神辺の寺院
圓通寺(玄洞山) | 寒水寺(明尾山) | 光行寺(覚圓山) | 廣山寺(玄洞山) | 光蓮寺(薬上山) |
國分寺(唐尾山) | 護国寺(高木山) | 西福寺(普門山) | 勝願寺(光耀山) | 浄光寺(清曜山) |
正明寺(向陽山) | 東福院(湯野山) | 萬念寺(佛見山) | 寶泉寺(亀居山) | 法楽寺(龍池山) |
明正寺(證林山) | 龍華寺(金尾山) | 龍泉寺(新宮山) | 蓮乗院(恵日山) | ※50音順 |
圓通寺(えんつうじ)
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開祖は行基(ぎょうき)上人。平安時代に創建された真言宗の寺院と伝わっています。1471(文明3)年の廣山寺(こうさんじ)に関する古記録には「二ヶ寺七坊の末寺または塔頭(たっちゅう=同一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊)を有していたことが記されており、圓通寺も二ヶ寺のうちに入るのではないかとの説もあります。1944(昭和19年)火災に遭い、書類、記録等は焼失しました。 菅茶山著「黄葉夕陽村舎詩」後編 巻四‐十四に収録される「圓通寺同諸子賦(えんつうじどうしょしぶ)」の「圓通寺」は永らく『中条の「圓通寺」なのか倉敷市玉島の「圓通寺」なのか?』と議論されてきましたが、茶山のこの時期の行動や記録、詩の風景描写を地元有志が調査したところ、「玉島の圓通寺ではなく、中条の圓通寺である可能性が高い」との調査結果を得て、圓通寺も廣山寺と同様に茶山ゆかりの深い寺院であることが判明しました。 |
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寒水寺(かんすいじ)
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標高140mの山中に位置し、寺伝によると養老2(718)年の草創といわれる古寺で、当時は「清水寺(きよみずでら)」と呼ばれていました。昔は天台宗でしたが、弘法大師・空海がこの地を巡錫(じゅんしゃく=僧が諸国を回って布教すること)した後、真言宗に改宗したといわれています。 寒水寺へ向かうためにあったと伝わる旧参道(現在より西の湯野村小山池付近からの参道=消滅)の門跡には栴檀(せんだん)の古木があり、その樹下に地蔵2体を半浮彫りにした巨岩がありますが、さらに登ると仰ぎ見るように地蔵が彫られ、霊地に入る導きのようで、山岳寺院として四隣を圧していたことがうかがえます。また、境内から幾度も古瓦が出土され、多数の子院があったことが想像できます。「西中条村誌」によると「七堂伽藍(がらん)を配し、12子院があった」とされ、さらに古記録によれば「「古来、湯野村300貫を寺領としていたが、兵乱により破壊され、後に神辺城主・杉原氏が田畠(田畑)1町2反を寄進したが、毛利元康によって没収された」と記されています。 神辺平野が一望できるこの場所は、昔から景勝地として有名で、漢詩人・菅茶山も弟子や仲間とたびたびここを訪れ、詩や和歌を詠んでいます。 |
光行寺(こうぎょうじ)
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寺伝などによると、建保4(1216)年、親鸞聖人の直弟子・明光(めいこう)上人が多くの門弟を連れ沼隈郡山南(さんな=現福山市沼隈町中山南)の「光照寺(こうしょうじ)」を拠点に西国へ浄土真宗を広めます。明光上人の直弟子の中でも「三大老」と呼ばれた1人、勝尊(しょうそん)上人が約10年後の安貞元(1227)年、同じ山南に「東光坊(とうこうぼう)」を建立しますが、これが「光行寺」の始まりといわれています。その後、安那郡中條村深水(ふかみ=現福山市神辺町西中条深水)へと移り、さらに川北村古城(こじょう=古城天満宮付近)へと移ります。そして、元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が拠点を福山へ移し始めると、それに伴い福山城の東へと移され「光善寺(こうぜんじ)」となり、旧地の古城へは寛永元(1624)年頃に新たに1寺を建立して「光行寺」と称しました。しかし、その後罹災してそのほとんどを焼失し、川北村領家(りょうけ=現福山市神辺町川北領家)へと再度場所を変えて再建されました。 天和3(1683)年「安那郡川北村絵図」には、すでに現在の場所で記載されています。また、元禄13(1700)年の「川北村御検地水帳」にも「領家・光行寺」として、屋敷地1反4畝11分の他に隣接して計1反の田畑があることが記されています。 |
廣山寺(こうさんじ)
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標高125mの山腹に位置し、唐に渡った弘法大師・空海が帰国後に建立したと伝えられ、その時、白檀(びゃくだん=インドネシア原産の常緑高木)の木を刻み、本尊である地蔵菩薩を作り安置したとされています。その後、盛衰を経て正応元(1288)年に讃岐国「善通寺(ぜんつうじ)」の僧侶・宥鑁(ゆうばん)が中興したとされ、この時宥鑁は、弘法大師の霊跡を慕い尾道「西国寺(さいごくじ)」府中「栄明寺(えいみょうじ)」上下「法身院(ほっしんいん)」を同時期に再興し、「廣山寺」とあわせて「備後四院(びんごしいん)」と称されました。 「水野記」によれば、「古来、讃州(さんしゅう)善通寺の僧・宥鑁の建立の地なり。古くは12寺、寺領150貫あったが、天文年間(1532~1555年)に衰微して3寺となり、永禄6(1563)年に毛利氏から15貫を寄進されるが、福島氏により没収された。」と記されています。また、文明3(1471)年の古記録には「2ヶ寺7坊の末寺または塔頭(たっちゅう=同一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊)を有していたことが記されているそうです。近年の開発で、周辺から鎌倉末期~南北朝時代頃のものと思われる多数の五輪塔を出土しています。 昔は真言宗でも大覚寺派でしたが、現在は高野山に改派しています。 |
光蓮寺(こうれんじ)
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寺伝によれば、元は現在より南の山麓(現福山市神辺町川南の丁から長畑にかけて)にあり、「浄源寺(じょうげんじ)」と称する天台宗でしたが、その後、浄土真宗へ改宗し、さらに一時期真言宗を経て文禄元(1592)年に浄土真宗に戻ったといわれています。寛永年間(1624~1643年)現在の場所に移り、寺名を「光蓮寺」に改称しました。元の場所には今も飛び地を有し、当時の名残を見ることができます。また、福山藩主・水野勝成により拠点が福山に移されると、神辺城下に付随した建物の残材を譲り受け、庫裏(くり)などの建立に使用したと伝えられています。菅茶山編纂の「福山志料」には、「光蓮寺は了波(りょうは)が寛永年間の頃、今の場所に移す。古くは祐佳山・浄玄寺といい、伝教大師・最澄の弟子・徳応(とくおう)が開山した天台宗であった。10世・行圓(ぎょうえん)の時に真言宗に改宗。それより9代後の了明(りょうめい)の時、存覚(ぞんかく)上人が来て教えを広めたため、よって存覚を開基とする。了明より今の宗(浄土真宗)となり、了波の時に今の名(光蓮寺)に改めた。」と記されています。ここでは寺伝の旧寺名「浄源寺」を別字を使い「浄玄寺」とし、さらに「西備名区(せいびめいく)」では経緯はほぼ同じですが「浄立寺」と別名で記しています。 文化4(1807)年の神辺大火の際には寸前で鎮火し、難を逃れたいわれています。 |
國分寺(こくぶんじ)
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天平13(741)年、聖武天皇が発した国分寺建立詔(みことのり)により、鎮護国家を説く「金光明最勝王経」に基づいて国家の平安を祈念し、全国66州の国ごとに建立された官寺です。正式名称を「金光明四天王護國之寺」といい、奈良の大仏で有名な「東大寺」を総國分寺としていました。 ※備後國分寺の塔におさめられていたと伝わる「紫紙金字(ししきんじ)金光明最勝王経」は、現在国宝の指定を受け、奈良国立博物館蔵となっています。 |
護国寺(ごこくじ)
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いくつかの古記録によれば、聖武天皇の勅願(ちょくがん)により天平13(741)年に開基されたといわれています。 「道上村史(みちのうえそんし)」によれば「聖武天皇が造営し、大伽藍(がらん)を配し多数の末坊(まつぼう)を有したが、幾多の興廃・盛衰を経て寛文年間(1661~1672年)の火災で伽藍の全てを焼失。宝物・記録を失った。その時、本尊と聖武天皇尊像だけは難を逃れ、再建後再び安置された。」とあります。また、「水野記」には「古来寺領102貫にもおよんだが、乱世により大破。後に宮若狭守(みやわかさのかみ)が再興し、75貫を寄進したが、その後没収され、毛利氏の時に再び寺領を許された。」とあるそうです。また一説には「聖武天皇による開基で、昔は金光明護国寺(こんこうみょうごこくじ)と称され禅宗であった。山内に塔の跡、山下に大門の跡があるようにかなりの大寺であったが、いつの頃からか衰微し、今は小地となった。」と伝えられています。いずれにしても昔はかなりの大寺であり、幾多の盛衰を経て再興されたことがうかがえます。 現在の本堂は明治初期に建て替えられたもので、鐘楼門(しょうろうもん)は同じ頃、新市町上戸手の「素盞鳴(すさのう)神社」から移築されたものです。 |
西福寺(さいふくじ)
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現在の場所に慶長年間(1596~1614年)に奴可郡(ぬかぐん)中野村(現庄原市西城町)から「胎蔵寺(たいぞうじ)」というお寺が移されますが、元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が福山に拠点を移し始めるのに伴い、福山城の鬼門鎮護のために城北の吉津(よしづ=現福山市北吉津)へと移されました。そして、その跡地へ川南の岩田から「平等寺(びょうどうじ)」というお寺を移し、その後「西福寺」と改称したといわれています。 文化4(1807)年の神辺大火によって本堂をはじめとする大部分を焼失し、文化13(1816)年に本堂、万延元年~文久2年(1860~1862)に庫裏(くり)・客殿を再建します。神辺大火の際には、本尊と過去帳だけは持ち出して難を逃れ、本尊は再建された本堂におさめられ秘仏とされました。寺伝では、山門だけが焼けずに残ったといわれています。 元禄13(1700)年の「川北村御検地水帳」によると、屋敷地の他に周辺一帯に6反を超える田畑を有しており、当時の寺域はかなり広範囲に及んでいました。また、天和3年の「安那郡川北村絵図」には、寺域に水路が流れ、隠居と呼ばれる屋敷や、街道沿いには西福寺の貸家が画かれています。 |
勝願寺(しょうがんじ)
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古くから伝わる由緒書によれば「寺主は征西(せいせい)将軍(西方を征伐する将軍)と呼ばれた足利直冬(あしかが ただふゆ)の子孫なり。直冬は、永く龍山(播磨国印南郡米田=現兵庫県高砂市)に居住し、常に忠勤に励みたびたび功績を挙げ、天皇より褒章として菊桐の紋章を賜る。しかし、あまりにも恐れ多く辞退申し上げ、かわりに万の字(広大な土地を有する諸候に等しいことを表す字)と菊の紋章を賜った。その寵愛(ちょうあい)の厚さに感じ入り後日出家。そして一寺を建立し「金性寺(こんしょうじ)」と名付け天台宗とした。その後、寺は国成(くんなり=福山市神辺町西中条国成)に移され、改宗して浄土真宗に帰依(きえ)した。」とあります。 ※勧学(かんがく)…最高学階(学識によって与えられる階位)のこと。 |
浄光寺(じょうこうじ)
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寺伝によれば浄禅律師(じょうぜんりっし)が応永年間(1394~1427年)に現在の場所に建立したのを開基としています。以後、8世までは禅宗でしたが、一時期の無住を経て慶長年間頃(1600年前後)、中條村城主の老臣・小林加藤右衛門(かとうえもん=不明~1613年)が出家して慶善(きょうぜん)と名を改め、その時免地200石を持って9世となりました。それと同じ頃、沼隈郡山南(さんな=現福山市沼隈町中山南)の「光照寺(こうしょうじ)」の明光(めいこう)上人の化益(けやく=教え導き利益を与えること)により浄土真宗に改宗したと伝えられています。 菅茶山編纂の「福山志料」には「清曜山浄光寺は真宗光照寺の末寺なり。もと禅宗にて浄禅という者が開基する。9代慶善より浄土真宗となった。この慶善なる者は、中條の小城の城主にて小林という。」と記されています。また「道上村史」には、「いつの頃か火災に罹(かか)り、15世の時再建するが記録は焼失してしまった。」とあります。さらに、定かではありませんが一説には「木之上城主・金尾氏の没落後、家臣であった小林氏は無住であったこの寺に隠れ住み、その後出家して住職となり一向宗(いっこうしゅう=浄土真宗)に改めた。」といわれています。 |
正明寺(しょうみょうじ)
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幾度かの罹災(りさい)によって古記録を失い、その詳細を知ることはできませんが、言い伝えでは元は「蓮城院(れんじょういん)」と称した天台宗であり、現在の場所から北西約1.5kmの「光円寺(こうえんじ)」と呼ばれる山中にあったといわれています。現在でもその跡地には観音堂と蓮池が残っています。その後、約800年前に親鸞聖人の高弟が山南(さんな=現福山市沼隈町中山南)の「光照寺(こうしょうじ)」を中心とした教化(教え導き善に進ませること)によって「蓮城院」は浄土真宗へと改宗します。一説では、慶安4(1651)年3月18日の改宗で、その時の僧侶・良順(りょうじゅん)をもって開基とされています。 爾後(じご)、「正明寺」と寺名を改め、西中条川西西(光円寺と呼ばれる地)から西中条高井(たかい)へと移転しますが、幕末の嘉永2(1849)年7月、大風による出火で本堂をはじめとするそのほとんどを焼失してしまいます。その時、かろうじて運び出され難を逃れたのは、本尊の「阿弥陀如来像」と軸2幅(「聖徳太子肖像画」と「七高僧図」)だけであったといわれています。その後、現在の場所に再建され、本尊ならびに軸2幅もここに移され、それぞれ大切に受け継がれています。 |
東福院(とうふくいん)
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寺伝によると天平6(744)年の草創で、当時は現在より北側の丘陵地上部の「二本松」と呼ばれる地に建立され、「松岡寺(しょうこうじ)」と称されました。この地は別名「古寺(ふるでら)」とも呼ばれ、近年まで2本の松が生えていたそうです。延応元(1239)年に戦火に遭い焼失し、その後現在の場所に移され、さらにその後の元禄年間(1688~1703年)に「東福院」と改称したと伝わっています。「水野記」によると、大内・山名の両氏、さらに毛利氏の家臣・天野氏の庇護(ひご)を受け寺領50貫を寄進されますが後に没収されたことが記されています。また、菅茶山編纂の「福山志料」には「大内より杉原までは領10貫ありしという。」と記されています。さらに正徳年間(1711~1716年)に再び罹災し焼失してしまいますが、当時の住職・映朝の独力によって再建されたといわれています。 山号の「湯野山」は、当時この地には温泉が湧いていて、その霊験(れいげん)があることから号したといわれています。また、本堂には聖徳太子作との伝承がある薬師如来の立像がおさめられ、さらに明治初期の神仏分離の際には、山王山(さんのうさん)の「日枝神社」にあった像3体が、仏体の形をしていることからここに移され、おさめられました。 |
萬念寺(ばんねんじ)
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元亀年間(1570~1573年)の草創といわれる「萬念寺」の前身「見佛山(けんぶつざん)大念寺(だいねんじ)」は、元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が福山に拠点を移すと、それに伴い城下の寺町(てらまち)へと移されました。そして、跡地には品治郡今岡(ほんじぐんいまおか=現福山市駅家町今岡)の萬念寺谷から廃寺であった「萬念寺」を移し、山号を「佛見山」にしたといわれています。その後、延享4(1747)年、7世の時に本堂が再建され、さらに安政年間(1854~1859年)11世の時に修繕、そして平成4(1992)年に再び建て替えが行われました。 ここには太閤(たいこう=豊臣秀吉)が立ち寄った伝承があり、菅茶山編纂「福山志料」や「西備名区(せいびめいく)」などの古記録には、太閤秀吉が九州へ向かう途中ここへ立ち寄り、呂紀(りょき=明の花鳥画家)が画いた鴛鴦(おしどり)の軸を2幅賜え、その後「大念寺」の城下移転に伴い移されたことが記されています。江戸時代には神辺本陣の立ち退き所に指定され、文久3(1863)年には、筑前国黒田家一行総勢1,053人の内、「萬念寺」には53人の付添衆が宿泊したとの記録があります。 「川北村御検地水帳」によれば、元禄13(1700)年には、屋敷地1反3畝に隣接して計1反2畝の田畑を有していました。 |
寶泉寺(ほうせんじ)
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寺域とその周辺の小丘には、「大塚(おおつか)」「中塚(なかつか)」などの古墳があったことを推測させる地名が残り、そこに「寶泉寺」は建立されました。 乗如(じょうにょ)上人の残した書「亀居山寶泉寺縁起」によると「天長年間(824~833年)の草創で、その後いつの頃か廃寺となる。正安~観応年間(1299~1351年)の頃、宥■(ゆうかん)僧正なる者が廃寺を興して自ら住持(じゅうじ=住職となる)するが、その後、若干の年月で再び荒れてしまった。元禄年中(ここでは前半の1690年代)に宥辧(ゆうべん)上人が再建に尽くし、中興の祖(現在はここを1世とする)となるが、元禄13(1700)年4月の火災でことごとく廃儘(はいじん)に帰してしまった。」とあります。その後、代々住職が復興に努め、9世・観如(かんにょ)上人の時、度々みまわれる洪水対策として、徳永徳右衛門(とくえもん)の援助で盛り土をした本堂の改築が行われ、12世・乗如(じょうにょ)上人によって室内の再整備が行われました。その時、乗如上人は高野山正智院(しょうちいん)より壁画を移し堂壁に貼り、さらに備中国鴨方(かもがた)の画家・田中索我(さくが)に山水人物などを各室の襖や杉戸に画かせるなど、その華麗さに人々はここを「雛御殿(ひなごてん)」と呼んだそうです。それらを経て天明6(1786)年に再建の成就を果たしました。 |
法楽寺(ほうらくじ)
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寺伝や古記録によれば、天長年間(824~833年)の草創で、一時は寺領20貫に12子院がありましたが、幾度かの罹災で興廃を繰り返したとされています。創建時は現在より南の名越(なごえ)谷の六丁分という場所にありましたが、いつの時代かに子院を統合し現在の場所に移ったとされています。また一説には、正和年間(1312~1317年)の火災で寺宝を焼失し、明徳年間(1390~1393年)に6子院へと縮小、天正13(1585)年に寺領は没収され子院は廃寺になったとされます。その後、40年近く住職をつとめた宥海(ゆうかい)上人は、再興に尽力し艱難辛苦の末、宝永2(1705)年の春に梵鐘(ぼんしょう)を新鋳(しんちゅう)し、鐘楼(しょうろう)も再建しましたが、不運にもこの梵鐘は日を浅くして大破。正徳元(1711)年、宥海上人は改めて勧進(かんじん)を行い、正徳5(1715)年に再新鋳を果たします。しかし、安政2(1855)年、諸外国の侵入に備えた銃砲製造のため、福山藩に没収されたそうです。 昭和47・48(1972・1973)年の集中豪雨による裏山の崩落で、本堂横にあった蔵が倒壊し、仏具のみならず古文書類を流出しているため寺伝は諸説ありますが、いずれにしても創建以来、幾度も罹災しながら復興を果たし、当時の寺域は相当のものであったことが古記録からうかがえます。 |
明正寺(みょうしょうじ)
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寺伝などによると、大門村(現福山市大門町)の瑞龍城(ずいりゅうじょう)の城主・藤間兵部光重(みつしげ)の子・藤間次郎明正(西備名区では六八郎光明=出家後の教圓法師)が、弘治2(1556)年に戦死した父を弔うために僧侶となり、現在の福山市春日町浦上に一寺を建立したのが始まりとされています。その後、この寺は罹災に遭い焼失しますが、御領藁磨山城主・宍戸孫六(ししど・まごろく)の懇情(こんじょう)により現在の場所に移されたとされます。元禄13(1700)年の検地の際には、すでに現在の場所にあったようです。さらに、この周辺からは、多数の古い五輪塔が出土しており、何らかの跡地へ建立されたことが考えられます。また、「旧広島県史」には「昔は天台宗であったが、天正元(1573)年、大門城主・藤間光重の三男である明正が浄土真宗に帰依(きえ)し、石山合戦に尽力した。」とあります。 江戸時代後期の12世住職・祐教(ゆうきょう)上人は、当時「学を好み、詩歌を能(よ)くする」と有名で、菅茶山や頼山陽など文人との親交があり、境内で詩会などを開いています。茶山は祐教上人の求めに応じ、漢詩「偃松(えんしょう)詩」を贈っています。この偃松とは、当時境内にあった通称「かこいの松」と呼ばれた巨松のことで、その枝ぶりは東西27.3m・南北17.3mにもおよびましたが、残念ながら慶応3(1867)年に枯死してしまいました。 |
龍華寺(りゅうげじ)
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伝承によれば宝徳2(1450)年頃、木之上(きのえ)城主・金尾遠江守信貞(とおとうみのかみのぶさだ)が金尾氏の菩提寺として建立したのが始まりといわれています。初代住職は信貞の3男で、井原市芳井町の「重玄寺(ちょうげんじ)」住職・千畝周竹(せんみょうしゅうちく)禅師の弟子・桂巌(けいがん)和尚がつとめました。その後、慶長年間(1596~1614年)に火災に遭いますが、秋山(しゅうざん)和尚によって再興され現在に至るといわれています。また一説では、開山は応永29(1422)年の金尾氏によるものという、さらに古い開基の説もあるそうです。 「水野記」によると「金尾山 龍花院 禅宗 宝徳二年 金尾遠江守 建立」とあり、また「西備名区」には「金尾遠江守信貞が一寺を建立し、金尾山・龍華寺と号し、菩提寺とする」という記述があります。さらに「備後古城記」には「三谷村 金尾遠江守信貞 菩提寺 金尾山 龍花寺(龍華寺)」とあります。どの古記録にしても、木之上城主・金尾信貞が一族の菩提寺として建立したことがうかがえます。 嘉永2(1849)年に信貞400年遠忌(おんき=17回忌以上の年忌法要)、昭和25(1950)年に500年遠忌、そして平成12(2000)年には550年遠忌および龍華寺開山550年祭が行われました。 |
龍泉寺(りゅうせんじ)
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寺伝によると建武2(1335)年に神辺城を築城した浅山景連(あさやま・かげつら=のち朝山)が、同時期に菩提寺として丁谷(ようろだに)に建立した「清水山(せいすいざん)雲渓庵(うんけいあん)」を始まりとしています。代々城主の菩提寺として栄えますが、その後、積雪により大破。無住となり衰微してしまいます。そして、慶長7(1602)年3月、目黒新左衛門の孫の政貴の願いを受け、当時の神辺城主・福島丹波(たんば)が再建。この少し前に現在「龍泉寺」のある帰谷(かえりだに)には、「龍興寺(りょうこうじ)」が建立されており、「雲渓庵」はその末寺とされました。その後「龍興寺」は、福山藩主・水野勝成により福山城北の吉津(現福山市北吉津町)へと移され、その跡地に丁谷から「雲渓庵」を移して「龍泉寺」と改称したそうです。「龍泉寺」の開基(初代住職)は嶺外梵雪(れいがいぼんせつ)和尚と記録にありますが、これは「龍興寺」の2代住職にあたり、「龍興寺」移転後そのまま「龍泉寺」の初代を務めたようです。 さらに、「備陽六郡志」によると「龍泉寺」の前には「天徳寺畑」と呼ばれる畑があり、「龍興寺」の建立前(いつ頃かは不明)には「天徳寺(その後、播州さらに大坂へ移転)」なる寺があったとされています。近年の開発でこの周辺からは、古い墓石等が出土されています。また、菅茶山編纂「福山志料」によれば、奈良の「興福寺(こうふくじ)」から接木として持ち帰った「車返しの桜」と呼ばれた古木があり、花見の名所として賑わいましたが、1700年代後半には花の数は減り、衰えたようすを伝えています。 |
蓮乗院(れんじょういん)
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「広島県史」によると天平9(737)年の開基とされ、元は「神宮寺(じんぐうじ)」と呼ばれていました。菅茶山編纂の「福山志料」にも「八尋村神宮寺 圓久山真言宗偏照寺(備中国笠岡)の末寺」と記されています。古くから「蓮乗院」の東には「二宮大明神(現二宮神社)」が鎮座し、「蓮乗院」の前身「神宮寺」は、この「二宮大明神」を護る寺院としての役割を果たしていました。文化年間(1804~1817年)の火災で大部分を焼失し、その後再建されます。現在の本堂は明治14(1881)年4月1日に建て替えられたものです。 ここには、もともと「二宮大明神」のものと思われる阿弥陀(あみだ)・薬師(やくし)・虚空蔵(こくうぞう)・毘沙門(びしゃもん)・観音(かんのん)の5像が安置されています。それぞれの背面には古い墨書きが残り、阿弥陀には「大旦那 平氏杉原盛重 願主勢賀 守護」、薬師像「・・・永禄九年三月一日・・・」、虚空蔵「代官 藤原倉光重信」、毘沙門「権小僧都勢賀」、観音「諸旦那等」と記されています。墨書きの内容や像の大きさ、彫りの様相などから見て、永禄9(1566)年前後の同時期に当時の神辺城主(大旦那)・杉原盛重や、その家臣(諸旦那等)らによって「二宮大明神」に寄進されたものと思われます。「蓮乗院」へは明治元(1868)年に移されたとそうです。また、その素材は栴檀(せんだん)と言われ、昔この地の人々は同じ素材で作った下駄は履かない習慣があったそうです。 |