福山市神辺歴史民俗資料館 > 神辺の文化財 > 広島県指定文化財 > 神辺の文化財 「広島県指定文化財」
神辺の文化財 「広島県指定文化財」
印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新
単鳳環頭大刀 (広島県重要文化財)
1987年3月30日指定
単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は、復元全長約80cm、刃の長さ約56cmで、迫山第1号古墳(広島県史跡)の横穴式石室内から出土しました。柄に8面体の金銅製筒金具、柄頭に楕円形(長径6.0cm、短径4.3cm)の金銅製環頭が装着され、環頭中央に鳳凰、周りに2頭の龍が施されています。県内では3例目の単鳳環頭大刀で、畿内を中心とする大和政権から地方豪族を掌握する過程で政治的・軍事的シンボルとして、この地域を統率するリーダーに分与されたものと考えられています。古墳時代後期(6世紀)における工芸技術の粋が集められており、当時の技術力の高さがうかがえます。また、大和政権と備後南部におけるこの時代の政治的動向を示す大変貴重な資料といえます。 |
銅製鰐口 (広島県重要文化財)
1980年6月24日指定
鰐口(わにぐち)とは、神社の本殿やお寺の本堂の軒先に「鉦の緒」と呼ばれる太紐とともに吊り下げ、参拝者が祈願する際に打ち鳴らす音響具のことです。音を響かせるため中は空洞になっており、音を外に出すため側面下部が大きく開かれ、それが鰐の口に似ていることから鎌倉時代頃より「鰐口」と呼ばれるようになりました。その多くは銅製ですが、鉄製のものもあります。現存する最古と思われるものは1001(長保3)年の銘が入っています。 蓮乗院に伝わるこの鰐口は銅製で、直径34.7cm、厚さ16.0cm、重さ11.5kgで、表裏2面を同じ型で鋳造し、それをあわせた形式になっています。表面には最初に刻まれた銘文を消し、後に追刻したようすがあり、右側に「備後国安那郡八尋村神宮寺」と刻まれ、その下の最初の銘文は判別不能でかすかに跡を残すだけとなっています。また左側の銘文は、追刻はないものの、かすかにしか残っておらず、「右旨趣者●天下泰平●●●」と一部はすでに読むことができません。裏面右側には「應永(応永)十六年二月日」とあり、左側には「大願主惣且中」とあります。これらのことから、この鰐口は広島県で4番目に古く、室町時代中期の応永16年(1409)年、村人が願いを込め蓮乗院の前身である神宮寺に寄進したものとわかります。 |
神辺本陣 (広島県重要文化財)
1969年4月28日指定
本陣とは、本来戦場において大将が位置する本営のことをいい、それが街道の宿場に置かれた武将の宿泊所を指すようになりました。別名「大名宿」ともいわれ、大名・旗本・幕府役人などが利用していました。本陣の主人には名字帯刀が許され、門・玄関・上段の間などを設けることが特権のようになっていました。原則として一般の者を泊めることはできず、大名が泊まることも度々あるわけではなく、経営難に陥る所も少なくありませんでした。そのため他の仕事を兼業している所が多くありました。 江戸時代の神辺は、近世山陽道・石州銀山道・笠岡道・福山道の主要道が交わる交通の要所であり、また、備中国矢掛(現岡山県小田郡矢掛町)と備後国今津(現福山市松永町)の中間に位置する宿場町で、福山藩内で最も多く参勤交代の大名が泊まる宿駅として栄えました。 当時の神辺には三日市の西本陣と、七日市の東本陣とがありましたが、今は西本陣だけが現存しています。現在の西本陣は「神辺本陣」と呼ばれていますが、当時は「神辺駅西本陣」と呼ばれていました。一般的に本陣は「本陣(大名とその重臣の宿泊所)」と「脇本陣(下臣の宿泊所)」とに分かれますが、神辺の場合、本陣・脇本陣の関係ではなく、三日市の尾道屋菅波家を西本陣、そして、その分家筋にあたる七日市の本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣については資料が残っておらずはっきりとしませんが、西本陣は1660年頃に筑前(現福岡県)の黒田家の通行に際して本陣を務めたのが始まりといわれ、それ以来、黒田家専用の本陣とされました。その他の大名の宿泊には東本陣を利用し、東本陣の都合が悪いときには西本陣が黒田家以外の御用も務めたとされます。平常の居宅は21室163畳でしたが、大名の宿泊の際には2階座敷や蔵座敷などを加え27室200畳余りを使用し、50~70人の大名及び付添衆を収容していたといわれています。そして、その他の者は周辺の寺院や町屋に分泊し、その分泊の宿割も本陣の務めでした。参勤交代で大名が利用する場合はわずかながらの黒字でしたが、その他が利用する場合は赤字であったため、本陣施設の維持・修復には、本業の酒造業で得た利益で田畑を購入し、そこから出た利米で備える方法を2度にわたり福山藩に願い出ています。 神辺本陣は特権的な上段ノ間を設けておらず、御成ノ間がその役割を果たしていました。山陽道に面した御成門から番所のある庭を隔てて母屋に至り、玄関・玄関の間・三ノ間と続き、三ノ間の左側が二の間で御成ノ間へと続いています。現在、住居と酒造業施設の一部は消滅していますが、1748(延享5)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、馬屋や物見櫓にいたるまで、参勤交代の諸侯が宿泊した面影をよく残して保存されており、当時の貴重な姿を今に伝えてくれています。 |
菅波信道一代記 (広島県重要文化財)
2002年2月14日指定
菅波信道一代記は、江戸時代後期に神辺駅西本陣(現神辺本陣=広島県重要文化財)役を務めた尾道屋菅波家第11代当主・菅波信道(1792~1868年)が、子孫への教訓として生まれた年の1792(寛政4)年から晩年の1860(安政7)年にかけての生涯を自ら口述し、それを筆記させた自叙伝です。 信道は青年期に菅茶山(かん・ちゃざん)の廉塾(国特別史跡)で学びますが、商才を見出した茶山の勧めで尾道屋菅波家の養子となります。当時の尾道屋は多くの借財を抱えていましたが、養父亡き後、当主となった信道は、家屋敷だけを残して借金を返済し、その後、本業の酒造業で大成功を収めます。そして、1831(天保2)~1847(弘化4)年にかけて本陣施設から酒造業施設にいたるまでの全面改修や、質に入れた田畑山林の請戻し、さらに買い足しを行うなど、尾道屋の再興・繁栄に尽力しています。しかし1835(天保6)年、再興の真っ只中、突然失明してしまいます。その落胆と家の発展への情熱が一代記を残す契機になったと言われています。 「菅波信道一代記」は目録・巻之序・前編33巻・後編4巻の39冊で、対の「菅波老夫一代記」36冊と合わせて全75冊からなります。この2組は各項目の巻き仕立てなどで若干異なりますが、内容・挿絵ともほぼ同一で、漢詩の収録数分、冊数に差があります。その内容は、各地の災害や事件をはじめ、大名行列の本陣入りや酒の製造・販売の様子にいたるまで、当時のこの地域の日常生活・世相・風俗を余すところなく伝えています。326点にも及ぶ彩色の挿絵が、その様子をより鮮明にさせてくれます。 当時の様子を知る上で大変貴重なこの資料は、全75冊を一括して「菅波信道一代記」とし、これを納める桐材製の覆い箱2合とともに広島県の重要文化財に指定されています。 |
葛原勾当日記印刷用具 (広島県重要文化財)
1954年9月29日指定
視覚障害者であった葛原勾当(くずはら・こうとう)が、自ら日記をつけるために考案した印刷用具で、いろは48文字と一から十までの漢数字、志・正・月・日・同の計63文字の木活字が携帯用の木箱に納められています。その他、句読点用の「○」や誤字抹消用の「●」、さらに「葛原」の木印と号である「一泉」の蝋石印などが一緒に納められています。それらはすべて勾当が手探りで個々を識別できるよう、左右に個別の刻みを彫ったり、上部に小釘を打つなど様々な工夫を施しています。そして捺印の際に整然と印字するためにハシゴ状の罫枠を2本添えています。 1927(昭和2)年、来日したヘレン・ケラー女史は「東洋のタイプライターは視覚障害者によって発明された」と、この印刷用具を絶賛しました。 |
葛原勾当日記 (広島県重要文化財)
1954年9月29日指定
視覚障害者で琴の名手・葛原勾当は、16歳から代筆で日記をつけています。しかし、いつの頃からかそれを自分で記録したいと考え、手探りで文字を識別し印字できる印刷用具(広島県重要文化財)を考案しました。そして、それを使用し、26歳から71歳で没するまでの46年間、自ら日記をつけています。3帖11冊におよぶこの日記は、何年何月、何処で誰に何の曲を稽古したかなどを口語体で記録し、およそ580人もの弟子と地名を記しています。また、折々に自らが詠んだ和歌や俳句などを交え、その数は約260首にもおよびます。備後地方の方言を交えた表現や、勾当の感性でとらえた世の中のようすなど、大変興味深い内容のものです。 この「葛原勾当日記」は、孫で「夕日」「とんび」などで有名な童謡作詞家・葛原しげるによって、1915(大正5)年11月に私家版として発行されました。 |
亀山弥生式遺跡 (広島県史跡)
1941年3月10日指定
福山市神辺町道上の亀山弥生式遺跡は、岡山神社が祀(まつ)ってある標高37mの独立した丘陵一帯に広がる弥生時代の遺跡です。 1957(昭和32)年から現在まで各調査機関によって発掘調査が行われ、それによるとこの遺跡の範囲は東西約250m、南北約350mとあり、丘陵のほぼ全域とその周辺の水田地帯からなります。丘陵の周りの下層部から弥生時代前期後半(約2200年前)のヘラ描き模様の土器が出土し、また、その上層部からは弥生時代中期前半(約2100年前)の櫛描き模様の土器が出土しており、ヘラ描き模様から櫛描き模様への転換を示す資料として注目されています。丘陵の南斜面からは、弥生時代前期から後期(約2300~2000年前)にかけて3重に廻らせた環濠(かんごう)が発見され、外側の環濠からは、現存する日本最古の土塁が発見されています。神辺平野で大宮遺跡・御領遺跡と並んで広島県内で最も古くから稲作が行われた環濠集落跡と考えられています。東斜面からは弥生時代後期(約2000~1800年前)の竪穴式住居5軒と、弥生時代前期から後期(約2300~1800年前)の貯蔵穴やカマド状遺構が発見され、西斜面からは溝も見つかっています。 また、古墳時代には北と南の頂部に古墳が築かれ、北頂部の第1号古墳は直径28mの円墳で5世紀前半と推測され、三角板革綴短甲(たんこう)や鉄刀・鉄槍などが出土しています。また、南頂部の第2号古墳は直径22mの円墳で5世紀代のものと推測され、箱式石棺や鉄器片が見つかっています。 |
迫山第1号古墳 (広島県史跡)
1986年11月25日指定
福山市神辺町湯野の迫山(さこやま)第1号古墳は、神辺平野を望む丘陵南斜面に築かれ、11基で構成される迫山古墳群の中で最も大きく盟主的な古墳です。直径21.5m、高さ5mの円墳で、古墳時代後期末(6世紀末)に造られ、全長11.6m、玄室高2.8m、玄室幅2.5mと大型の横穴式石室をもち、この地域のリーダー的存在者とその家族が葬られていたと考えられています。石室内からはさまざまな副葬品が発見され、なかでも儀式に使用されたと思われる単鳳環頭大刀は、大和政権との関係を示す資料として大変貴重なものです。その他にも、銀象嵌鍔付大刀(ぎんぞうがんつばつきたち)や鉄刀・絞具(こうぐ)などの武具や馬具、勾玉(まがたま)・耳環(みみわ)・切子玉(きりこだま)などの装身具、また土器が一緒に発見され、その総数は274点にもおよびます。これらはすべて一括して広島県の重要文化財に指定されています。 また、迫山古墳群の眼下に広がる大宮遺跡からは、大型の建物が集まる集落跡が見つかっており、この古墳群に葬られた人たちが暮らしていた館跡と考えられています。 |
大坊古墳 (広島県史跡)
1983年11月7日指定
福山市神辺町西中条の大坊(だいぼう)古墳は、南北約15.5m、東西約12.0m、高さ約5.0mの大きさで、発掘調査が行われていないため南北にやや長い円墳もしくは方墳といわれていますが、はっきりとはしません。横穴式石室は長さ約11.3m、幅・高さともに約2.0mと非常に大規模なものです。残念ながら南東に向いた入口は、いつのころからか開口しており、副葬品は発見できませんでした。 この古墳の特徴は、花崗岩(かこうがん)の表面を磨いたような切石を使用していることや、玄室(遺体を葬る部屋)と羨道(玄室へ至る廊下)の規模がほぼ同じで構築され、その境に2本の柱を立て、その上に横長の石を置き玄門(羨道から玄室へ入る入口)としていることがあげられます。また、玄室が床面の中央に置かれた2個の石により前後で2室に分けられています。これらの特徴からこの古墳は、古代国家が整えられていく過程の古墳時代末期(7世紀初め)に築かれ、畿内の古墳と同様の形式を用いていることから、この地域に畿内勢力が及んだ形跡を示す古墳といえます。そして、当時この地域を治めた有力者の家族墓であったと考えられています。 |
菅茶山の墓 (広島県史跡)
1940年2月23日指定
偉大な儒学者であり教育者、また江戸時代を代表する漢詩人であった菅茶山は、1827(文政10)年8月13日、80歳で病没し、安那郡川北村(現福山市神辺町川北)の網付(あみつけ)谷に葬られました。 墓所はおよそ35坪(115.5平方メートル)で、南北に長い長方形の墓域に27基の墓と、2基の招魂碑があります。墓はほとんどが茶山親族のものですが、弟子のものも2基あります。茶山の墳墓と墓碑は石製の垣に囲まれ、さらに木造瓦葺の屋舎に守られています。前面である東側には門があり、さらにその前に2基の石灯篭が置かれています。墓碑は養嗣子(ようしし=家督相続人の養子)の菅三郎によって建立され、その碑文は頼杏坪(らい・きょうへい)が撰しています。 |
竹田のゲンジボタル及びその発生地 (広島県天然記念物)
1958年8月1日指定
ゲンジボタルは体長15~20mm程で、幼虫はカワニナを餌として成長します。5月上旬に陸に上がり地中に潜ってサナギとなり、そのまま30日程過した6月上旬、成虫となって地上に出て美しい光を放ちながら飛び交います。成虫の寿命は短く、およそ2週間程度といわれています。 竹田のゲンジボタルの発生地は、指定区域を狭間川流域の瀬戸池放水口から竹田川の合流地点としています。指定当時の旧神辺町(現福山市神辺町)の広報誌によると「竹田のゲンジボタルは古くから丈が1寸弱(約3cm)にも及ぶといわれ、最盛期にはホタル合戦を繰り広げ、道を走る自動車の窓ガラスにホタル火を散らすという壮観を演じます」とあります。その見事な様子は、すでに江戸時代には広く知られ、日本を代表する漢詩人・菅茶山もよくここを訪れ、詩も残しています。また、弟子の北條霞亭(ほうじょう かてい)や門田朴斎(もんでん ぼくさい)らも度々ここを訪れています。こうした文人たちにより、ますます竹田のゲンジボタルはその名を広く知られることとなり「竹田ボタル」と称されるようになりました。しかし、現在の狭間川流域の多くはコンクリート壁となり、餌のカワニナが生息するには困難な状況になっています。そのため生息数は激減し、残念ながら昔の様子を見ることはできなくなっています。 |