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記念館周辺の風景

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新

廉塾ならびに菅茶山旧宅 神辺本陣 備後国分寺 堂々川砂留 神辺平野 八丈岩 大坊古墳

 迫山第1号古墳 葛原邸 夕日のまち神辺 箱田良助生誕之地記念碑 吉野山の桜とあじさいロード 丁谷の梅林

廉塾ならびに菅茶山旧宅(国特別史跡)

廉塾ならびに菅茶山居宅
廉塾ならびに菅茶山居宅
廉塾前の菜園
廉塾前の菜園

 「廉塾(れんじゅく)」は1775(安永4)年、茶山が28歳の時に神辺に開設した私塾です。初期の塾は、素読(そどく)を教える寺子屋のようなものと考えられますが、次第に発展し、1785(天明5)年には、「金粟園(きんぞくえん)」と称して他国の講師による講義も行われました。1792(寛政4)年頃には居宅に南面する黄葉山(こうようざん)に由来して「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」「閭塾(りょじゅく)」と称しました。さらに、1796(寛政8)年には、塾を永続するため塾の建物、塾附属の田畑を藩に献上し、福山藩の郷校(藩が認めた学校)になり、この頃から「廉塾」「神辺学問所」と呼ぶようになりました。
塾は、桟瓦葺平屋建てで、3室20畳の講堂、茶山居宅、寮舎(りょうしゃ)、祠堂(しどう)、書庫などからなり、茶山とともに藤井暮庵、頼山陽、北條霞亭など都講(塾頭)による四書五経を中心とした講釈が行なわれ、寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの塾生が2~3年にわたって学んでいます。
 江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、1953(昭和28)年3月31日に国の特別史跡に指定されました。現在も桟瓦葺2階建ての居宅とともに、講堂、寮舎、養魚池などが旧観を維持し保存されている郷塾としては数少ない例です。
•素読…書物や漢文で、内容の理解は二の次にして、文字だけを声を出して読むこと。
•寺子屋・・・僧侶・武士・神官・医者などが師となり「読み・書き・そろばん」を教える庶民の教育施設。現在の小学校のようなもの。

     神辺本陣(広島県重要文化財)

    神辺本陣
    神辺本陣
    神辺本陣入口
    神辺本陣入口

     本陣は大名宿ともいわれ、街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人などの宿泊所のことです。
     江戸時代の神辺は、備中国矢掛(現岡山県小田郡矢掛町)と、備後国今津(現福山市松永町)の中間に位置する宿場町として栄え、当時は七日市の東本陣と三日市の西本陣の2軒がありましたが、現在では西本陣のみ現存しています。一般的には本陣(大名とその重臣の宿泊所)と脇本陣(下臣の宿泊所)とがありますが、神辺の場合、本陣・脇本陣の関係はなく、三日市の尾道屋菅波家を西本陣、その分家筋にあたる本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣については資料が残っておらずはっきりとしませんが、現存する西本陣は1660年頃、筑前(現福岡県)の黒田家の通行に際して本陣をつとめたのが始まりといわれ、それ以来、黒田家専用の本陣とされました。その他の大名の宿泊には東本陣を利用し、東本陣の都合の悪い時には黒田家以外の御用もつとめていました。本来西本陣は酒造業を本業としており、今でもその施設は一部を除き残っています。平常の居宅としては21室163畳でしたが、大名の宿泊の際には2階座敷・蔵座敷などを加え27室200畳余りを使用し、50~70人の大名及び付添衆を収容していました。そして、その他のものは周辺の寺院や町屋に分泊し、その分泊の宿割も本陣のつとめでした。参勤交代での大名の利用の場合は、わずかな黒字でしたが、その他の利用では赤字であったため、本陣施設の維持には、本業の酒造業で得た利益で田畑を購入し、そこからでた利米を維持修復費として備える方法を2度にわたり福山藩に願い出ています。
     現在、住居と酒造業施設の一部は消滅していますが、1746(延享3)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、本陣に関係ある施設は馬屋や物見櫓にいたるまで当時の面影をよく残し保存されています。それらは1969(昭和44)年広島県の重要文化財に指定されました。

    備後国分寺

    備後国分寺
    備後国分寺
    国分寺参道
    国分寺参道

     備後国分寺は、741(天平13)年、聖武天皇の発した国分寺建立詔(みことのり)により、国ごとに建立された官寺です。正式名称を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」といい、奈良の東大寺を総国分寺としています。
     1550(天文19)年、戦火により焼失した本堂が再建されました。しかし、1673(延宝元)年、大原池の決壊による堂々川の氾濫で流失し、再び寺観は荒廃してしまいます。そして、1694(元禄7)年、第4代福山藩主水野勝種(みずの・かつたね)の援助により、災害を避けるために元の位置より上流側に本堂が再々建されました。
     1972(昭和47)年からの4次にわたる発掘により、東西600尺(180メートル)の寺域が判明し、塔・金堂・講堂ならびに南門跡の検出で、法起寺式伽藍(がらん)配置であることがわかっています。
     また、国分尼寺は福山市神辺町湯野にあったと推測されています。

    • 伽藍配置…寺院における堂塔の配置形式で、四天王寺式・法隆寺式・川原寺式などがある

     堂々川砂留(国登録有形文化財)

    堂々川1番砂留
    堂々川1番砂留
    堂々川6番砂留
    堂々川6番砂留

     堂々川は、1級水系芦田川の支川高屋川の小支で、流域は約2k平方メートルと小さいですが、江戸時代に渓流砂防工事が実施された代表的な渓流です。
     1673(延宝元)年、堂々川の氾濫により国分寺は流失し、下御領村(現在の福山市神辺町下御領)では63人もの犠牲者を出しました。こういった災害から村を守るため堂々川流域では、1730年頃から砂留(砂防ダム)が建設され、今でも16基が現存しています。その中で最も大きな6番砂留は、大砂留とも言われ、堤高13.3m、堤長55.8mもあります。基礎部分は1773(安永2)年頃築造され、下層部は1835(天保6)年、中層部は1882(明治15)年頃増築されました。さらに、上層部は昭和51年に積み替えられたものであり、今でも貴重な文化財としてその姿を伝えています。

     神辺平野

    福山市神辺歴史民俗資料館から見る神辺平野
    福山市神辺歴史民俗資料館から見る神辺平野
    雲海
    冬には雲海が見れることもあります
    (写真撮影2006年12月15日)

     神辺平野では、縄文時代後期(約3,500年前)以降の人々の生活跡が随処で発見されています。弥生時代前期(約2,300年前)には、弥生人により環濠集落が形成され、稲作が営まれていました。弥生時代初期の環濠集落は、広島県では亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡の3例しか見つかっておらず、そのすべてが神辺平野にあります。

    • 環濠集落…弥生時代の集落形態で、集落の周りを濠で囲み、防衛や農業用水路として利用していた

    八丈岩

    八丈岩
    八丈岩
    御領山山頂
    御領山山頂

     八丈岩は、御領山の代名詞的な巨岩で、およそ東西5間半(約10m)、南北7間半(約13.5m)、高さ2間半(約4.5m)の平らな岩で、昔は八龍岩と呼ばれていたそうです。上部の平らな面の一部には「鬼の足跡」と呼ばれるくぼみがあり、これが現在の創作民話「八丈岩の鬼伝説」の元になったものと思われます。
     御領山には、このほかにも、千人もの人が隠れることができるといわれるくらい大きな「千人隠れ岩」や、富士山に似た「富士岩」など、数多くの巨岩があります。

    大坊古墳(広島県史跡)

    大坊古墳入口
    大坊古墳入口
    石室内
    石室内

     大坊古墳は、直径約14m、高さ約5mの南北にやや長い円墳です。石室の長さは約11.3m、幅・高さともに約2mと非常に大きな規模です。しかし、昔から入口が開いており、残念ながら副葬品は不明です。
     この古墳の特徴は、花崗岩の表面を磨いたような石材を使用していること、玄室と羨道(せんどう)がほぼ同じ規模でつくられていることがあげられます。また、玄室が床面の中央に置かれた2個の石により、前後の2室に分けられています。これらの特徴から大坊古墳は、7世紀の初めの古墳時代の終わりに頃、この地方の有力な豪族の家族の墓として築かれたものではないかと考えられています。

    • 玄室…遺体を葬る部屋
    • 羨道・・・玄室へいたる廊下

    迫山第1号古墳(広島県史跡)

    迫山第1号古墳
    迫山第1号古墳
    迫山第1号~11号古墳の分布図
    迫山第1号~11号古墳の分布図
    (青色が第1号古墳)

     広島県内でも大型の横穴式石室をもつ迫山第1号古墳は、6世紀末の古墳時代後期につくられ、直径約21.5m、高さ約5mの円墳で、この地域のリーダーとその家族が葬られていました。石室は全長約11.6m、玄室高約2.8m、玄室幅約2.5mの片袖式横穴石室で、石室内からは武器類をはじめ、馬具・袋身具・土器などのさまざまな副葬品が発掘され、なかでも儀式に使用された環頭太刀(かんとうたち)は、このリーダーが畿内(きない)政権と非常に親しい関係にあったことを示す出土品といえます。この太刀を持つことができる人物は限られており、迫山古墳群だけでなく、神辺平野の東部地域の軍事組織を統率した指揮官クラスの人物であったと思われます。
     また、この迫山古墳群の眼下にある大宮遺跡からは大型建物群の集落が見つかっており、この古墳群に葬られた人たちが暮らしていた館跡(やかたあと)ではないかと考えられています。

    葛原邸

    葛原邸
    葛原邸
    葛原しげる童謡碑
    葛原しげる童謡碑

     福山市名誉市民で童謡作詞家の葛原しげると、祖父で生田流筝曲の師と言われる葛原勾当の生家。現在は「葛原文化保存会」により、定期的に清掃され、葛原祭などの催しが行なわれています。
    ※葛原しげる・勾当については【施設概要・展示物】へ

    夕日のまち神辺

    神辺支所付近から見た夕日
    旧神辺支所付近から見た夕日
    福山市神辺文化会館付近から見た夕日
    福山市神辺文化会館付近から見た夕日

     福山市神辺町は「夕日のまち神辺」とも言われ、昔から夕日の美しいところです。葛原しげるの代表曲「夕日」も、この夕日を見て作詩しています。

    箱田良助生誕之地記念碑

    箱田良助顕彰碑及び菅茶山詩碑
    箱田良助顕彰碑(左)
    箱田を詠んだ菅茶山の詩碑(右)
    箱田良助生家
    箱田良助生家

     伊能忠敬の筆頭弟子として「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」の完成に貢献した箱田良助の生家。生誕の地としての記念碑と、この地(箱田)を詠んだ菅茶山の詩碑(箱田道中)が建立されています。
    ※箱田良助については【施設概要・展示物】」へ
    ※菅茶山の詩碑については【菅茶山について・菅茶山詩碑めぐり】へ

    吉野山の桜とあじさいロード

    吉野山の桜
    吉野山の桜
    あじさいロード
    あじさいロード

     神辺城址のある吉野山は、春には桜が、梅雨時期にはあじさいが咲き乱れ、多くの人で賑わいます。また、毎年桜の開花に合わせて夜間のライトアップが実施されています。

    丁谷の梅林

    丁谷の梅林
    丁谷の梅林
    茶山山陽餞飲之所碑
    茶山山陽餞飲之所碑

     丁谷(ようろだに)は、茶山の時代から梅の名所として多くの人が訪れていました。茶山もよくここで梅見をし、その紀行のようすも残されています。漢詩でも梅についてのものを数多く残しており、この丁谷の梅林の事であると思われるものも幾つかあります。
     また、茶山は廉塾に滞在した頼山陽を見送るため、一緒にこの梅林を訪れ、名残りを惜しんでいます。 

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