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中国の書画

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年7月9日更新

 唐寅  文徴明  董其昌 張瑞図 王鐸 傅山

唐寅

とういん

1470~1523。
字伯虎、蘇州の人。
家は名だたる料亭で、子供のころから文人的資質が備わっていたといわれる。
28歳のとき、南京郷試(官吏登用の地方試験)は首席で合格したが、翌年の京試(首都での最終試験)で試験問題漏えい事件があり、疑われて投獄された。
これにより官吏になることに絶望し、以来自棄に陥ったのを文徴明の友情に救われたと伝えられる。以後は詩書画の世界にふけった。
沈周・文徴明・仇英とともに明の四大家と言われた。

「山水図幅」

さんすいずふく唐寅「山水図幅」

絹本墨画淡彩 縦117cm 横55cm
明時代
明代の絵画は、中期ごろまでは宮廷画家による伝統的な絵画が中心だったが、それ以降、技巧よりも自己の理想をあらわすことを主とし、柔らかい線で表現した山水画が流行した。それ以降知識人の間にその表現が広まっていった。後に文人画(南画)といわれるものである。
この作品も文人画の典型的なもので、遠景には雄大にそびえる山、そこから流れ落ちる滝、近景には水の流れと緑松を描き、あずまやの老人たちは琴の音に合わせて歌っている。
文人の憧れとした理想郷が描き出されている。
左上に書かれている賛は絵の情景を七言詩にしたもので、王羲之の正統な書法を受け継いだものである。
【訓読】
渓辺の春樹 緑は群を成し
重畳たる青山 翠影分かる
客子(かくし) 何ぞ来たりて帰去を忘る 
歌声 遥かに 水中に落つるを聞く
 晋昌の唐寅 画き併せて題す

文徴明

 ぶんちょうめい

1470~1559
長洲(蘇州)の人。はじめの名は壁、字は徴明。
嘉靖元年(1522)に歳貢生となって吏部に推薦され、翌嘉靖2年(1523)54歳の時に翰林院待詔を授かった。3年後官を辞して郷里に帰り、世に文待詔と称された。
若い頃は字が拙いとされたが、楷書は王羲之、王献之などを宗とし、草書は懐素を師とし、大字は黄庭堅に、行書は智永と集王書の『聖教序』、更には蘇軾、米ふつ、趙孟ふを範として学んだ。とりわけ行書と小楷でその名が伝わっている。
当時彼の名は国の内外に聞こえ、しかも高齢で人望があったため、門弟が多く集まり、また、後世にも非常に大きな影響を与えた。
※米ふつの「ふつ」は草へんに市
※趙孟ふの「ふ」は兆に頁

「呉宮萬玉賦細楷書幅」

文徴明「呉宮萬玉賦細楷書幅」ごきゅうばんぎょくふさいかいしょふく

絹本墨書 縦29cm 横37cm
明時代
文徴明の書は、独創性や強い個性は見られないが、正確な技法による精密な作品が多い。
本作は晋・唐時代に基づく一点一画もおろそかにしない精密な楷書から、文徴明の真面目な人柄が伝わってくる。

董其昌

とうきしょう

1555~1636
松江華亭(現在の上海松江県)の人。明末の第一人者と称される大書画家。
万暦17年(1589)に進士となり、翰林院にはいって庶吉士になった。のち皇太子の日講官を経て、崇禎4年には礼部尚書となった。没後、文敏と諡(おくりな)された。
書は古今のあらゆる書を研究し、すぐれた見識を示した。特に魏晋の書に目標を定め、二王、顔真卿、米ふつを主として学び、深い共感を示した。画は山水を得意とし、董源(とうげん)、巨然(きょんねん)、黄公望(こうこうぼう)、倪さんなど宋元の長を倣い、研究し論述した。彼の書画の思想は清代乾隆に至るまで約300年、多くの人々に影響を与え続けた。
※米ふつの「ふつ」は草へんに市董其昌「七言二句草書幅」
※倪さんの「さん」は王へんに贊

「七言二句草書幅」

しちごんにくそうしょふく
紙本墨書 縦60cm 横24cm
明時代
本作は、知的で爽涼とした風趣が多い董其昌の作品の中にあって、趣をやや異にする作品である。動きが少なく肉太の文字と線が細く爽やかな文字とのバランスが美しい。
【白文】
水邊重閣含飛動
雲裏孤峯類削成
【訓読】
水辺の重閣 飛動を含み
雲裏の孤峰 削成に類す
重閣…幾層にもかさなる高閣。
削成…山が鋭く削ったように直立したさま。

張瑞図

ちょうずいと

1570~1641
福建省晋江生まれ。
37歳で科挙試験に合格し、昇進を重ね内閣に入ったが、当時の権力者でときに政権を左右することもあった宦官の魏忠賢(ぎちゅうけん)の生祠(せいし)の碑文を書いたことにより、魏の失脚後は官を剥奪され帰郷した。その後は優遊自適の余生を送った。
明末清初の政情不安の中で、縦3m近い長い条幅に一気に心情を表現したロマン派と呼ばれる人たちの先輩格で、個性豊かで奔放な書を残した。張瑞図「紺紙金泥写経冊」

「紺紙金泥写経冊」

こんしきんでいしゃきょうさつ

紙本墨書 縦27cm 横32cm
明時代
浄土教の経典である阿弥陀経を書いたものである。一般に鳩摩羅什(くまらじゅ)が漢訳したものが有名で、阿弥陀仏の浄土である西方極楽世界の光景をあらわし、念仏を説いた内容である。
本作は、紺紙に金泥を用い細字の楷書で書いたもので、周りの文様とともに西方極楽世界の荘厳な光景を表している。

王鐸

おうたく

1592-1652
明代末期から清代初期の人。
2王朝に仕えたことから、乾隆皇帝(在位1735-1795)の時代には、彼の著書は禁書となり、書もまた非難の対象だったが、後世になるとその書は高く評価され、歴代名家中でも特に傑出した存在である。王鐸「瓊蕊盧帖」
書は長い条幅の作品が多く、文字を連ねて書く連綿の草書体が特徴で、思いのままに個性を表現した作品の多いことからロマン派ともよばれる。

「瓊蕊廬帖」

けいずいろじょう

絹本墨書 縦27cm 横15.5cm
明時代 1637年(崇禎4年)
王鐸の数多くの臨書帖の中でも、本作はとりわけ慎重に筆が運ばれている。
最後の5行には「書法は古人の結構を手に入れることが大切である。最近の書を学んでいる者は流行をまねている。古代の書は奥深くて変化に富むが、現代の書は軟弱で幼稚である」との旨が書かれており、古今を対比させた書法観がみえる。
現代の我々から見ると斬新な書風を打ち立てたと考えられる王鐸が、46歳の中年期に時流を憂い、古典を重視する姿勢を強くもっていたことがうかがわれ、大変興味深い。

傅山

ふざん

1607~1684
山西陽曲の人。代々学者の家柄に生まれ、幼少のころから才に秀でていた。20歳のころに十三経、諸子、史籍をことごとく読破し、30歳のころには三立書院(孔子をまつる学問所)の学生300余人中の第一に抜擢された。
明王朝滅亡後、清王朝からの再三にわたる宮廷への出仕の奨めには、病気を理由に固辞して山里に隠れ住み、薬草を採るなどして暮らしたといわれ、その高節は後世にまで語りつがれた。傅山「五律草書幅」

「五律草書幅」

ごりつそうしょふく

絹本墨書 縦178cm 横89cm
清時代
傅山はすべての書体を書きこなしたが、中でも行草書を得意とした。
長い紙に率直に感情の高まりを筆に託して一気に書き下ろし、字形もやや壊れ、行も曲がり、墨の使い方も無頓着であるが、非常に生き生きとした書が多いのが特徴である。張瑞図・倪元ろ・黄道周・王鐸などの作品にも共通して見られるこのような長条幅への連綿草書は、明末清初の混乱した国家存亡の危機から生まれた感情表現のひとつであろう。
本作は、「客人は私の書がよいとさわぐが、私の書のどこがよいのであろうか」に始まり、自らの書法観を述べた興味深い内容である。
最後の部分には「久しぶりに大作を書いたので汗をかいた」と書いている。
その「汗」の字は、まるで流れた汗を表したような縦画である。奔放さと天真さが表れた作品である。
※倪元ろの「ろ」は王へんに路
 

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