ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

菅茶山の旅

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

「遊芸日記」の旅

 廉塾から南に見える「黄葉山(こうようざん)」

 茶山は41歳の1788(天明8)年6月5日から1ヶ月にわたり、弟子の藤井暮庵(ふじい ぼあん)と厳島の管絃祭を見物に出掛けている。頼山陽(らい さんよう)が「茶山先生行状」に茶山の著書として挙げている「遊芸記」1巻がこの時の紀行文「遊芸日記(ゆうげいにっき)」にあたる。茶山が7歳の頃に祖父と母に連れられて宮島を訪れて以来、実に35年ぶりであった。
 6日尾道の勝島敬仲宅に滞在し、この時「尾道志稿」を著した亀山士綱(かめやま しこう)らが茶山を訪ねに来ている。10日広島では頼春水(らい しゅんすい)・頼杏坪(らい きょうへい)と会い、9歳の山陽と初めて対面する。17日管絃祭見物、厳島神社参詣ののち、海田・西條を通って24日竹原に至り、頼春風(らい しゅんぷう)と対面。春風とは書簡のやり取りはあったが、やはり対面するのはこの時が初めてであった。25日春風と頼家の菩提寺である照蓮寺にのぼり、住職の獅絃上人とも交わった。本郷から三原に至った27日小早川家の氏寺の米山寺、さらには妙正寺にのぼる。米山寺では「米山寺拝謁小早川中納言肖像」と詠み、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の功績を偲んでいる。27日~翌月5日までの8日間、尾道に滞在し、千光寺にのぼったり近隣の文人と交わり、翌6日には神辺に帰着した。
 「遊芸日記」は単に日記というだけでなく、道中の景色や周辺の町の様子など、茶山がふと関心をよせた事柄が巧みな漢詩体で綴られており、茶山にとって印象的な旅であったことがうかがえる。

「北上歴」の旅

 1794(寛政6)年3月15日、茶山は妻の宣(のぶ)を伴い、関西地方(吉野・京都・伊勢)へ出掛けている。寒気の緩んだ春爛漫の季節に、花見をかねて吟遊の旅を計画したものと思われる。神辺を発って鴨方の西山拙斎(にしやま せっさい)宅に立ち寄り、播磨・舞子で詩を吟じ、生田では生田神社に詣でている。大坂を過ぎ、吉野に入ってからは意欲的に諸寺院をめぐり寺宝を見物している。
 旅の期間は半年以上におよび、京都から伊勢、名古屋、岐阜をまわり各地の景勝を訪ねている。京都では実に多くの文人と交わり、詩宴や書画会に集った。 

「三原梅見の記」の旅 

 1813(文化10)年2月27日、茶山は太田孟昌、橘左五郎、平松渓を伴い三原の梅見に出掛けた。茶山はことのほか梅を好んで、詩集「黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)」にも数多く梅の詩が詠まれている。特に三原の梅林には何度も訪れ花見を楽しんだ。この小旅行については「三原梅見の記」という、茶山とその友人の桑田翼叔が著した紀行文があり、和歌や漢詩を中心に旅の記録が和文で記されている。松永で高橋景張と桑田翼叔が合流し、それ以後は茶山に代わって桑田翼叔が書いている。和歌と漢詩は、茶山・桑田翼叔・高橋景張・橘左五郎の4人が詠んでいる。
 28日三原に着いた一行は、酒造家川口氏や都築蘇門(つづき そもん)らと三原市内の梅林を訪ねた。「三原梅見の記」では、「大人(茶山)は老の身にたよりよしとて わらくつみのかさ調してうちむれて いつ其のさまいとあやしけなり云々」とあり、年老いた茶山が雨の中、藁靴(わらぐつ)をはき、蓑(みの)と笠ををまとって歩く姿をよく伝えている。
 また、梅林にある東屋の柱に、40年余り前に西山拙斎(にしやま せっさい)とここを訪れて書き付けた名前を見つけては、感慨に浸る茶山を細かく捉えている点なども興味深い。
 29日には都築蘇門と妙正寺にのぼり、その晩、三原港から帰路につき、3月1日には神辺に帰っている。

 

第1次 江戸出府

 茶山は福山藩阿部正精侯に命ぜられ、1804(文化元)年1月~11月に江戸に出向いている。
 57歳を迎えた茶山は、1月22日に神辺を発ち江戸へ向かった。茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』に「兵庫道中(ひょうごどうちゅう)」という詩があり、江戸までの諸所で詠まれた詩をたどることで旅の経過がうかがえる。茶山は、この旅の道中で初めて富士山を見て、その感動を詩に詠んでいる。江戸では隅田川での舟遊びや、柴野栗山(しばの・りつざん)邸での詩宴、常陸(ひたち)への旅など、藩命でありながら詩酒徴逐(ししゅちょうちく)に興じ、優雅な時を満喫する茶山の姿がうかがえる。
 江戸滞在中の5月9日、石田梧堂(いしだ ごどう)とともに常陸へ出掛けている。「常遊雑詩」19首という詩は、この小旅行で詠まれたものである。常陸では水戸徳川家代々の墓所「瑞龍山(ずいりゅうざん)」を訪ね、儒者の朱舜水(しゅ しゅんすい)の墓にも参った。またこのとき水戸藩儒、立原翠軒(たちはら すいけん)を訪ねている。

  • 常陸…旧国名のひとつで現在の茨城県北東部
  • 詩酒徴逐…詩会や酒の席に招いたり招かれたりすること
  • 瑞龍山…現在の茨城県常陸太田市にある丘で、徳川光圀(とくがわ みつくに)をはじめとする水戸徳川家代々の墓所(朱舜水の墓もある)

 

第2次 江戸出府

  茶山は福山藩阿部正精侯に命ぜられ、1814(文化11)年5月~翌年3月に江戸に出向いた。
 67歳になった茶山は、福山藩の命令で再び江戸に向かっている。このたびの出府は1809(文化6)年2月に藩に提出していた「福山志料(ふくやましりょう)」が不完全なものであったため、それを増補訂正することが茶山の任務であった。この旅の経過は、茶山の日記「東征歴(とうせいれき)」と、江戸までの道中に詠んだ詩によって知られる。また、このたびの江戸滞在は1年近くもの長期にわたり、その間の交友は測量家の伊能忠敬(いのう ただたか)や、それに随行した細川円兵衛(ほそかわ えんべえ=箱田良助)、狂歌師の大田南畝(おおた なんぽ)、詩人の大窪詩佛(おおくぼ しぶつ)・亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)、そのほか大名や国学者・書家・画家・医者など、これまで以上に広範な分野の人々に及んだ。

  • 狂歌…江戸時代中期以降に流行した短歌のひとつ

 

「大和行日記」の旅

 1818(文政元)年3月6日、茶山は牧周蔵・林新九郎・臼杵直右衛門・渡辺銕蔵を伴って、大和地方への旅に出掛けた。
 茶山にとっては、これが最後の大旅行となった。「大和行日記(やまとこうにっき)」には旅の目的を、大和の医者を訪ねること、吉野の桜を見に行くことが書かれている。しかし、茶山も71歳という老境を迎えており、かつて京都・吉野で詩を詠み酒を酌み交わした友人の多くは、すでに故人となっていたため、この旅行では、それらの人々や弟の恥庵(ちあん)の墓参りを兼ねた懐旧(かいきゅう)の旅でもあった。また、新たに知り合った文人たち(学者・詩人・画人)とも親交を深めている。
 この旅の経過は「大和行日記」と、同行した牧周蔵の「北上記」という日記によって知られている。

  • 懐旧…みんながまだ若かった昔をなつかしく思い起こすこと
  • このページのトップへ
  • 前のページへ戻る