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郷土ゆかりの人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

那波魯堂(なわ ろどう 1727~1789)

  名は師曾、字は孝卿、通称は与蔵→主膳、魯堂・鐵硯道人と号した。父、那波祐胤、母、三木氏の長男として播磨国姫路に生まれる。1736(元文元)年に郷先生に入門し、1743(寛保3)年に弟の奥田尚斎(1729~1807)とともに摂津国西宮の遠戚である岡白駒(1692~1768)に学んだ。1747(延享4)年に岡白駒が京都に移り住むのに従い、1751(宝暦元)年に同じ京都で家塾『魯堂』を開く。1755年「春秋左伝集解」を校正し「春秋左伝」を出版。1756年、聖護院宮忠誉法親王の侍読となり、家塾を寺域内に設け、西山拙斎が入門。1758年、古学を排し朱子学を唱えた。1764(明和元)年、朝鮮国修好通信使に従い浪華から江戸まで往復し「韓人筆談」を成す。1766年、頼春水が来歴。1771年、西山拙斎の薦めで菅茶山が入門する。1778(安永7)年、阿波藩主蜂須賀治昭に招聘され、阿波藩儒員となり150石を給せられた。1783(天明3)年、「勝瑞義冢碑」を作る。1789(寛政元)年9月11日に病で没し、徳島城西妙高庵に葬られた。魯堂の後は長女の貞と結婚した網川が継いだ。

西山拙斎(にしやま せっさい 1735~1798) 

 名は正、字は士雅、拙斎・雪堂・至楽居などと号した。父、医者の西山恕玄、母、岡氏の長男として備中鴨方(岡山県浅口郡鴨方町)に生まれる。那波魯堂に朱子学を学び、郷里鴨方に私塾「欽塾(きんじゅく)」を開き生涯経営した。茶山にとっては那波門下の兄弟子にあたる。1771(明和8)年春に拙斎が茶山を訪ね、互いにはじめて知り合い、その親交は生涯つづいた。1790(寛政2)年、阿波藩からの招聘、1792年、加賀藩の招聘を断った。このように茶山が古文辞学から朱子学へと変わったこと、郷里に私塾を開いたこと、仕官に積極的ではなかったことなどは拙斎の影響かもしれない。

頼春水(らい しゅんすい 1746~1816)

  諱(いみな)は惟完(ただひろ)、字は千秋(せんしゅう)、通称は弥太郎、春水・拙巣・霞崖・和亭と号した。著書に「春水遺稿」「負剣録」などがあり、「芸備孝義伝(げいびこうぎでん)」を弟の杏坪とともに編集した。
 1746(延享3)年6月30日、安芸国竹原下市で紺屋(こうや)を営む頼惟清(らい・これすが)の長男に生まれ、幼少より父母の考えにより学問を修め、1764(宝暦14)年、19歳のとき持病の治療と称して大坂に行き、約5ヶ月間にわたり京坂の学者と対面していることが「東遊雑記(とうゆうざっき)」により知ることができる。これはこののち本格的に学問を学ぶための布石であった。1766(明和3)年2月、再度大坂にのぼり片山北海(かたやま・ほっかい)を盟主とする詩社「混沌社(こんとんしゃ)」に入っている。ここにはのちに「寛政の三博士」といわれた柴野栗山(しばの・りつざん)・古賀精里(こが・せいり)・尾藤二洲(びとう・じしゅう)らがおり、春水の名も大いに高まった。大坂では尾藤二洲・古賀精里らと朱子学を研究した。1773(安永2)年、28歳のとき大坂江戸堀に学塾「青山社(せいざんしゃ)」を開いた。1779年、34歳で大坂の儒医、飯岡義斎(いのおか・ぎさい)の娘、静子と結婚した。翌年には長男の山陽(さんよう)が生まれる。1781(天明元)年、広島藩学問所創設にあたり藩儒として登用され、1785年には藩の学制を朱子学に統一している。
 菅茶山とのはじめて出会いは1773(安永2)年、茶山26歳、春水28歳のとき、春水の学塾「青山社」に茶山が訪ねていることを「春水遺稿」に寄せた茶山の序文で知ることができる。これより生涯にわたる交友が始まった。二人の親交は世に無二のもので、それは春水の長男山陽に関してより深いものとなっていった。茶山はもう一人の父親のごとく山陽の将来のため心をいため尽くしている。

頼春風(らい しゅんぷう 1753~1825) 

  名は惟彊(ただたけ)、字は叔義・千齢(せんれい)、通称は松三郎、春風と号した。著書に「春風館詩鈔」「適肥(てきひ)」「芳山小記」などがある。
 頼惟清(らい・これすが)の次男として生まれ、1769(明和6)年、17歳のとき大坂に出て藤岡道築に医術を学び、尾藤二洲(びとうじしゅう)と親しく交わり朱子学を学んでいる。1773(安永2)年より竹原に帰り頼家の後を継いで医を開業した。竹原では塩田経営も行い1793(寛政5)年、兄の春水のすすめもあり郷塾「竹原書院」を開き、竹原の学問の振興に尽力した。
 菅茶山とのはじめての出会いは1788(天明8)年6月24日、茶山が宮島参詣の帰路に竹原に立ち寄り会っている。春風が書いた「春風館日記」には、それ以前より文は交わしていたことが窺(うかが)えるが、対面するのはこのときがはじめてであったようだ。その後は1805(文化2)年9月、茶山は竹原頼家の菩提寺である照蓮寺(しょうれんじ)に宿し、春風と旧交を交わしている。その8年後の1813年10月10日に春風は照蓮寺の片雲上人とともに神辺に茶山を訪ね、数日間逗留し国分寺に遊んでいる。また、その8年後の1821(文政4)年8月27日にも茶山を訪ねている。茶山は頼家の兄弟と親しくつきあいをしていたが、春水・杏坪の宮仕えよりも春風の束縛されない自由な生き方に共感していたようだ。

頼杏坪(らい きょうへい 1756~1834)

  名は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)、一字は季立(きりゅう)、通称は万四郎(まんしろう)、杏坪・春草(しゅんそう)と号した。著書に「春草堂詩鈔(しゅんそうどうししょう)」「遊石稿(ゆうせきこう)」などがある。「芸備孝義伝(げいびこうぎでん)」1・2巻を春水とともに編集。「芸藩通志(げいはんつうし」159巻の編纂にもあたっている。
 頼惟清(らい・これすが)の三男として生まれ、幼少より兄の春水のもとで学問を身につけ、1783(天明3)年、春水の江戸詰めに随行し服部栗斎(はっとり りっさい)に学び、翌年より備中鴨方の西山拙斎(にしやま せっさい)の「欽塾(きんじゅく)」で朱子学を学んだ。1785年、広島藩儒となり、以降春水とともに広島藩士子弟の教育にあたった。1797(寛政9)年以降は春水に代わり世子の侍読として江戸に赴いている。1811(文化8)年、藩から御納戸奉行上席で郡役所詰めとなり、1813年、三次(今の三次市の一部と双三郡の一部)・恵蘇(今の庄原市の一部と比婆郡の一部)両郡の代官となり、1816年には奴可(今の比婆郡に一部)・三上(今の庄原市の一部)両郡の代官を兼ね、朱子学者として直接郡政を担当し政治に実践した。杏坪の郡政に対する基本的な考えは「遊民を糾(ただ)し、貪吏(たんり)をしりぞけ、農を勧め、賦を薄(かる)く」という儒教的な考えに立っていた。菅茶山も『政治についての意見書』の中で「民が悪を行う原因は困窮にあり、困窮に陥らないようにするのが仁政であり、民を豊かにすることが上を豊かにする」としている。しかし朱子学の理想は現実には対応できず、杏坪の藩に対する建白書は受け入れられなかった。

頼山陽(らい さんよう 1780~1832)

  名は襄(のぼる)、字は子成(しせい)、通称は久太郎、山陽と号した。著書に「日本外史」「日本楽府(にほんがふ)」「通義(つうぎ)」「日本政記」「山陽詩鈔」「山陽文稿」「山陽遺稿」などがある。
 1780(安永9)年12月27日、頼春水(らい しゅんすい)・静子の長男として大坂江戸堀に生まれる。6歳まで大坂で育ち、その後広島に移った。1797(寛政9)年、18歳のとき叔父の頼杏坪(らい きょうへい)に従い江戸に遊学し、尾藤二洲(びとう じしゅう)に師事。1799年に御園道英(みその どうえい)の娘、淳(じゅん)と結婚し聿庵(いつあん)をもうけた。1800年広島藩を脱藩し廃嫡(はいちゃく)となり、1805(文化2)年まで自宅の一室に監禁される。1809年9月16日、菅茶山は広島の春水に山陽を廉塾の講師として迎えたいと手紙を出し、これに春水は同意し、翌月広島藩に内願書を提出、12月8日許可がおりた。そして12月27日、30歳の誕生日に広島をたった山陽は12月29日に神辺に着いた。茶山は姪と結婚させ夫婦養子にし、福山藩へ仕えさせようとしたが、山陽は「上菅茶山先生書」を提出しこの地に残る意思の無いことを示し、茶山もこれを承諾し、1811年2月6日、1年2ヵ月にして神辺を後に上京。京都では塾を開き多くの弟子を育てた。この間、小石元瑞(こいし・げんすい)の養女の梨影(りえ)と結婚し、支峰(しほう) 三樹三郎(みきさぶろう)を得る。1826(文政9)年に「日本外史」22巻を完成し、翌年に松平定信に献上。1830(天保元)に「日本楽府」1巻を刊行。しかし、「通義」「日本政記」の完成をまたずに病没した。

北條霞亭(ほうじょう かてい 1780~1823)

  名は譲、字は子譲、通称を譲四郎、霞亭・天放生と号した。志摩国(三重県)的矢の出身で、1797(寛政9)年に京都に遊学し、皆川淇園に朱子学、広岡文臺に医学を学んだ。1812(文化9)年、詩集「嵯峨樵歌(さがしょうか)」の序文を菅茶山から得て、翌年、廉塾の都講(とこう)となった。1815年、茶山の姪と結婚。1819(文政2)年から福山藩校弘道館の教授を勤め、1821年以降、江戸詰めとなり43歳に江戸で没した。

門田朴斎(もんでん ぼくさい 1797~1872)

 諱(いみな)を惟隣・重鄰、字は堯佐、朴斎と号した。備後国安那郡百谷村の山手氏の子に生まれ、門田政周の養子になった。1808(文化5)年に廉塾に入門し、菅茶山・頼山陽・北條霞亭に学んだ。1820(文政3)年、菅茶山の養子となるが、1827年に離縁された。1829年には福山藩御側付儒官となり江戸に住んだ。1853(嘉永6)年のペリー来航には攘夷を主張し、福山藩主阿部正弘に免職させられた。1861(文久1)年に再び侍講となり、1865(慶応1)年には福山藩校誠之館教授となり学政を担当した。

岡本豊彦(おかもと とよひこ 1773~1845)

  名は豊彦、字は子彦、通称は司馬、鯉喬・澄神齋などと号した。倉敷水江に生まれ、玉島の黒田綾山に学ぶ。1798(寛政10)年頃、上京し四條派の呉春に入門、門弟筆頭となった。呉春没後は「澄神社」という画塾を開き多くの画家を育成した。茶山は1794(寛政6)年の「北上歴」の旅で、京都で初めて豊彦と交わり、1816(文化13)年、豊彦は茶山を神辺に訪ねている。1818(文政元)年の茶山の「大和行日記」の旅でも親交を深めた。

藤井暮庵(ふじい ぼあん 1767~1844)

 名を公顕、字を士晦、通称は料助、暮庵と号した。神辺川南村庄屋の藤井秀助の子。1775(安永4)年、9歳で茶山に入門(茶山開塾以前)している。1782(天明2)年に茶山から名字および四言警辞を賜り名を惟明、字を士晦とした。1788年に茶山と「遊芸日記」の旅に出たり、江戸や大坂で多くの文人と交わった。1810(文化7)年、川北・川南村の大庄屋となり、廉塾の都講(とこう)もつとめた。はじめ備中上有井に塾を開くが、のちに川南村に「南北春水舎」という塾を経営した。

 尾藤二洲(びとう・じしゅう 1747~1813)

 名は孝肇、字は志伊、通称は良佐、二州・約山と号した。伊予国川之江村に生まれ、大坂に出て片山北海に師事、混沌社社友と交わる。1780(安永9)年大坂伏見両替町に塾を開いている。のちに幕府に招かれ昌平校講師となり、老中松平定信を補佐して「寛政異学の禁」を推進した。古賀精里(こが せいり)、柴野栗山(しばの りつざん)とともに寛政の三博士と言われる。
 茶山が京都遊学中の1780年5月1日に初めて対面している。また、1804(文化元)年7月18日、江戸滞在中の茶山を柴野栗山が詩宴に招いており、そこで再び対面している。

古賀精里(こが せいり 1797~1872)

 肥前国佐賀郡古賀村に生まれ、京坂地方に遊学し、尾藤二洲(びとう じしゅう)や頼春水(らい しゅんすい)と交わった。帰国後は藩に仕え弘道館教授となり、1796(寛政8)年、幕府に招かれ昌平校教授となった。寛政三博士の一人。
 茶山との対面は、1800年11月6日、肥前に帰国途中の精里が神辺に立ち寄り、その宿所を藤井暮庵(ふじい ぼあん)を伴って訪ねている。これ以後、茶山と精里の交流はさらに深まる。茶山の江戸滞在中の1804(文化元)年7月18日、茶山が柴野栗山(しばの りつざん)邸での詩宴に招き、8月には精里が茶山を招待している。茶山の帰郷後も黄葉夕陽村舎を精里が訪問したり、1814年の出府の際にも頻繁に往来している。

柴野栗山(しばの りつざん 1736~1807) 

 讃岐国三木郡牟礼村に生まれる。高松の後藤芝山に学んだ後、江戸に出て林家に従学した。その後、阿波国徳島藩の儒者となり、1788(天明8)年に幕府に招かれ昌平校の教授となった。寛政の三博士の一人で、老中松平定信を動かして朱子学以外の学問を禁ずる政策(寛政異学の禁)に尽力した。
 茶山とは1804(文化元)年、藩命で江戸へ赴いた時、栗山の詩宴に招かれ対面している。栗山は3年後に没しており、茶山は次の出府の際その墓参りに行っている。

梁川星巌(やながわ せいがん 1789~1858)

 名を卯→孟緯、字は伯兎→公圖、星巌・詩禅と号した。美濃国(岐阜県)安八郡曾根村に生まれ、19歳で江戸の山本北山に学んだ。その後、故郷に帰るが、1810(文化7)年に再び江戸で江湖社の詩人と交わる。1817年、白鴎社という詩社を組織した。
 1822(文政5)年、妻の紅蘭と西遊に出、翌年7月に菅茶山を訪ねた。それからも茶山の勧めで長崎に遊び、1825年11月3日に再び茶山を訪ねている。

武元登々庵(たけもと とうとうあん 1767~1818)

 名を正質、字は景文、登登庵と号した。備前国和気郡北方村(現岡山県備前市吉永町)の武元和七郎の長男に生まれ、閑谷学校に学んで神童と呼ばれた。病身であったため家督を弟君立(くんりゅう)に譲り、諸国を旅して多くの文人と交わった。江戸に出て一時、柴野栗山に入門したが、後に播磨の医師に学んで眼科医となった。漢詩(古詩)と書法の研究に専念し、「古詩韻範」5巻、「行庵詩草」6巻を著した。
 茶山との交流は、登登庵が備前国から京都に移住した後も続き、詩や書簡を応酬している。茶山江戸出府の往復の際には京坂(京都・大坂)で面会するなど親交は深かった。

 浦上玉堂(うらがみ ぎょくどう 1745~1820)

 姓は紀氏、名は弼、字は君輔、通称は兵右衛門、玉堂と号した。山水画を得意としたが、これらは独学ではないかと思われる。岡山に生まれ1751(宝暦元)年に家督を継ぎ、1760(宝暦10)年、岡山藩支封鴨方藩主池田政香(いけだ まさか)の御側詰を命ぜられた。 1794(寛政6)年、子の春琴・秋琴と城崎に遊び、そのまま脱藩した。大坂・江戸・会津・九州などを巡り1811(文化8)年、京都に落ち着いた。茶山との交流は1786(天明6)年、茶山が西山拙斎らと岡山を訪れたのが最初であった。玉堂は1806(文化3)年、九州からの帰りに廉塾に寄り「秋江独釣図」を残している。また1818(文政元)年の茶山の「大和行日記(やまとこうにっき)」の旅では、4月17日の清岡公の招飲に同伴している。

平田玉蘊(ひらた ぎょくうん 1787~1855)

 名は豊子・章、玉蘊と号す。尾道の豪商木綿屋福岡屋に生まれ、画を八田古秀を師とし、四條派を学んだ。頼春風に詩歌を学び、頼山陽、田能村竹田などの文人と交わった。茶山とは近隣なので交わりも深く、玉蘊の画に茶山が賛したものも多くみられる。

 広瀬蒙斎(ひろせ もうさい 1768~1829)

 徳川中期、江戸の儒者。名を典、字を以寧→仁重→仲謨、通称は台八、蒙斎と号した。奥州白河の出身で、柴野栗山に学び松平定信に仕え幕政に参加した。1796(寛政8)年11月29日に茶山を訪ねたのを機に、翌年には茶山と三原観梅に出かけるなど親しく交わっている。著書に「白河古事考」「讚藪」「筆林」「蒙斎文集」「京都漫草」などがある。

佐藤一斎(さとう いっさい 1772~1859)

 名を坦、字を大道、通称は幾久蔵・捨蔵、一斎・愛日楼・老吾軒・百之寮・風自寮などと号した。美濃国(岐阜県)岩瀬藩の江戸藩邸に生まれ、19歳の時、藩に仕え藩主の第三子である林述斎の近侍となり、ともに勉学に励んだ。関西に遊んで大坂の中井竹山や京都の皆川淇園などに学び、再び江戸に帰り、改めて林家の門の林述斎に学んだ。
 1804(文化元)年、茶山の江戸滞在中にはじめて茶山と交わっている。翌年に林家の塾長となり、述斎没後は幕府儒官となり昌平校で授業にあたった。1806年春に一斎が茶山のために「亭記」を作って市河米庵に書かせて贈っていることが、茶山の『黄葉夕陽村舎詩』前編巻8「佐藤一斎為余作亭記使河三亥書以寄賦此言謝」という詩からもわかる。この「亭記」が「廉塾記」と思われる。

 田中索我(たなか さくが 1742~1814)

 江戸時代後期の画家。諱(いみな)は守貫、通称は秀輔、索我と号した。備中鴨方に生まれ、幼いときより画才を発揮し、京都の鶴澤探索(つるざわ・たんさく)に学んだ。1770(明和7)年、宮中仙洞御所(せんどうごしょ)の屏風・杉戸を制作。1789(寛政元)年、法橋位に叙せられ、翌年には禁裏仙洞御所の曲屏風を描いた。作品は山水人物図が多く、花鳥画としては同地の旧家高戸家に伝来した「孔雀図」などが代表作といえる。茶山とは西山拙斎を介して交わったと思われ、その親交は深かった。索我の墓誌は拙斎の撰によるものである。

鈴鹿秀満(すずか ひでまろ 1797~1877)

 幼名は織部之助、のちに五十鈴、字は魏祖、諱は秀満、通称翠柳軒・柳舎、翠柳軒蛙遊と号した。父は神辺大明神祠、平佐帯刀由秀、母は下有地村の人。漢籍を茶山に、国学・和歌を小寺清之に学ぶ。16歳頃上京し神宮裁許状を取得し、神辺大明神の社司となり、明治維新後には安那・品治・芦田三郡の注連頭となった。生涯に24,000余首を詠んだといわれている。中でも「梅百首歌」「櫻百首歌」は、ともに1日で百首を吟じたという名品であり、軽妙な筆致(ひっち)からは、その能筆(のうひつ)ぶりがうかがえる。

  • 筆致…文字・文章などの書きぶり
  • 能筆…専門的に習ったことがあり、格にはまった字を書く人

田能村竹田(たのむら ちくでん 1777~1835)

 名は孝憲、字は彜、通称は行蔵、竹田と号した。大分県竹田に生まれ、岡藩の儒官として仕えたが、藩政改革の建白書が認められず、37歳で隠居し、書画生活に入った。江戸末期を代表する文人画家であるとともに、茶道・香道・詩歌にも造けいが深い。1823(文政6)年と1826年の2度にわたり廉塾に茶山を訪ねている。

 菅恥庵(かん ちあん 1768~1800)

 菅茶山の末弟。名は晋葆・晋寶、字は信卿、通称は圭二、恥庵・三閘・小駅と号した。1782(天明2)年に西山拙斎に入門。1786年秋、京都に遊び、道光上人、沈雲上人らと親交を深めた。1798(寛政9)年、肥前長崎を旅し、翌年4月に帰郷。同年秋、京都に上り塾を開いたが、1年足らずで没した。茶山の詩集「黄葉夕陽村舎詩」の付録には恥庵の詩文が収められている。

小早川文吾(こばやかわ ぶんご 1782~1880)

 字を景汲、通称は文吾、薇山・太平楽々翁と号した。備後国芦田郡土生村の出身で、神辺で医を業としていた小早川享説の第二子で、菅茶山に入門した。茶山没後に塾を開いたが、晩年失明しても講義を続けたという。

 如實上人(にょじつ しょうにん 不明)

 備後国分寺元禄の再建より4代目の住職。紀州高野山の顕生院より国分寺に転住。和歌を嗜(たしな)んだり、花を愛(め)でるなどの風流人であったため、茶山もよく国分寺を訪ねている。茶山の編纂した『福山志料(ふくやましりょう)』には、「如實は紀州の産、和歌を好み、草花を愛して、無欲な僧なり、西山拙斎と善し」とある。1784(天明4)年3月20日、茶山は鴨方の西山拙斎と国分寺に遊んでいる。国分寺境内には上人の墓碑があるが、享年や詳細は不明である。

乗如上人(じょうにょ しょうにん 1759~1835)

 備後国安那郡徳田村に生まれる。名を乗如、慧充・丹崖と号す。1771(明和8)年、13歳で真言宗寶泉寺(ほうせんじ)へ入る。住持観如上人に従って剃髪、傍ら茶山に経史、詩書を学んだ。1778(安永7)年、高野山に登り、寶性院門主兼正智院住職の覚道法印の愛顧を受け、1793(寛政5)年、郷里の観如上人入寂をうけて寶泉寺の住職となった。1799年、41歳で再び高野山へ入り、その聖善院の住職となり、やがて正智院に転住、1814(文化11)年、56歳で碩学に推挙される。1821(文政4)年、寶性院門主となり、師覚道の後を継いだ。

谷文晁(たに ぶんちょう 1763~1840)

 名を正安・文朝・文晁、字は子方・子晁・文伍、通称は文吾郎、師陵・山東居士・東海・一如・写山楼などと号した。江戸で加藤文麗、渡辺玄對、鈴木芙蓉、北川寒巖に画を学んだ。松平定信に従い伊豆・相模を巡遊し、また、「集古十種」編纂した。
 茶山の1度目の江戸出府(1804年)以降に親交があったが、それ以前の茶山の詩題に文晁の名が見えることから、もっと早い時期から交友していたものと考えられる。ちなみに「黄葉夕陽村舎詩」の中には文晁の名が見えるものが7首ある。

橋本竹下(はしもと ちっか 1790~1862)

 名は旋、字は元吉、通称は灰屋吉兵衛のちに荘右衛門、竹下と号した。備後国三原の川口家に生まれ、尾道の豪商橋本徳貞の養子となった。19歳で家督となり、町年寄となって慈善事業に尽力した。詩は茶山に学び、後に頼山陽を師として詩集「竹下詩鈔」を著した。また、山陽のよき理解者として物心両面から支援した。それに対し山陽は、竹下の求めに応じて豊前国の渓谷を写した「耶馬溪図巻」を制作している。

 木村雅寿(きむら がじゅ 1791~1837)

 名は雅寿、字は鶴卿、通称は考安、楓窓・渫庵・渫翁と号した。備後国府中(広島県府中市)の医者で、1805(文化2)年から1810(文化7)年まで廉塾で学び、1831(天保2)年に郷里に私塾「学半書院」を開いた。茶山は晩年に随筆集「筆のすさび」を作成するにあたり、稿本1巻の校正を雅寿に依頼したが、茶山は病臥したため残りの3巻についても委ねている。その後、弟子たちによって「筆のすさび」が出版されたのは茶山・雅寿ともに没後の1856(安政3)年のことである。

大原呑響(おおはら どんきょう 1761~1810)

 名は翼、字は雲卿、通称は観次・左金吾、呑響・墨斎と号した。奥州国大原(岩手県)に生まれ、若き頃から諸国を遊歴し、武術・兵学・砲術にも詳しく海外の事情にも精通していた。京都で書画をよくしている。1789(文政元)年に西国遊歴の際に廉塾を訪ねており、茶山の北上歴の旅では京都で連日交わっている。また、1804(文化元)年の茶山の江戸出府の際にも江戸で親交を深めている。

 蠣崎波響(かきざき はきょう 1764~1826)

 松前(北海道松前郡松前町)藩主・松前資廣(まつまえ すけひろ)の5男に生まれ、家老の蠣崎家の養子となり藩政にたずさわる。花鳥画を得意とし、建部凌岱(たけべ りょうたい)・宋紫石(そう しせき)に学んだ。また、円山応挙(まるやま おうきょ)・呉春(ごしゅん)らの四条派の画家や、六如(りくにょ)や茶山らの詩人とも親しく交わっている。1794(寛政6)年7月15日、京都滞在中の茶山は、大原呑響の招宴で波響と初めて対面し、以後この旅の間に親しく交わっている。茶山はともに巨椋湖(おぐらこ)で舟遊し、賞月会を行った事を懐かしみ、波響に「巨椋湖月下舟遊図(おぐらこげっかしゅうゆうず)」を依頼し描かせている。

広瀬旭荘(ひろせ きょくそう 1807~1863)

 名は謙、字は吉甫、通称は謙吉、旭荘などと号した。豊後国日田に広瀬淡窓の末弟として生まれ、17歳の時に淡窓の養子となった。筑前の亀井招陽に学び、神童と言われた。1827(文政10)年5月14日に茶山を訪ねており、茶山にとって最後の遠来の客となった。その際の年老いた茶山の面影を伝えたものが旭荘の随筆「九桂草堂随筆」や「塗説」に記載されている。

 伊能忠敬(いのう ただたか 1745~1818)

 江戸時代中~後期の地理学者・測量家。字を子齊、通称は三郎右衞門、東河と号した。1745(延享2)年、上総国(かずさこく)山武郡小関村(現在の千葉県)生まれる。少年時代には寺僧について算数や医学を学んだ。18歳の時、上総国佐原町の旧家伊能家の婿養子となり、以後も自ら算数・測量・天文学を研究し、その傍ら漢詩や狂歌も好んだ。また村の名主となり、利根川の洪水や浅間山の噴火などの災害時には、私費を投じて村民の救済にあたり、天明の大飢饉の際には関西地方で米を買い、それを関東の被災地に分配してその急場を救うなどした。
 1794(寛政6)年、50歳の時、長子に家督を譲り、翌年江戸に出て天文の研究を深める。そのうち地理学に興味を覚え、1800年6月11日、幕府の命を受け、蝦夷(えぞ=北海道)の測量を開始する。以後も日本全国をめぐり17年の歳月を費やし、その測量を終えた。しかし、2年後の1818(文政元)年4月18日、わが国最初の実測地図の完成を待たず74歳で歿した。その3年後の1821年、箱田良助(はこだ りょうすけ)ら弟子たちにより編纂された『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』・『輿地実測録(よちじっそくろく)』が幕府に提出された。
 茶山との交流は1806(文化6)年、忠敬が九州第1次測量(第8次測量)に向かう途中の11月27日、神辺に宿泊しているところへ茶山が出向いて面会している。また、帰路の1811年、弟子の箱田良助の生家に宿泊しているところへ茶山は使者を送っている。1812年1月12日、再び神辺を訪れた忠敬から茶山は銅版の万国図を贈られた。そして、1814年、茶山の2度目の江戸滞在の際には互いに行き来して親交を深めている。
 茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩』には「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生、命を奉り諸道行きて測量、次いで見え問い賦して贈る)という詩がある。

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