いつも深く考えさせられるのであるが、私なりに如何(いか)に生きるべきかを反省や自問に改めて、よりどころを確かめているのである。
 それでは「自分の果たすべきものは何か」「自分はいったい何を求めるのか」はっきりと一言ではいいきれない問題ではあるが、それは自分の心といってもよいものではあるまいか。それをどのように高めていくか、それが今日の大きな願いである。そして何か信念のような、そうしたものを自分の仕事に見いだしたい願いも強く持っている。単なる感覚のみでなく、また手先の事でなく自分の体あたりでぶつかって自分の胸の奥にある何かを表現せねばならぬと思う。しかし考えをここに進めれば、これはなかなか容易なことではない。ただただ自分としては結果を別として、根気と気力を持って仕事を続けるほかはない・・・

(猪原大華集「書くことと生きること」より)

 「葛原勾当」「葛原しげる」の紹介

「葛原勾当」「葛原しげる」パネル

 葛原勾当(くずはら こうとう 1812~1882)

 幼名は柳三(りゅうぞう)、名は重美(しげみ)、一泉(いっせん)と号した。1812(文化9)年、備後国安那郡八尋村(現在の福山市神辺町八尋)の庄屋、矢田重知の長男に生まれる。3歳の時、天然痘(てんねんとう)をわずらい失明。9歳から後月郡大江村(現在の岡山県井原市)のキクに琴と三味線を習い始める。とても耳の良かった柳三(幼名)は、聞き覚えで大曲・難曲も弾いてしまい、2年で教える事がなくなったといわれている。本格的に音楽で身を立てるため11歳の時、京都の生田流(いくたりゅう)松野勾当(まつの・こうとう=後の検校)に師事。京都ではほかに菊岡検校(けんぎょう)・光崎検校・八重崎検校の教えも受けている。その才能を惜しまれつつ15歳で帰郷してからは、筝曲の教授を始め生業とした。弟子に稽古をつけるかたわら、自らも京都へ上り新曲の稽古につとめ、帰郷と同時にそれを弟子に教えている。そして22歳で「勾当(こうとう)」の位を得、計9回にわたり往復している。勾当の稽古は、自らが弟子の家を回る出稽古と、自宅で行なう寄稽古とがあったが、出稽古は、広島・岡山県内の120余りの町村を回り、地主階級の子女や豪商階級の子女・武士階級の子女を教授した。『葛原勾当日記』には、580人余りの弟子の名と地名が記されている。寄稽古は、目の不自由な人がプロとして音楽で生きていくために、毎年8月上旬の10日間や、正月明けに勾当の自宅で合同稽古として行なわれた。生田流筝曲が現在も広島・岡山県で盛んなのは、このように東西へ奔走した勾当の功績といえるのではなかろうか。
 江戸時代、琴・三味線の教授は盲人の専業で、その自治組織である当道座(とうどうざ)への所属が義務づけられていた。「勾当」とは、その当道座の階級名である。勾当は後に上位の「検校」になる事を勧められるが、「良い位についたからといって琴の演奏が上手くなるわけではない」と固辞したといわれている。また、『葛原勾当日記』に「我が師の曰(いわ)く、稽古人をば我が子と思え」と記しており、その教え通り弟子思いの指導者であり、後世へとその精神は受け継がれていった。そして、1882(明治15)年9月8日、71歳で死去。16歳から備忘録(びぼうろく)としての日記『葛原勾当日記』をつけており、26歳からは自らが考案した木活字(もっかつじ)を用いて捺字し、これを亡くなるまで続けている。『葛原勾当日記』3帖11冊と印字用具、琴・三味線稽古墨筆記録10冊は、1954(昭和29)年、広島県の重要文化財に指定された。

  • 当道座…検校(けんぎょう)・別当(べっとう)・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)の階級がある
  • 備忘録…物事を忘れないよう書きとめるもの

葛原しげる(くずはら しげる 1886~1961) 福山市名誉市民

 葛原勾当(くずはら こうとう)の孫で童謡作詞家。1886(明治19)年、安那郡八尋村(現在の福山市神辺町八尋)に生まれ、音楽家であった祖父勾当の影響を受けて育つ。
 広島県立福山中学校(現在の誠之館高校)卒業後、東京高等師範学校英語科に入学。西洋音楽の作詞を試みるなど活動を開始するが、その興味はしだいに童謡へと移っていく。在学中、兄の戦死により家を継ぐ身となる。しかし、卒業後も東京九段精華学校初等科の教壇を務めるかたわら、児童雑誌「小学生」の編集主任も兼務するなど、もっぱら活動の拠点は東京で、それ以後も数多くの童謡を意欲的に発表した。1917(大正6)年、朝鮮から帰国した筝曲家、宮城道雄(みやぎ・みちお)と知り合い、以後宮城の演奏活動を大いに支援するとともに、子ども向けの筝曲(童曲)を協力して制作する。
 1945(昭和20)年、59歳のとき戦争のため郷里の八尋に疎開。翌年創設された至誠高等女学校(現在の戸手高校)の校長に就任。八尋の自宅から通勤すること14年、郷土の教育の発展に貢献し、数多くの童謡や全国の校歌を作詞している。代表作に「夕日」「とんび」「キューピーさん」などがある。

「箱田良助」の紹介

「箱田良助」パネル

箱田良助(はこだ りょうすけ 1790~1860)

 1790(寛政2)年、安那郡箱田村(現在の福山市神辺町箱田)庄屋の細川園右衛門(ほそかわ えんうえもん)の次男として生まれた。名を良助(りょうすけ)、のちに左太夫(さだゆう)、源三郎(げんざぶろう)と改める。細川家が一時期、地名の「箱田」と称したことにより箱田姓を名乗った。
 1807(文化4)年6月、17歳のとき江戸に出て伊能忠敬(いのう・ただたか)に入門し、測量術を学んだ。九州第1次測量、第2次測量に参加したのち、忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作製に尽力した。1821(文政4)年の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の完成に大きく貢献。1822年、榎本家の養子となり、榎本圓兵衛武規(えのもと えんべえたけのり)と改名し、御徒士となる。さらに1844(弘化元)年、御勘定方(おかんじょうがた)となって旗本の列に加えられた。1860(万延元)年8月、71歳で死去。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は圓兵衛の次男。オランダに留学し、帰国後の1867(明治元)年、幕府艦隊を率いて函館五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった。のち、明治政府の要職を歴任した。

  • 御勘定方…幕府の会計係
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