教育者としての菅茶山
なぜ塾を開いたか
江戸時代神辺は、参勤交代制度によって大名行列の一行が泊まった本陣があり、宿場町として栄えていました。しかし、一方では博打をしたりして働かずに遊ぶ人も多かったので、茶山は「町を歩く人はみな博徒(ばくと)で、酒飲みは多いけれど、本を読んで学問をする人は一人も見当たらない。」と、町の様子を嘆いています。そこで、茶山は自ら学問をおさめ、それを若い人たちに教えることで町を良くしたいと考え塾を開きました。
参勤交代…江戸幕府が諸大名や交代寄合(こうたいよりあい)の旗本(はたもと)に課した義務のひとつ。各国の諸大名は原則として一年おきに交代で、石高(こくだか)に応じた人数を率(ひき)いて江戸屋敷へ出向いた。
廉塾について
「廉塾(れんじゅく)」は1775(安永4)年、茶山が28歳の時に神辺に開設した私塾です。初期の塾は、素読(そどく)を教える寺子屋のようなものと考えられますが、次第に発展し、1785(天明5)年には、「金粟園(きんぞくえん)」と称して他国の講師による講義も行われました。1792(寛政4)年頃には居宅に南面する黄葉山(こうようざん)に由来して「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」「閭塾(りょじゅく)」と称しました。さらに、1796(寛政8)年には、塾を永続するため塾の建物、塾附属の田畑を藩に献上し、福山藩の郷校(藩が認めた学校)になり、この頃から「廉塾」「神辺学問所」と呼ぶようになりました。
塾は、桟瓦葺平屋建てで、3室20畳の講堂、茶山居宅、寮舎(りょうしゃ)、祠堂(しどう)、書庫などからなり、茶山とともに藤井暮庵、頼山陽、北條霞亭など都講(塾頭)による四書五経を中心とした講釈が行なわれ、寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの塾生が2~3年にわたって学んでいます。
江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、1953(昭和28)年3月31日に国の特別史跡に指定されました。現在も桟瓦葺2階建ての居宅とともに、講堂、寮舎、養魚池などが旧観を維持し保存されている郷塾としては数少ない例です。
- 素読…書物や漢文で、内容の理解は二の次にして、文字だけを声を出して読むこと。
- 寺子屋・・・僧侶・武士・神官・医者などが師となり「読み・書き・そろばん」を教える庶民の教育施設。現在の小学校のようなもの。
廉塾の名前の由来
茶山が「廉塾」の名前について記録に残したものは今のところわかっていませんが、「廉」という字には「倹約(けんやく)をする・贅沢(ぜいたく)をしない」という意味があり、茶山の教育方針に沿ったものと考えられています。
茶山の教育方針
茶山の教育方針は、塾での生活は学問のためでお金は必要なく、貧富や親疎(しんそ)によって塾生を差別せず、どんな人でも分け隔てなく学ぶ機会を与えるというものでした。そして日頃から読書が大切であると教え、詩文会を月6回行い、塾生は必ず漢詩を作り出席しなければなりませんでした。それは、漢詩を作るためには大変多くの知識が必要で、本を読まなければ決して作ることが出来ず、日頃の読書を欠かさずさせるためでもありました。それでいて日頃はむやみに漢詩を作らず、あくまで読書を第一にすることと教えました。
また、茶山はできるだけ若いうちから学問をして欲しかったようです。それは、年を取ってからでは仕事や家庭で暇がなくなり、学問を集中してできるのは若いうちに限ると考えたからです。その若い大事な時期を遊んで過ごしたのでは自分にとって大きな損になり、本を読む時間があるのは幸せなことで、そういった環境には感謝しなければならないと教えていました。
- 親疎…親しいかそうでないか
- 詩文会…漢詩を読む会
廉塾での勉強について
廉塾では、中国の学問の儒学を中心とした授業がおこなわれ「四書(ししょ)」「五経(ごきょう9」という、儒学の基本となる書物が教科書として使われていました。その中で生徒たちは政治や道徳の教え、漢詩の作り方などを学びました。また茶山は学問だけでなく日頃の礼儀や作法を大切とし、塾生には規律を設け守らせています。
廉塾での授業は大変高度なもので、「四書」の中の「中庸(ちゅうよう)」や「孟子(もうし)」を使った講釈が中心の授業には、ついていくだけでも大変でした。そこで茶山は、場合によってはくわしい弟子を付けてやり、誰もが理解できるように計らったといわれています。
ちなみに廉塾にやってきた生徒の多くは、すでに寺子屋などの初等教育を受けていたようです。
廉塾での規約
茶山は生徒の廉塾での生活を学問中心にするため、いろんな規約を設けました。また、日頃の礼儀作法についても重んじた規約を設けています。
- 読書は日々欠かさぬこと。
- 講義に出られない時はその理由を申し出ること。
- みだらに大声など出して他の人の邪魔をしないこと。
- 講義の前にそこで使う書物をよく見ておくこと。聞き漏らしたところは後で尋ねること。
- 講義中は互いに笑ったり、にらんだりせず、中座や居眠りはしないこと。
- 詩文会は月6回あるから、それ以外ではみだりに詩を作らず、読書を第一とすること。そして6回の詩文会には必ず出席すること。
- 同席にいる人は立ったり座ったりする時は必ず礼儀を正し、相手に丁寧に挨拶をすること。互いに好ましくない言葉を使わないこと。
- 後輩や年若い者を年長者はいたわり、行儀を教え、仮にもいじめたり冷やかしたりしないこと。
- 学問の機会があるのは幸せなことで、その機会を与えてくれた家族の気持ちを無駄にせず感謝を忘れないこと。
このほか「炊事・火の用心・戸締り」などといった生活の基本的なことについても規約を設けています。
廉塾の手水鉢について
廉塾には丸と四角を並べた手水鉢(ちょうずばち)があり、これは「水は器によってどんな形にもなる」ということを意味し、「人は環境や教育、交友などによってよくも悪くもなる」ということを茶山は教えたかったようです。
- 手水鉢…手洗い用の水を入れておく鉢
生徒の募集について
廉塾ではお金持ちの人、そうでない人に関係なく誰でも学問を学ぶことができ、常におよそ20~30人の生徒が学んでいました。茶山は漢詩人として、とても有名だったので次々に生徒が集まりました。
生徒は福山藩をはじめ四国・九州・近畿・東北地方など全国各地から集まり、その数はおよそ2,000~3,000人と推測されます。
- 漢詩人…漢字で詩をつくる人