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神辺の文化財 「その他の文化財」
印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月10日更新
備後国分寺
国分寺は741(天平13)年、聖武天皇が発した国分寺建立詔(みことのり)により全国66州の国ごとに建立された官寺です。国分寺には僧寺(そうじ)と尼寺(にじ)とがあり、僧寺の正式名称を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺を「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といい、奈良の大仏で有名な東大寺を総国分寺としていました。当時の平城京は、736(天平8)年に天然痘が流行り、740(天平12)年には藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)の乱や自然災害が重なり政情は不安定でした。そこで聖武天皇は、鎮護国家を説く「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」の経義に基づき、国家の平安を祈念するため全国に国分寺を建立させました。 備後国分寺は1538(天文7)年の大内氏と山名氏による神辺合戦で戦火を受け焼失し、1550(天文19)年に神辺城主・杉原盛重(すぎはら もりしげ)によって本堂が再建されました。しかし1673(延宝元)年、大原池の決壊による堂々川の氾濫で諸堂は壊滅し、寺観は荒廃してしまいます。そして、1694(元禄7)年、第4代福山藩主・水野勝種(みずの かつたね)が大旦那となり、金穀(金銭と穀物)及び川北村の網付(あみつけ)より木材を給付し、今後の災害を避けるために元の位置より北側の山寄せに入母屋造りの本堂を再々建しました。このとき勝種は、1,520人もの人員を動員したとされています。 創建時の備後国分寺は、1972(昭和47)年からの4次にわたる発掘により、東側に寺域を区画する溝が発見され、東西約600尺(約180m)の寺域であったと判明しています。また、古代山陽道に面して南門があり、それを入ると東に塔、西に金堂(本尊を安置する仏殿)、北に講堂を配置する法起寺式伽藍配置(ほっきじしきがらんはいち)であることがわかりました。 国分尼寺は、国分寺から西へおよそ500mに位置する小山池廃寺であったと推測されています。小山池廃寺の創建は出土した瓦から白鳳期(7世紀末)と推測され、国分寺が建立された天平期(8世紀中頃)と期を違えています。しかし、国分寺と同類の瓦も出土されており、国分寺の建立と同時期に修復され、元の寺を国分尼寺に転用したのではないかと考えられています。現在でも小山池廃寺を国分尼寺とする明確な発見はされておらず推測の域は出ませんが、国分尼寺の最も有力な候補です。 |
寒水寺裏山遺跡の独尊立像セン仏
セン仏は、仏像の笵型(はんがた)に粘土を押し込み、焼いて作ったもので、寺院の壁面装飾や念持仏(手に持ち日常念じる仏像)として用いました。 1935(昭和10)年8月5日、福山市神辺町西中条にある寒水寺(かんすいじ)裏山の巨岩石窟内から、開元通寶・土器・鉄釘類などとともにセン仏が発見されました。このセン仏は、畿内寺院のものと同じ型が使われ、白鳳時代(645~710年)~奈良時代(710~794年)のもので、形態や出土した場所・出土点数の少なさから壁面装飾ではなく、念持仏として扱われたものと思われます。ほぼ完全体で、一部に金箔が残り当時の眩さが想像できます。 セン仏の全国的な分布を見ると全体の70%近くが近畿地方に集中し、畿内の寺院を中心に作られ使用されていたことがわかります。また、備後地方には畿内と同じ形式の切石古墳や、畿内系の瓦を葺いた寺院が多かったことなどから、備後と畿内の関係の強さを窺い知ることができます。 |